第17章 単色のモザイクと細片



 初めての東京の夏は、鮎には耐え難い拷問のように毎日襲いかかってくる。
 話には聞いていたが、これほど気持ちの悪いものだとは。想像を遥かに、軽々と越えていた。
屋外へと出る度に、まるで札幌とは別の太陽があるような夏空に恨みがましい目つきをしてみる。
もちろん目が痛くなるだけで、涼しくなるはずもない。

 シングル発売以来、大手の雑誌などからの取材やテレビ出演の仕事が続々と舞いこんできた。
可能な限りスケジュールに組み入れられ、どこでもそつのない結果が出せたと自分では思う。
シングルの売り上げは2週目以降もがくりと落ちこむことはなく、トータルで10万枚台を越えるのは
確実と見られて、既に再生産・再出荷の手筈が整っている。

 会社のマーケティング部門からの分析では、この夏が例年以上に猛暑であったことが幸いしたの
ではという意見があった。シンプルで清涼感のある「イノセント・シー」は他の情熱的な歌と一線を
画し、精神的な身軽さ、静けさをリスナーが求めたのではないかと。

 鮎には、そういうことはよくわからない。
 数多くの人が聴いて、口ずさんでくれていることにまだ現実感がない。

 発売初日のサイン会には長い列ができた。男女比率は半々ぐらいだったように感じた。サインを
し、渡し、握手。一人一人の顔など脳のはじっこにも残っていない。

 カラオケボックスにでも行って、隣の部屋から聞こえてきたりすれば感慨も湧くのではないかと
思うが、連日の仕事はそんな時間をくれはしない。

 邦彦とも、発売以来会ったのは一度だけ。お祝いにフレンチの夕食をご馳走してくれた。会社から
かかってくる電話に度々邪魔されながらも、白ワインの酔いと料理と心地よい空間にいることが
できた。

 この日は、今月最初の休日。
 もちろん彼と一緒にいたかったが、どうしてもアルバイトが休めないと断られてしまった。
 彼女も、自室をぐるりと見回すだけでデートしている場合ではないことが自覚された。

 洗濯ものの堆い丘。
 電気の無駄遣いになってほったらかしの冷蔵庫。
 捨てるチャンスを逃し続けた燃えないゴミ。
 ステレオの上にはうっすらと白い埃。
 テレビの画面に字が書ける。

 掃除しよう!

 昼前にようやく目覚め、そう決意して鮎の格闘は始まった。

 玄関からユニットバス、ベランダまで手を抜かない。
 入居当時に近付けた頃には、もう3時を過ぎていた。
 吹き出していた汗を、天井まできれいにしたユニットバスでシャワーを浴びて洗い落とす。

 完璧!

 部屋の中央で仁王立ちになりそう自賛すると、
 今度は胃袋が空腹感を主張しはじめた。

 何か買ってこよう。夕飯の材料も。
 その前に、ちょっと寄っておくところがあった。アルバイトしていたCDショップだ。

 プロデューサーの沢井と会社の上層部が話し合いをして、鮎の収入が改善されることになった
のだ。住居費は会社が経費として落とすことになり、月給も以前よりかなり増えるのだ。自社所属の
ミュージシャンで、これだけヒットしていながらアルバイトで生計を立てているというのはあまりにも
事務所として外聞が悪い。実際問題、これからの活動を考えるとアルバイトなどさせている余裕も
ないのだ。

 休職扱いになっている店を、正式に辞めなくてはならない。

 いつか邦彦さんが教えてくれた評判の和菓子屋でお土産を買い、発売以来初めて職場へと
足を運ぶ。
 まだ鮎関係のPOPが大きく設けられていた。

「あっ、川原さん!」
 店内に入る前に、従業員の女の子が彼女に気づいた。
「店長、川原さん来ましたよ!」
 その呼び声に応じて店長も奥から出てきた。
「どうも、御無沙汰してました」
 気さくな店長は、いつも以上に陽気に挨拶に応じた。
「いゃあ、すごいね売れ行き。おめでとう」
「ありがとうございます。あんな立派なのまで作ってもらっちゃって。みんなのおかげです」
 満足気にPOPを見て頷く店長と同僚の子。
「今日は、ゆっくりできるの?」
「はい。あの、実はお話がありまして・・・・・」

 鮎が事務室で事情を話すと、店長は残念がりながらも事情を理解してくれた。これからも鮎が
ここでアルバイトしてくれたら、それだけで抜群の宣伝効果があるが、反面どんな混乱を招くか
予想もつかない。歌手としてやっていける見込みが立った以上、やむをえないことだ。
「辞められちゃうなら、あんなに売っちゃうんじゃなかったなぁ」と笑う店長だった。

 お菓子を置いて、別れを告げて帰ろうとする鮎を、「あ、ちょっと待って」と同僚が呼び止めた。
「あの、これって余計なことかもしんないんだけど・・・・・」
「なに?」
「今でも、あの彼氏とつき合ってるの?」
「うん。そうだよ」
何度か彼が鮎を迎えに来たことがあるし、街を二人でいるところをこの子に見られたこともある。
「あたしの勘違いかもしれないし、なんでもないことかなとは思うんだけどね・・・・・」
「邦彦さんがどうかしたの?」
 潜めた小声で話されると、なにかいけないことがあったみたいだ。変なの。
「川原さんのシングルが出た日に、ここに買いに来たんだけど、その、女の人と一緒だったの」
「え・・・・・」


 笑ってしまおうとした。
 でも、未完成の笑みは不自然に硬直した。
「どんな人、だった?」
 喉元にぐにゃりとした悪寒がこみあげる。同僚は気付いただろうか。
 思い出しながら説明をする彼女。
「なんか髪が長くてね、背が少し高めで、綺麗な人。女優の○○に似てる感じ。30分ぐらいは
いたよ」

 啓示のように、名前と顔が意識野に広がった。
 あの人だ。

「・・・・・それなら、あたしも知ってる人だよ。だから、別におかしなことじゃないよ」
 僅かばかりどこかに残っていた平静さをかき集め、そう声を押し出して鮎は答えた。
「そうなんだ、ごめんね。変なこと言って。これからも頑張ってね。応援してるよ!」


 行路病者にも似たおぼつかない足取りで、彼女は夕刻に賑わう街路から遠ざかるようにただ歩く。



 『おかしなことじゃない』
 本当にそうかもしれない。
 そうに決まってるよ。



 でも。





 まさか。
 まさか。
 まさか。



 そんなはずない。
 偶然かなにかに決まってる。
 「一緒だった」と言ってたけど、一緒に来て一緒に帰ったとは言ってなかった。
 たまたまあそこで会っただけかもしれない。

 そんなはずはない。


 でも、どうして。
 どうして話してくれないんだろう。
 「こないだ宮本さんに会ったぞ」って。
 「CD買いに行ったらばったり」って。

 忘れてたから?
 話すほどのことじゃなかったから?
 話題にならなかったから?




 話したくないから?
 話せないから?


 聞いてみればいい。
 電話して。
 会って。
 聞いてみればいい。




 なんて聞けば、いいんだろう。
 「宮本さんと一緒にいたの?」
 「宮本さんと会ってるの?」
 「宮本さんと会うのはどうして?」
 「宮本さんと、会ったことをどうして言わないの?」

 「宮本さんと、どういう関係なの?」

 聞けない。

 でも聞かないと。
 どうしよう。
 どうしたらいいの?

 いつだって彼は、他の女の人に気を取られたりしなかった。
 海に行っても、鮎よりスタイルのいい美人がいても眉一つ動かさなかった。
 大学の友達と遊びに行くこともあった。
 写真を見せてもらうと、女の子と一緒のシーンもある。
 でも、疑惑なんて感じなかった。
 友達だと彼が言うから。

 疑惑?


 あたしは、彼を疑っている?

 疑っている・・・・・



 ふっと気づくと、見たことのない場所にいた。
 大学通りをただ南へと歩いていたようだ。
 団地と街路樹に囲まれた公園がある。


 帰ろうか。

 振り返って部屋のある方角へ顔を向けてみた。

 帰れない。

 彼女と出会うのが怖い。

 だから帰れない。

 熱に浮かされた体をぎくしゃくとさせながら、鮎は木陰のベンチに歩み寄った。


 あたしが誤解してるだけだ。
 彼が浮気するとか、二股をかけるとか、そんな人じゃない。
 ただ、人に優しいだけ。
 琴梨にだってそうだった。
 3人でいるときも、あたしだけを構うようなことはしなかった。
 でも、ちゃんとあたしだけを特別にしてくれていた。
 あたしだけに、誰にも見せない表情をしてくれていた。

 そう。
 そんなことが怖いんじゃない。

 邦彦さんの気持ちが、あたしから離れてゆきそうなのが怖い。

 なかなか会えない。
 会っても少ししか一緒にいられない。
 仕事中は電話もできない。

 遠距離恋愛の時は、それでもよかった。
 手紙でも電話でも、いまよりもっとコミュニケーションがとれていたし、お互い次に会える日を
待っていられた。
 遠距離恋愛から、身近な恋愛になれる日を待っていられた。

 こうして同じ街に暮らすようになって、意味があったのって最初の一ヶ月ぐらいだった。
 もっともっと、一緒にいられると思っていたのに。
 彼も、そう思っているんじゃないだろうか。
 失望しているんじゃないだろうか。

 東京に来たら、あそこに連れていく。
 一緒にこれをしよう。
 こんな店があるんだ。
 ずっとそんな話をしていた。
 でも、どれだけ実現しただろう。




 だから、だから彼女と・・・・・




 宮本未来さん。
 あたしより、すごく綺麗なひと。
 スタイルだってとてもかなわない。
 きっと優しいし、落ち着いてて控えめで、男の人に好かれないはずがない。
 邦彦さんと同い年だから、あたしより話が合うかもしれない。
 同じ大学生だし。

 なにより、時間があるはず。

 自分が彼と一緒にいられなかった時間。
 そのすべてに、彼女が関わっていられた。

 その時間の多さに、身震いするほどの恐怖を感じた。

 CDショップに二人でいたのはほんの氷山の一角で、何度も何度も会っていたかもしれない。
彼だって忙しいけれど、デートする時間はあったはず。


 仕事が落ち着いて時間が取れれば、こんなこと問題にもならなくなる。
 そう信じこもうとする意志を妨げるものがある。

 彼に近づいてほしくない。
 世界中のどんな女性でも。
 あたしの彼だけでいてくれないといやだ。
 これまでそうだったように。


 視界の隅に、手をつないで歩く高校生のカップルがいた。
 なにもかもが違うのに、邦彦と宮本がそうしている姿がオーバーラップされる。
 なにかが、彼女の拳を爪が食いこむほどにも硬く握らせる。



 どうしたらいいんだろう。



 空っぽの胃が、反逆を起こしそうだった。
 苦い嘔吐感を堪える。
 融けた氷のように冷たい汗が適下して、膝に落ちた。
 枯れてゆく瞳からこぼれないものの代わりに。



 陽は陰る。
 遠くで、雷鳴が轟いていた。







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