しょうけい 憧憬 |
透には小さな動物に見え、紫音には女に見える石の精が、手に当たる部分で発光球を掲げた。それは、ゆっくりと透たちの目の前まで来て宙に浮いて止まる。ちょっと大き目のビーチボールくらい。中心が発光していて、そこに何かが見えはじめた。 『見て』 覗き込むと風光明媚な山や森、湖が見える。点在する家屋、畑や果樹園、緑に囲まれた土地。柔らかな陽射しに薫る風。そんなものが間近に感じられるほど、リアルな景色がそこには広がっていた。透が思うに、フランスだかスペインだかのヨーロッパの片田舎の風景に似ている。 「これは……もしかしてこの景色って、この場所の元々の風景なのかい?」 『そうよ』 「これがああなるとは化かされた気分だな」 場面が変わっている。大きな屋敷の庭のようだ。どこからか複数の人間の笑い声がする。視線の先に足が見え、見上げるとそれぞれに笑顔を浮かべた人影が見えた。 見上げると……? 「いやに視点が低いな。幼児の背丈くらいだな、こりゃ」 『そうよ。これはアマンダの視点だもの』 なるほど。どうりで足元を見てから見上げたら顔があったのだ。 記憶の中のアマンダは誰かに抱き上げられたらしい。目線の下で無垢な笑顔を浮かべているその人物こそ、目の前にいる少女の姿をしていた。 だが、何かが違う。 この少女はアマンダと逆転しているわけでも、石の精に憑かれているわけでもない。気弱で寂しげな顔をした彼女が、紛れもなく本物のアメリア・パーカーグレイなのだ。 アメリアは微笑みながら弾む声で歌う。重なる笑い声はアマンダのものだろう。 ――アマンダ、アマンダ、可愛い妹。春の女神の申し子よ―― 記憶の中の音声は、遠く近く大気を振るわせる。耳から聞こえて来るのではないが、石の精の声とも少し違う感じだ。 球の中の少女は、深い慈愛に満ちた表情をしている。これが本当のアメリアなのか。これほど暖かく無垢な瞳を持つ少女が、なぜアマンダと入れ替わった後、冷たく邪な瞳を持つモノに生まれ変わってしまったのか。 側にいるのは姉妹の両親だろう。金色の巻き毛を持つ紫の瞳の婦人。淡紫の髪の紳士。二人とも溢れんばかりの幸福な笑顔。とりわけ紳士の目元はアメリアにそっくりだ。彼女たちの父と母に違いない。 両親とも、アマンダが可愛くてしようがないらしい。代わる代わる抱き上げ、代わる代わる抱きしめる。母親はアマンダを膝に乗せ、美しい声で子守唄を歌う。優しく髪を撫でる感触すら伝わってくるようだ。 徐々に風景が白く濁る。アマンダが目を閉じたのか眠りについたのか。だが、いつまでも大気を振るわせる美しい歌声。 心に染みる。心の奥の何かが揺り動かされる。 それは透にも、おそらく紫音にもあっただろう遠い記憶の断片。幼い頃、彼らにも同じように母親に甘えていられる時期があった。失ってなお惹かれる想い。記憶の彼方に封じ込めてさえ、憧れてやまない情景。そんなものが球の中には詰まっていた。 アマンダの記憶の中には常にアメリアがいた。 仲睦まじい姉妹。アメリアはいつでもどんな時でも笑っていた。気弱なその笑みは汚れがなく、むしろ神々しくすらある。それはアマンダから見た主観なのか、実際にアメリアがそういう少女だったのかは定かではないが。 息が詰まるほどの、むせ返るような幸福の記憶。そう長くは続かなかった。 やがて、舞台が暗い翳りを見せはじめる。 アメリアが泣いている。 「何が……あったんだろう?」 陽の差し込まない部屋でアメリアが泣いている。妹の気配を感じても笑わない。いや、笑えないのか。 ふと気がつくと、記憶の主である少女が側ににじり寄ってきて、食い入るように球の中を見つめている。その瞳にはまだ滴り落ちる大粒の涙が。 「おねえちゃま、おねえちゃま!」 思い余って少女が球に触れると、突然、発光力を増し、強烈な光と共に膨大に膨れ上がった。 『いけない! やっぱり私の記憶球ではアマンダの力を制御しきれないわ』 球は跡形もなくなった。変わりにそこいら辺り一面に、アマンダの思い出の風景が広がっている。 『アマンダは記憶を具象化できるのよ。それがアマンダの力。でも時として暴走することもあるので、記憶を閉じ込める球を使って制御しようとしたんだけど……』 「アマンダの力の方が、君よりも強いの?」 『そういうことになるかしら』 「意外とへなちょこな精霊だな」 『まあっ! 失礼ね。だいたい私は精霊じゃなく、石の精よっ、間違えないで!』 「うるせえ。同じモノだ、喚くな。それよりあの姉妹はどうなってんだ? おい、お嬢ちゃん何とか言え」 紫音の言葉の最後は少女に向けられている。 それを耳にしたのかしないのか、涙を流しながら繰り返し呟く少女。 「おねえちゃま、やくそくしたのに……アマンダとやくそくしたのに……おとうちゃまとおかあちゃまがもどってくるまで、ずっとふたりでまっていようって……おねえちゃまと……やくそくしたんだもの……それなのに、おねえちゃま……どうしてそばにいてくれないの……? アマンダをひとりにしないで……」 透は思わず少女の髪に触れた。柔らかいシルクのような感触。姿形こそ同い年くらいだが、彼には少女の本当の姿が見えたような気がしたのだ。 少女は透にしがみつき、大声で泣き始めた。ずっと心細かったのだろう。震える体が憐れでならない。背中をさすってあげ、視線をその背中の向こうに持っていくと、妙な黒い行列が霧の彼方に影として浮かび上がった。 「これって、もしかして……」 「弔いか」 「じゃあ……二人のお父さんとお母さんは、もう……」 アマンダには理解できないのだろう。記憶の奥底に光景が焼きついていたとしても、小さな子供にその意味をわかれと言う方が難しい。 アメリアは途方に暮れて泣いていたのだ。幼い妹と二人で、これからどう暮らせばいいのか。 彼女の呟きが大気を振るわせる。 ――これからどうすればいいの? アマンダを私一人で守れるの? ああ、お父さまお母さま。どうして私たちを置いて逝ってしまったの? アマンダにどう説明すればいいの? わからない。何もかもわからなくなってしまった…… 幸福の絶頂から、恐怖のどん底に堕とされた者の悲痛な叫び。先行きのない不安が辺り一面に満たされている。 アマンダの視線が憔悴した姉の手を捉えた。小さな手がその手を握り締める。少しだけアメリアが微笑んだ。 まさにその時。 何だろう、この感覚は? 大気が歪む。空気が震える。視覚的には何も変わらないのに確実に何かが忍び寄る。遠方の暗い空。奥行きのよくわからない空で稲妻が走る。 紫音が嫌と言うほどよく知っている光景。透にも経験がある、それは―― 「次元の嵐かっ!」 「何でこんなところにっ!」 『落ち着いて。リアルに見えてもこれは過去の幻影よ。あなた方がアマンダと波長を合わせているから、現実に感じられるだけよ』 そうは言うものの、アマンダの記憶の風景は確実に変化を辿っている。歪む空間――既に映像も歪みつつある。天地左右が逆転し、激しく揺さぶられる感触。これは危機を免れ、ただ見ているだけの者の視覚ではない。まさにその危険の中心に巻き込まれた者の視覚なのだ。 やがてあたりが黒ずみはじめ、全くの闇と化した。 闇の中心に姉妹の姿が見える。淡紫の髪のアメリア、金色の髪のアマンダ。茫然と闇を見つめる姉とただ泣きじゃくる妹。 「ちょっと待って、どうして二人いるんだ? これはアマンダの視点だろ?」 透の疑問は当然だろう。今まではアマンダの姿はなかったのだから。 『これも間違いなくアマンダの視点よ。彼女がこの姿になった後の、だけど。ふたりが入れ替わって、アマンダだけが取り残された時に私は彼女に引き込まれたの。だから、何が起こったのか知りたくて時間を遡ったのよ。これはその時のビジョンなの』 「時間を遡っただぁ? おまえは時を操ることができるのか?」 『ほんの少しならね』 紫音に答えながら、石の精が闇の中心を指差す。 泣き疲れ眠り込んだアマンダの横で、アメリアがしきりに何かを呟いている。 アメリアだけではない。何か別の声も聞こえてくる。ざらざらとした肌触りの、嫌な印象の声。アメリアはそれと会話していたのだ。 ――ここは何処? 何が起こったの? わからない、何もかもわからない。どうしたらいいの? 誰か助けて! 不安気なアメリアが辺りを見廻している。 ――助けてやろう、アメリア。おまえの波長を私の波長に合わせるのだ。そうすれば、私はおまえの力を最大限に引き出してあげられる。 ――誰? あなたは何者? 波長を合わせるってどういうこと? わからない。私には何もわからないのに…… 怯えたアメリアがさらに辺りを見廻す。少しずつ自分を失い始めているようだ。 ――哀れなアメリアよ。さあ目を閉じ、心を落ち着かせるのだ。私がおまえの中に入りおまえの力となろう。 ――何なの? 何ですって? あなたは何者ですって? わからない、どうすればいいの? 私はどうすればいいの、誰か助けて! アメリアの目の焦点が合っていない。彼女は情緒不安定なのか、少しも落ち着きがない状態だ。おろおろと視線を泳がせ、時折自分の手を見つめる。会話の意味を理解しているのかも怪しい。 ――私はおまえの味方だ。おまえを助けてやろう。さあ目を閉じ、もう何も考えてはいけない。私を受け入れ身を委ねるのだ。そうすればおまえはこの世界の謎を解明でき、この世界に君臨することができる。 《味方》という言葉に彼女は激しく反応した。とたんに落ち着きを取り戻し、心を開放し始めたのが見て取れるほどだ。 ――私の……味方……? 私を助けてくれるの……? アメリアが目を閉じる。アメリアの回りを、暗く深い緑色をした気体が取り巻いていた。それはみるみるアメリアの体に染み込んで行き、徐々に色を失っていく。 アメリアが身を横たえる。完全に意識がない状態。死んだように身動きひとつしない。だが、変化は確実に起こっていた。 彼女の口元に笑みが浮かぶ。それは安堵の笑みとか天使の微笑とか、今までの彼女から見出せたものではない。邪悪でしたたかな微笑み。 アメリアが目を開いた。その眼窩には全く違う光が宿っていた。あの澄んだ清らかな瞳が嘘のように、蒼く濁り邪悪な光を放つ眼。その邪なる眼は、透と紫音が目撃した、あの魔女の瞳に匹敵するほど禍禍しい。 ――ふふふ……この姿も悪くはないが、より他人を謀ることのできる姿が必要だ…… アメリアが、いや、彼女に取り憑いたものがくつくつと笑う。その邪な瞳がアマンダを捉えた。 ――おあつらえ向きな……この姿なら誰にも警戒されることはあるまい…… アメリアの姿をしたモノが、アマンダの額に手を当てた。とたん、アマンダが跳ね起き、後退りながら姉を見る。 ――おねえちゃま…… アメリアが無言のまま妹を見下ろす。 ――おねえちゃま……こわい…… くつくつと笑いながら、姉は妹の額を指差す。アマンダの体が硬直し、その瞳から徐々に光が消えていった。 突然、ぐらりと揺れるアメリアの体。それと共にアマンダの瞳が光を取り戻した。だが、もう前のような澄んだ光ではない。禍禍しく燃える紫の瞳。 それはまさしく、透と紫音を《混沌》に巻き込んだ赤い魔女の姿。 「あ……アイツだ!」 「僕たちが知ってる、あの子だ!」 見た目の年齢には似つかわしくない小賢しい子供。その理由がこんなところにあったとは。 『わかった? アマンダのことわかってくれたわよね? アマンダはね、あなた方にアメリアを助けて欲しいって思ってるのよ』 「あの緑色の気持ちの悪い気体からってコト?」 『そう。アレをアメリアから追い払って、元のアメリアを取り戻して欲しいんですって。お願い、アマンダの力になってあげて!』 「アレは何なんだ?」 『精魔。よくはわからないけど私と似たようなモノだと思うわ』 透と紫音が顔を見合わせた。 「また新たな登場人物のお出ましか。やたらと訳のわからん言葉を吐くな、おまえは」 紫音が大げさに溜息をつく。 「君と似たようなモノってことは、アレも何かの精だったりするの?」 『う〜ん、わからないわね。だって私は生まれたばかりで、先輩たちと宿主を探す旅をしていた途中でアマンダに引き込まれてしまったのだもの。本当なら先輩たちから私たちの故郷やいろいろなことを聞きながら、一人前の精になって何かに宿るはずだったのよ。だからアレの正体なんてわからないけど、先輩のひとりは精魔という魔に毒された精がいるって言ってたから、多分それだと思うのよね』 「じゃあ、アレは君の仲間なの?」 『まあっ、やめて! あんなのと一緒にしないで』 石の精は明らかに嫌悪の情を露にした。 「おまえ、さっき似たようなもんだって言ってたじゃねえか」 『似たようなって言うのは取り消すわ。でも同じ波動を感じるのは否定できないわね。不本意なことだけど、もしかしたらアレと私、同じところで生まれたのかもしれない』 石の精は身震いをしている。そんなに精魔とやらが疎ましいのか。 記憶の主である少女は、いつの間にか、透の膝で泣き疲れて眠ってしまった。それと同時に、辺り一面に漂っていた記憶の断片も消えて無くなっていた。 透はふと気がついて尋ねてみる。 「ねえ、君が生まれたところって、何処?」 石の精は小さな子犬のような姿で透の側に降り立った。 『私が生まれた国は心現界。精神の力で築き上げられた世界よ』 と、子犬の顔でにっこりと笑う。 「またか。また新しい単語を覚えさせようってのか俺たちに」 紫音が再び溜息をついた。 【心現界】へ続く
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