きょうぐう
境遇
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 薄明るい洞窟の中、二人には交わす言葉もない。脱力した体を岩に凭せ掛けるだけで精一杯だ。
「くそっ!」
 それでも悪態をつくだけの余力が紫音にはあった。
「いつまでも人をコケにしやがって!」
 彼はこの現象を、公園の少女の仕業と考えている。
 あれから何度も同じ事を繰り返した。この岩穴を出発してできるだけ遠ざかっているつもりでも、何度も同じ風景が蘇り、いつの間にか元の場所に立っている。
 幾度となく紫音はこんな思いをしたのだろう。繰り返せば繰り返すほど失望感が高まる。気の遠くなるような長い間、彼は独りでこの焦燥感に耐えたに違いない。考えてみれば大した精神力の持ち主だ。
 だが、透に真似はできない。再びひたひたと忍び寄る悲愴感に、抗うことすら難しくなっていた。
「そんな顔するな」
 側に来て紫音が言う。
「だいたい最初っから上手く行くとは思っちゃいねえからな」
 透はただ俯いて、前と同じに膝を抱えていた。
「少なくとも何らかの変化はあったんだ。結局あれは来なかっただろ? おまけに、ここいら辺りは見覚えのある景色に変わりつつある。不安定な場所が安定して来ているのは間違いないな」
 そんな言葉は透の励みにはならなかった。相変わらず陰鬱な顔をしている透に、紫音は不機嫌に言い放つ。
「何て顔してやがんだ。おまえが来たとたん、ここから出られたら、俺の立場ってもんがねえだろうがよ」
「……???」
「俺は嫌と言うほどここを徘徊して結局出られないままなんだぞ。それを、おまえが来たとたん出られたとあっちゃ、俺がまるで馬鹿みてえじゃねえか」
「そんなこと……そんなこと、ないよ……」
 透にはそれしか言えなかった。
 実際、この悪状況に耐えてきた紫音の忍耐力には頭が下がる。彼がどんなに努力しても叶わないことが透に解決できるとは思えなかった。ましてやこれだけ体験させられると、だんだん希望が毟り取られていくのがわかるのだ。先の事などもう考えられない。短時間で透の心は疲弊してしまった。
 そんな透を見つめて紫音は溜息をついた。
 正直なところ、透の気持ちを理解できなくもない。なにしろここに来た当初、発狂してしまえたらと思うほど自暴自棄になったこともあるからだ。考える時間が山ほどあったおかげで、今となっては何が起こっても冷静でいられる。こんな状態に陥ったばかりの透が簡単に楽観的になれるとは思ってもいないのだが、少しでも心が軽くなるような気の利いた言葉など、紫音には思い浮かばなかった。
 長い間、二人は黙ったままだった。それぞれの境遇に思いを馳せて。
 沈黙を先に破ったのは紫音の方だ。
「なぁ、透」
「……何?」
「おまえが住んでるのはどんなところなんだ?」
 紫音の顔を見つめる。相変わらず前髪が邪魔で表情が掴めない。だが、彼が真面目に話をしていることだけは確かだ。ほだされて、そろりそろりと話し始める。
「……うちは平凡な家庭だよ。……頑固で厳しい父さんがいて、明るくてやさしい母さんがいる。……一人っ子だから、両親の期待が集中するのが辛いところだけどね……」
 途切れ途切れの声が弱々しい。どこか独り言のようだ。
「……学校は好きだよ、友達に会えるから。……でも、勉強よりクラブ活動の方が好きだな、きっと……写真部なんだけどね……将来の夢はカメラマンだから、少しでも早く写真の勉強がしたかったんだ……」
 俯いていた透が少し顔を上げた。視線がどこか遠くを泳いでいる。
「……もう高3だから、そろそろクラブも辞めないとダメだろうな……受験生だから……。でも、僕、大学は受けるつもりないんだ。大学に行く暇があったら、有名なカメラマンのアシスタントになる方法を考えるよ。ダメなら先ずは専門学校へ行く。……父さんは反対するだろうけど……」
 少しずつ、透の声が力を取り戻し始めた。
「父さんの夢は、僕を大学にやって真面目で地道な人生を歩ませるコトらしいんだ。……でもそれは、父さんの夢であって、僕の夢じゃない。……残念だけど、今度ばかりは父さんの夢を叶えてあげられないな。……だって、僕は僕の人生を生きているんだよ、父さんの人生じゃない。……だから、僕は自分の夢を追うよ。僕自身の夢を……」
 言葉を重ねるうちに透は気がついた。両親の前なら決してこんなことは口にしない。
 透は両親を失望させることが一番怖かった。望むことがあれば、口にしなくても自分自身で叶えることができる。叶えられなければ努力をすればいいだけだ。両親を失望させ関係が壊れる事の方が、回り道な努力をするよりもっと苦しい。透はどんな時も彼らの望む息子で在りたかった。
 だが、透はもう十七歳。無理が生じていたのかもしれない。
 子供はいつか、親の手を離れ巣立つものだ。いつまでも親のエゴに縛られていられる存在ではない。目の前にいるのが透の過去を知らない紫音だったからこそ、彼は自分の本音を口にでき、そのことに気づくことができたのだ。
「父さんも母さんも僕にとっては大切な人だけど、だからこそ二人の希望を損なっちゃいけないと思ってきたけど、僕が自分自身を大事にして満足することが、本当に両親が望むことだと思う。……もう、黙って好きにさせて欲しいんだ。だってそうだろう? 自分の夢は自分自身の手で叶えなくちゃ、ただの幻想でしかないんだよ。……僕は幻で終わらせたくない、僕の夢を叶えたいんだ!」
 紫音は黙って耳を傾けている。
「だからこんなところでぐずぐずしているヒマはないんだよ! ……僕は……ぼく、は……」
 最後の方は言葉にはならなかった。話しているうちに気持ちが高ぶり、感情を押し留めることができなくなってしまったのだ。胸の奥から熱いものがこみ上げて来て、咽ぶように瞳から吐き出されていく。みっともないと思いながらもどうしても涙を止めることができなかった。
 紫音はやはり、黙って透を見つめている。
 言葉は何もかけない。ただ黙って側にいるだけ。透が泣きたいだけ泣いて感情の渦を押し出すのを、何も言わず見守っていた。
 透の涙も品切れになろうかと思えたころ――正直言って彼自身も気恥ずかしくなりはじめたのだが。  
 感情の赴くままに身を任せてみたものの、冷静さを取り戻せばかなり薄ら恥ずかしい。懸命にシャツで涙を拭いながら弁解の言葉を探してみる。が、見つからないので顔を上げられなくなった。
 それまでひたすら沈黙を守っていた紫音が、その時ポツリと言った。
「……おまえ……幸せなヤツだな……」
「え?」
 思わず顔を上げると、紫音はからかう素振りも見せず、
「……羨ましいヤツだ……おまえは、俺の失ったものを持っているんだな」
 そう呟いた。
「紫音……」
 俯いた彼の横顔は、少しばかり寂しげに見えた。
「紫音が……」
「……ん……?」
「……紫音が住んでいたところって、どんなところだったの?」
「俺が住んでたところか……」
 何気なく前髪を掻き揚げる。澄んだ蒼い瞳が遠くを見つめていた。
「真っ暗だったな」
「真っ暗?」
「そう。常に闇に潜んでいたからな。……腐れた政府を壊滅させるために、俺たちは暗躍していたんだ」
「それって……」
「俺たちが住んでたところは最悪だった。政府は腐れきってて弱い者から搾取のし放題。民衆は弱すぎて自分たちでは立ち上がれない。ただ神に祈り、救いの手が差し伸べられるのを待ってばかり。……自分たちでは何もしないのさ。怠慢な政府に怠慢な民衆。……反吐が出そうだぜ」
 今度は透が沈黙する番だ。
「だったら誰かがやらなきゃならないだろう。待ってても何も変わりはしないんだからな。変化を求めるなら行動を起こすしかないんだよ。たとえどんな手段を使ったとしてもだ」
 紫音は、傍らに投げ出していた銃を手に取った。
「たとえどれだけの血が流されようと、な」
 銃を構えて透に向ける。一瞬、透の背筋を血が凍るような悪寒が走った。だが、彼はすぐに銃口を地面に向けた。
「相手が何人死のうが仲間が何人傷つこうが構っちゃいられなかった。だがな、絶対に無駄死にはさせちゃいけねえ。命ってのは取り返しがつかねえもんなんだよ。仲間でも敵でも《死》ってもんは軽んじられるべきもんじゃねえんだ」
 透は紫音の顔をまじまじと見た。表情はわからなくとも醸し出す雰囲気が告げている。そこには、乱暴で口が悪く時々意地悪な青年ではなく、信念を持ちながら曲がった方向に進まざるを得なかった、苦渋に満ちた青年がいた。
「紫音は……革命家だったんだ……」
「革命家? そんないいもんじゃねえ」
 紫音は再び銃を投げ出した。
「俺はな、この手で何人も殺してきたんだ。たとえどんな大義名分があろうとどんなに優れた信念があろうと、そんなこたぁ関係ねえ。ただの人殺しに過ぎないんだよ」
 吐き捨てるように言い、そっぽを向く。
 透は息を呑んだ。あまりにも透の日常とかけ離れ過ぎている。世界の何処かでそんなことが起こっていたとしても、透にとってはニュースの断片にしか思えない出来事だ。それを紫音は目の当たりにして生きてきたのだ。
 彼は沈黙を守っている。どこに想いを馳せているのだろう。透はその横顔に恐る恐る声をかけた。
「あんたさっき、命を軽んじちゃいけないって言ったじゃないか。無駄死になんてさせちゃいけないって言ったじゃないか。……あんたが好んでそんな事をしたなんて思わない。何か理由があったから、あんたはそんな道に入ったんだろう?」
 紫音が透を振り返る。
「理由か……理由なら山ほどある」
「なんだって、そんなことに?」
「あいつらは俺の両親を殺しやがった。それだけじゃねえ。……俺が、一生守ってやろうとした女も殺しやがったんだ」
 そう言いながら紫音は歯噛みをした。彼は失うものの重みを知っている。
 だが、大切な人を失ったことのない透には、紫音の気持ちを理解できない。
「ゴメン、僕、よくわからない。大切な人を失うってどんなことなのか……。僕にはそんな経験ないから……」
「おまえ、正直なヤツだな」
「憎いよね……当然だよね……愛する人を奪われたんだから……」
「そうだな。最初は奴らが憎くてたまらなかった。血祭りに上げなきゃ気が済まんくらいにな。……だが、今の俺は革命組織の参謀だ。組織の理想に向かって世の中を動かさなきゃならん。この際、個人の憎しみなんざ二の次だ。冷静さを欠いては参謀は務まらんからな」
「いいの? ホントにそれでいいの。敵を討たなくてもいいの?」
「……政府を倒すことが、敵を討つことだ」
「でも、それは、ホントに紫音の大切な人たちを奪った犯人かどうかわからないよね?」
「おまえ……意外と頭の回転のいいヤツだな。しかも痛いところを突いてきやがる」
「無益な殺し合いは望まないよね?」
「無益なら望まないが必要なら殺す。俺たちは博愛主義でも宗教団体でもないからな。障害は力づくでも取り除かねばならん。それが革命というものだ」
 透は切ない表情で紫音を見上げた。
「やっぱり……やっぱり、僕にはわからないよ」
 紫音は微笑した。この年下の少年が、懸命に自分を理解しようとしていることが好ましかったから。
 出逢った時は、警戒心のないただの呆けたガキだと思っていた。だがそうじゃない。聡明で人を思いやることのできる純粋な心の持ち主。何よりも、昔の自分に似ている……そう思えてならなかった。
 いつまでも彼を見つめる切ない瞳。それを断ち切るように言い放つ。
「阿呆ぅ。そんな簡単に理解されてたまるか。平和な国に暮らすやつにはわからなくても当たり前だ」
 透はしょんぼりと足元に視線を移す。
「だが、おまえはいい事を言う。おまえの言う通り、俺たちはこんなところでグズグズしちゃあいられねえ。何が何でもここから出て元の場所に戻らなきゃならん。おまえも俺も、自分自身の夢を叶えるために、な?」
 目を上げると紫音が笑っている。彼のまともな笑顔を見たのは初めてだ。透は少しだけ彼に近づけたような気がして安堵した。
「でも、僕は知らなかった。……同じ地球の何処かの国で、まだ戦争や革命があったなんて……」
「……地球?」
 紫音の顔から笑いが消え、怪訝な表情が貼りついた。もう一度繰り返し問いかける。
「地球ってなぁ、なんだ?」
「いやだなあ、僕たちが住んでる惑星のことじゃないか」
「俺の住んでる星はエルメラインだ。地球なんざ聞いたこともねえ」
「……エルメ……? 何?」
「エルメライン。国の名前もそうだ。俺がここに来る前にいた星はラルトーだ」
 透の眼が真ん丸になった。そんな惑星の名はこれっぽっちも聞いたことがない。
「ふん、そうか。どうやら俺とおまえは国や星が違うどころじゃなくて、全く違う世界から連れて来られたみたいだな。……どうりで妙な言葉を喋ってると思ったぜ」
 言葉の違いを紫音も感じていたのか。
「何で言葉が違うのに意味が通じるんだと思う?」
「俺に訊くな。わかるわけないだろ」
「そ、そうだよね……でも違う世界ってのは、いったい……」
「別に驚くほどのことでもない。ここは次元の嵐の吹き荒れる混沌の空間だ。複数の世界の入口が混ざり合っててもおかしくねえ」
 言われてみれば確かにそうだ。
 改めて紫音を見る。髪の色も格好も、不思議だと思ったこと何もかもが、こうなってみれば簡単に納得がいく。
 透も、徐々にどこかが麻痺し始めているに違いない。すんなりとこの事態を受け止めることができるようになっていた。
「違う世界でも僕たち、それぞれの場所に戻れるのかなぁ?」
「『戻れるのか?』じゃなくて戻るんだよ」
「うん、そうだね」
 事態の解決にはまだ糸口も見つからないが、それでもこの場所やお互いの境遇を理解することで、少しだけ光が見えてきたような気がした。透はゆっくりと背後に控える岩に凭れかかる。
「透。ひとつ訊いていいか?」
「何?」
「おまえの周辺って、何でこんなに居心地がいいんだ?」
「え?」
 紫音は地面を撫で擦りながら言う。
「岩が岩じゃないし地面が柔らかい。目を閉じるとまるで違うものに感じる。そうだな、これは公園の芝生みたいに居心地がいい……」
 紫音は目を閉じているらしい。最初は何を言っているのかわからなかった。――ここは元々そういう場所じゃなかったのか?
「今さら何言ってるんだよ、紫音。ここは見た目と中身が違うところじゃなかったの?」
「おまえこそ何言ってる。おまえの側から離れると、ここは見た目と寸分違わないところだ。どうやらおまえの周辺だけが変化しているようだな」
 奇妙なことが重なって麻痺し始めた透でも、これはすぐには理解できない。この周辺だけというのはどういった訳だ。
「理屈なんざどうでもいい。俺がここに来て初めての快適さだ。これからはおまえの側で眠ることにしよう」
 そう言って、透の隣でゴロリと横になる。彼は眠る時も銃は側から離さない。
 会話の相手が寝息を立てはじめたので透も横になった。かなりの柔軟性を取り戻したとはいえ、やはりこの場所の不思議さには、まだまだ馴染めそうにもない。
【魔女】へ続く
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