第20章 迷走の終着駅



「これは、ここにはない方がいいんだ」

 荒涼たる世界の果てで立ち尽くしているような絶望が、その乾ききった響きにはあった。
 ゲームセットの宣告を聞く敗者。
 死病の進行を感じ続けるほかない患者。

 ジッという、鞄のチャックが締められた音だけがリアルに聞こえた。

 なにかが、断ち切られたからなのか。
 自失しそうな空白へ落ち込んでゆきそうな鮎。
「どうして・・・・・」
 操られでもしているかのように、抑揚のない声で問う。
 いや、それはやはり彼女の問いだった。
 再び激しく問うたのだから。

「どうして? どうしてよ!」

 邦彦が被る陶製の仮面には、一滴の血液すら通っていないのか。硬く、冷えきってしまって、
死体のように穏やかだった。そうして、ある結論の糸を手繰る。
 もう、それは見えてしまっていた。

 なにものをも認識せずに、ただ彼女に答える彼。
「お前のためにならないからだ」

「もっとはっきり言ってよ」
 刺々しさを覗かせる鮎の口調。
 ずっと抑えてきた、捨てられなかった感情が奔流となって迷走しようとしていた。

「言ってるだろう」
 言葉が足りないことはわかっている。
 わかっているけれど・・・・・
 鮎、俺は、お前と・・・・・


 堰は伐られた。
 順序も自制も、泡立ち、飛沫を悲しいほど掻き立て、渦を巻く衝動に飲み込まれた。
 テーブルを潰すほど叩き、立ち上がる。
 グラスが倒れカーペットを汚したのは別世界の出来事。
 一瞥だにくれずに、彼女は叫んだ。

「わかんないよ。そんなんじゃ! 言ってよ。理由を。どうしていつもそうなの。どうして話してくれない
の? あたしじゃバカだからわかんないってことなの!?」
「そんなわけないだろ」
 顔を歪めたくなるのに耐え、寄せ集めの理性で応じる彼。
「じゃ、言ってよ。全部。なにもかも。もう隠し事されるのはうんざりよ!」
「そういうことじゃない。今、俺の考えを言ったって、お前は納得しないだろうってことだ。
いずれ、わかる時がくる」
 そして、残っていた吐息を続く言葉に重ねた。
「でも、その時は・・・・・」
 最後は、切なさにかすれた。

「そんなことってないわ! だから、だから、だから宮本さんのことも黙ってるのね!」


 終わらない瞬間。
 窒息する空間。
 死に至る時間。
 永く・・・・・・・
 そして、幻だけが持つ美しさをなくしていった。


「宮本さん?」
 ただ繰り返す邦彦。
 どうしてそんな名前が出てくる?

 ゆっくりと、鮎へと顔を向ける。
 それまでの無表情から、訝しむ戸惑いだけが表情を司る筋肉を動かした。

 名前を出した鮎には、そんな鈍い反応こそが疑いを強めた。
 もう誤魔化されない。
 激昂した感情だけが衝き動かしている。

「そうよ。会ってるんでしょう。あたし知ってるんだから。どういうことなのか説明してよ!」

「何言ってるんだ?」

「とぼけないで!」

「確かに会ったことはあるけど、黙ってたわけじゃないぞ。別に面白い話でもないし、そういう話に
なったことがないだけだろう」

「機会がなかったって、あたしが忙しいせいにするの?」

「そうじゃないよ。挙げ足取るなって」

「だってそういうことじゃない。あたしがいないときばかり、黙って会ってたんでしょう」

「そんな大げさな話か? 会ったことなんかな、まだ2回しかない。最初が先月の半ばぐらい、
コーヒー買いに行った時に会って、お茶飲んで終わりだ」

「CD買いに行ったでしょ! あたしがデビューする日に、他の女の人と遊んでるなんてひどいじゃ
ない!」

「あの日は電話が掛かってきて、お前のCDを買いに行こうって誘われたんだよ。断れるか? 
お前のCDだぞ!」

「断ればいいじゃない! 一枚ぐらい売れなくたってかまわないわ。それに、どうして電話番号
知ってるのよ!」

「コーヒー飲んだ日に聞かれたんだよ。緊急の時とか考えたら隣の人が連絡先わかってた方が
いいだろうが。たまにかかってはくるけど、雑談するだけだ」

「あたしにもかけないのに、あの人とは電話するんだ」

「かかってくるって今言ったのがわかんないのかよ。お前が仕事してる時に、用事もなくかけられる
わけないだろうが」

「留守伝のひとつぐらい入れられるでしょ。あの人に掛けててそんな暇もないってことなの?」
「番号も知らねぇよ!」

「でも・・・」
「いいかげんにしろ!」


 固形化したような怒号。
 無形の掌で平手打ちされたかのように、全身に刺痛が走る。

 鮎にも、邦彦にも。


 壁に掛けられた時計の秒針と、テレビから流れる
 無機質な音声信号と、ひび割れた関係のきしむ音だけがする。

 鮎は肩を震わせ、うつむく。
 食いしばる口元もこぼれ落ちそうな透明も、しおれた前髪を障壁として隠して。

 邦彦は右手を髪に差し入れ、まるでそれをむしりとろうとするかのように堅く掴んでいる。
 眉間には苦悶の刻印。
 視界を遮断する瞼。

 濁った静けさだけが、二人の間に漂う。

 やがて、紙1枚ほど邦彦が唇を開ける。
 なにかに耐え切れなくなったのだろうか。


 だが一音も発しないまま、
 彼はきびすを返し、
 鞄を手にして、
 去った。


 ドアが勝手に閉まり、コンクリートを打つ足音が届かなくなるまで、鮎は立ち尽くしていた。

 床が、傾いたような気がした。
 視覚できていたすべてが、音もたてずに朽ちて、倒れている。

 そして、ベッドによろよろと倒れ伏す。
 枕に顔を埋めて、嗚咽を押し殺して。



 どうして、こうなったんだろうか。




 無遠慮に照らしつける月明かりが、路地に陰を作る。
 一歩歩くだけで、歩幅以上に、距離が離れていってしまうように思えてならなかった。

 いつもの角を曲がらずに、ヘッドライトが途切れ途切れに街路樹のシルエットを描く大学通りを
南へ歩く。
 鮎の部屋から、そして自分の部屋からも遠ざかる方向へ。

 どれだけの刻を費やしたのか。
 突然、歩道橋の階段が目に入ってきた。
 一旦立ち止まり、ゆっくりと登ってゆく。

 景観を損なう、と撤去を求める意見すらある歩道橋は足跡のかけらさえなかった。

 橋の中央に寄りかかり、北へ真っ直ぐに伸びる通りを見つめる。
 信号機に都会の夜光虫が灯り、少しだけ不揃いに発色を変えてゆく。
 行き付く先には終電も去った駅舎。
 きっと一人ぐらいは、ギターを抱える少年か少女がいるだろう。

 ここまでは、誰の声も届かない。
 ただ旋律が降りしきるだけだ。

 掬い取ることのできない旋律が降りしきり、墜ちてゆく。


 どうすれば、いいんだろうか。


 川原鮎。

「私、歌手になりたいんだ」

 夢を恥ずかしそうに口にする少女に、北の街で巡り逢った。

 短い夏が薄まる前に、好意が特別な想いになるには、欠けているものなどなにもなかった。
 彼の知りたいことは彼女の話したいことで、彼女の知っていることは彼の聞きたいこと。
 邦彦の好きなものを鮎は好きになって、鮎の夢は邦彦の夢になった。

「歌手になりたいって、ずっと夢見てた。
 だけど、邦彦さんと一緒にいて、歌手になるっていう夢を持つことができるようになったんだよ」

 その気持ちがたまらなく嬉しかった。
 愛しきひとのためにできることがあることが嬉しかった。
 どんな些細な手伝いしかできなくても、彼女のポケットに隙間があるなら自分の分身で埋めて
やりたかった。

 惜しむものなどなにもなかった。
 彼女の夢をいつまでも眺めていたかった。

 変わることのない夢を。
 変わることのない鮎を。


 全てを変えてしまったのは、自分。

 鮎の求めるままに感性を分かち合ってきた。
 それで絆が強まるから。
 愛が深まるから。
 罪と呼べない、誤りの始まりだった。

 彼の一部が彼女となって、彼女は街の賑わいを離れた丘で独りスケッチするようになった。
ずっと彼がそうしてきたように。鮎は気付いていない。それこそが商業的な成功を妨げようとしている
ことを。

 邦彦は知っていた。
 自己の感性がいつだって少数派であることを。
 誰もが輝く星に目を奪われる夜空を見上げながら、漆黒の空間に視線を注いでいた。
 だから、ジャーナリストを目指した。
 人と違うものを見て、人と違う言葉で訴えたいと。
 隠れているものを見るようにすれば、隠れていないものが見えなくなると読んだことがある。
 それでも構わなかった。それが夢だから。

 だけど、それは鮎の夢じゃない。
 鮎は少しでも多くの人に聴いてもらいたいと歌っている。

 あらゆる人に親しまれる音楽を作っていかなくてはならないのに、彼が歪めてしまった鮎の歌詞は
広く受け入れられないものになってしまっている。いいものを書こうとすればするほど、邦彦が好き
な、しかし難解で売れない詞になってゆく。だからこそ『イノセント・シー』のフレーズはプロデューサー
によってまとめられ、カップリング曲も契約直後に創作した『二人の水平線』が選ばれたのだろう。
マネージャーが邦彦の貸した本を遠ざけさせたのが疑いようのない証拠だ。


 邦彦の部屋には、買ってから一度しか聴いていないCDが1枚だけある。
 その歌手が初めて歌を生み出すところに彼はいた。
 次の歌も、その次の歌も、聴いているだけで世界的なヒット曲よりも気持ちを暖かくしてくれた。
 彼女が失敗作だと苦笑する歌も、完成することなく途切れたままの歌も、鮎を愛するように愛して
いた。

 初めて、そう思えない歌を聴いたのはテレビのCMだった。

 彼と彼女が過ごした過去をミキサーにかけられ、粉々に砕かれたような気がした。
 歌詞に出てくる名も無き男が、自分の死骸に思えた。
 いつだって鮎の歌には鮎と邦彦がいた。
 たとえ女の子だけが描かれた歌でも、そこに自分が繋がっていると信じることができた。

 だが『イノセント・シー』に、俺はいない。
 すぐにわかった。
 街角で流れるのを聴いて、もうひとつわかった。
 俺はもう鮎の歌にいてはいけないのだと。

 鮎には、才能がある。
 素敵な曲で人の心を滑らかに舞わせることができる。
 欠け落ちた切片を捜そうとする人の背中を歌声で押すことができる。
 もっと大きなステージから、オーディエンスの想いを
 胸一杯に浴びることができる。
 もうその階段を昇り始めているのだから。
 夢が叶い、夢じゃなくなった夢を失うこともない。

 邪魔をする存在さえなければ。


 彼は夜空を見上げる。
 都会の排気で曇る高みを見つめている鮎の姿がそこに浮かんだ。

 駆け戻って、ドアを叩き、出てきた鮎を抱きしめれば。
 彼女が知りたいことをすべて話せば。
 誤解を解けば。

 そうできたら、どんなにか、どんなにかいいだろう。

 たとえそうすることで、彼女に残るものが俺だけになってしまっても。

 鮎が、そうなってもいいと思うのはわかっていた。
 どんな結果になっても、俺を選んでくれるのはわかっていた。

 夢を置き去りにしてでも。


 そんなことは、させられない。
 鮎の夢を守ると決めたのだから。
 だから、彼は家路を辿り始めた。
 あらゆる愛の衝動を踏みにじりながら。







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