第5章 至日(後編)



 そこはビートルバム。幸い年末でも営業していた。

 二人が通されたのは偶然にも以前と同じ席。葉野香はパフェは頼まず、雄吾と同じコーヒーに
した。向かい合って座ると、しまってあった映像が風にめくられるように次々とよぎる。
 夏風に揺れる、繁った街路樹。
 市場から、不意に高鳴った胸を静めようと躍起になったこと。
 パフェラーメンなんてひどいアイディアを出したこと。
 半袖シャツ姿の雄吾。
 自分はまだ、眼帯をしていた。
 今とは何もかもが違っている。
 そうだ。
「雄吾」
「ん? やっぱりパフェ頼むの?」
 鷹条もあの時のことを回想しているのだろう。笑ってそんなことを言った。
「頼まないって。そうじゃなくてさ」
 どう、話したらいいだろう。
 たった数日の出来事で、あらゆることが期待すらしていなかった方向に変転していった。
 もし、彼と知り合うことがなかったら。
 彼があたしをかばってくれなかったら。
 北海軒のことを考えてくれなかったら。
 心からありがとうと言える喜びが、胸を熱くする。

「夏休みの時は、時間もなかったからだけどさ、うちの店が立ち直って、あたしがこうしていられる
のは、雄吾のアイディアのおかげなんだよな。それなのに、ろくにお礼も言ってなかったと思うんだ。
だから、ちゃんと言うね。ありがとう」
 真摯な言葉に驚いたように、鷹条は手を振って、
「大げさだって。俺はなんにもしてないよ。頑張ったのは葉野香とお兄さんだろ。あと奥さんと」
 謙遜なんかではなく、そう感じていたままを言った。
「ううん。あたしたちだっていろいろやったけど、雄吾の言葉がなかったらうまくいってなかった。
だから、感謝してるよ。みんな」
「俺には、たいしたことはできなかったけど、うまくいってなによりだったよね」
 雄吾は頭をかいた。

 二つのコーヒーカップが底を現すまでの間、会話はほとんど途切れることもなく、葉野香は時の
過ぎるのを忘れた。
 ふと辺りを見ると、お酒を頼んでいる客が増えていた。
 ここは夜にはバーになる。
 店内の照明もより落ち着いたものになっていた。
 高校生がいつまでも話してはいられない。
 出ないとまずいかな。
 そう思った時、雄吾が突然聞いてきた。
「葉野香は、俺のことどう思ってる?」

 耳に入った空気の振動を、意図的に再認識しなくてはならなかった。
 自分がなにを尋ねられたのか。
 そこから分析して理解する必要に迫られた。
 まるで強烈なライトを当てられて視界が白濁したように、頭の中が真っ白になっている。
 どう思うって、どういうことだろう。
 雄吾のこと。あたしにとっての雄吾。
 大切な人で、あたしを助けてくれた人。
 あたしを変えて、素直にしてくれた人。
 それだけじゃない。
 好き。
 でも、それだけじゃ足りない。
 なんて言葉にすれば、伝えられるだろう。
 好きだっていろいろある。
 想いは一つ。
 答はとっくに出ているのに、それが掴めない。

 こわばった口を開こうとしても、空気が喉から出てこない。焦りが一層、唇を重たくさせた。

 雄吾が時計を見た。
「もう、遅いな。そろそろ出ようか」
 すっと席を立ち、上着に腕を通す。手早く身支度を終えるとテーブルの伝票を取る。
「さっ、行こう」
 彼は出口へと歩いてゆく。
 葉野香は慌ててその背中を追うしかない。

 外はもう日没によって気温が下がっていた。
「もう出歩くには寒いよね。あとはまた次にしようか」
 笑顔で雄吾がそう言う。
「う・・・・・うん」
 葉野香は気まずさから、そんな返事しかできない。
「明日、函館に行こうかと思うんだけど、時間あるかな」
「あ、あるよ。時間ある」
 直ぐに返事をしないとまた失語してしまいそうな恐怖から、早口で答える彼女。
「じゃ、今日と同じ時間に札幌駅でいいよね。待ち合わせは改札のところにしよう。外寒いから」
「うん」

 地下鉄の駅で、二人は別れた。
 雄吾は何もなかったかのように陽気に振る舞った。
 でも、いまの葉野香には彼の内面が、彼が心理の奥底に圧迫する真実の彼が感じとれる。
 意図的に、彼はさっきのことが話題にならないようにしているのだ。
 ちゃんと想いを伝えたい。
 でも、路上や混雑する地下鉄の駅でそんなことを言うべきではないようにも思える。
 結局、葉野香が言葉にできたのは一つだけ。
「また、明日」
 鷹条は無言で頷いた。

 全身に雪が積もってしまったような重い足取りで、葉野香は帰宅した。
 お帰り、という兄夫婦の挨拶にも生返事だった。
 自室への階段を登ろうとした時、思い出した。
「兄貴、CD借りるよ」
 そう言い捨てて階段を駆け上がり、兄の部屋へ入った。山のようなCD。整理されているのは
義姉がしっかりしているから。
 指を追って捜す。曲名は憶えている。でも誰の歌かはわからない。アルバムのタイトルになって
いなければ全部ひっくり返してでも探すつもりだった。見つからなかったら、レンタルショップに
急ごう。

 あった。

 ケースの裏、曲目を確認する。この歌だ。1曲目。
 それをラックから抜き取り、自分の部屋へ取って帰す。
 上着もマフラーもそのままに、電灯にもストーブにも目をくれず手探りでミニコンポの電源を入れる。
 廊下の電気だけが差し込む暗い部屋に流れ出したのは、カラオケで雄吾が最後に選んだ歌。

 夏休み、雄吾はあたしが眼帯をしていることをミュージシャンに例えた。
 あんな態度が間違っていることを伝えようとして。
 あたしに気づかせようとして。
 今日のあの歌も、ただいい加減に選んだわけじゃないのかも。
 あの歌だけは、どこか違っていた。
 他の歌のように、歌うことを楽しむような遊びじゃなかった。
 彼の姿ばかり追っていて、歌そのものをよく聴いていなかったのが悔やまれる。
 瞼の裏に、流れるテロップには見向きもせずに歌いきった彼の横顔が浮かぶ。
 そう、彼はあたしに聴いて欲しかったんだ。


  蒼い雲が河を流れる此処は僕等の最後の世界
  木立に透けて見える初夏の陽差しと甘い憂鬱
  押し寄せる何もかもまるで夏の雨のように
  独り何処かに隠れて生きてゆけたかな

 蒼い雲。
 初夏の日差し。
 最後の世界に雄吾はいた。

 雄吾だけがいたんだ。

 葉野香は机のスタンドを灯した。
 部屋の扉を閉め、椅子に腰掛けて歌詞カードを開く。


  顔を背け何も信じなかった
  昨日までのことがまるで夢のように遠い

  きっと君も僕と同じように
  ひとりぼっちの日を歩き続けてきたんだろう

  行ってしまうよ 行ってしまうよ
  僕が泣き出さないように
  君の腕の中に強く抱きしめておくれ
  行ってしまうよ 行ってしまうよ
  僕が泣き出す前に
  君の腕の中に強く抱きしめておくれ


 演奏が終わり、彼女はリモコンでCDを停止させた。
 やっと、わかった。
 どうして彼がこの歌を最後に歌ったのか。
 大切な歌なのか。
 出会った頃を思い出すのかが。

 彼はずっと、あたしと同じだったんだ。
 独りで札幌にやってきた理由を彼は口にしない。
 一度だけ尋ねた時も、曖昧にした。軽く受け流そうとした。
 でも重大な何かが東京であったからこそ、一人でこんな遠くの街へ旅立って来た。
 独りで隠れて生きてゆく。それこそ昔のあたしが願ったこと。
 全てを投げうって自分を苦しめる世界から逃げ出したかった。
 そして彼がこの街で望んだのは、自分を流刑にすることだったのかもしれない。

 そう、あの頃の彼はひとりぼっちの日を歩き続けていたんだ。
 あたしがそうだったように。
 そしてきっと、今も。

 彼はあたしを孤独の牢から連れ出してくれた。
 なのに今夜、手を差し伸ばしてきた彼になにもできなかった。
 彼はとても強い人。そういう姿を何度も見ている。
 でも彼にだって、独りきりで眠れない夜を過ごすような弱さがきっとある。
 今が、その時だとしたら、あたしが彼を支えなくちゃいけないんだ。

 あたし、バカみたい。
 自分だけ楽しんで、それで雄吾が満足してると思ってた。
 そうじゃないんだ。
 彼はまだ、なにかに縛られている。
 このまま彼を東京には帰せない。

 明日は、この気持ちをありったけ伝えよう。
 彼が素直にしてくれたあたしなら、きっとできる。

 もう一度、歌詞カードを読む。
「行ってしまうよ」
 あたしが言葉にできなければ、明日が最後の日になってしまう。
 勇気を出そう。彼のように。





トップへ
戻る