へんか
変化
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 音のない世界で目を覚ます。
 辺りには何の気配もない。誰の気配もしない。
「し……おん……紫音!」
 返事はない。
 夢だったのか? 目を閉じる前の出来事は、何もかもが夢だったのか。
 しかし、この場所は見覚えのある岩穴の洞窟。
 だったら何もかも幻だったのだろうか。
 透は飛び起き、朧げな記憶で岩穴の入口を目指した。奇妙な男と交わした会話の全てが、もしや幻だったらと思うと、気が気ではない。
「紫音……紫音!」
 治まっていた胸の痛みが頭をもたげる。不安で胸が押し潰されそうだ。
 入口の光が見え、荒い息のまま駆け寄ると、そこに奇妙ななりの男はいた。怪訝な顔をこちらに向けている。
「どうした?」
 声が出なかった。
 代わりに出たのは不覚にも涙の粒だ。
「ガキだな」
 透は慌てて目を擦る。
「言っただろ、俺はここから出られねえって。どんなに遠出しているつもりでも自動的にここに戻っちまうんだよ」
 紫音は肩に担いだ銃らしきものを担ぎ直した。それはライフルにも見えるが、もっと大きくて重厚なものだ。彼はそれを軽々と担いでいる。
 その様子を見て、透はさらに声が出なくなった。
 彼はまるで銃のような危険物を扱い慣れているようだ。あまりにも自然な動作に、危険と隣り合わせな生活をしていたということが、容易に見て取れた。どんな危険かは計り知れないが、透の小さな溜息に反応したことと言い、彼が一筋縄で行くような相手でないことは確かだ。
 頼るものが他にない状態でも、安易に彼を信用していいものなのか。透の心に初めて迷いが生じた。
「言っとくがな、俺は出口が見つかりゃ独りでも出て行くぜ。おまえのことなど構っちゃいられねえからな」
「……………」
「それが嫌なら俺について来い。独りで徘徊するより二人のほうが効率もいいだろうしな」
 透は疑わしい目で紫音を見る。
「なんだ? 不満げな面だな」
「あんた、さっき言ったじゃないか。自動的にここに戻ってしまうって」
 視線の先に固まっている少年を捉えて、紫音は苦い顔をする。
「だから? だからおまえは何もしないのか? ここから出たいんじゃなかったのか」
「でっ、出たいけど……無駄だよ。歩き回ってもどうせここに戻って来るなら、そんなの体力の無駄遣いじゃないか。この先どうなるのかもわかんないんだから、何かあった時のために体力は温存しておいた方がいい」
「ふん、勝手にするんだな。努力の真似事すらできないような奴はこっちから願い下げだ」
 そう言い放つと再び岩穴を出て行った。
 透は独り残され、それでも彼の後を追う気にはなれなかった。元の場所まで戻り、眠る前と同じように膝を抱えてうずくまる。紫音が目の前にいないせいで涙を止めることができなかった。
 いったいどうしてこんなことに――
 涙はありありと思い出を蘇らせる。
 いつもと変わりない日曜の朝だったはず。朝食の席に父も母も揃っていた。父は新聞の向こうから声を出し、母は笑いながらコーヒーを淹れた。朝食もそこそこにカメラケースを下げると、透は元気に玄関へ向かう。母の明るい声が追いかけてきた。
「透。今日はあんたの大好物の肉じゃがだから夕食までには帰って来るのよ。この間みたいに夜中まで公園にいないでね」
「わかってるよ。行ってきます」
 それが両親を見た最後だった。
 いつもと変わりない公園。違っていたのはあの子がそこにいたことぐらい。少女を見なかったことにして、いつものように野鳥を追いかけていれば、こんなことにはならなかったに違いない。
 けれど、起こってしまったことをどんなに悔やんだところで、目の前に広がる景色は変わらない。過去の透の記憶には思い当たらない風景。
 ここに来てからどのくらい時間が経ったのだろう。既に時間の感覚を失いかけている。
「夕食は肉じゃがだったんだ。食べそびれたな」
 感触的には一晩くらい経っていそうなのでそんな独り言を言ってみたが、不思議と飢えも乾きも感じなかった。思ったほど、長い時間が過ぎたわけではないのかもしれない。
 考えを廻らせる内に、無意識に側の岩に凭れかかっていた。何だか、椅子に座っているかのように心地が良かったので、思わず目を閉じる。そうすると、目を開けている時にはゴツゴツした印象だったものが、違うものに変化した。
 ここは不思議な場所だ。見た目と中身は違うものなのだ。
 いつしか、まどろみが透を捉えはじめていた。
 
 
 いつもと何かが違う、そんな気がした。
 紫音は大岩の上に登り、辺りを見廻す。遥かな地平線まで岩だらけの殺風景さは変わらないのだが。
「そういや、あれが来ないな」
 奥行きのわからない遠い空を見る。
 厳密に言えばそれは空ではない。暗く、重く、捻じ曲がった空間。紫音が元いた場所では、天に広がる空間に《空》と名づけられていたので、便宜上そういうことにしておくだけだ。
 その便宜上《空》と呼ぶものに何ら変化が見当たらないのだ。あまりにも静か過ぎる。
 何かが違う気がするのは、そのことだけが原因ではない。
 長い間徘徊するうちに、彼はこの空間がどれほど不安定なものかを知った。絶えず風が吹き、埃っぽい砂塵を巻き上げる。砂嵐に発展する時もある。風景は常に変化を繰り返し、岩穴から出るたびに経験のない場面を突きつけられた。
 今は風が凪いでいる。砂塵が動くのは紫音がそれを踏みしめる時だけだ。変化の無さにかえって戸惑う。それとも別の変化が始まっているのだろうか。
 ひと通り辺りを見廻して、大岩のてっぺんから飛び降りる。その後はひたすら歩き続けた。
 何処までも何処までも広がる無機質な荒野。歩き続けることによって、焦れた心を忘れようとしているかのようだ。
 どんなに歩き回っても元の場所に戻れないことで、最初は確かに焦っていた。が、そのうちそんな感覚は麻痺してしまった。闇雲に歩いたところで出口は見つからない。こうして歩き回るのは自分の存在を確認するため。彼には一刻も早く元の場所に戻らなければならない理由がある。そのことを決して忘れないためなのだ。
 目の前に覚えのある大岩が迫ってきた。
 その岩の下には裂け目があり、仄明るい洞窟に繋がっている。
(またか……)
 紫音は舌打ちをした。
 だが、傍らにある岩の形を目にした瞬間、紫音はあることに気づいた。今までなら起こり得るはずのないこと。その原因に心当たりができたのだ。
 険しい表情を貼り付けたまま、彼は勢いよく岩の裂け目に滑り込んだ。
 
 
 誰かが透を呼んでいる。
(母さん? またガーデニングの手伝いかな?)
 幸せな夢の続きでそう思った。
 母はガーデニングが趣味で、よく透にも手伝いをさせた。花や植木についても、いろいろとうんちくを聞かされ辟易したこともある。でも、楽しそうな母を見ているのは好ましかった。
(そうか。最初の人物モデルは母さんにしよう)
 そう思い立ち、カメラを探すが見つからない。
 と、突然、肩を掴まれ激しく揺さぶられた。
「とっ・おっ・るっ! 何回呼ばせりゃ気が済むんだ! いい加減に起きろ!」
 掴んだ手の持ち主のせいで、幸福な幻影が急速に萎んでゆく。透は目を開け憮然と相手を睨んだ。
「やっと起きやがったな。姑息い現実逃避ばかりしてんじゃねえ。来い!」
 透が声を出すよりも前に、強引に腕を掴んで引っ張って行く。透はその手を振り解けない。
「痛いな、もう! 何なんだよいったい」
 喚きながら引きずられてきたのは岩穴の入口。そこでやっと、紫音は腕を離した。
「あれを見ろ」
 紫音が指差す先に視線を送る。あまり見たくもない荒れた景色だ。
「あれが何? 別段前と変わりないけど」
「阿呆ぅ! あの岩を見ろっつってんだ」
 岩? 岩なら辺り一面ゴロゴロと転がっているではないか。
「あの岩だ、あの岩! おまえが凭れていた岩じゃないのか」
 紫音が耳元で怒鳴る。改めて見ると確かに見覚えがあるような気もするが。
「そう言われてみればそうかな? でも別に注意して見てたわけじゃないからなぁ」
「鈍な奴だな、おまえ。おまえが凭れていた岩がどうなったかその目で見ただろうが。次元の狭間に消えちまった岩が、何故ここにあるのかって聞いてるんだ」
「そんなこと僕に聞かれたってわからないよ。だいたい僕はここの現象について、いまいち理解できてないんだから」
 一瞬の沈黙。紫音の視線が突き刺さった。
「おまえが何かしたんじゃないのか……」
「それ、どういうこと?」
「まあいい。来い」
 再び腕を掴まれて、透は岩穴から引きずり出された。見るからに薄ら寒い場面が広がっている。それは透がここに来てから目にした風景と、何ら変わりがなかった。
「いつもならな」
「?」
「いつもなら、とっくにあれが来てる」
「あれ?」
「次元の嵐。おまえがここに来た時に遭遇したやつだ。稲光のようなものを見ただろう」
 それがただの稲光でないことを透は目撃している。
「あれが来ると、空間が歪み亀裂があちこちに現れる。あの稲光は次元の亀裂だ。吸い込まれたものは片っ端から次元の彼方に跳ばされ、辺りの様子ががらりと変わる。それでなくともここは不安定な場所なんだ。長い間ここにいるが、同じ景色を保っていることなんて、今まで一度もありはしない」
 ここまでは紫音の話を理解できる。透の常識というものさしを捨てれば、案外簡単に理解できるものだ。紫音が言わんとしていることも薄々解ってきた。
「それがどうだ今は。おまえが現れた時と違いがわからないほど変化がないなんてな。そんなことはここに来てから一度もなかった。俺が歩き回ってる間にあれが来なかったことも一度もないんだぞ」
 思ったとおりの方向に話が進んできた。
「おまえが原因だとしか思えない」
「何でそうなるんだよー」
 ここが解せない。何故そういう発想になるのだ。
「僕が何かやったってこと? 僕は何もやってないよ。いつもと違うからって僕のせいにしないでくれ」
「わからない奴だな。おまえが意図して何かをしたんじゃなくて、おまえがここにいることで、何らかの変化が起こったんじゃないかって言ってるんだ。おまえが現れたことでこの場所の均衡が崩れたのかもしれない」
「えっ?」
「おまえのお陰で出口が見つかるかもしれないぞ。もし見つかったら、真っ先におまえの家を探してやる」
 そう言うと、彼は前髪を掻き揚げた。
 透を見つめる紫音の目には一点の曇りも無い。言葉と違って柔らかい印象の、澄んだ美しい蒼い瞳。それは強い信念を持つ者の目だ。透にはわかる。
 透は気恥ずかしくなって視線を逸らした。
 いつの間にか迷いが吹き飛んでいる。少なくともここにいる間は彼を信用するしかない。彼の方が、この場所のことをよく理解しているのだから。
 たとえ危険と隣り合わせな生活をしていたからといって、今この場にいる紫音がそうとは限らない。彼の瞳を見た時点では、透には紫音が危険人物には思えなかった。
「とりあえず、もう一度出口を探しに行くか。ついて来いよ」
「うん」
 今度は素直に頷くことができた。
 気がつけば、あれだけ心に広がっていた悲愴感も薄れている。この状態の先輩ともいえる紫音がいるお陰か、彼の持って生まれた性分のためか。
 さすがに紫音は歩き慣れているだけあって足取りも軽い。巧みに岩の狭間を縫って先へ進んでいく。透は懸命に後を追った。
「毎日こんな風に歩き回ってるの?」
 岩陰で一息ついたところで訊いてみた。
「毎日……というか起きている間はずっとだな。日時の感覚は既にないから毎日とは言えねえ。まぁ、惑星の周りを回る月みたいなものか。この頃じゃ、岩穴の周りをぐるぐる回ってるだけのような気がするしな」
 月? 自動的に戻ってしまうということを月の軌道に例えているのだろうか。確かに月は惑星の周りを同じように回っているが、この場合どんなシステムになっているのだろう。
 なおも先へ進む。
 透の感覚では真っ直ぐに随分な距離を歩いてきたはずなので、かなり進んできたことになる。それほどまでにこの場所は広いのか。風景に変化はないというのに。
 突然、紫音が立ち止まり、視界が背中に遮られた。
「……見ろ」
 憔悴した声が言う。
 覗き込むと見覚えのある巨大な岩影。足元に洞窟の入口を従えている。
 無常にも《月の軌道システム》が働いてしまったのだ。
【境遇】へ続く
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