第25章 スクリーンはひび割れて


 その日最初のため息は、白く霞んだ。

 時間は、午後5時過ぎ。
 コンクリートとアスファルトで塗りつぶされたこの街では、秋の星座なんて見つけることはできない
けれど、灰色のもう暮れようとする空が過ぎた季節のことを思い起こさせる。

 鮎はシングルのレコーディング作業を終えた。
 第2作ではカップリング曲も、会ったこともない人の言葉を心をこめて歌うことになった。
「君の詞には、もう期待しない」
 最後に沢井に見せた歌詞の反応が、こうだった。

 どうしてかデビューの時よりも順調に済んだレコーディング作業。
「一人にしてください」
 歌い終え、そう水上に言い残して階上のテラスへ出た鮎。
 いつも以上に、都会の腐った匂いが鼻についた。

 そうしなければ立っていられないかのように、手摺に腕を絡める。手の平が灰色の粉塵で汚れる
のもかまわずに。
 そう。
 かまいはしない。
 汚れてしまったって。

 これが、プロのやることなんだろうな。
 プライベートで何があっても、鍛えた技術で仕事をこなす。
 浮かんでくる気持ちをことごとく切り落としてマイクの前に立っていたら、OKが出た。
 これからも、そうしていれば、いいんだろう。


 もう、どうでもいい。
 だめならだめで、やめるから。


 そうすれば、邦彦さんも会ってくれるはず。
 彼のせいじゃなくて、あたしのせいで、音楽をやめるんだから。

 もう歌手になったんだもん。
 いじめられてたチビの川原鮎が、テレビにまで出て、歌って、有名になった。
 充分だよ。
 歌手になりたくて、歌手になって。歌手であり続けたいとまで願っていたわけじゃない。

 あたしだって、やればできるって自信がほしかった。
 なにもできない弱虫じゃないって思えなければ、道を歩くだけでも怯えていなくてはならないから。

 このまま活動していても、どうせ何年かしたら飽きられて売れなくなって、おしまいになる。そんな
ことのために、彼を失ってしまうなんて到底割に合わない。

 もう、やめよう。

 契約はまだ1年以上ある。
 シングルもアルバムも、予定の枚数を出さなくてはならない。
 出さなかったら、お金を請求されるのかな。
 そのまま移籍しようとすると、お金がかかるって聞いたかな。
 だったら、いいや。
 移籍じゃなくて、終わりにするだけなんだから。権利もなにも、いらない。
 「イノセント・シー」なんて、どこかに捨ててしまいたい。


 背後で蝶番のきしむ音がして、下へと続くドアが開いた。
 鮎は振り向きもしない。
 誰なのか、わかっていたから。
 がちゃりとドアの閉まる音と近づいてくる足音が交差する。

 水上は後ろ姿へと話しかける。
「泣いたの?」
 深く細く長い吐息。
 そしてかすかに首が振られた。
「いいえ。泣きたくてここに来たんじゃないですから」
「じゃあ、どうして?」
「わかんないです」

 さらに数歩進んで、鮎の隣に立つ彼女。

「恋人と、なにかあったのね」

 作り笑い未満の、寄せ集めの表情しかできない鮎。
「ふられちゃいました」

 意識的にそう認めたのは、初めてだった。
 堰を切ったように、こぼれて唇を動かす思い。
 自らを裁く独白。

「あたしのために、そばにいない方がいいって。好きだけど、こうしなきゃいけないんだって。
あたしが音楽を続けるには、そうするしかないって」

「その時は、わかんなかった。なんで一緒にいられないのか。沢井さんに言われて、やっと実感
しました。あたしの書きたい歌は、彼に聴いてほしい歌で、でもそれじゃ売れなくて」

「彼が聴きたくない歌を書いて歌わないと、歌手を続けられなくなっちゃうんですよね」

「『イノセント・シー』を、嫌いだって言われたんです。嫌いなはずですよね。
あたしの心があの歌には入ってないから。
どれだけ歌っても、彼と過ごした記憶なんて入ってないんですから」

「きっと彼の目には、ロボットみたいに見えていたんです。
でも、あたしが選んだ道だから何も言わなくて。見ていられなくなって。
それで、別れることにしたんです。きっと」


 鮎と同じようにどこかの空を傍観しながら、ぽつりと水上が言う。
「優しい人なのね」

 強くかぶりを振る。
「優し過ぎですよ。あたしが彼と音楽と、どっちを選ぶかわかってたから自分から言い出して。
でも、彼もわかってくれます。ちゃんと自分で決めたことなら」

 ふっと息をつき、水上は尋ねる。
「やめるつもり?」
「それでもいいです。契約があるからどうしてもというなら、詞も曲も誰かにお願いしてください。
自分じゃ、もう作れないから」
「諦めてしまうのね」
「売れないのを作ってても、しょうがないんでしょう? みんな、そればっかり。売れ売れって。
あたしはセールスマンじゃないのに」

「たとえ話は嫌い?」
「え?」
 意外な前置きに鮎は驚く。構わずに話が語られはじめた。
「以前、あるミュージシャンがいたと思って」

 その男性は、地方のライブハウスから見いだされてデビューした。颯爽とした演奏スタイルが
人目を引いた。やがてヒットソングを出せるようになり、多くのファンがついた。
 しかし、彼は不満だった。メッセージ性の強い歌を表に出してくれないレコード会社に。ラヴ・ソング
が嫌いだったわけではない。ただ、自分の姿を歌に投影したかったのだ。

 周囲と衝突を繰り返した末に、彼はようやくありったけの情熱をぶつけたアルバムをリリースした。

 主要な音楽メディアは独善的だとこきおろす。一部のライターやDJなどが、僅かに高い音楽性と
斬新な表現を評価するだけだった。

 彼はファンを信じていた。彼らならわかってくれると。これまで応援していた人なら、理解しようと
してくれると。

 しかし、それをきっかけにほとんどのファンは離れていった。

「どうしてです?」
「ファンっていうのはね、歌手が何を歌っているかなんてどうでもいいのよ」
 あまりにも無情な断言に、同意できない鮎。
「どうでもいいってことは、ないと思いますけど」
「格好良く、聴きやすい声で、ありふれたことを歌っていれば、それでいいの。ビートルズだって
そうだったの。知ってる?」

 鮎はビートルズが好きだった。
 そして彼はもっと好きだった。
 CDのライナーノーツには載っていないエピソードや伝説をたくさん知っていた。
 だから話は聞いていた。

 熱狂的な人気を得た彼らだったが、ファンは一挙一動に大騒ぎするだけで、ステージでの演奏の
質や内容など、見ても聴いてもいなかった。ただ奇声を上げて、カタルシスを感じて、騒ぐだけ。
腹いせに物凄く速く演奏をしたり、途中で違う歌に変えてしまっても、誰も気づきはしなかったという。

 そしてビートルズは、ライブ活動を止めてしまう。

「特に、日本はそういう傾向が強いと思うわ。もし世の中に、こういう歌は為になるから聴きなさいっ
て決まりでもあれば、彼は音楽をやめることはなかったわ。それぐらい、いいアルバムだった。
でもね、わざわざお金を出して耳に痛いことを聴こうなんて人はいつだって少数派。現実を変える
ことって一人ではできないのよ」
「その人、やめてしまったんですか?」
 僅かに頷く水上。
「自発的ではないけれどね。その後も数年は活動していたわ。でも、会社から契約を打ち切られて、
再契約してくれるところも見つからなかった。結婚していたから下積みでいるなんてこともできなくて
ね。もうギターも捨てて、全く別の仕事についているわ」

「よく、ご存じなんですね」
 もうどちらにとっても、これはたとえ話ではなかった。
 ためらわず水上は言う。
「私の兄のことだからよ」

 てっきりかつてM&Cにいて、彼女がマネージャーを勤めた誰かだと思っていた鮎には衝撃だっ
た。
「お兄さん?」
 遠くで輝き出した夜の瞬きを眺めている彼女の表情は、もうわからなくなっていた。
「そうよ。私がこの業界に入ったのも影響を受けたから。兄がみんなに認められていく姿を見ていたく
て。結局、なんにもならなかったけどね。兄は自分のために、ファンのために誠実だったわ。
それで返ってきたのは、絶望だけ」

 彼から聞いたことがある。
 ジョージ・ハリスンはこう言ったと。
『ファンは、お金と声援を贈ってくれた。しかしビートルズは全神経をファンに捧げた』

 水上の兄も、そうだったのだろう。
 伝えたいことを歌うのは、お金や声援のためじゃない。
 理解してほしいから。
 自分という存在を。
 そしてそれは、叶わなかった。

「兄の部屋には、昔からたくさんの本が置いてあったわ。この間、あなたが読んでいたような本が。
アメリカで受け入れられたように、日本でも受け入れられるはずだって、話してた。同じスピリットで、
ロックを書いて、ラヴ・ソングを書いてた。でも会社もファンも、ラヴ・ソングだけを切り離して受け
入れていたのね。彼にとって、それは自分の半分を切り刻まれて、残りを否定されているのと同じ
ことだった。それが耐えられなくなって、止めたの」

 水上が不意に鮎の肩を掴み、正面を向かせる。
 源の不明なネオンが互いの顔の陰影をつけて。
 烈しい視線が鮎の網膜を貫く。

「あなたがやめたいのなら、無理に続けろなんて言わないわ。歌いたいことがなければ、歌う必要は
ないもの。むしろ、やめるべきだわ。
 でも、本当にそうなの?
 彼と別れてしまったから、彼のことは歌いたくない?
 どんなに彼が好きだったかを、歌いたくはない?
 歌いたいのなら、まだあなたにできることはあるはずよ」


 こころの奥底にあるなにかが揺さぶられた。
 沈澱していた泥をかきまぜて、浮かぼうとしている。


「もう寒いわ。下で車を出しておくから」
 水上はそう言って、背を向けて立ち去る。


 何ができるのか。
 何をすべきなのか。

 わからない。

 わからないなら、探しに行けばいいのかな。







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