第18章 湾曲する歌劇



 カレンダーがめくられると同時に、「イノセント・シー」はトップ50から姿を消した。発売から6週間も
チャートを維持したことで、どういう観点から分析されても鮎のデビューは大成功であった。

 毎週発売される音楽雑誌。いくつかには必ず名前が取り上げられていた。CMは既に秋の商品に
差し替えられているが、化粧品会社の上層部からも宣伝効果に満足したとの言葉が寄せられた。
シングルCDに同封されたアンケート葉書を見せてもらった。どれも悪意のない暖かいものだった。
ゴールデンタイムの歌番組に出て歌った。街角でサインをねだられた。

 求めていたすべてに手が届いた。

 そうして、膝の上の空っぽの両手を見つめる鮎がいた。




 その夜、都内での仕事を終えた鮎は、水上の運転する車で自室へと送られていた。空いている
高速道路を西へ。オレンジ色の照明がいつ終わるともなく車体を嘗める。ラジオから流れるジャズ。
「疲れてる?昨日もそうだったけれど、集中してないわね」
「・・・・・ごめんなさい」
 細い声は、追い抜いてゆくトラックの運ぶ轟音に掻き消されてしまいそうだった。
 自覚があるだけに、虚勢も張れない。
「キャンペーンが終われば楽になると言ったのは私だけれど、これだけヒットしたんだから、出して
それまでとはいかないわ。そろそろ次の展開にも入っていかないとね」
「・・・・・はい」
 わかっている。まだ始まったばかりだいうことが。でも、ステアリングを握る水上の手より上を、
顔を直視して返事ができない鮎だった。
「曲は書いているの?」
「やってはみてますけど、形にならなくて」
「忙しいから仕方がないわ。感性が錆び付かない程度に続けていればいいから。焦らないのよ」

 やがて車は鮎のマンションへ。
「あの、コーヒーでも飲んでいきませんか?」
 これまで何度も送られるたびに鮎は言っているのだが、いつも「いいから、ゆっくり休みなさい」と
遠慮されていた。今日もかな、と思っていたが、意外にも「そうね。お邪魔じゃなければ」と応じて
くれた。明日はどちらも仕事が休みだからだろうか。


 最近の習慣。
 階段を登る前に建物を見上げ、隣室に明かりがついているかを気にしてしまう。

 ついていた。


 お願いだから出てこないで。
 そう脅えながら階段を、廊下を歩き手早く自室のドアを開けた。

「どうぞ」
「お邪魔するわね」

 ほとんど変わっていない彼女の部屋。収入は増えたが、特に大きなものを買うこともなかった。
1本のギターと、洋服が何枚か増えただけ。

 欲しいものは、いろいろあった。自由な時間は少なかったが、隣街へショッピングに出向いたことも
あったのだ。国立の店には、あの人の視線が怖くて行けなかったけれど。
 衝動的に必要のないものまで買いたくなった。
 いつもなら見向きもしない店にも入った。
 欲しくもない物を手に取った。
 使い道のわからない道具。
 置き場所のない家具。

 意味のないものを買いたくて。
 自分を笑ってしまえるぐらい、バカなことをしたくて。
 そうすれば、そうすれば、粘つくこの不安も些細なことになってしまうのではないかと。

 でも、遣ったのは電車代だけ。
 新しい存在が、目に見えないものだけでなく部屋をも変えてしまいそうだったから。
 この部屋が変わったら、もう変わらずに残されている場所はなくなってしまいそうだったから。


 腕時計を外したりして身軽にした鮎はキッチンに立ち、ありあわせのクッションに座ってもらった
水上に「コーヒーでいいですか?」と尋ねた。
 初めて入った鮎の部屋を見回しながら、「そうね。薄くしてくれれば」と水上。
「もうこんな時間ですもんね」
 フィルターとコーヒーを棚から取り出しながら、もう日付が変わっていることを考える。マグカップに
手を伸ばしたところで、凍ったように動きが止まった。逆さにして並べてある色違いのカップ。
 ブルーが鮎の。
 そしてブラウンが。


 もう一つ、用意しておけばよかった。


 また、失くしてしまった。
 昨日という日を。

 そう思ってしまう。
 まるで、時が限られたものであるかのように。


「どうしたの?」
 不意に静かになったキッチンに、水上が声をかけた。慌ててカップを手にする鮎。
「なん、なんでもないです。いま持っていきますから。そうだ、テレビでも見ていてください」
 一旦キッチンを出て、リモコンのボタンを押した。


 小さなテーブルに湯気の立ち昇るカップ。
 二人の吐息が煙を千切らせる。
 テレビをBGMに、しばらくは会話のない時間がそっと流れた。
 誰かが誰かを気遣って。

 TVがCMになったところで、水上が首を回して室内をひとわたし眺めた。
「綺麗に片付いているわね」
「そうですか?あまりここにいないから散らかりようもないんですよね」
「誰とは言えないけれど、とても住んでいられないような有様の子もいるのよ」
「女の子で?」
「そう。以前私がついた子でね。寝坊したのを迎えに行ったら、足の踏み場もなかったわ。床が
見えなくて」
「はぁ〜」
「高級なマンションだったのに、あれじゃ意味がないわね」
 くすっと笑う彼女。
 一緒にいて、少しずつわかってきた。
 こういう時の水上は、すごく魅力的だと。
 27歳という年齢でお姉さん的な風貌なのに、若いというよりむしろ幼い表情をふっとする。
 どうして独身なんだろう。
 きっと仕事をしすぎているからなんだろうな。

 少なくとも1日休めるという安心感からか、
 腰を据えてお喋りをする二人。
 ペットボトルやチップスも加わり、張りつめたもののない話題が泡沫的に蛍光灯の下を舞った。

 時計の針がL字型になる頃、水上が時間に気づいて驚いた表情を浮かべた。
「こんなに遅くなってたのね。そろそろ失礼するわ」
「あ、引き留めちゃいましたね」
「いいのよ。寛げたから」
 残っていたジュースを飲み干す水上。
「泊まっていってくれてもいいですよ。でも、布団が一組しかないんですけど」
 悪戯っぽく言ってみる。
 いくらか強ばってしまった膝をゆっくりと伸ばして立ち上がる水上。
「ふふっ、それじゃ遠慮するわ。そんなに寝相に自信はないの」
「あたしもです」

 その時、ベッドに向けられた水上の視線が集束した。
 胸元を突かれたように、息を呑む。
 去来する色褪せたはずの記憶。

「・・・・・この本は、あなたの?」
 枕元に積み重ねてある本を一冊手に取り、尋ねる水上。
「いえ、彼に借りてるんです」


 それは、彼自身が影響を受けたと言う古い詩集や小説。
 1960年代、アメリカで「ビート」という思想運動が生まれた。マッカーシズム(反共産主義)や
ベトナム戦争によって世論が国家への献身や忠誠を求めた時代に、精神の自由や解放を目指して
方法にとらわれずに新しい文化を創出していったのか「ビート」だった。

 「ビートニク」と呼ばれたビート詩人たちは、伝統と大学に閉じこもっていた言葉を、路上に息づく
脈動するものへと取り戻した。ビートルズやボブ・ディランといった音楽界の巨人は「影響を受けた」
というよりこの運動の先駆者であり、当時の若者の心を強く揺さぶっていた。

 鮎には、難しい背景のことはよくわからない。
 ただ、自分の頭にはまるで存在していなかった手法に好奇心以上の魅力を感じていた。
 時に読みずらく、荒々しく、下品ですらある。
 日本的に言う、いわゆる花鳥風月を題材になどせずに都会の路地や新聞の三面記事の舞台を
鷲掴みにして使う。

 最初は理解できないこともあった。
 ただ、彼の好きなものを好きになりたくて読み続けた。

 印刷された文字がのしかかってくるような存在感。
 やがてそこに、細密な技巧に裏打ちされた芸術性が隠れているのをわかるようになった。
 そして、彼が好きな理由も。


 水上はベージをめくるでもなく、ただ表紙を見つめている。視線はそのままに、尋ねる。
「読んでいるの?」
「はい。すごく参考になるし」
「いつから?」
 矢継ぎ早の質問。さっきまでの和やかな口調ではない。エアコンの温度が下がりすぎたように、
冷えた空気。
「・・・・・いつから?」
 戸惑って言葉に詰まった鮎に、もう一度聞く水上。
「こっちに来てから・・・・・ですけど。彼の家に行った時に、貸してもらってるんです」
 言葉を濁したいけれど、わけもわからないまではそれもできなかった。
 事実を言うだけ。
 彼は、「読んでもつまんないぞ」と渋ったが、言葉の使い方で邦彦に追い付きたいと思って、借りて
いたのだ。
「そう・・・」
 まだ本の表紙を見つめたまま、僅かに唇だけを震わせる彼女。

 それっきり、なにも言わない。

 喉を締めあげる無形の手のような沈黙にこらえきれずに、鮎から尋ねる。
「水上さんは、こういう本読むんですか」
「読まないわ」
 返事に、どこか苦い感情が篭っていた。
 まるでなにかを断罪するような決意。
 すがりつく何者かを振り捨てるような厳しさ。
 そして・・・・・
 そして、その横顔は哀しみの陰影を隠せないでいた。

 違う時間へ意識を漂わせていた彼女。
 その視線はもう本を透過して、巻き戻されたフィルムを追っていた。訝しむ鮎が表情を窺っている
のに気づいたのは、10秒ほども過ぎてからだった。

 元あった場所へと本を戻す。
 そして正面から鮎へ向き直る。

「こういう本は読まない方がいいわ」

 鮎より長身の彼女はどうしても見下ろすようになる。
 この時は、単なる位置関係以上に押し付ける感覚を伴っていた。

 これまでになかった烈しさに面食らう鮎。二の句が告げないまま、畳みかけられる。
「彼に返してしまいなさい」
「そんな、別におかしな本じゃないし・・・・・」
 もっといい歌詞が書けるようにと、勉強のつもりもあって目を通している。読むなと言われるのは
心外だった。
 しかし、水上は妥協しない。
「あなたのためにならないから言うのよ」
 確信的に断言する。
「わかんないです。理由が。どこがいけないんですか?」

 その問いに、初めて水上が顔を背けた。

「言ってもあなたは納得しないわ。とにかく、この手の本は読まないこと。これまでのことを無駄に
したくないなら」







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