第23章 リフレインだけがそこに



「そして、鮎とも、もう会わない」


  もう会わない
  もう会わない
  もう会わない


  誰と?
  誰が?
  誰と誰が?


  邦彦さんが。
  あたしと。
  もう会わない?


  そんなのって、ありえない、ことだよ。


  冗談?
  なら、許してあげる。
  だから笑って、「驚いたか?」って言って。

  笑って。
  笑って。
  笑ってよ。

  あたしは、笑えないから・・・・・



 モノトーンになった世界で、彼の横顔を凝視する。

「俺たちは、もう一緒にいるべきじゃないんだよ」

 呟くように、乾ききった唇を震わせて、邦彦は続けた。

 その声が、絶えそうで。
 このままだと、二度と温もりを感じられないようで。
 鮎は彼の腕にしがみつくようにすがった。
「そんなのって、わかんない。わかんないよ」
 でも、彼は鮎に顔を向けてくれない。

 細い肩を抱きしめてしまうから。
 頬に手を添えて、これからら浮かべる涙を拭ってやってしまうから。

「俺がいたら、お前の邪魔にしかならない。このままでいたら、鮎、お前が失うものが多すぎるん
だよ」

 ふるふると、うつむいたまま鮎が首を振る。
 ゆっくりと噛みしめるように訴える。

「なにも失くしたりしないよ。邪魔になんてなるわけない。あたしたち、ずっと一緒にいられるよ。
こんなに、そばにいてほしいんだから」


 そばにいてほしい
 だからこそ、いてやれない


「俺はな・・・・ 俺は、『イノセント・シー』っていう歌が、大嫌いだよ」


 思いもよらなかった科白に、絶句する鮎。

「テレビで聞いた時から、嫌いだった。買ったシングルも一度しか聴いてない」


 6月の薫風がコードをつないでくれた時のことが、まざまざと思い出される。どうしてもあの情景と
彼の言葉が重ならない。あんなに優しく微笑んでくれてたのに。

「嘘。嘘。だって、あれは邦彦さんと作ったんだよ。あの時、ここで。どうして、どうしてよ」
 彼の腕をむずかる子供のように引いて、問いかける。

「詞が嫌いなんだ。あれを歌っている鮎も嫌だ。あんなのを歌うお前を見たくもない。曲は、好きだ。
最初から好きだった。鮎の歌だって好きだった。札幌で初めて聴いた時からずっとだ。
ずっと聴いていたかった。
でも、あの歌を歌うお前は、俺が好きになった鮎だとは思えないんだよ」


 赤裸々に、秘めていた感情を告げる彼。すべてが真実の思いだった。

 『イノセント・シー』発売の日。
 本当は鮎のために、10枚でも20枚でもシングルを買ってやりたかった。
 たった1枚しか手にしなかったのは、こみあげる嫌悪感のせい。
 買ってしまえば、鮎への気持ちが揺らぐような気がして。
 どんどん川原鮎の大切な部分が失われてしまって、
 いつか別の人格になってしまうようで。

 歌いたいことを思うように表現できるようにと、詩作に助言をした。
 吸収して、変わってゆく鮎に成功してほしいと願っていた。
 そうして変わってゆく鮎をどんどん好きになれるから。

 でも、それは望んではいけないことだった。
 鮎が歌手であり続けるためには、そんな古びた詩を書いていてはいけないとわかった。

 このままでいたら、鮎の生み出そうとする音楽は受け入れられることなく死んでゆくだろう。
 そして、鮎は歌を聴いてもらえなくなる。

 だから、この結論を出した。
 彼女の元から去ろうと。


「・・・・・あたしが嫌いなの?」

 窒息しそうなほど狭まり苦しい喉から、かぼそく震えた声。

「あの歌のせいで、あたしまで嫌いになったの?」

 邦彦は握っていた拳を解き、袖を掴む彼女の手に乗せた。
 震えが、伝わってくる。
 彼の震えも伝わっているように。

「鮎、それは違う。俺はお前を愛してる。お前がどこでなにをしてようと、それは変わらない。
だけど・・・・・ もう、これからのお前を、見ていられないんだ」

 邦彦の掌の下で、ぐっと握られる鮎の白い手。

「そんなの嫌。だったら、音楽なんてやめる。もう歌なんて歌わない。
それなら、それならいいでしょう?」

 彼にはわかっていた。
 彼女がこう言うことは。
 彼女の想いが灼けるほどに熱くて。
 愛おしくて。
 この一途さすら受け止められない自分の小ささが、泣きたいほど悲しかった。

 だから、叱るように突き放す。
 自分自身を突き放す。
「いいわけないだろ!
 やっと掴んだ夢だろう。
 ずっとそのためにやってきたんじゃないか。
 そんな簡単に捨てちまっていいのかよ!」

 鮎が額をぐっと邦彦の腕に押し付け、前髪を乱しながら首を振る。

「かまわないよ。そんなのかまわないよ。だって、邦彦さんがいたからやってこれたんだよ。
一人でなんて、できない。一人になんてなれない。
邦彦さんがいてくれないと、駄目だよ、あたし・・・・・」



 いつも俺の前でだけ、無防備に弱さをさらけ出していた彼女。
 カトリックの神を信じるものが告白をするように。
 俺を愛して、心を預けて、不安から護られて。

 もう、解き放なくちゃならない。
 彼女に必要なのは涙を掬う手袋じゃなくて、新しい靴だから。
 歩いていけるはずだから。
 俺がいなくても。
 俺かいなければ。

「詞が書けなくなってるのは、俺のせいなんだよ。わかってないだろう。
俺のせいで、お前の感性が変わってる。
このままでいたら、お前の夢は潰れちまうんだよ。
お前の歌も、歌えなくなるんだよ。
でも、そんなことは、させない。
お前の夢を叶えるって、俺は決めてたから」


 ついに決意が、ほんの僅かだけためらいを越えて邦彦を司る。

 重ねてある手に少しずつ力をこめる。
 その手を、離してくれと。

「だから、さよなら、なの・・・・・?」

 最後の抵抗の言葉。

「他に、俺にできることはないんだよ」

 徐々に鮎の腕から力が抜け落ちてゆく。
 彼の袖をずるずると滑り、やがて冷たい金属のベンチに力なく横たわる両手。

 この秋最初の落葉。
 春の瑞々しい緑から、老い、生命を失い、大地に墜ちる。

 彼の住む街が桜の花びらで迎えてくれた4月。
 窓を開けるだけで彼を近くに感じられた5月。
 挫折の深淵から軽々と連れ出してくれた6月。
 遥かな街にいても居場所を守ってくれた7月。
 想いが擦れ違うのを防ごうとしてくれた8月。

 終わりがあるなんて思いもしなかった。
 季節が巡るように愛もまた巡り、木枯らしもいつか雪を融かす風になると。

 だが冬の前に塵に帰す運命に縛られた落葉のように、 二人の至純は果てなくてはならなかった。

 邦彦は立ち上がる。
 言い残したいことはとめどなく溢れてくる。
 だから、彼は膝に顔を伏せたままの彼女にこう言った。

「今まで、ありがとう」

 そして歩き出した。
 公園の出口へと。
 そして、もっと彼方の、崩れそうな空の真下へ。


 その最後の姿だけが、顔を上げた鮎に見えた。
 コップの向こうにあるように歪んで、ぼやけて、幻想のように遠くて。

 こみあげた涙が喉元を濡らす。
 心の声で、救けてと彼の名前を叫んだ。
 それだけしかできなくて。
 どうしたらいいのかもわからなくて。

 樹々に吸い込まれるように、彼の背中が霞んで消えた。

 それが川原鮎と冴木邦彦の軌跡が分岐する瞬間だった。


 離れてゆく。

 ただ離れてゆく。







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