第4章 Innocence & Growing up



 時刻は1時過ぎ。
 二人は札幌駅近くのレストランで遅目の昼食を取った。

 そして平岸駅へ。

 地下鉄の改札を過ぎ、地上への階段を登る。このあたりには、鷹条も修学旅行で立ち寄らな
かった。以前とはすっかり彩りの違う街に不思議な面影がある。さて、ここからが問題だ。

 雄吾には耐え難い別れが待っている。
「もうこの辺でいいよ」
 この言葉がどうしても口に出せず、おそらくは迎えに来ただけの葉野香をここまで連れてきて
しまった。

 札幌駅で別れた方が、彼女は早く帰れた。それがわかっていても、帰したくなかった。
 まだ一緒にいたかった。
 しかし、ここまでにしないと。あとは春野家まで同伴することになってしまう。その点で雄吾に異存
などないが、そこから彼女を一人で帰すことになる。万一、琴梨ちゃんと出くわしでもしたら、夏休み
のことで気まずくなるかもしれない。
 やはり、今日のところはここでお別れだ。
 意を決して、言った。
「葉野香。泊まるとこ、ここからもうすぐだから。送ってくれてありがとな」
 彼女は、足跡が重なった路肩の雪面に視線を落としていた。

 葉野香には、送っていたつもりなんかなかった。
 ただ、そばにいたいだけ。
 離れたくないからここまで来た。
 でもこれ以上は迷惑になるだろうな。
 また、明日までの長い時間が邪魔をする。
 その前に、ここでできることをしなくちゃ。
 このまま再会の日が終わってしまうなんていやだ。

 天使の羽毛のような、白いかけらが空気を揺らす。

「雄吾」
「なに?」
「・・・・・ごめんな」
「えっ?」

「せっかく会えたのに、憎まれ口ばかり叩いてたら嫌われちゃうよな」
 そんなことはない。そう瞬間的に雄吾は思った。でも、黙っていた。
「本当は、すごく会いたかったんだ」

「久しぶりに顔見たら、なんか舞い上がっちゃって、おかしいよな。あたし」

 俺だって、そうだ。

「次に会う時には、あたし、もう少し素直になってるからさ」

 もう十分、素直だよ。

「そのマフラー、大事に使ってくれよ。じゃあ、な」
 最後にそう言って、彼女は踵を帰して階段を降りはじめた。
 雄吾が反射的に声をかける。
「葉野香」
 立ち止まり、彼を見上げる彼女。
 どう言葉にしよう。この溢れる想いを。
 結局雄吾は、マフラーを握り、軽く振って、「ありがとう」とだけ言った。
 冬バラのようにしなやかな微笑みを返して、彼女は駅へと消えていった。

 それから鷹条は、春野家で暖かい歓待を受けた。夏に続いて、面倒をかけてしまうのが心苦しい
が、二人とも優しく迎えてくれた。琴梨の入れてくれた紅茶を飲みながら、夏休みの思い出やそれ
からの出来事が話題となってテーブルを賑やかにした。
 暫くすると陽子伯母さんは仕事があるということで職場に戻っていった。

 自分も部屋に行って、荷物を整理しようかと腰を上げた時、ティーカップをトレイに乗せていた
琴梨がふと思い出したように話し出した。
「お兄ちゃん。夏休みに須貝ビルに行ったこと憶えてる?」
 雄吾が忘れるはずもない。
「憶えてるよ。鮎ちゃんと3人で行った時だろう」
「あの時、ちょっと揉めた人いたじゃない」
 ぎくりとする彼。
 まさか、俺が彼女に会いに来たことを知ってるのか?
 そんなはずはない。どういうことだろう。
「・・・・・ああ、いたよね」
 嘘はつきたくないけれど、事情を話すのも難しい。無難な返事しかできなかった。
「あの人に、このあいだ謝られたんだよ」
 かちゃかちゃと陶器同士が触れ合う。
「・・・・・どういうこと?」
 琴梨はテーブルをかたしていて、雄吾の先ほどまでから急変した真剣な表情には気づいて
いない。
「あのね、あたしが鮎ちゃんと一緒にいたんだ。そしたら声かけてきて、あの時は悪かったって」
 ソファーに腰掛けたまま、鷹条は腕を組んで呟くように、「彼女の方から、謝ってきたんだ」と
言った。
「うん。そうだよ。鮎ちゃんもびっくりしてた。あの人、本当は気持ちのまっすぐな人なのかもね」
「そうだね」
 その通りだよ。いつか、そのことを君にも教えたい。
「ケンカになった時にお兄ちゃんもいたから、教えてあげなくちゃって思ってたんだ」
 彼女はトレイを持ってキッチンへ運ぼうとする。
 その背中に雄吾が声をかけた。
「ありがとう。教えてくれて」

 部屋に戻って、彼女のことを心に浮かべる。
 あえてそうしないようにするだけでいい。
 会うことができなかった一つの季節。
 街が少しずつ形を変えていく中で彼女も変わっていた。
 空港からずっと、わかってた。
 素敵になってゆく彼女と、ますます好きになっていく自分を。
 夜になったら、電話しよう。
 明日のことを二人で決めよう。


 時計が11時を指す頃、葉野香は日記帳を閉じた。
 あとは明日に備えて早く休むだけ。
 予想通り、日記を書き終えるのにいつもの倍の時間がかかってしまった。
 勉強の課題もそれに合わせて手早くこなしておいて良かった。
 正直、集中できたとは見なせないが明日と明後日は彼とのためにあらゆる時間を使いたい。
それには無理をしてでもやっておかないと。

 明日は10時に札幌駅前で待ち合わせ。
 9時でも8時でもいいけれど、お店もやってないからこれぐらいの時間になってしまう。

 電話を待っていた。
 平岸駅で帰りの電車に乗った時から、携帯が鳴るんじゃないかと期待した。冗談でかけてきたり
するかもと。

 北海軒の扉をくぐると兄貴が「鷹条君はどうした? 今日はこないのか?」と期待して言ってきた。
そういえば、誘うのをすっかり忘れていた。「そのうちに寄るよ」と適当な返事をしておいて部屋に
戻った。
 身軽な服に着替えて、椅子に体を預ける。
「ふぅ・・・・・」
 肺を空にするようなため息と脱力感。
「もう、なんでこうなんだろ。あたし」
 頬をつねった。
 呟きながら、フラッシュバックする光景を再検討する。
 へまばっかりしていたように思う。

 やっと会えた時に、あんなそっけない挨拶はないよな。
 ドラマのように抱きついたりなんてできないけど、嬉しいとか待ってたとか言えばよかった。
 用事があってついでなんて、嘘ついて。
 マフラーだって、あんなに真剣に毛糸から選んだことなんてなかったのに。
 電車の中でも、唐突な話題ばっかりだった。
 聞いてほしいことはいろいろあったのに。

 彼の言葉に、ただ「うん」と応えたたことがあまりなかった。
 心では、何度も何度も頷いているのに。
 かわいくないな。あたし。

 彼の甘い台詞を、「ありがとう」と受け止められない。
 ただのリップサービスじゃないと感じてしまうから。
 意識過剰なのかな。
 でも、彼は映画のイタリア人みたいに女に愛想を振りまくタイプじゃない。
 真面目に、あたしとのことを考えていてくれるから、優しい言葉をくれるんだと信じたい。

 別れ際に、やっとありのままの感情を言葉にできた。
 まだ、ほんの少しだけど。
 明日も会えれば、もう迷う理由なんてない。
 誰にでも、彼とつき合っていると堂々といえる。

 もし電話がかかってこなかったら。
 その時はどうしよう。
 あたしの変な態度で、愛想をつかしたってことになるのだろうか。
 たまたま明日だけ用事があるってことなのかな。
 もしかして、誰かと約束があるとか。

 雪は断続的に降り札幌を埋めてゆく。
 年末のすすきのはより一層の賑わいを見せ、騒がしい。
 対称的に葉野香の携帯は沈黙を続ける。
 何度電波の状態を確認しただろう。
 自分からかけようと思っても、できない。
 入浴の時にも防水なのをいいことに持ち込んだ。
 ドライヤーを使う時は轟音で着信に気づかないかと恐れてずっとランプから視線をはずさなかった。

 どうしてかかってこないんだろう。
 室内をわけもなくうろうろする彼女。
 壁の時計と電話を交互に見ながら。

 いやな予感がよぎる。
 そしてようやく電子音が響いた。
 机の上から奪うように掴み取る。

「はい、左京です」
 声がうわずりそうだ。お願い。雄吾からでありますように。
「もしもし、葉野香。雄吾だけど」
 ほっとした瞬間、力の抜けた右手から携帯が滑り落ちた。ガツンという音で我に返る。しまった。
「ご、ごめん。電話落としちまった」
 ああ、もう嫌になる。なんてどじなんだ、この左京葉野香ってのは。
「それで、明日なんだけど、空いてるかな。札幌の街でいろいろ歩きたいなと思って」
 よかった。誘ってくれた。もちろん予定なんて空けてある。
「明日、いいよ。予定空いてるから」

 待ち合わせ場所と時間を決め、電話を置く。
 ずっと立ったままだった葉野香は、疲れ果てたように椅子に腰掛けた。

 意味のない心配ばかりしていたように思う。
 雄吾はあたしに会いに札幌を訪れた。
 そして会ってくれる。
 なのにどうして不安になってばかりなのか。

 それは、彼の前だと無防備になるから。
 あらゆる障壁を取り外してしまいたくなるのに、虚飾のない自分を彼がどう受け止めるかが
わからない。

 でも、もう冴えない気持ちは捨ててしまおう。
 明日は、素晴らしい一日になるはずだから。
 肩肘を張らずに、好きな人と過ごせる時間を全身で抱き止めていよう。
 それだけでいいはず。
 あたしたちには、もうそれだけで。





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