第19章 落葉樹の空疎



 夕焼けに染まる吉祥寺駅前。
 そこから少し離れたところにある小路に、鮎の長い影が落とされていた。

 彼と宮本のことを知ってから、2回目のデートの約束。


 8月最後の休日に、一度遊びに行けた。都内で映画でも見ようかと誘う邦彦に、頷けなかった。
どうしても、もっと遠いところで会いたかったから。

 日常の延長線から外れたい。
 そして、彼を知るのが自分だけの場所へ連れ出したい。
 そうすれば彼を独占できるから。

 そんな理由は言えないまま、横浜まで出て一日を過ごした。
 彼も時間があったからこそできたこと。
 中華街。外人墓地。港の見える丘公園。山下公園。
 脳裏にたちこめる湿った雲を吹っ切ってしまえるように、無闇にはしゃいでみたりした。
「なんか、ヘンだぞ」
 そう言われても、久しぶりのデートだからだよ、と笑ってみせた。
 そして、聞けなかった。
 彼も言わなかった。

 そして夜。くたくたに疲れきった帰り。国立駅を出て、これまでのように鮎を部屋まで送ろうとする
彼。ぐっと足を踏ん張り、その腕を強く引いた。彼がよろけるほどに。
「おいおい、なんだ?」
「今日は、うちは駄目なの」
「掃除してないのか?」
「そ、そう。だから、邦彦さん家に行きたいな」
 無理に浮かべた作り笑い。しかし、邦彦は暗かったこともあってか不審には感じなかった。
「ま、別にいいけど」

 嘘。
 嘘だった。
 全身から猛烈なまでの拒否反応が起こったのだ。
 彼を彼女に近付けたくない。
 それが些細な可能性でしかなくても、避けたくなった。
 彼に彼女のことを考えられたくない。
 隣室の前を通られるのも嫌だった。




 そして今日。

 大通りから一つ入った、小さなショッピングストリート。
 この街で待ち合わせをするのは初めてだった。

 時間が時間で、あまり遠くには行けないこの日。
「国立でなにか食べるか」
そう言う彼に、「どこか違うとこがいいよ」とせがんだ。
 家から近くて、彼の大学からも来やすくて、繁華街があって。そういうことで彼が吉祥寺を選んだ。
どこで彼女に出会うかわからない国立より、鮎にとっては好ましかった。

 通りの中央に立つ白い街灯。
 寄り掛かりながら、うつむき、石畳のモザイクへ視線を落とす。

 手首の時計を見る。
 2年前のクリスマスプレゼント。傷をつけないよう大事に使っていた。文字盤のサファイアガラス
には曇り一つなく、凍てついた札幌の大通公園で手渡されたときのぬくもりがまだ失われては
いないかのよう。
 でもこの日の朝、電池が切れていた。
 避けられるはずのないことだとわかっていても、たとえ大量生産されたボタン型電池にすぎなく
ても、二人の間にずっとあった存在が取り外され、捨てられ、新しいものに取り替えられることを
望んでいない自分を、拒絶して深海へ追いやらなくてはならなくなっていた。

 もう着いてもいい頃だ。

 駅の方向と、薄暮の空と、誰のものでもない二人の記憶を見つめながら鮎は待っていた。程なく
してやってきた邦彦は、いつもと変わりがなかった。

「お待たせ」
「少しだけ、待ったよ」
「手続きに時間がかかってさ。悪い」
「ん、平気だよ。行こうよ」

 すぐに彼の腕を取って歩き出す。
 歌手・川原鮎も、都会の雑踏ではありふれたカップルに溶けこんでしまえる。
 まるで東京に来たばかりの頃のように。
 まるで歌手でなくなったかのように。

 デパートを冷やかしながら歩き、ショーウィンドーのマネキンが纏う秋のファッションを眺め、ゲーム
センターで最新のマシンに挑戦した。なにをしていても、笑顔だけを浮かべて。

 食事の時も、話題が途切れることはなかった。ふとした言葉の間を、すぐに鮎が埋めるから。

 彼女は沈黙が恐かった。
 聞きたくないことがある。
 薄片で隔てられているそのことが、いまにもどさりと眼前に持ち出されそうだから。
 別のことを話していないと、そのことを彼が口にしそうだから。

 少しずつ賑わいを落としてゆく街路。
 いつしか日付は変わりかけ、星の見えない東京の空にも月色の輝きだけは美しくあった。

「そろそろ、帰らないとな」
「・・・うん」

 込み合う終電前の電車で国立へ。
 そして、今夜は鮎の部屋へと向かう。

 明日、北陸にいる邦彦の父が出張で戻ってくるという。それでは鮎を泊めるわけにはいかない。

 送ってもらわずに、途中で別れてもいい。
 送ってもらって、マンションの下で別れてもいい。

 そうすれば、彼が宮本と出会うことはないだろうから。

 でも、もっと一緒にいたかった。そばにいてもらうことで、抱えた不安が詰まらないことだと思い
たかった。なにも自分たちが変わっていないことを確かめたかった。
 彼にとっての川原鮎。
 彼女にとっての冴木邦彦。
 その絆が、どんな圧力にも姿を変えないことを確かめていたかった。


 歩く路肩の草むらからは、かすかに虫たちのノイズ。足音が人気のない住宅街に残す波紋。
中天に鎮座する満月未満が寄り添う長い影をつくる。握り合う手が、指が、針金が入れられている
ように強ばるのを鮎は感じていた。
 見上げた窓に灯っている明かりのせいで。

「なんか久しぶりだな」
 そう話す彼にも生返事のまま、足早に自室へ向かう鮎。本当に久しぶりなんだろうか。
 きっと、そうだ。
 そうだよ。

 3階の窓を炙る昼間の処熱もゆっくりと空へと帰っていった。
 夏はもう通り過ぎている。

 鮎が冷たいものを出して、CDをかける。テレビからはスポーツニュースが流れている。関心が
あるのかないのか、リモコンに手を伸ばすこともなく見ている邦彦。
 その背中を、幾度もすがり、抱き締め、心を預けた背中を言葉もなく見つめる。そして隣室との
壁に、どうしても視線は転じてしまう。

 あたしたちの声が聞こえるだろうか。
 階段を登る時の2重のタップが聞こえていたかもしれない。
 ここに彼がいることを知ったら、彼女はどう感じるのだろう。
 クリーム色の障壁。
 防音されていて、鉄とコンクリートで頑丈にしてある壁。
 なのに、まるで安物のガラスのように頼りない。
 声を出せば震え、指先で押すだけでひびが入り、あまりにももろく破れてしまいそう。

「・・・・・た」
「・・・・・・」
「・・・・・たんだよ」
 はっと意識を戻すと、しげしげと彼女の顔を見ている彼の怪訝な表情があった。
「え、えっと・・・」
「どうしたんだよ。疲れてるのか?」
「え、ああ、あの、ちょっとぼぅっとしちやった。大丈夫だよ」
「そうか?ここんとこ、なんかおかしいからさ。無理すんなよ」
「うん・・・・・」

 それから。
 隣室を意識するあまり、どうしても落ち着いて会話を成立させられないでいる鮎を気遣うように、
いつもよりゆっくりとしたペースで邦彦が会話をリードした。やがて、仕事のことが持ち出された。

「書けてないのか」
「・・・調子出なくって。ほら、ずっと忙しかったじゃない? ちょっとカンが鈍ってるみたい。でもそんな
に深刻ってわけでもないよ。うん」
 作り笑いを浮かべる鮎。
 いつか彼女は、自分を「いい気になってないと詞が書けないタイプ」と評したことがある。いい気に
なれない理由なんて、持ち出したくない
「次の歌は、じっくり時間取れるのか?作詞作曲に」
「これから急かされそう。秋のうちにもう1枚出すんだって。いいの作らないと一発屋で終わっちゃう
から、頑張らないと」
「そう、だな」
「『イノセント・シー』作ってわかったよ。作詞はまだまだ下手なんだなって。書いても書いてもボツに
された時は納得できなかったけど、無理に自分だけで書いた歌詞でデビューしても売れなかった
よね。川原鮎、まだまだ修行が足りません」
 『修行』と口にして鮎は、先日水上がここに来て最後に言ったことを思い出した。
 邦彦から借りた本を読むなと言われたことを。邦彦の反応を感じるより早く、「そうだ、ちょっと
聞いてよ」とあの時のあらましを詳しく話す。時々微かに首肯しながら、「それで?」と促す彼。
経緯を説明するうちに、まだ納得のいっていない鮎は幾分憤慨していった。
「そんなのっておかしいと思わない?何を読んだって悪いことないよねぇ。なんであんなこと言うん
だろう」
 テーブルに身を乗り出し、「そうだよなぁ」という言葉を当然に待つ。

 でも彼は返事をせずに、烏龍茶の入ったコップを手にする。
 融けて角のなくなった氷がくぐもった音色をつくった。
 唇とガラスの冷たいキス。
 そしてそのまま、喉を癒すこともなく邦彦はコップを戻す。

 エアコンの乾いた送風音だけが、時が止まり得ないことを確かなものにしようとしている。
 邦彦をただ見つめる鮎。
 鮎を見つめない邦彦。


 彼を見つめる彼女。
 彼女を避けるかのように、片膝を立てたまま伏せた双瞼を無地のカーペットに落とす彼。


 鮎は見つめる。
 かつて一度も見たことのないひとを。

 指先すら動かしてはいない彼。
 横顔に蒼い陰を浮かべて、石膏かなにかで塗りつぶしたかのような表情が軋む。
 頬の筋肉が、歯を食いしばったのかぴくりと動く。

 耐えている。

 苦しんでいる。

 悩んでいる。

 どうして?


「読むなって、言ったんだな」
 踏み潰された声が、彼方から聞こえた。
 すぐそこにいるのにそう感じるのは、呟くような口調のせいだろうか。
 それとも、どちらかの居場所が離れたからなのか。

 そんな寒気をまといつかせる考えを振り払いたい。違うことを話したい。でも、押し流されるように
答えていた。
「・・・・・うん。これまでのことを無にしたくないなら、とか、そんな風に言ったよ」
 見ることのできないところで、なにかが壊れかけている。
 そんな不安に逆らおうと取り繕う鮎。
「あの、でもね、そんなに深い意味はなかったと思うんだ。あたしが、勝手にそう取ってただけなん
だよね。きっと」

 しかし鮎の言葉の末尾は、立ち上がった邦彦の背中を追いかけていた。凍てついた無表情をその
ままに、ベッドの枕元に積んである本を手に取る彼。

 読み終わっていたのもあれば、手付かずのものもある。
 そして栞を差してあるものが。

 彼が栞を引き抜く。
 そして、無言のまま本を鞄に入れはじめた。
「邦彦さん?!」

「持って帰るよ」
「えっ!?」

「これは、ここにはない方がいいんだ」







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