第29章 As tears go by


 鮎が到着したのは、クリスマスも間近になった東京だった。

 発表されていたシングルは発売直後のチャートではそこそこの位置にあったが、すぐに急落して
影も形も残ってはいなかった。

 永く雪のない冬が終わるまでに、鮎は残っていたお金で引っ越しをした。
 最後の挨拶のために、宮本未来を訪れた。
「いろいろとあったけど、あなたを応援しているわよ」
 そう言われ、握手をすることができた。

 ある雑誌に目立たないレポートが掲載された。誰も名前を知らないライターは、NAFTAが導入
されてからの中南米経済の繁栄と、それに伴う貧富の差の拡大と人権面での格差などを鋭く突いて
いた。

 世の中の大部分の人は、そんな記事に関心を持たなかった。
 もちろん鮎の目に触れることもなかった。


 年が改まるとすぐに、鮎は音楽活動を再開した。会社からは冷淡な扱いを受け、投下資金を回収
できなくてもいいように最低限の予算しか出なかったが、それでもやりなおすことはできる。

 沢井は正式にプロデューサーを降りていた。アルバム制作のために会社は別の名前をいくつか
出してきたが、鮎は水上に頼んで、とある電話番号を教えてもらった。

「もしもし」
「氏家さんですか?」

 プロデュース経験がないという彼を口説き落とし、報酬面でも会社の予算に納得してもらって就任
してもらった。

 制作には、4ヶ月かかった。
 全曲、川原鮎のオリジナル。
 『イノセント・シー』も秋に出たシングルも収録されてはいない。
 リ・アレンジした『二人の水平線』だけを、ラスト・トラックにした。

 ファーストアルバムをリリースした鮎は、ツアーに出たい気持ちを抑えて都内での小さなホールで
のみコンサートを行った。経費が少なくてすむ分、回数をこなそうとして。

 そしてまたやってきた夏が終わる頃。
 2枚目のアルバムが完成した。

 そして冬、契約の満了をもってマネージメント会社から移籍する意志を会社側に通告した。

 慰留の声は強く激しいものだった。

 宣伝費は雀の涙。メディアでの仕事もデビュー時よりも激減。そういう環境で発売されたファースト
アルバムでありながら、損失を出さない程には売れたのだ。それは大方の予想を裏切る好セールス
と言えた。

 2枚目は更にそれを上回り、一切のタイアップもないまま発売されたにもかかわらず、後からCMに
起用される曲が出ることになった。

 会社からはこれまでの楽曲の権利一切を渡さないと脅迫めいた言葉も出された。コンサートで歌う
ことも認めないと。しかし、鮎は頑として翻意しなかった。

 お金で引き抜かれるのか、などとも言われたが、鮎が移籍先に選んだのはM&Cよりもっともっと
小さな会社だった。お金のことなどまるで考えてなかった。
 理由は、ただ一つ。
 アーティストとしての川原鮎を尊重してくれるという点。
 そして契約する時に、1つだけ条件をつけた。

 手にした紙袋に私物を詰め込んだ水上が、出てきたばかりのビルを振り返る。
「これで、ここともお別れね」
 鮎も同じように見上げる。
 デビュー以来、何度となく出入りした建物。
 愛着だって、なくはない。
 水上もきっと、そうだろう。
「2年間、ありがとうございました」
「あなたは手のかかる担当だったわ」

 差し出された右手を鮎は強めに握った。

「これからも、そうだと思います」
「そうね。覚悟しておくわ」

 水上も握り返してきた。


 条件。それは、水上秋恵を鮎のマネージャーとして採用することだった。
 どうしても、一緒に来てほしい。
 その依頼に応じて、水上は会社を辞めて鮎とともに移籍することにしてくれた。


 新しいレーベルからの、新しいアルバム。それを歌うツアーが冬の終わりとともに始まった。

 桜の舞う街へ。
 雪の残る街へ。

 最後は、札幌で。

 客席には琴梨をはじめ、多くの懐かしい友達の顔があった。


 双方の代理人が交渉した結果、M&C時代の曲も歌うことはできるようになった。鮎によって歌わ
れることがなければ、権利を持っていても利益にはつながりにくいからだ。


 鮎は琴梨に3枚のチケットを送った。
 彼女のための2枚組の席と、ホールの一番後ろの席の1枚を。
 それを、どうしているか知らない彼に渡してほしいと頼んで。


 札幌で最大のホール。
 スポットライトに照らされ、汗を拭いながらマイクを握る鮎がそこにいた。

「今夜は、どうもありがとう」

 スピーカーで増幅された鮎の声よりも大きくなって跳ね返ってくる歓声。

 ローディが運んできた椅子に座り、客席が静まるのを待ってゆっくりと話しはじめた。



 ここにこうしているために、いろいろなことがあったんだ。

 何度も泣いたし、何度も失敗したよ。

 みんなの応援がなかったら、もうギターも捨てちゃって実家でお皿でも洗っていたかもね。
 私の家、お寿司屋さんだから。


  これ、見て。見えるかな?

  ブルースハープ。

  これはね、ある人からのプレゼントなんだ。

  デビューする時、いい音楽を作れるようにって、くれたの。

  いい音楽って、どんなのだと思う?

  いい曲と、いい歌詞と。それで出来上がるものだと私は思ってた。

  でも、違うんだよね。

  音楽って、私そのものなんだって、わかってきた。

  音楽をいい音楽に成長させるには、私が成長するしかないって。

  まだまだ未熟な私だから、これからも音楽を続けていくからね!



 10秒ほどもかかって鳴り止んだ拍手と掛け声。



  これから演奏するのは、まだ誰にも聴いてもらったことのない新しい歌です。

  まだ、タイトルも決まってない歌。

  新しくて、古い約束と重なっている歌。

  聴いてください。



 ピンスポットのライトにきらりと反射したブルースハーブが、澄み切った音色を流しはじめた。
 アコースティックギターとの長い饗宴。


  夏の風が吹き渡るあの日
  静かで柔らかな風が
  あなたを運んで来たのね
  何も出来ずにもがいてたあたしに
  どれだけの力を
  勇気を与えてくれたのだろう

  何も出来ず
  何もしないまま
  未来を見つめることさえ
  避けてたあたしに
  未来を見つける勇気をくれた

  あのままあたしは
  朽ち果てるはずだったかもしれない
  だけど今は違うと信じてる

  あたしには未来があって
  その未来で
  きっとあたしは輝ける
  涼しい風の吹くあの夏に
  あなたがあたしにくれたものは
  本当は未来じゃないよね

  何かが出来ると思っていたあたしに
  くれたのはきっと
  今を信じることだろう

  何も出来ないと
  何も始められないと
  自分を信じていなかったあたしに
  出来ることを教えてくれた
  きっかけをくれた

  あのままあたしは
  朽ち果ててたかもしれない
  でもあたしには
  明日があるって教えてくれた


 間奏のピアノのソロに乗せて、語りかける。


  もう、桜が咲いていたね。

  桜とは、約束があるんだ。

  いつか一緒に行こうって、約束したところがあるの。

  明日、そこに行ってみるつもり。



  明日にはきっと
  輝く自分がいる

  明日にはきっと
  輝く自分がいる






 約束の場所。

 それは、ようやく桜前線が通りがかった函館。

 『桜の季節に、もう一度こようね』
 そう約束したところ。

 五陵郭タワーが、咲き誇る花びらの彼方に立っている。

 花見客で賑わう川べりの並木道。
 帽子を被り、髪を暖かい風に弄ばせながら、彼女は歩いていた。

 ゆっくりと、風景ではなく空気を味わいながら。

 橋が見えている。
 小さな、車の通れない橋。
 欄干に寄り掛かる人影。

「よう」
「久しぶり、だね」
「そうだな」

 桜の花びらが散らばる堀の水面。
 彼らは風の立てるさざ波に揺れる自分たちを見ていた。

「髪、伸びたな」
 ぽつりと、彼が言う。
「似合うでしょ。意外と」
 もう背中に届くようになった髪を、ひとつまみして振る。
「そうだな。見違えたよ」
「そっちは、似合わないよ」
「もう2年も、この髪型なんだけどな」
 さっぱりと刈り上げた後頭部を撫でてみせる彼。

「どうしてたの。この2年」
「一旦大学に戻ってた。そして半年休学して、また戻って。こないだ卒業したよ」
「おめでとう」
「ああ。ありがとう」
「これからは?」
「いくつかの通信社と嘱託契約をしてる。また海外に出るよ。最初は南アジアになりそうだ」
「そっか」


 優しくて淡い陽差しが、ふたりの背中をほぐしてゆく。

「ねぇ、どうして私たち、別れちゃったんだろうね」

「考えたこともないな」

「私は、わかったよ」

「なら、教えてくれ」

「あたしの言うこと、なんでも聞いてくれたら」

「・・・・・OK」

「自分をおいてきぼりにしてたから。あなたを好きになりすぎて」

「もう一人、そういう奴がいたような気がするよ。恋は盲目ってのは、真理だな」

「そうだね。それじゃ、何してもらおうかな」

「・・・・・・・・」

「本当は考えてたんでしょ。そして、わかってた」

「わかってたのは、どうしようもなく馬鹿な男が、お前を好きでいたってことだけだ。
自分の弱さに耐えられなくて、一人になった馬鹿な奴だ」


「今度はもっと、うまくできるかな」
「できるさ」


「決めたよ」
「何を」
「なんでもしてくれるんでしょ」
「ああ」



「キス、して」






<完>







トップへ
戻る



鮎小説あとがき
鮎小説あとがき