第5章 至日(前編)



 12月29日。
 昨夜からの雪は止み、朝日を受けてガラスの神殿のように札幌の街全体をきらめかせている。
東京育ちの鷹条にとってはこれほどの雪はジャングル同様に経験がない。用心して歩き易い靴を
選んできたが春野家から平岸の駅に着くまでに、何度かガードレールや標識に手をかけなくては
ならなかった。
 不慣れであることも理由の一つだが、本当は心が急いて、足を早めてしまっているからだ。遅れて
いるわけではないが、どうしても歩幅が広がる。

 その点、葉野香は土産子。移動に手間取るようなことはない。地下鉄の中では、彼がマフラーを
してくるかどうかを気にしていた。デザインとか編み方が気に入らなくて、使ってくれなかったら
がっかりだ。
 自分はしてきた。ペアルックなんてのはみっともないと思うが、マフラーなら誰にもわからない
だろうし、恋人同士の気分になれる。
 彼もわからないだろう。
 あたしのしているマフラーが、プレゼントしたものと色以外すべて同じに編んであることなんて。

 鷹条は札幌駅の外に出た。
 葉野香の姿は後ろ姿だけでわかった。声をかける。
「おはよう!」
 振り向いた彼女の口元から白い吐息が洩れる。
 今になって、外で待ち合わせをした自分の迂闊さに思い当たる。寒いんだから、どこかの店を
指定すればよかったのに。
「だいぶ待ってた? 寒くない?」
「ううん。今来たから」
 葉野香は彼の喉元を見て安心した。してくれてる。それだけでも胸が満たされていくのがわかる。
好きな人が側にいてくれる一日が始まる。そう思うともう余計な考えは霞のように失せてゆく。
「じゃ、雄吾、どこに行く?」
 声も心も、空よりも高く弾む。

 雄吾としては一緒にいられればどこでもいい。でもまず、どこか暖かいところでゆっくり話をしたい。
ひとまず喫茶店に入ろう。そう思い、「アッサム」という紅茶の店を選んだ。
 なぜか入るのを渋った葉野香が、そのわけを話す。いやな思い出のせいだと。
「まあ、放っておいてくれるのが、一番いいのさ」
 そうしめくくる彼女。
「それは駄目だね」
「え?」
 雄吾の言葉に戸惑う葉野香。
「放っておけるわけないだろ。葉野香のこと。これからこうやって、二人で何度もお茶してたら、嫌な
記憶より楽しい記憶の方が浮かんでくるよ」
 真顔でそんなことを言われると、葉野香は顔を桜色にして「そういうことも、あるかもな」としか
答えられない。
 彼女の耳に残る単語。
 これから。
 なんていい響きをするんだろう。

 指先から機嫌まで温まった二人は、市内の観光名所をゆっくりと回った。
 話題は尽きない。
 夏休みの想い出。
 それから彼らを通り過ぎていった日々。
 順調な北海軒。修学旅行。クリスマス。
 葉野香が達也の野望の話をした時は、辺りに人影がなかったこともあり二人で呼吸が苦しくなる
ほど大笑いした。
「今度会う時に、思い出したらどうしよう。顔見た途端に吹き出しそうだよ」と雄吾。

 お昼にはイタリアン・レストランへ。
 葉野香は大学進学の話を切り出した。
「雄吾は、大学行くんだろ」
「入れれば」
 子羊のカツレツ・ボローニャ風の味を堪能しながら答える雄吾。
「東京の?」
 質問というより確認に期待が重なっている。
 食事の手を休めて説明する彼。
「できれば。理系でお金かかるからさ、家から通えるにこしたことはないから。でもさ」
「でも?」
「最近は、無理言ってでも地方の学校にしようかとも考えてる」
「そう・・・・・なんだ」
それじゃ、あたしが東京の大学に進めても意味がないじゃないか。そう落胆しかけた葉野香だった
が、「札幌にもいい大学はあるしさ」と彼は続けた。
「札幌って、北海大? ここに来るの?」
「そのほうがいいじゃん。行ったり来たりしてるよりも」
 彼が北海大を選ぶ理由はひとつしかない。それが葉野香には嬉しかった。今が、未来の日々と
結ばれていることが。
「・・・・・受けるの?」
「ただレベル高いんだよなぁ。あそこ。国立だし」
「じゃ、無理はよしなよ」
「え、でも」
 失望したような顔になる雄吾。あたしは彼が近くにいなくても平気だと思ったのかな。
 今度はあたしがびっくりさせてあげる。
「あたしが東京の大学に行くからさ」
 期待通り、彼は絶句している。
「そんなにいい大学には入れないだろうけど、これでもあたし、結構成績いいんだよ。それで、落ち
着いて考えてみてさ、決めたんだ。大学行こうって。これまでずっと、家の事ばかりで自分の将来
とか考えたことなかったから、大学で、やりたいことを見極めたいんだ」
 鷹条はナイフもフォークも動かさず葉野香の話に聞き入っている。
「そうすれば、その、簡単に会えるようになるしさ。そういうのって、迷惑・・・・・かな」
 大慌てで雄吾は首を左右に振る。
「大歓迎だよ、もちろん。そっか。そうなんだ。葉野香が東京か。それなら俺は地方は止めだ。東京
以外受けないぞ」
「そんな簡単に志望を変えていいのか?」
 笑って葉野香が言う。
「もう決めた。今決めた。あとは受かるだけだな。葉野香が受かってるのに俺が浪人じゃカッコ悪い
し」
 雄吾も笑った。

 続いて雄吾の希望でカラオケへ。場所は須貝ビル。ボックスに入り、分厚い曲目リストをそれぞれ
手にする。
「葉野香って、カラオケよく行くの?」
「最近、たまに友達と寄ったりする。雄吾は?」
 音楽が好きだと以前言っていたのを思い出す。
「昔はよくやったけど、ずっと歌ってなかった。こないだ久しぶりにバイト仲間と入ったよ。あ、俺、
歌下手だからそのへんは諦めてくれ」
「あたしだって得意じゃないよ。笑うなよ」
 イントロが流れはじめた。葉野香はマイクを握って立つ。

 謙遜の度が過ぎるほど葉野香の歌は上手かった。
 そう雄吾には思えた。

 雄吾が力をこめて歌うのに葉野香は驚いた。
 テンポの早いものが多い。
「知らない歌ばっかりだろ。悪いな」
 そう詫びる彼だったが、兄貴が好きで聴いているのと同じのが混じっている。以前は「やかましい」
と怒鳴った音楽だが、もちろん雄吾が歌っているなら話は別。あたしもこういうの聴いてみようかな。

 交互に歌うこと2時間。頼んだドリンクも空になり、インターホンで残り10分と告げられた。
 最後は雄吾の番だった。

 これまでと違うゆったりとしたメロディーで始まった。
「この歌は、葉野香と初めて会った頃を思い出すよ。俺にとって大事な歌なんだ」
 そう彼は言った。

 ピアノの旋律に乗って、彼は目を閉じ両手でマイクを握り、丁寧に歌いあげた。
 素敵な歌だった。

 須貝ビルから表に出た時、冬の太陽はビルの谷間に形を区切られていた。
「もうこんな時間なのか。早いよな」
 葉野香にとって、この一日ほど駆け足で過ぎた瞬間はない。
 夏にプールに行った時もそうだった。
 寒さがきついこの時期は、より一層時間が足りない。
「もうあまり遠くにはいけないな。そうだ、あそこに行ってみないか」
「どこ?」
「想い出の場所」
 途中で葉野香にもわかった。





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