第3章 黄金の時



 旅立つ者。旅を終えた者。
 そしてエアポートには旅を続ける男と待っていた女がいる。
 1000kmの距離と140の24時間に隔てられた彼と彼女の空白が、雑踏の中でそっと繋がれて
ゆく。

 黒いコートに、黒いマフラー。
 でもなによりも輝く長い髪。
 はにかんだ微笑み。
 雄吾の目の前に、世界でたった一人の愛する女性がいた。

 全身の皮膚にあたかも稲妻のように走る刺激。
 ここで逢えるとは。
 こんなに早く逢えるとは。
 逢いに来てくれるとは。
 流れた時の多さが、この一瞬に凝縮されてどこかに去ってしまうようだ。

「久しぶり、だね」
 やっと雄吾の口から出たのは、そんなありふれた科白。
 何度も思い描いた再会なのに、喉に鉛の栓がされたよう。
 震え続ける鼓動が、情熱の波と共鳴して彼を揺り動かすのだ。

 戸惑っているような彼の表情。
 もしかして、迎えにきてまずいことでもあったのだろうか。
 あたしは、失敗したんだろうか。
 どうしよう。
 なにを言おう。

 続く言葉を無くしたまま、立ちつくす二人。
 移動する人々の海に浮かぶ、時の止まった孤島のようだった。
 そして自失からようやく鷹条が復帰した。
 やっと一番伝えたい気持ちが取り出せる。
「迎えに来てくれたんだ。ありがとう」
 大げさに両手を広げて見せる。
「びっくりしたよー」
 急におかしさと恥ずかしさがこみ上げてくる。
 なんて間抜けなことやってんだろう。俺。劇的なシーンだってのに。彼女が困ってるじゃないか。
 しっかりしろよ、俺。
「元気そうだね。まさかここまで出向いてくれるなんて思ってなかったからさ。うれしくって」

 変わってない、彼の声。
 少しだけ早口で、少しだけ鋭くて、それでいて柔らかい。
 葉野香の不安は魔法のように解きほぐされてゆく。
 すると入れ替わるように、恋しい気持ちが奔流となって彼女の内的世界を覆ってゆく。
 なんか、泣いてしまいそう。
 やっと逢えた、大切な人の前だから。
 でも我慢しなきゃ。薄っぺらな虚勢を張ってでも。
「別に、迎えに来たわけじゃないよ。ちょっと用事があったから、その、ついでだよ」
 そう聞かされても雄吾は残念そうな素振りを出さない。
「そっか。でもいいや。用事ってもう済んだ?」
「す、済んだよ」
 今がその用事の真っ最中。どんな用事とか聞かれなくてよかったと思いながら答える葉野香。
「それなら札幌まで一緒に行こうよ。いいだろ?」
 自分から言い出せない誘いをしてくれた雄吾に、安堵した。
 やっばり、男だな。こういうところ。
「いいよ。じゃ、こっち」
 肩を並べて二人はロビーを歩く。

 秋に利用した時を遥かに上回る混雑ぶりで、スキー客の団体から足元を走り回る子供までいて、
まっすぐ歩けないほどだ。ゆっくり歩くのは、そのせいだけではないが。

 幾度も、こうして夏休みのように歩くのを願っていた。
 鷹条も、葉野香も。
 でも彼らはもう、あの頃の彼らではなくなっている。
 会話は「お兄さんは元気?」といった挨拶めいたものばかり。話したいことが順番に出てこない
のだ。

 ロビーから出ようとしたところで、葉野香は大事なことを思い出した。
 ちらりと彼の胸元を見る。よし、大丈夫。手にも持ってない。鞄の中にしまってあったらわからない
けれど。
「あのさ、雄吾」
 改まった口調にならないよう、声をかけた。
「ん?」
「こっからは寒いからさ、その、これなんだけど」
 葉野香がバッグから取り出したのはマフラー。顔はよそへ向けながら、片手で差し出す。
「使いなよ。北海道の冬は初めてだろ」
 月明かりに照らされた森のように、深く力強いグリーン。まるで霧のように軽く、手にした雄吾の
手のひらを命あるもののように暖かくする。
「これって、手編み? 葉野香が編んだの? くれるの? いいの? 本当に?」
 芸のないほどに質問を連発する雄吾。どんどん声が大きくなる。
「ひ、暇だったから、ついでに作ったんだよ。そんなに大騒ぎするなよ。恥ずかしいだろ」
 つい葉野香はこんなふうに答えてしまう。

 鷹条にしてみれば感動ものである。編み物のことなどなにもわからないが、「ついで」でできるほど
簡単なものにはとても見えない。細かく装飾されて、ブランド品なんかよりよっぽど丹念に編み込ま
れている。それでいて軽い。しかもこの色は・・・・・
「俺の好きな色、憶えててくれたんだな。うっれしいなぁ」
 声がチロリアン・ダンスを踊ってしまいそうな雄吾。
「たまたま、その色の毛糸が安かったからだよ。見てないで使いなってば。風邪引くぞ」
「ありがとう。では遠慮なく」
 するすると首に回してみる。
 まるで夕日が毛糸の一本一本に染みこんでいるように温かい。

 札幌へはエアポート・エクスプレスを利用する。ほどなくして背中に雪塊を背負った列車が
二人が待つホームに滑り込んできた。空の港へ来た乗客がすべて降りてから、札幌へ向かう人たち
が乗り込んでゆく。
 幸いに、それほど混雑していない。荷物のある二人は禁煙席の車両で、4人掛けに座った。
相席をするほどではないので、落ち着いて話ができる。
 葉野香はコートを脱ぎ、マフラーと一緒にフックに掛けた。
 雄吾もレザー・ブルゾンを脱いだが、手に持ったまま立って何か考えている。
「どうしたのさ」
「上着は脱いでもいいけど、マフラーは名残惜しくて」
「・・・・・バカ」

 青空から降り注ぐ陽光が、ダイヤモンドのように白い草原をきらめかせている風景。その中を
列車は札幌へと疾走する。
「学校、忙しいのか」
「そうでもないよ」
「それだったら、もっと早く来ればよかっただろ」
 強い口調に、軽く答えていた雄吾は戸惑った。
「もっと、って?」
「そりゃ、修学旅行の前は、あの時に会えばいいってあたしも思ってたから仕方ないけど、その後
だって体育の日とか文化の日とか勤労感謝の日とか、土日が連休の時だっていっぱいあっただろ」
 なるほど、そういうことか。
「ごめん。時間作れなくて」
「あ・・・・・謝られても、困るけどさ」
 俯いて視線を外す葉野香。
 向かい合って話すと、距離が近すぎて緊張してしまう。顔の見えない電話の方がまだしも自制が
できていたんだとわかった。気持ちをコントロールできずに、頭に浮かんだ言葉が口を突いて飛び
出してしまうのだ。こんなことを言いたいんじゃないのに。
 暫く続く沈黙。
 筋道の立った話が思い浮かばず、やむなく葉野香は今日2度目の風景を眺めていた。
 こっそり彼を伺うと、窓枠に肩肘をついてずっと彼女を見つめている。
「どうしたのさ」
「実物の葉野香は久しぶりだからね。横顔を観賞してる」
 さらりと言われ、どぎまぎとする彼女。
「よ、よせよそんなの。恥ずかしいだろ」
 視線を遮るように広げた手を出す。
「そうだな。じゃ今度は反対側を向いてて」
「そういうことじゃないだろ、もう」
「はいはい」
 葉野香は頬が紅に染まっていくのがわかる。
 同年代の女の子だったら、もっと気軽にこういう言葉に応じられるのだろう。でも慣れてないから
なのだろうか。動転してしまう。
 何か話してないと彼がずっと見つめていそうだ。
 世間話とか、えっと・・・・・

「こ、この汽車、速いよな」
「そうだね。札幌まで時間かからないな」
 約40分の道程なのに、すでに30分ほど走っている。カーブに入り、レールの接ぎ目でガタンと
揺れた。
「もし脱線とかしたらどうなるんだろうな」
「大惨事かもね」
「そうだよな」
 北海道では大きな事故が時折起こる。環境の厳しさのせいだろう。いつだったかトンネルが・・・・・
などと葉野香がニュース映像を思い返していると、
「でも、葉野香にはかすり傷だってつかせないぜ。そんなことは俺が意地でもさせないから」
大袈裟なことを雄吾が言い出した。
「も、もう、人前でそういうこと言うなって」

なんか、違うな。雄吾。

 夏に一緒にいた時はもっと、どこかに遠慮みたいなのがあった。よくわからないけど、慎重に
言葉を選んであたしや他の人を傷つけないようにするかわりに、本当に思っていることを隠して
いるような印象が残っている。
 これがありのままの雄吾なんだろうか。
 あたしが好きなのはどっちの雄吾だろう。
 すぐ答は出る。
 両方だ。
 でも、彼はどうだろう。
 意地っ張りでがさつなだけのあたしは、変わったところといえばただ浮わついているぐらい。
 素直になれないあたしに幻滅してないんだろうか。

 車内放送が列車の到着を予告する。
「もう、着くのか。日本の鉄道って、嫌になるくらい正確だよな」
 どこかで事故でも起こって、止まってたらゆっくり話ができるのに。
「そういや今朝はさ、羽田に行く途中で架線事故でもあったらどうしようかと思ったよ。飛行機に乗り
遅れたら最悪だからね。今なら、事故とかで止まってもいいけど。止まってたら、それはそれで
ゆっくり話ができるからね」

 冗談? 偶然の一致?

 彼が同じことを考えている。
 あたしは彼みたいにさらっと言えないけれど。
 でも同じ。
 それはきっと気持ちの底辺が重なり合っているから。
 そう思うと、肩の力がすっと抜けた。
 なにを迷っていたんだろう。
 迎えに行ったのはあたしだけだったし、彼は喜んでくれた。
 マフラーもあんなに嬉しそうに受け取ってくれた。
 ただ約束を守るためだけに、何ヶ月もバイトしてお金貯めて、ここまで来るはずなんてない。
 あとは、なんとかしてあたしが自分の気持ちに正直になれればいい。
 彼の優しさに甘えているだけじゃ駄目なんだ。

 列車は、札幌駅のホームへとゆっくり進んでゆく。
 二人の交差点がある街、札幌へ。





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