第26章 見果てぬ夢を追う帆走



 セカンドシングルのレコーディングが終わったなんてことは、もう彼女にとっては些細なことでしか
ない。

 数日の間、思い浮かぶあらゆる選択肢を頭でシミュレートしてみた。非現実的なものでも、無意味
に決まっているとわかりきっていることも。

 ふつふつと、ある意志が彼女の裡で固まりはじめていた。

 彼は今ごろ、太平洋と大西洋に挟まれた国々を額に汗を滲ませながら巡っているだろう。
 本当は来年になってから、春になって最終学年になってから休学して行くと言っていた。そのため
にアルバイトをしてお金を貯めて、勉強もしていた。

 ジャーナリストに、ルポライターになりたいという夢を実現するために。

 新聞社やテレビ局といった企業によって派遣されるのではなく、取材したいことを自分で決めて、
ありのままに書きたいと。自分にできるのか。届く夢なのか。それを一度確かめるんだと。

 きっとあたしとのことがあって予定を早めたんだろう。
 旅立ったあの日は、宮本さんの大学の学園祭の日。
 決して会いに行かないという証明にするつもりだったのか。
 いろんなことを疑ってしまったけれど、
 あなたがしてくれた約束だけは信じているよ。


 どこかに行きたい。
 遠いところ。
 誰もあたしを知らないところへ。

 レコーディングが終わった以上、次々とプロモーション活動の仕事は入ってくるだろう。ただ、それを
こなしていけばいいんだろうか。それで、彼が望んだように、歌手であり続けられるんだろうか。

 もし、逆のことをしたら。
 仕事はこなくなる。
 会社から契約違反で解雇される。

 答は明白。


 行こう。


 このまま流されていたら、歌手じゃなくてただの人形としてマイクを握るだけになってしまう。
歌いたいことを歌えないなら、歌手をしている意味がない。歌いたいことを歌うためには、もっと心が
強くならないといけない。ここにいては、できないから。


 資金はどうしよう。
 印税なんてもちろん入ってきてない。給料を残して置いたいくらかの貯金はあるけれど、それで
どこまで、いつまで旅をできるだろうか。
 そして思い付く。上京前に母が言っていたこと。
「この口座に入れておくから、何かあったら遣うのよ」
 ずっとマンションの契約書などと一緒にしておいた、真新しい通帳とカード。
 開いて残高を見ても、開設した時のお金しか入っていない。
 1万円。
 でも。

 銀行に走った。
 通帳記入機を探し、挿入する。
 何度も印字の機械が往復する音が続く。
 そして出てくる。

 すごい金額に目を疑った。
 いきなり4月に百万単位のお金が入っていた。
 きっとこれは、あたしが大学に進む時のために用意されていたお金なんだろう。その後も、毎月
定額の振り込みがされている。家を出た娘に里心がつかないようにと、電話も滅多にしてこない
両親の愛情がそこに印刷されていた。

 大急ぎで部屋に戻り、実家に電話してみる。
 母しかいなかった。
 預金のことを話すと、「遣いたいことがあるなら、遠慮せずに遣いなさいな。あなたが後悔しない
ように」
 母はそう言った。
「あの、あのね・・・・・」
 悲しくないのに、はらはらと落ちてゆく涙で声がかすれる。
 片手で瞼をごしごしとこすり、これ以上心配させたくないと必死で自制する。
「ちゃんとしたことに、遣うから。どうしても、大事なことだから。ごめんね、お母さん」
「鮎」
「うん」
「つらいこと、あるだろうけど、お母さんもお父さんも鮎がちゃんとやれるって信じてるわよ。
毎日を、大切に過ごしなさい」
「うん」

 伝えたい気持ちは、言葉は尽きないほどにあった。
 でも、言えたのはこれだけ。
「ありがとう」


 翌日、鮎は隣街にある旅券事務所へ足を運んだ。必要な書類を提出して、手続きを終える。
発行まで2週間ほどだという。帰りの途中で書店に寄り、役に立ちそうな本を買い集めた。

 残る障害は、仕事。

 まず、水上に話すのは当然のことだった。事務所へ出向き、彼女を近くの喫茶店へ連れ出して
これからのことを説明した。「本気なの?」という質問に、水上の少なからぬ驚きが混じっていた。
「もう決めたんです」
「休養したいって言っても、仕事はどんどん来るのよ」
「新しい仕事、入っているんですか?」
「まだ打診程度だけれど、シングルの発売に合わせてレコード会社と沢井さんがスケジュールを
立てているところよ」

 鮎は、はっきりと言った。
「なら、発売を止めてもらいます」
 暫し水上は言葉を失う。
「そんな無理を通すつもり?」
 完成したCDをアーティストの意思だけで発売中止にするなんて、いろいろあるこの業界でも前代
未聞のことだ。
「通らなければ、音楽をやめます。このまま活動するぐらいなら、いっそその方がすっきりします」

 決然とした態度から、鮎の意志は明らかだった。

 ポケットから携帯を取り出し、じっと液晶を見つめる水上。
 そして川原鮎というひとりのミュージシャンの瞳を凝視する。

 よぎる想い。
 会社のため。歌手のため。音楽のため。
 そして目の前の彼女のため。
 どれかを優先すれば、犠牲が出る。
 それなら、後悔しないでいられることをしよう。

 彼女はいくつかのボタンを押した。
 長いコール音。そして。
「もしもし、M&Cの水上です。・・・・・はい。実は、そのことで重要な用件がありまして。
・・・・・はい・・・・・はい、それはわかってます。ですが、一旦そちらの話を棚上げしてでも時間を
頂きたいのです。・・・・・はい。無理は承知の上です。はい。では、これから伺います」

 アンテナを縮め、携帯をポケットに入れる。
「これから沢井さんが会ってくれるわ。直接、あなたが気持ちを伝えなさい。思うことは、全部」
 テーブルのコーヒーに口をつけることもなく、立ち上がる水上。
「はい」

 タクシーを呼び止めて、沢井がいるレコード会社へと向かう。車内で、硬直した表情のまま水上が
話しはじめた。
「沢井さんに会う前にいくつか言っておくことがあるわ」
 そう前置きして、これまで伝えずにいたことを教えることにした。
「一度ヒットしたんだから、あとは自分でどうにかできると思っていたりしない? 自分の才能だけで
やっていけるって。それは正しくないわ。前のシングルがタイアップを取れたのは、沢井さんの個人
的なコネがものをいったの。もちろん、それだけじゃないわ。正否を分けたのはリベートなのよ」

 耳に馴染みのない、腐敗した語感を漂わせる単語。
「リベート・・・」
「そう。わかりやすく言えば、賄賂よ。企業の宣伝部門の責任者に、こちらから利益を供与して
選んでもらったの」
「それって、いけないことじゃないですか」
 政治家や役人が捕まるのは、そういうことをするからのはず。法律は知らないけれど、犯罪でない
はずがない。水上は顔の筋肉ひとつ歪ませずに、淡々と続ける。
「そうよ。でも、どこでもやっていること。やらなくては競争に勝てないからね。常識と言っていいわ。
そういう現実が、音楽業界にもある。あなたの個性が注目されたわけじゃないの。

『イノセント・シー』は、あれだけ売れても企業的には赤字だったわ。それだけ宣伝費っていうのは
かかるの。どうして会社がそういうお金を出すか。あなたが将来もたらす利益に期待して、出すの
よ。これからあなたがしようとすることは、それを裏切ることになるわ。クビにならなくても、会社から
の風当たりはひどいものになるでしょうね。あなたの歌手生命が、終わってしまうかもしれない。
はっきり言えば、終わるも同然なのよ。それで、本当にいいの? 今なら考え直せるのよ」

 鮎は考えた。
 これまで知らなかったことも含めて、これからしようとしていることと、それからの自分の姿を脳裏に
描く。そこにいる川原鮎は、微笑んでいるだろうか。それとも打ちひしがれているだろうか。

「わがままばかりで、すいません。でも、自分を見失ったままで音楽はできません。
あたしは、歌が好きだから。好きだから、やめることになってもいいんです」

「わかったわ」
 それっきり、水上は一言も口をきかなくなった。


 巨大なビルの玄関にタクシーが横付けされる。
 受付嬢に沢井の所在を聞き、教えられた一室へとエレベーターに乗って向かう。

 ドアをノックして入った二人を、「何事なんだ?」という沢井の苛立った声が迎えた。
「おかげで会議は中断だ。説明してもらおうか」
 そのせいで関係者は出払ったらしく、撫然として眉をひそめる彼だけがそこにいた。

「この間レコーディングした曲を、発売しないでください」
 計算もなにもなく、切り出す鮎。
「あぁ!?」
 沢井の声が呆れて大声になる。
 しかしひるむことなく、鮎は宣言するかのように言う。
「これからあたしは、音楽活動を休止することにしました」

 首を数度振り、両手で天を仰ぐかのような素振りを見せる沢井。
「なにをバカげたことを。いいか、これからやることは山ほどあるんだ。のんびり遊ばせる余裕なんか
ない。そういうのは大物になってから言え」

 それでも引かない鮎と、激しいやり取りが続く。
「もう、このままで音楽はできません。やれと言われても、歌うつもりもありません」
「デビューしただけで、もういっぱしのアーティスト気取りか。君は会社と契約する立場だ。そんな
勝手が通るとでも思ってるのか」
「どういう結果になってもかまいません。契約を破棄されても訴えられても、仕方ないことですから。
このまま音楽をやめることになっても、それでいいと覚悟しています」
 沢井が攻め手を変えた。
「この仕事には、君が考える数以上の人間の手が入っている。君が世話になったスタッフばかりだ。
彼らが努力したことを全部、無駄にするつもりか?」
「それは・・・」
「いいか、これもひとつの事業だ。途中で投げ出せば多くの損害が発生して、波及する。その責任を
君一人で取れるのか?」
 プロデューサーを筆頭に、ディレクター、録音、編集などの制作スタッフ。
 更にはここ、レコード会社の人たち。
 誰もが鮎の歌を全国に流そうと働いてくれた。
 ひとつひとつの顔に、それぞれの家庭だってある。
 それを裏切るのかと問われれば、決意が鈍りそうになる。

 張り詰める沈黙の糸。
 一本でも切ってしまえば、それで決着がつきそうな危うさ。

 そっと口を開いたのは、水上だった。
「沢井さん」
「なんだ」
「シングルは、このまま発売しましょう」
「当然だ」
「その代わり、彼女の活動休止を認めてあげてください」

 長い髪に手をこじ入れ、君まで何を言い出すんだと言わんばかりの沢井。
「そんなわけにいくか。出すだけ出して本人が遊び呆けていてセールスになるわけがない」
「そこをなんとかするのが、プロデューサーじゃありませんか?」
 あまりにも挑発的な発言に、聞いている鮎が怯んでしまった。

 もちろん沢井は「生意気言うな!」と一喝した。が、彼女は冷静だった。
「表向きには、彼女は体調不良により海外に出して静養させるということにします。事実、今の彼女
には仕事に耐えるだけの能力がありませんから。今度のバラードなら、彼女を全面に出さなくても
なんとかなるんじゃありませんか?」
「俺に何を期待しているのか知らんが、そう甘いものじゃない。できることとできないことがある」
 苦虫を噛みしめたような歪む口元で、辛辣に応じる。
「もちろん方法はお任せします。会社の方は、私がなんとか抑えます。沢井さんには、レコード会社
のほうに理解してもらって頂けませんか?」
「俺に頭を下げろと?」
「お願いします」
 深々と一礼する水上。
「どうして俺がそこまでしなきゃならん?」
「川原鮎を、兄のようにしないためです」
 体を起こさないまま、そう答える彼女。

 沢井が、二人に背を向けた。
 そして尋ねる。
「兄さんは、どうしてる?」
「元気ですよ」と姿勢を戻して言う水上。
「そうか」


「川原君」
 再び沢井が振り向いたのは、数分も経ってからのことだった。
「はい」
「もう、俺は君と仕事をすることはない」
「はい」
「いつか君が活動を再開したいと思っても、そんな機会はもう永久に得られないこともありうる。
それでもいいのか?」
「はい」

 一拍置いて、惜別にも似たため息を洩らす。
「わかった。好きにしろ」
「申し訳ありません」
 頭を下げる鮎に、腕を振る。
「じゃ、帰れ。俺には仕事がある」



 彼女たちが退室した部屋で一人、窓の外に目を向ける沢井。
 彼は水上の兄が最後に出したアルバムの制作にギタリストとして参加していた。そして引退する
のをその眼で見ていた。
 売れなければ。
 したいことをするためには、まず売れなくては。
 体験が、彼にそう教えた。
 これまでの成功。
 それは誇っていいはずだ。
 手がけた歌手の多くが、望んでいたものを手に入れた。

 認められたい。
 有名になりたい。
 芸能人としてテレビに出たい。

 皆、それで満足している。

 でも、本当のアーティスト、音楽の芸術家になれた歌手はいない。
 ただの歌手から進歩できない男女ばかり。
 そんなつもりがないのだから、当然だ。

 川原鮎。
 彼女も同じだった。
 それが変わろうとしているのか。
 違う。
 変わりたくなっているのだろう。
 なら、プロデューサーがすることは決まっている。

 彼はデスクの内線電話へ歩み寄った。
 いくつものアポを取らなくてはならない。







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