かいほう 解放 |
一瞬、胸苦しさを感じたが、すぐにそれは掻き消えた。クリスが精魔の力を封じたのだ。 「おまえは精! 何故こんなところに! 少しも気配を感じなかったのに」 『バカにしないで! あなたみたいに他のテリトリーで殺気を漲らせているほど、私はマヌケじゃないわよ』 言いながら一心に念じる。クリスの本体はピンクに染まり、クリスタルの輝きを放った。目映いばかりのその光が、精魔にとっては苦痛らしい。 「ううう……おのれ、忌々しい! だが、おまえは精とはいえ、まだ未熟のようだ。何処まで私の力を封じることができるかな?」 その時だ。 紫音が背後から赤い魔女に飛びかかった。小さな体をうつ伏せに倒し、頬を地面につけて頭を押さえ込む。両手を背中に回し自由を奪い、最後には膝で体を押さえつけた。一見乱暴な方法だが、紫音はこれでも手加減をしているのだ。 「紫音!」 彼は赤い魔女を見下ろして冷ややかに言う。 「随分と遊んでくれたが、これで終わりだな」 「おのれ!」 悔しげに歯軋りをする。 「アメリア、目を覚ませ!」 紫音が叫んだ。 「あの女はもういない。私が吸収してやったのさ!」 その声を無視して紫音は叫び続ける。 「アメリア! いるんだろ、出て来い!」 「無駄なことだ!」 精魔がせせら笑う。 「アメリア! いつまでアマンダを独りにさせておくつもりなんだ! アマンダにはおまえしかいないんだぞ!」 耳元で叫んだその瞬間、 「……ア、アマンダ……?」 精魔のざらざらした印象の声ではない、か弱い声が、そう言った。 「うう……おのれ! まだ意識の欠片が残っていたのか!」 と、苦々しい声。そして、紫音の手から逃れようと激しく身じろいだ。 「アマンダ! 姉さんを呼べ!」 紫音の声と同時に、アマンダが叫んだ。 「おねえちゃまぁ! おねえちゃま、もどってきて! アマンダをひとりにしないで! おねえちゃまぁ!」 洞窟内に響き渡る、アマンダの切ない声。それが引金となって、アメリアの吸収されかけた意識が呼び覚まされた。 「アマンダぁー!」 ――ぐわああぁああぁぁー! 金色の髪の少女から、毒々しい緑色の気体が弾け出す。緑の気体は苦しみ、のたうつように激しく形を変えている。 「紫音おにいちゃま、いたあい!」 紫音の手の中でアマンダの声がした。 それは紛れもなく幼い少女の声。この姿と声と心が揃ってこそ本物のアマンダなのだ。 「すまん」 紫音がアマンダを抱き起こす。アマンダは振り返り、真っ直ぐに、クリスの傍らにいるアメリアのもとへと走って行った。 「おねえちゃまぁ!」 「アマンダ!」 ようやく巡り会った姉妹はしっかりと抱きしめ合う。お互いの無事を確認し合い、涙を流した。 「透! 精魔がアマンダから離れたぞ。今度はそいつに結界を張れ!」 だが、紫音が叫ぶ前に、精魔は透に殺気を集中させていた。 「そんなこと、急に言われたって……」 懸命に念じ続けた透が、ほんの一瞬、息を抜いた刹那、 ――やはりおまえは私の障害となった。ひと思いに殺しておけば良かったのだ…… 精魔が透に襲いかかる。 「透!」 『とおるーっ!』 禍禍しい気の塊が、緑の炎を噴き出しながら、透に迫り来る。結界球は間に合わない。 (だめだ……殺られる……) 思わず目を閉じた。意識が白濁する。体中に広がる焼けつくような痛み。絶望が心を支配する。 と、突然、嘘のように痛みが消えた。 目を開けると、紫音が精魔の前に立ちはだかっているではないか。いつも肩に掛けていた銃を両手でかざし、気の炎を防いでいる。だが、けして優勢ではない。緑の炎が彼を圧迫していた。 「紫音!」 咄嗟に透は念じた。紫音の周りに守りの結界を張るために。 「くっ!」 ギリギリのところで紫音は炎に耐えていた。押し戻され、後退る。 (ちくしょう! どうすればいい? どうすればコイツを倒せるんだ!) 彼はこれまで、こんなモノと戦ったことはない。どんな攻撃が利くのか皆目わからないのだ。凄まじい程の邪悪な力が押し寄せてくる。このままどこまで耐えられるのか。 ふと不穏な様子に気づき、透は上を見上げた。辺りの岩がぱらぱらと砕けて、有無を言わせず降りかかる。洞窟が崩れ始めていた! 「紫音! 洞窟が!」 だが、彼は精魔に隙を見せるわけには行かない。懸命に炎に耐え、対決する術を模索していた。 (このままじゃいけねえ……このままじゃ、俺も透も殺られる……) クリスは何と言っていた? 念じろと言わなかったか? 力のあるものは、念じれば何とかなる。念じれば何かが起こる、念じれば…… (念じるんだ!) 紫音は思い、緑の気体を睨んだ。 (撥ね返せ!) とたん、洞窟中に狂おしい光が弾け跳んだ。閃光の束が、ありとあらゆる方向へ飛んで行く。 「アマンダぁー!」 アメリアの叫び声がする。元の体に戻った、本当のアメリアの声。だが、驚きと悲しみの入り混じった悲痛な叫び声。 「アマンダっ! アマンダしっかりしてっ! アマンダぁー!」 『アマンダ!』 洞窟の入口付近でアマンダが横たわる。小さな妹の上に屈み込み、しっかりと抱きしめる姉。叫び声は絶え間ない。 先ほどの、光の暴走のためか、前にも増して洞窟の崩れ方が激しい。 「アマンダ! 何が……?」 「透、行け! あいつらを連れて逃げろ! 崩れるぞ!」 「でもっ!」 「いいから、行け!」 紫音は精魔との睨み合いを止めない。 彼の思いを無駄にはできない。透は走り出した。 ――おのれ! 逃がすものか! 怨念の声を上げ、緑の気体が蠢いた。 「ちっ!」 紫音は舌打ちをして、今にも透に襲いかかろうとする精魔の間に割って入る。 「あいつらには指一本触れさせねえ! 失せろ!」 精魔は弾かれたように岩穴の天井近くまで退き、そのまま動きを止めた。 天井にひびが入り、砂塵を降らせながら岩が落ちてくる。精魔の姿が砂塵に紛れ見えなくなった。 その様子を見て取ると、紫音は踵を返し入口に向かう。倒れるアマンダを抱き起こした。 「アマンダ、しっかりしろ!」 固く閉じられた瞳は開かない。その顔には血の気がない。 「アマンダ、アマンダお願いっ、目を開けてっ! 私を一人ぼっちにしないで! アマンダぁ!」 アメリアは叫び続ける。 「いったい……どうして……?」 透の問いに、クリスがうろたえながら語る。 『わからない、わからないのよ。紫音と精魔の間に凄まじい力がわだかまってて、それが突然弾けたの。辺り一面に光が飛び回って……アマンダは、アメリアを庇って光の直撃を受けたの!』 彼らのすぐ側に巨大な岩が降って来た。 「とにかく逃げるんだ! 透、クリスとアメリアを頼む!」 紫音はアマンダを抱き上げ、入口から外に飛び出した。クリスを肩に乗せ、泣き喚くアメリアの手を引くと、透も後に続いた。 崩れ去る岩穴の洞窟。その後に残るものは、奥行きのよくわからない空に閃く稲妻。 「次元の嵐!」 アマンダを抱えたまま、肩越しに振り返る紫音。崩れる洞窟の砂塵から、覆い被さるようにアメリアを守る透。透の肩に乗っかったクリスが叫んだ。 『結界の力が弱まっているから、次元の嵐が起こっているのよ!』 洞窟が完全に崩れ去り、巻き上がる砂塵が収まると、透はゆっくりと起き上がり、正面から精魔の結界内を見つめた。紫音はアマンダを横たえると、その場にしゃがみ込み、次元の嵐が猛り狂う様を見つめた。 「精魔は……? 精魔はどうなったの?」 透が呟くと、 『結界の中には姿が見えないわ。次元の嵐が邪魔で気配もよくわからない。でも、消滅したり、封じられたりはしていない。結界の力そのものは弱っているけれど……』 クリスが声を顰めて答える。 それまで、ぐったりと力なく倒れていたアメリアが、突然、よろよろと立ち上がった。 「よくも……よくも邪魔をしてくれたな!」 その表情は、もはやアメリアではない。 「アメリア!」 「くそっ! また取り憑きやがったのか!」 毒々しい緑の気体がアメリアを取り巻いている。 「紫音……私はおまえをあきらめた訳ではない。いずれまた会おう。そして、その時こそおまえは私のものだ……」 言い終わるより早く、精魔がひらりと身を翻す。次元の嵐が吹きすさぶ、己の結界の中に飛び込んだ。 「待ちやがれ!」 後を追おうとした紫音を、透とクリスが引き止める。 『ダメっ! ダメよ! アイツは自分の結界の中に逃げ込んだだけなのよ。紫音だったらどこに跳ばされるかわからないわ!』 「くそっ!」 彼らが茫然と見つめる中、精魔の結界内では次元の嵐が渦を巻き、猛り狂う稲妻は、やがて遠のき薄らいでいった。精魔の結界もついには力を失い、乗っ取った少女の姿と共に消滅した。後には見慣れた寒々しい荒野が広がるのみ。それまであった岩穴の残骸は、影も形も見当たらない。 「……お、ねえちゃ……ま……」 微かな声を耳にして、彼らは振り返り、アマンダに駆け寄った。 「アマンダ、しっかりしろ!」 紫音がアマンダを抱え起こす。 「アマンダ、気をしっかり持って!」 透はアマンダの小さな手を握り締めた。 『アマンダぁ!』 クリスがアマンダの側に、ひらりと舞い降りた。 アマンダは懸命に笑顔を作ろうとしている。苦しげな表情が痛々しい。 「……紫音…おにいちゃま……透…おにい……ちゃま……おねがい……おねえちゃまを、たすけて……」 どこまでも澄んだ美しい瞳から、涙が零れ落ちた。 それは紫の光をぼやかせながら、頬をゆっくりと伝っていく。 「わかった! 約束する! だからもう喋るな、アマンダ……」 口元が弱々しく微笑んだ。 「……おねえちゃまが、もとに……もどったら……みんなで……くらす…の……紫音おにいちゃまと……透おにいちゃま…と……おねえちゃまと…アマンダ……それから……だいすきな……テディ……」 透の手から、力なく、アマンダの手が滑り落ちた。その瞼は、二度と開かれることはない。 「アマンダーーーーーー!」 紫音の腕の中でアマンダは静かな眠りについた。その記憶も、その希望も、もう二度と彼らの目に触れることはない。だが、アマンダは彼らの胸に、確かな希望の光を投げかけた。そしてたった独りで旅立ってしまったのだ。自分の夢を、何ひとつ叶えることなく。 愕然とする紫音がアマンダを抱きしめた。 「……俺は……俺は……また、守ってやれなかったのか……!」 力なく肩を落とす。 「紫音……」 透の瞳から、止め処なく涙が零れ落ちる。 「……僕のせいだ……僕がもっと集中して、アマンダに結界を張っていれば……」 「うるせえ!」 紫音はそう叫ぶと、アマンダを抱えたまま透たちに背を向けた。僅かに肩が震えている。 「……………」 掛けるべき言葉は無い。 透はひたすらに、彼の背中を見つめていた。 どのくらいの時が経ったのだろう。胸が抉られるような苦しい時間が永遠に続くかと思われた。ポイント0には時の流れなど在りはしないのに。 アマンダを抱き上げると、紫音は徐に立ち上がる。 「……行くぞ」 沈んではいるが強さを秘めた声が、背中で話しかける。 「アマンダとの約束を、守らなきゃならん」 さらに続けた。 「アイツだけは、絶対に許せねえ!」 「……紫音」 透も自分を奮い立たせ、よろよろと立ち上がる。気持ちは紫音と同じだった。 『……紫音、お願い……アマンダをどこか静かなところで眠らせてあげて……。ここは透がいなくなると、また元の混沌とした場所に戻ってしまう。こんなところにアマンダを独りぼっちにはできないわ』 「当たり前だ」 紫音は先に立って歩き出す。 「僕たちは、本当にここから出られるんだろうか……?」 息苦しい思いで透が呟いた。 『精魔の結界は無くなったのよ。必ずここから出られるはずよ』 クリスが透を励ました。 空を見上げれば、何処かいつもの空間とは違う。奥行き不明の重苦しい空が、何やら夕暮れのような夜明けのような薄明かりに包まれていた。どのくらい歩くかわからないが、確かに今までとは違う。必ず出られるに違いない。 砂塵を踏みしめながら、透も紫音の後を追った。 程なく、この場所には存在し得なかった風景が目に飛び込んできた。緑の森に湖。そして久しく見なかった太陽の光。湖の向こうに太陽が沈もうとしている。 「……夕焼けだ」 透の脳裏に近所の川の風景が浮かんだ。太陽の光が目に染みるのか、再び溢れ出す涙。 振り返れば、今までいたはずの荒野は何処にも見当たらない。そこは森と湖を見下ろす小高い丘。歪んだ世界は、同じように歪んだ空間の中に姿を掻き消したのか。彼らの眼前に広がる風景は透の常識の枠内に収まる世界。アマンダの記憶で垣間見た、風光明媚な風景に、ひどく似通っていた。 夕焼けに染まる森の中。湖のほとりにアマンダの安らぎの地を求めた。紫音が木の枝で墓標を立てる。十字の形はどこまでも透の世界と同じ発想だ。どこから持ってきたのか、クリスが銀に輝く小さな花を、そっと墓標に添えた。 『アマンダ……安らかに眠って』 石の精であるクリスの瞳から、人のように暖かい涙が零れ落ちた。キラキラと光り輝き墓標の花に滴り落ちる。透も紫音も無言のまま、アマンダのために祈った。 「行こう」 紫音が立ち上がる。いつまでもこうしていては、アマンダとの約束は果たせない。透も立ち上がり、クリスを呼び寄せようと振り返った。 「クリス、きみは……」 驚きの余り目を見張る。 「その姿は、いったい……?」 墓標の側に佇むクリスは、まるで消え入りそうなほど薄れている。微かにピンクの光を放ってはいるが、その映像はゆらゆらと揺れ、不安定極まりない。ともすれば、見えている形そのものが原型を留めなくなる。 「いったい、どうしたんだよ?」 『今になって気がついたわ。ずっとアマンダの意識に取り込まれたと思っていたけど、もしかしたらアメリアの体に残っていた最後の意識――純粋で無垢な意識に取り込まれたのかもしれない。精魔は無垢なものに馴染めないから、その意識だけ弾き出されてアメリアの体に残ったんだわ、きっと。……私はその意識に捉えられたままなのよ。だからアメリアが遠く離れると、この姿を保っていることすら苦痛になる。一度は弾き出された意識だけど、アメリアが自分を失ったままならいつかは精魔に吸収されるわ。それに捉えられた私も同じ。このままだといつかは精魔に吸収されてしまう……お願い! 助けて、透! 紫音! あんなモノになるのは嫌よ!』 陽炎の如くゆらゆらと揺れる姿。その輪郭すら、薄れて消えてしまいそうだ。 「急がなきゃ……でなきゃ、クリスが消えてしまう!」 紫音を振り仰ぐと、 「前のようにアイツの気配を感じ取れるのか?」 『それは大丈夫。離れてしまうとこの通りだけど、アメリアに近づけば近づくほど私の姿はハッキリしてくるはず』 「この世界にはいるの? 精魔は次元の嵐に飛び込んだんだ。今、同じ世界に存在しているとは限らないだろ?」 『ここがどんな世界かわからないけど、この世界にいることは確かよ。精魔は心現界の類似空間を通ったようね』 「方角はわかるのか?」 『何となくは』 「なら、迷うことはねえ。行くぞ」 彼らは森を抜ける。そこには広大な草原が広がっていた。既に陽は暮れきって空は暗いが、辺りは月明かりに溢れている。 紫音が空を見上げる。透もつられて空を見た。 月が浮かんでいた。清冽な光を放つ月は、透が住んでいた世界では見たこともない程の大きさだ。しかも寄り添うようにもうひとつ、ひと回り小さい月が重なっている。 「……ここは、エルメラインだ」 「えっ?」 紫音は月から目を離さない。 「……あれは、俺の知っている月だ」 【月】へ続く
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