第22章 時に、高すぎる空



 ソックス越しに床の冷たさが伝わるようになった夜。
 仕事から帰って、点滅する留守伝のメッセージボタンを押す。
 相反する思いがごたまぜになって、指先をためらわせる。
 あれから、毎日のことだ。

「俺だ」

 びくりと手を引っ込める鮎。

「近いうちに、会って話がしたい。時間のとれる時に、連絡してくれ。それじゃ」


 元通りになるためには、会って話すだけでいい。
 そう信じ続けて、あの夜から耐えてきた。
 自分から彼のところに行かなかったのは、自らに与えた罰のつもりだった。

 邦彦さんは言った。
 自分から宮本さんに連絡したことないって。
 あたしのCDを買うためだから、一緒に行ったって。
 話すほどのことじゃないから、話さなかったって。
 本当のことを言ってくれた。
 それが嘘じゃないことなんて、今ならすぐにわかる。
 疑って、言葉の一つ一つを身勝手に解して、嫉妬して、醜い我侭ばかりぶつけてしまった。
 ちゃんと、謝ろう。
 許してくれるに決まってることだから、ありったけの気持ちで謝ろう。

 そうすれば、元通りのあたしと彼に戻れる。

 彼も、謝ってくるかもしれない。
 あたしが悪いのに。
 だから、許さないで、ありがとうと言おう。
 あたしのことを想ってくれていることを。

 彼になら、そう言える。

 次の休みは、いつだっただろう。
 手帳を開いた。
 そして彼へかける。

 呼出音よりも、高鳴る胸。
 初めて、邦彦からの電話を待っていた夜のように。

「わかった。じゃ、その時に」
 そう返事を聞いて、手帳に『仲直りの日』と書きこんだ。

 彼の声を思い出してみる。
 怒っていない、静かな口調だった。
 笑ってはくれなかったけれど、優しかった。
 あたしが好きになった、邦彦さんのままで。



 一方、『イノセント・シー』絡みの仕事はもう終わり、次のシングルへの作業がスタートしていた。
曲も詞も、そろそろ編集できるようにしていかないといけない。10月からは年末に最盛期を迎える
音楽業界繁忙期なのだ。大物アーティストはこぞってアルバムを出し、新人は各種の新人賞に
ノミネートされようと活発に活動する。鮎だって、これからの成果次第では賞の望みがないわけでは
ないのだ。少なくとも、周囲はそう言う。

 早く秋のシングルを出して、暮れにはアルバムを出したいと営業サイドもプロデューサーも鮎を
せかした。まずはバラッドを用意したいと。その時の気分で曲の雰囲気を決めてきた鮎にとっては、
最初からバラッドを書けと求められても手軽にはできないものだった。
 ただ彼とぎくしゃくしたことで、結果的には明るい音楽を生み出そうという気分にはなれず、何曲
かのメロディアスなナンバーを録った。

 その一つを沢井が気に入ったらしく、それを原型にして次のシングルを制作するという方針が
決まった。今度は『イノセント・シー』のようなシンプルなサウンドではなく、ストリングスも入れて
技術的な高度さを示すという。

 問題は、歌詞だった。

 メディア関係の仕事が減ったため、作詞に使える時間は格段に増えた。言葉を書き貯めたノートも
数冊になり、鮎なりにいいと思えるフレーズで仕上げられる。

 ところが沢井の反応が厳しい。
 デビュー曲の時も辛辣な評価をされたが、今度はけんもほろろ、取り付く島もないぐらいに却下
される。「どうしてこんなのしかできないんだ」と。沢井の感覚では、鮎の詞にあった長所がなくなる
一方だと言うのだ。

 そう言われても、彼女としてはできるだけの気持ちを言葉にして、歌いたい歌詞にしているつもり
だ。才能がないと言われてしまえばそれまでだが、これまでも足りないところは努力で補ってきた。
ペンを握って、これまでの彼との秋を回想して、そして書き続けた。



 そして、約束の日が訪れた。
 学生だったら、衣替えまであと数日。
 鮎は一番気に入っていた服で、部屋を出た。

 隣の部屋も、もう気にしないことにしている。
 彼女と友達にはなれないかもしれないけど、あたしには彼がいてくれる。
 邦彦さんの気持ちがわかっていればそれでいいことなんだと自分に言い聞かせて。

 穏やかな初秋の風に髪先を遊ばれながら、鮎は冴木家へと真っ直ぐに向かった。
 彼女から、「迎えに行くから」と言ったのだ。
 積極的にそうすることで、残っているかもしれないわだかまりを捨ててしまえると思って。
 そして、どこを訪れるかも考えていた。


 彼の家から、駅へと歩く。
 手を繋ぐことも、腕を組むことも、ありふれた冗談のやりとりもなく。

 まだ謝っていないから。

 2枚の切符を鮎が買い、改札を通り抜ける。

 かつて辿った道。
 まだ川原鮎が冴木邦彦だけのひとでいられた時に、辿った道。

 あれから何度も雨が窓を叩いた。
 疲れ果てて沈むように眠った。
 地図でしか知らない街へと旅立った。
 鏡の自分に話しかけ、「どうなってるんだろうね」
 返ってきたのはどっちつかずの否定と肯定。
 「どうなってるんだろうね」
 二人を囲う世界ばかり、速すぎて。


 昭和記念公園に入るまで、邦彦の方から鮎に話しかけることは一度もなかった。
 鮎の言葉に応じて短く、出し忘れた気持ちを残さないように答えていた。
 そんな彼らを待っていた公園は、いつかの記憶よりも鮮やかではなかった。

「奥まで行こうね」
 あと少し歩けば、何者にも汚せないところがある。
 季節が移ろっていても、決して変わらないところ。
 最後の聖地。
 だが鮎の言葉に邦彦は首を振った。
「この辺りで、座ろう」
 そして間隔をおいて並ぶベンチのひとつに腰を下ろす。
 木陰になっているせいだろうか。
 人影もなく、いい風景もありはしなかった。

 少し休んで、それから行けばいいよね。
 そう思って隣に座る鮎。
 焦らなくていい。
 あたしたちに、足りないものなんてないんだから。

 背後の噴水が、高らかなファンファーレを上げる。
 せせらぎを伴奏に。
 風を指揮者にして。

 膝の間に、組んだ両手を落とす邦彦。
 その眼差しは、届きそうで届かない未来だけをもう一度だけ想起していた。

 これが、最後だから。

 天へと伸ばされる水の柱が、ただ繰り返されて、崩れるように水面へと転落していた。



「こないだ、ごめんね」
 口を真一文字に閉ざしたままの邦彦の横顔を見つめていた鮎が、意を決して言葉を預けた。

 彼の返事はない。
 指の一本すら動かすこともない。

「苛々してて、ひどいこと、言ったよね。変なこと疑って」

 じっと、鮎の気持ちに耳を傾ける。

「でも、みんなあたしの誤解だったって、わかった。怒られて、やっとわかったの」

 こみ上げる愛惜の想い。それを塞ごうと、彼は堅く目を閉じた。

「許して、くれる?」


 裁きの瞬間が、いま、ここにあった。


「鮎」

 何度、名前を呼んだだろう。
 こんなにも、虚しく響くなんて。
 標本にされた昆虫ほどにも、生命のない響き。

 彼は瞼をゆっくりと開ける。
「先週、俺は彼女と会った」

「・・・・・」
 混迷が鮎の心を再びざわめかせようとする。
 それを止めようと、彼が続ける。
「もう二度と会うつもりはない。そう彼女に言った」

「そ、そうなんだ・・・・・」
 彼があたしのために、一人の女性を切り捨てた。
 あたしの臆病さの代償を、彼が払った。
 そこまでしてくれたなんて。

「でも彼女は、来月の学祭に俺を誘ったよ。俺だけに来てほしいと」

「・・・だけ?」

 情景が浮かんだ。
 彼を見つめる整った顔。
 『あなたにだけ、来てほしい』
 それが意味するのは、誤解しようもない告白だった。

「俺はなんにもわかっちゃいなかった。彼女とお前がいい友達になれればと思ってた。
それだけだった。彼女の気持ちなんて、わかろうともしないで」
 舌を噛み切りたいほど苦い愚かさ。
 己を憎むかのような口調。
 それは、彼みずからにだけ巨大な杭となって刺さっていた。

「俺は、学祭にも行かない。もう連絡も取らない。俺は、彼女のことを愛さないから。
お前がいるから、そう決めてる。いつまでもこの約束は破らない」

「邦彦さん・・・・・」

 時に歯がゆいほどに、気持ちをあからさまな形にしない彼。
 その彼が、はっきりと約束してくれたことが嬉しかった。

 そして。

 引き裂かれようとするのを耐えるかのように、彼の両手が白く退色するほどに握られている。

 どうして、こんなに、ひとりぼっちみたいなの?



「そして、鮎とも、もう会わない」







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