第21章 憂色と残響と



 何かが聞こえた。
 それは遠き携帯の呼ぶ声。

 あれから4日。
 冴木邦彦は、自宅の机に向かっていた。
 スペイン語の教則本。
 他にも読んでおくべきものがある。
 自分のために。
 予定を早めたため、残された時間は少ない。

 大学の手続きも終わった。必要な書類も揃い、航空券も買った。
 アルバイトも、もう辞めると店に告げた。
 するべきことは、あとふたつだけ。

 もの憂げに充電中だった携帯を見やる。

 摩滅している精神が不意に覚醒して、かけてきた相手の顔を脳裏に描画する。
 それは、髪の短い、頑張り屋で、ちょっとだけドジで、泣き虫な女の子ではなかった。
 電話を握る。
 なんて醜い道具だ。


「冴木くん?」
 管楽器をいつも連想させる、澄んだ声だった。
 そう。彼女だ。

 あいつのはずがない。

 ややためらった後、答える。
「・・・君か」
「あ、今、都合悪い?」
 沈黙があったせいで、彼女が気を使う。大学の講義中だとでも思ったのだろうか。先週までなら、
確かにそういう時間だ。
「・・・・・いや、むしろ、ちょうどよかった」
「今、どこ?家にいるの?」
「家だよ」
「じゃあさ、どこかでお茶しましょうよ。話したいこととかあるから」
 どこか弾んだような彼女の声。
 いつも、こうだっただろうか。
 気にしたことすらなかった。
 そうだ。
 いつから彼女は俺を『冴木さん』と呼ばなくなったんだろう。
「わかった」

 ジーンズに、白いシャツ。麻のハーフジャケット。履き慣らしてあるトレッキング・シューズ。
 そして彼は家を出た。
 これからすることが、鮎との将来に寄与しないことを受忍しながら。
 鮎のためにできること。
 それはもう、ひとつしかないのだから。

 だから彼女に伝えなくてはならない。
 なにも残ることはないことが、わかっているけれど。
 自分の選択は、彼女にとって取るに足りない微少な区切りにすぎないことがわかっているけれど。
 鮎のために、伝えなくては。
 彼女に。


 路地をゆっくりと歩く彼。
 どうしてか自転車ではなく、歩きたくなった。
 考える時間がほしかったのかもしれない。
 それとも、残り少ないここでの日常をゆっくりと確かめたかったのか。
 醒めた風が、耳にかかる髪をなびかせる。

 これも、切っておかないといけないな。


 15分も歩いただろうか。
 住宅街にひっそりとたたずむ、レンガ造りの喫茶店の前へ。
 蔦が絡む外壁。
 古く黒ずんだドア。
 この向こうに、彼女が待っている。
 彼女は何を待っているのだろう。


「あのね、学祭のプログラムが決まったの。見て」
 そう言って、宮本が鞄から色とりどりのパンフレットをテーブルに広げる。届いたばかりのコーヒー
カップは、口もつけられずに端へ。彼女の話とは、このことだった。
 開催まであと1ヶ月を切っていた。

 半2階建ての店内。
 上のフロアにいるのは、彼らだけ。
 各所に置かれた観葉植物が余計な音を吸い込んでいるかのように、スピーカーからのピアノの
ソロが泳いでいる。

 きっとここは、彼女の好きな店、好きな空間なんだろう。

 鮎も連れてきて、三人でお茶を飲んで、音楽を志す二人の会話に耳を傾ける。
 そうできるかと思っていた。
 『この街でいい友達ができた』と、鮎が手紙に書けるように。
 『友達に教えてもらったの』と、知らない店に俺を連れてきてほしかった。
 俺のことを話題にして、笑って、相談して、時には怒って、女同士の秘密にしておいてほしかった。
 俺がこの街にいなくても、おはようと呼びかける誰かがいてほしいと。

 もう、叶わない未来像。
 幻想にしてしまったのは、自分の愚かさ。
 願わくば、その罪が二人にだけは及びませんように。

 彼女の白く、長い中指が紙上を滑る。
「場所は、ここ。正門から入って、右の建物なの。A1ホールって、大きく書いてあるからすぐ
わかるわ。私の時間は、2時から。1時間と少し演奏することになってるの」
「・・・・・」
「どんな曲かは、聴いてからのお楽しみよ」
「・・・・・」
「・・・・・冴木くん?」
 常ならぬ寡黙さに、宮本の形のよい眉がひそめられる。
 邦彦は肩肘をついて、額に手を当てている。その眼差しは、パンフレットにはない。
「なにか、あったの?」
 その問いかけには、どこか確認のような余韻があった。
 お互いがそれを感じ、感じていないふりをする。

 やがて、邦彦が顔を上げた。
「謝らなくちゃならない」
 迷いも、ためらいも、その響きにはない。
 あるのはただ、哀しみだけだった。
「済まないが、行かないことにした」

 にこやかだった宮本の表情に、焦燥にも似た戸惑いが浮かぶ。
「あ、用事とか、できた?なんとかならないかしら? ぜひ来てほしいのよ」
 熱のこもった誘い。
 対称的に邦彦の返事は金属のように固い。
「用事じゃない。行かないことにしたんだ」
「どうして?来てくれるって言ったじゃない」
「鮎を傷つける」


 短い理由。
 長い沈黙。


 彼女はそれ以上問うこともなく、ただ言った。
「こないだ、やっぱり喧嘩してたのね」

 頷く邦彦。
「やっぱり聞こえてたか。その通りだよ」
「防音されてても、どうしても、ね。盗み聞きするつもりなんかなかったのよ。あの・・・・・」
 説明しようとする彼女を制する。
「わかってる。夜中にあれだけ大声を出したんだ。無理もないさ」
 本気で鮎に声を荒らげたのは初めてのことだった。
 悔恨の念と、他のものがもたれたように心に溜まっている。

 慰めようとしてか、テーブルに投げ出されていた彼の手を彼女の中指が軽く突っついた。
「落ち込んでる?」
「いくらかは」
「今日も、様子が違うなって思ってたの」
「あれっきりだからな」

 少し香りの散ったコーヒーカップを引き寄せ、口にする宮本。
 釣られるように、彼も同じことをする。

 ソーサーに磁器の文様も美しいカップを戻し、一息おいて話す彼女。
「つき合っていれば、時には喧嘩もするわよね。私でよかったら、相談に乗るわよ。これでも女心
には詳しいんだから」
 最後は彼女にしては珍しい冗談だった。
 気持ちをほぐそうという優しい気遣い。

「そういうことじゃないんだよ。ただの気持ちの行き違いとかじゃ、ないんだ」
 無意識のうちに、呼吸がため息に変わる。

 敏感にその違いを察知して、「深刻なの?」と心を配って尋ねる彼女。

 無言の返答が雄弁に物語っていた。

 ためらいを残しながら、続ける彼女。
「あの時、本当に聞くつもりはなかったの。だけど、あたしの名前が呼ばれたような気がして、
それで、それからつい意識しちゃって。ねぇ、冴木くん。あたしのことが原因なら、そう言って
ほしいの」

 きっと彼女は聞きたくはないんだろう。
 一組の恋人が、自分の存在で壊れそうだとは。
 本当の理由は、そこにはないことが彼にはわかっていた。

「君が原因じゃない。無関係でもないけど」
「どうして?」
「俺は、君と会ったり電話で話したりしていることを鮎には言ってなかった。隠してたつもりはないし、
俺だってなんで今まで話題にならなかったのかわかんないぐらいだ。ただの巡り合わせの問題
だよ。でも、鮎はどこかから聞いて、俺が君に気があるとか勘ぐってたみたいなんだ。一言も俺に
聞かないで、悩んでたんだ」

 宮本未来は、翳りを隠せない彼から視線を逸らせた。
 彼女の心の琴線を、ピンと弾く言葉。
 『俺が君に』
 これまで、わざと表に出さないでいた感情。
 それは打算だったかもしれない。
 時間をかけて、彼のことを知って、あの子よりもわかるようになってから、確かめたい彼の気持ち。
 それまで待つつもりでいた。
 待たなければ、得られないとわかっていたから。


「そんなつもりはないって言った。あいつだって、本当はちゃんとわかってるはずだ。だから、きみの
せいじゃない」


 わかってはいても、胸に深々と刺さる彼の言葉。
 簡単に割り込めるなんて思ってなかった。
 それでも、想いは引き返すことなく歩みを速めていた。

「それで、どうするの?」
 動揺を短くした問いかけで隠す彼女。

 邦彦は姿勢を正し、宮本をきちんと見る。
 いいかげんな態度で告げることはできないから。

「これ以上疑われるような真似はしたくない。だから、こうして君と会うのも最後にする。電話も
よほどの急用とか特別な事でもなければ、かけないでくれ」

 そう。
 邦彦は、こう言うためにもう一度だけ会うことにしたのだ。
 親しくなれた友達を失うために。
 鮎とのことに結論を出した今、これからの鮎のためにこうしておかなくてはならなかった。

「・・・・・」

 まだ早すぎて、彼の気持ちはそのまま。
 待っていていいだろうか。
 『それより、一緒に誤解を解いてあげましょうよ』
 そう持ちかけて、この危うい接点を維持して、彼が宮本未来を女性として意識するのを待って
いて。

 でも、もう彼と隣人は初めて出会った時とは違う。
 ぐらついて、ひび割れている。

 あの子にできないことが、あたしにはできる。

「だから、来てくれないのね。学祭」
「・・・・・すまない。約束しておいて」
「それで仲直りできるの?」
 これまでになく鋭い口調だった。

「できないんでしょう?」
 追撃するように畳みかける。
 それは、彼の内にある真実を違わず射抜いていた。

 唇を閉ざすことしかできないまま、避けたい視線を外せずに彼女の瞳をただ見つめる彼。

「川原さんが、冴木くんにあたしとのことを聞かなかった訳、教えてあげようか?」
「訳?」

 なにか、聞くべきでないような予感があった。
 それでいながら彼は、魔法にかけられたように続く言葉を待っていた。

「本能よ」
 きっぱりと断言する彼女。
「本能?」
「そう。防衛本能。あなたを奪われそうだから、脅えたのよ」
「・・・・・なにを言ってるんだ?」
「わからない?・・・・・・・わからないのね」

 口元だけにミリ単位の微笑みと苦しみが浮かぶ彼女の複雑な姿。
 じっと彼を見据え、邦彦と鮎が糊塗しようとし続けていた冷厳な現実を突きつけた。

「あなたたち、うまくいってない」

 うまくいっていないからこそ、どこかに違和感があったからこそ、鮎ははっきりと邦彦に聞けないで
いたのだ。
 絆が揺らぐのを感じていたからこそ、それを振り回すようなことができなかった。
 そして邦彦は、鮎のためにできることをしてくれる誰かを探していた。
 裏返せば、彼にはできないことばかりが増えていたのだ。
 好きでいるだけでは、足りなくて。

 『そんなことはない』という彼の虚無な否定は、自らの体内に飲み込まれてしまう。

 これまで見せたことのない情熱を瞳にたたえて彼女が続ける。

「でもそれは私のせいじゃなくて、あなたたち二人になにかあるのよね。聞きたいなんて言わない
わ。二人の理由なんて私にはどうでもいいの」

 そして、想いを解き放つ。

「知りたいのは、冴木くん、あなたのことだけ」

 いつからか、眠れない夜に部屋の天井に浮かべるようになった肖像。
 日常から生まれた素敵なことをみんな話したくなる電話番号。

「あなたは、私にとって川原さんの恋人じゃなくて、冴木邦彦くんだから」

 偶然の出会いを運命と信じたくて。
 恋人に注ぐ視線を向けてほしくて。

「これ、置いていくわ」

 学園祭のパンフレットを残して、彼女は席を立つ。

「会場に来てくれるのを待ってるから。あなただけ、待ってるから」

 そう言って、彼を見つめた。
 あの初夏の午後。
 自転車で去る彼の背中を見つめていた時のように。

「ステージが終わったら、この席で逢いましょう」



 からん、とドアの鈴が残響を奏でる。
 彼女が立ち去る背中を見ることもなく、彼はただそこにいた。







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