第24章 銀杏並木と空白


 陰鬱な朝だった。

 ピースの一片を外しただけで、低い空が粉々になって灰色の雨滴となって降り注ぎそうな曇天。
目覚めたばかりの都心はいつものように、無秩序な雑音と電化されたコマーシャリズムで彩られて
いる。
 影を落とす高速道路。
 足元を微細な震えを伝える地下鉄。
 トラックが交差点を走り抜け、湿って汚れた空気を泡立たせる。

 くるぶしに無形の鎖が巻きついているのか。
 堅いはずの歩道が、水草が繁るぬかるみのよう。
 足にかかる負荷は肩から下げた鞄と楽器のせいだけではない。
 萎れた向日葵を連想させる、短い髪を垂らせた姿。
 それが、川原鮎だった。


 あれからどれぐらい時計の針は回っただろう。
 スタジオに詰めている沢井の元へ、歌詞の原稿を持っていってから。

 邦彦から別れを告げられてから。

 あの日が過ぎてから、ただひたすらにペンと紙の世界に埋没しようとした。
 理由なんて、わからない。
 虚構の世界を周囲に積み上げることで、現実を遮蔽しようとしたのか。それが自分にできる唯一の
ことだったからか。しなければいけないことをすることで他の事を考えないようにしたかったのか。

 でも。

 心のアルバムばかり眺めて。
 どうしようもなく苦しくて。
 前触れもなく涙がこぼれて。
 なにもかもそこにはなくて。

 それでも書き続けた。

 もがき、のたうつインクが、薄汚く滲んでいた。


 ぱらぱらと成果に目を通した沢井は、ノートごとゴミ箱へ投げ捨てた。コントロールがいまいちで、
壁に当たって床に落ちた。無言のまま、拾いに走ったのは水上だった。
「君はなにをやってるんだ」
 怒鳴りつけたいのを寸前で制御しているかのように、険しい表情に沸騰せんばかりの苛立ちが
こもっていた。
「何って、あたし・・・・・」
 棒立ちのまま、うろたえる鮎。
「悪くなる一方だ。言葉ばかり多くて意味不明。支離滅裂で、くとくどと長ったらしく、退屈。こんな
ものを使えるわけないだろう」
 何か答えようとする鮎だが、唇だけを安物の玩具のように上下させるだけ。
「君は書きたいものを書いているだけなのか? そんなのは、素人が遊びでやることだ。プロなら、
求められている仕事をしろ。できないのか。それともやる気がないのか?」

 心の中で認めるしかない現実。
 できないし、できそうにないという現実を。

「俺は、君のデビュー前の歌を聞いてプロデュースの仕事を受けることにした。やっていける才能が
あると思ったからな。だが、こんなものしかできなくなってるというなら、俺は降りるぞ」
「沢井さん、それは・・・」
 とりなそうとする水上を、腕を一振りして遮る。
「君は口を出すな。わかってるだろう」
「・・・・・はい」
「期限まで、もう時間がない。次までにできなければ、作詞家に頼む。わかったな」
「・・・・・」
「返事は?」
「・・・・・・・・はい」

 来月には次のシングルを発売することになっている。そしてまた、プロモーション活動をして、部屋
に帰る日々が始まる。
 監獄よりも精神を閉ざすあの部屋へ。
 寒々としたフローリングの床に膝を抱えるしかない空間へ。
 新しい思い出はもう生まれない場所へ。

 それでも帰るところはほかにない。地下鉄の駅へと降り、切符を買い、閑散とするホームへ歩く
のはただの慣性による行動だった。

 コートを着込んだサラリーマンに混じって、がらがらの車内の、隅に腰を下ろす。
 途中でJRに乗り換え、中央線へ。
 ラッシュ時には非人道的なほどに混雑するのだが、朝日が昇ったばかりのこの時間なら、どこでも
好きなところに座ることができる。

 鮎は、その中でも最も乗客のいない先頭車両を選んだ。
 孤独が怖いのに、孤独でいたくて。

 そして20分ほど。
 次に止まるのは国立駅。
 反応の錆びて強張る体を、手摺に掴まって押し上げる。

 降りたのは、昇降口から遠く離れたホームの端。
 先頭車両に乗っていたからだ。
 群衆の最後尾からも遅れ、取り残されて歩いてゆく。

 おぼろげにしか捉えられない、いつもの風景。
 右側からは、駅前のロータリーが望めた。
 「国立駅」とある白い案内板。
 2脚のベンチ。
 自動販売機。
 改札へと降りる階段。
 いつもの、下りのホームでしかない。

 そして、立ち止まる。
 立ち尽くす。

 反対側のホーム。
 東京行きのホーム。
 そこに、彼がいた。

 4本のレールをまたいで、手を伸ばせば届きそうなほど
 目の前に、彼がいた。
 じっと鮎を見つめて。

 帽子を被っているけれど、髪が短くなっているのがわかる。
 薄手のブルゾンのポケットに両手を入れて、立っていた。
 そして大きな、大きなナップザックを背負って。


 あれは、この街を離れる時の姿。

 旅に出る姿。

 ずっと前から聞かせてくれていた夢へと、歩いてゆく姿。


 今日、発つんだね。
 胸の中で、尋ねる。

 彼の視線が、そうだと頷いていた。



 彼もこんな風に、あたしが夢に歩いてゆくのを見ていたんだろうか。
 こんなに寂しく、悲しく、切ない想いで。

 やがて、オレンジ色の電車が上り線へ滑り込んでくる。
 ぼやけた窓と車体の向こうに、彼が霞む。

 一斉に開く乗車口。
 躊躇なく乗り込み、閉じられたままのドアの窓から鮎を見つめる彼。

 発車を告げる警告音。
 別離を描くどんなバラッドよりも愁いて響いた。

 ひと揺れして、車両がゆっくりとホームを離れ始める。

 少しだけ、彼が右へと顔を向ける。
 鮎を見続けるために。
 そして、音もなく唇だけが動いた。


 鮎の唇も、同じように動いた。


 『愛してる』



 二人を引き離そうと、列車は速度を上げる。
 もう、人影すら判別できない。
 なにもかも残像になって。

 冴木邦彦は、ホームが視界から消えるまで、
 川原鮎は、車両が黒い点になるまで、
 互いの瞳に瞬間が永遠に刻まれるまで、
 静かな、さよならを続けていた。


 さよならが終わるまで、二人は恋人でいられるから。




 そしてこの日、この街でもうひとつのさよならがあった。

 電柱や商店街に貼られたポスター。
 今日の日付が記されているそれは、宮本未来の通う音大の学園祭のものである。

 午後1時。
 学内のホールに、黒いドレス姿の宮本未来はいた。ステージの袖から何度も観客席を窺って彼を
探していた。一緒に演奏するベーシストやサックスマンとの打ち合わせも上の空で、しっかりしてくれ
よ、とからかわれて。

 やがて、照明が落とされる。
 彼女たちの時間が刻々と迫るが、彼の姿はもう見分けられない。

 ゆっくりと、重厚な幕が上がる。

 彼女は光のカーテンで見えなくなった向こう岸に彼がいてくれると願って、黒鍵と白鍵に情熱の
ありったけを込めて両手を舞わせた。

 好きになってはいけなかった人だと思えば思うほど、きゅうっと収縮する心臓。
 どうしても振り向いてほしくて、この日に賭けた。
 彼と彼女に別れが必然のものなら、きっとここにいてくれる。
 孤独でいるより、私を選んでくれる。
 きっと。


 終演してから後始末もそこそこに、着替えた彼女はあの喫茶店へと急ぐ。
 カーテンコールの時にも、彼の姿はなかったようだった。
 でも、あの席で待っていると願った。

 パンプスが駆け込むように店内へ。
 「いらっしゃいませ」という声を無視して上のフロアを視線で一周する。

 そこには、誰もいない。

 早く来過ぎただけ。
 息を切らせたまま、彼女は階段を登る。

 テーブルに、花束と白い封筒が待っていた。
 「冴木 邦彦」という署名。

 立ち尽くす彼女。
 冷水のグラスとメニューを持ってきた顔見知りのウェイトレスが、訳知り顔で話しかけてくる。
「それ、手紙の方は男の人が持ってきたのよ。昨日。この時間になったら、この席に置いておいて
くれって。花束は、ついさっき花屋さんが届けてくれたんだけど」
「そう、ですか」
 呟く宮本。
 表情を不審気に見やる店員。
「・・・・・座らないの? 邪魔だったら、花束下で預かっておくわよ」
「いえ、このままで。このままにしてください」
「では、ご注文が決まったらお呼びください」
 最後は仕事の口調になった。

 椅子を引き、すとんと落ちるように腰を下ろす。
 ただ封筒を凝視するだけで。

 読まなくても、伝えたい返事がわかってしまうようだったから。

 嗅覚をくすぐる芳香と、コップの氷の融ける音だけを彼女は感じていた。

 ためらって、ためらって、そして封を切る。


 初めて受け取る、冴木邦彦からの手紙。
 最後にしたくない。

「今日は都合が悪くて行けないけど」
「君の演奏はとてもよかったよ」

 そう記してあってほしい。

 違う言葉がそこにあるのは、わかっているけれど。


  宮本 未来さん

  今日のステージは、きっと成功したんだろう。
  おめでとう。
  だけど、俺はそれを目にすることはない。

  君がこの手紙を読む時、俺はもうこの国にはいないから。

  俺と鮎の関係は終わった。
  でもそれは、君のためではないんだ。

  鮎のために俺は別れることを選んだ。
  鮎と俺のために、国を出ることにした。

  俺は鮎が好きだ。
  鮎だけを愛している。
  それぞれの道をゆくことになっても、この気持ちは変わらない。
  だから君に応えることはできない。

  でも俺は弱い人間だから、このままでいたら君の気持ちに甘えてしまうだろう。
  それは君を傷つけるだけだ。
  愛していないのに、愛している人がいるのに、君の愛情を求めてしまうのだから。

  君を傷つけることしかできなかった俺を、憎んだままでいい。
  それが代償になるならば、鮎に救いが必要になる時に、手を差しのべてあげてほしい。

  本当に、すまなかった。

  さよなら。



  君が素敵なジャズ・ピアニストになれることを信じている。

                                              冴木 邦彦







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