第6章 Piano on the road



 葉野香は飛び起きた。
 上半身を起こし、朝の冷気で湿った自分の部屋を見回す。
 なにもおかしなところはない。
 乱れた呼吸と鼓動が静まるまでの間、何度も悪寒が走った。両方の手の平を額に当てて、枕へと
後頭部を落とす。
 夢だったのだろうか。暗灰色に濁る、歪んだイメージはもうどこかに去ってしまった。
 歯を鳴らすような形容しがたい不安が彼女を襲ったのだ。
 時計は5時半を指している。まるで眠った気がしない。アンバランスな振り子のように、半覚醒の
まま体を横たえていただけなのだろう。
 少しでも眠っておこうと布団の中で体を丸めた時、固いものが腰に触れた。
 そうだ。
 もぞもぞと取り出したのは彼から渡された時計。手に持ったまま考え事をしていて、そのまま睡眠
状態になってしまったのだ。
 静かに針は進む。
 時計を握ったまま、葉野香は目を閉じた。


 朝の札幌駅は大混雑だった。帰省客を押し込んだ列車が次々とホームに入り、疲れ気味の家族
や学生を北海道に散りばめてゆく。時間にまったく違わずやってきた雄吾を葉野香は不器用な笑顔
で迎えた。

 鷹条雄吾に、変わりはないように思えた。

 函館行きの列車も当然のごとく満席だった。
 彼らは観光中だという熟年の夫婦に窓際の席を譲り、通路側で向かい合う。

 雄吾は黙っていたわけではない。
 小声で時々思い付いたようにちょっとしたことを話す。
 その姿は辺りの人に気を使っているようにもとれる。以前の葉野香だったらそれ以上のことを
感じることはなかっただろう。
 微笑と優しさ。
 その陰にある閉ざされた彼を。
 静かに海を見ている彼の横顔は、立ち枯れてしまった樹木を連想させるものがあった。

 そっと彼を見つめて、葉野香は思う。
 雄吾はこの二人の瞬間になにを求めているのかと。
 それをあたしは持っているだろうかと。
 そこまで考えて、真っ黒な可能性に思い至った。

 昨日のあたしの態度、あれをノーのサインと受け取ってしまったのだろうか。
 もう気持ちは醒めてしまって、デートとかそういう意図じゃなくて一緒にいるという感覚なのかも。
 だとしたら、あたしにできることなんか残っていない。
 わかったつもりになっていて、なにもわかっていないとしたら?
 みんな勘違いだったら?
 列車と共に揺れる体のように、思考はふらついてばかり。
 勇気を出すんだろ、左京葉野香。しっかり。
 何度もそう言い聞かせた。

 賑わう函館の街に降り立った二人。
「さて、最初はどこに行く? リクエストはある?」
 遅目に車両を降りた彼らが改札を出た時には、同じ列車でやってきた観光客はもう名所へ散って
いた。周囲に人がいなくなった途端、彼は冗舌になった。
「え・・・・・と、雄吾の行きたいところでいいよ」
「じゃ、まずは五稜郭。あれが見たいんだ。函館ならあれと北島三郎だろ? 葉野香は行ったこと
ある?」
 突然昨日のペースに戻った鷹条に戸惑い気味の葉野香だった。

 生タコの刺身を食べたり、朝市を覗いたり、港で船を眺めたり。
 あんな出来事がなかったように快活な鷹条の態度に、ついつい葉野香も巻き込まれていった。
 夏の時もそう。
 眼帯を外していて不安だったのに、一緒にいるだけで後ろ向きの気分が足跡の一つ一つと共に
置き去られてゆく。
 心の底に決意を残しつつも、目の前の危うい関係が壊れてしまうのが恐かった。
 だから言えなかった。

 西に傾いた太陽に誘われて、彼と彼女は函館山へ向かう。

 ロープウェイの乗客は、カップルばかり。
 めいめいに肩を抱き、腕を組んで、始まったネオンライトのショー・タイムを待っている。
 雄吾と葉野香は、何も話さず彼らと反対側を向いていた。

 ゴンドラがゆっくりと駅へ到着する。
 いい場所を確保しようとする男女が足早に出てゆく。
 最後に、ゆっくりと歩く二人は取り残されているよう。

 もう空は紫に染まり、無数の色彩で輝く函館は舞台の幕を上げている。

 人混みを避けるように、雪の残る斜面を登る彼ら。

 雄吾が立ち止まる。
 眼下の芸術を讃えるように、「綺麗だな」と言う。

「うん」

 また、葉野香は言葉に詰まった。
 もし伝えられなかったら、もし失敗したら、この人を失ってしまう。
 その恐怖が彼女を苛む。
 勇気。そう。あたしには雄吾がくれた勇気があるはず。
 だから、別れる時に「待ってる」って言えたんだ。
 あの時は、札幌の夜景が背中を押してくれた。

「雄吾」
 彼は黙ったまま葉野香を見る。

 彼女はこれまで扱うことができずにいた想いを解放した。
 もう、迷いも恐れもなかった。



  あたし、函館の夜景って初めてなんだ

  決めてたんだ
  ここは大切な人と来るんだって

  函館には何度も来たけど、この夜景は、とっておいたんだ

  一緒に、見たかったから

  雄吾が東京に帰ってから、ずっとつらかった
  一人でいるのが寂しかった

  いつでも雄吾のことばかり、考えてた
  待ってる時間が終わらないようで、恐かった
  雄吾のことを何も知らないまま、もう逢えないんじゃないかって

  だから、嬉しかった
  こうして逢えたのが

  なのに、あたしってだめなんだ
  意地張って、変なことばかり言って、素直に気持ちが出せなくて

  本当に言いたいのは

  あなたが好き

  それだけでいいんだよね

  あなたのことが大好き

  それだけがあたしの気持ち



 瞳を潤ませ、懸命に言葉を紡ぐ葉野香をじっと見つめていた鷹条。
「俺も、好きだよ。葉野香が」
 潰していた暴竜の如き感情が鍵を弾け飛ばしたように、そう答えた。
 しかし。
 唇が小刻みに震えている。それは寒いからではない。
「でも俺は、お前の望むようなやつじゃないんだ」
 そう言って、ゆっくりと首を左右に振った。
 まるでそうしなければいけないと定められたように。

 葉野香には、わかった。
 ここで、もっと踏み込まなければならないことを。
「あたしは、雄吾が好きなの。雄吾のどこかが好きなんじゃないし、今の雄吾だけが好きなわけでも
ないの。あなたがどんな人だっていい。信じているから」

 そう言って葉野香は雄吾の左へ立ち、腕を取って組んだ。彼の腕は、震えていた。
「寒いの?」
 更に震えが強まる。じっと、彼は星の降りしきる夜空の一点を凝視したままだ。
「違う」
 長い沈黙。そして、砕けそうな精神から流れ落ちる断末魔が洩れた。
「恐いんだ。信じるってことが」
 一瞬だけ、葉野香の瞳を見た雄吾は視線を地面に落とした。
「君が俺を信じてくれるように、俺も君を信じたい。もう、黙っていることはできないから。でも本当の
俺のことを知って、君が去ってしまうことが恐いんだ」

 鷹条自身、もう呪縛から逃れることができていると思っていた。
 今、はっきりとわかった。
 そう思いたかっただけなんだと。
 自分の気持ちを、それが不可能であることをどこかで認識しながら、信じこもうとあがいたに
すぎないことを。
 積極的なセリフを吐いたのも、「俺は葉野香が好きだ」と自己を制約することで逃げる余地を
なくそうとする臆病さの発露だった。

 しかしこうして彼女の純粋な想いを手に取ろうとすると、どす黒く汚れた自己の醜さが際だって
感じられる。
 泥に塗れた俺が触れることで、大切な人をまたも打ちのめしてしまうことに畏怖するのだ。
 弱々しく呟く。
「俺に心を委ねる人は傷つくんだよ。俺は俺自身のことすら信じることができないんだ」

 ぎゅっと彼の腕を抱き寄せて、はっきり葉野香は言った。
「じゃあ、もっと強く信じて」
 夜だけの宝石が、彼女の瞳から決意を浮かび上がらせた。
「あたしももっと信じるから」

 ゴンドラがゆっくりと地上へ降りてゆく。
 長い時間が、さよならも言わず去っていった。

 もう人影もまばらになったこの世界。
 やがてかすかに聞き取れる声で、雄吾は語りはじめた。





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