第16章 カーテンが遮る太陽



 運命の日。

 そう言うと、大げさなのだろうか。

 7月25日。「イノセント・シー」発売。

 この日、鮎は渋谷、新宿といった繁華街にある量販店のブースでサイン会を行うことになって
いた。もちろん邦彦には会えない。

 朝、まだ明けたばかりの街を駅へと歩く。まずは会社へ行かなくてはならない。

 今この瞬間、邦彦さんがいてくれたらな。
 川原鮎のヒストリーに、大きく赤色で記される日に、ここに。でも、それはわがまま。
 彼には、したいことがいろいろある。将来の夢だって決まってる。お金を貯めるために、いつも夜
遅くまでアルバイト。学校が夏休みだと、いつも以上に出勤している。
 今ごろは夢の世界で夢を叶えているかな。

 あたし、頑張ってくるよ。
 彼の家があるはずの方角を見つめた。



 それから2時間ほど経って、電話の着メロで邦彦は目を覚ました。ビートルズ好きを象徴する
ように、選曲は「She loves you」。タオルケットを押しやり、ベッドから這い出す。

 ステレオのタイマーに目をやる。
 10時前。
 誰だ、こんな時間に。

 彼が夜型の生活サイクルなのは友人ならみんな知ってる。午前中に携帯にかけてくる奴なん
か滅多にいない。バイト先からか? 急に抜けた奴がいるから入ってくれとか。やれやれだ。

 机の上の携帯を取る。
 液晶画面に名前がない。番号だけだ。
 誰なんだ。
「はいもしもし」
 幸か不幸か寝起きは鮎と違って抜群に良く、ぼやけた声を出したりしない。
「あの、冴木さん?」
 女性の声。店で昼間働いているパートさんかな。
「そうだけど」
「あの、私、宮本です。わかります?」

 彼女からかかってきたのは初めてだった。冴木からかけたこともない。というより、番号を教えは
したが彼女のは聞いていない。

「あぁ宮本さんか。わかるわかる。どうしたの?」
「あの、寝てました?だったらごめんなさい」
「いや、起きたとこ」
 気兼ねさせたくないという性格からか、ついこんな風に応じてしまう。相手が鮎なら、「寝てたに
決まってるだろうが」と苦笑いして言うところだが。

「よかった」
 初めてかける相手だから、緊張していたのだろうか。
 声が一段階ほど柔らかになったようだ。
「あの、今日って彼女のCDの発売日ですよね」
「そうだよ。覚えててくれたんだ」
「もちろんよ。それでね、今日、冴木さんも買いに行くんでしょう?」
「ああ。売り上げに貢献しないとな」
 鮎に言えば一枚ぐらいタダで貰えるのかもしれないが、やはりちゃんとお店で買ってやるべき
だろう。

「あたしも買いに行くつもりなの。よかったら、一緒に行かない?」
 そういう用件か。
「買いに?まぁ、別にいいけど」
 一緒に行くほどのことでもないんじゃないかと思うが、鮎のCDを買ってくれるのだから断るべき
話でもないだろう。
「じゃ、11時にあそこの交差点で待ち合わせでいい?」

 眠いことは眠いし、バイトの疲れも残っている。あいにく一度起きると眠れないタチの邦彦は、
とりあえず顔を洗って支度をすることした。

 鮎は今、サイン会の真っ最中かな。
 書棚の一角にある色紙。
 曲線と直線の奇怪な文様。
 余白に、『川原鮎のサイン第1号!』と似顔絵入りで書き込まれてある。

 頑張れよ、鮎。


 待ち合わせ場所に自転車を乗り付けると、そこにはすでに彼女が待っていた。腕時計に目を
落として、「時間ぴったりなのね」と驚いた表情を見せた。
「ずっとこの街に住んでるから、だいたいわかるよ。信号待ちもないしね」
 くすっと笑う宮本。
「おかしなこと言った?」
「ううん。遅刻されなかったからちょっと嬉しかっただけ。行きましょ」

 鮎のバイトしていたCDショップはそこからすぐ。エスカレーターで、地下1階へ降りる。
「すごいわね。こんなに」
 宮本が思わずそう洩らすほど、大々的に特設コーナーが設けられていた。

 棚の幅1メートルほどが独占されて、ポスターとシングルCDが上から下まで「イノセント・シー」
一色だ。
 中央のポスターには鮎の直筆サインが入っている。張ってある紙を読むと、先着5名までには
サイン色紙がつくらしい。鮎がいつの間にか立ち寄って、書いていったのだろう。

 手作りにしては意外なほどに丁寧に手が加えられている。
 この店の人と、冴木は面識がない。ずっと利用はしてきたが、鮎を迎えに来た時に挨拶をした
ことがあるぐらいで知り合いはいない。だが、名前も知らない鮎の同僚たちに感謝の言葉を告げ
たくてならなくなった。

 あとから入ってきた若い男性客が、1枚を手に取ってレジへ歩いていく。
 こういう光景が、日本中の販売店で繰り返されているのだろうか。
 恋人、川原鮎。
 そして
 歌手、川原鮎。
 もう、鮎の歌を独占することはできないんだな。

 この歌が理由で。


 宮本が、沈思する邦彦の腕を突ついた。
「ね、冴木さん?」
 慌てて現実に駆け戻る彼。
「買いましょ」
 彼女の手には2枚のCD。1枚を彼へと差し出す。
「もっと買う?」
「1枚しか買わないよ。俺が10枚買ったところでチャートを左右するわけでもないし。
それに、まぁ・・・・・」
 言う必要のないことが頭に浮かんだ。
 話すわけにはいかない。
「そんなにあってもしょうがないし」

 変な間が開いてしまった。それを嫌って、邦彦から言葉を次いだ。
「他にも何か買うの?俺はこれだけだけど」
「あたしは、他にも探しているのがあるの。一緒に見てくれない?」
「ああ」
 彼女の好奇心は反応しなかったようだ。

 彼女の足はジャズのコーナーへ向かう。意外な感じがして、尋ねてみた。
「ジャズを聴くの?」
「ええ。そうよ。だってジャズピアニストになるのが夢なんだもの」
 棚から数枚を選び出し、裏面や帯の文字を追う彼女。
「クラシックじゃないんだ」
「よく言われるわ。あまり似合わないって。でも、譜面に縛られずに自由に弾きたいの。変わってる
でしょ。女でジャズなんて」
「確かに」
 あっさりとした返事。

 彼女はこれまで同じようなことを何人かに話した。返事もいつも同じようなものだった。『確かに』
なんて言った人はいない。

 遠慮のない言い方。
 驚くよりも、可笑しくなってしまった。
「・・・・・ここはそんなことないって言うところよ」
「実際少ないよな。CDでも」
 棚を左から右へと指さす彼。
「男ばっかりだし。でも、女にジャズができないなんてのは偏見だな。芸術的センスと技術の有無で
決まるものだろ。見た目だとクラシックが似合うって思うけどね」
「そう見える?」
「俺の印象では。お淑やかで優雅な鍵捌きってのが得意そうだなとか勝手に思ってたから」

 素人が女性ピアニストに抱くイメージはたいていそんなものだろうと思うが、特に彼女にはそう
思わせる静寂な背景が感じられた。

 だが彼女はさもおかしそうにくすくすと笑った。
「そんなお淑やかじゃないわよ。けっこう子供の頃からおてんば娘で鳴らしていたんだから」
「男の子を泣かせたり?」
「そうそう。見た目で判断すると痛い目に合うかもよ」
 髪をかき上げる仕草を時折交えながら、CDの棚を渉猟する彼女。
 じっと見つめないようにしながら、初めて邦彦は彼女の横顔を「鮎の隣人」としてではなく観察
していた。

 話してみないとわからないものだな。
 そんな感慨を抱きながら。

「冴木さんは、ジャズって嫌い?」
「そんなことはないよ。ロックばかり聴いているけど、ジャズとクラシックとロックは音楽の中でも特に
価値があるって思ってるからね。何枚かアルバムも持ってるし」

 彼は今年の春、ニューオーリンズを旅したことを話した。
 ジャズの故郷であり聖地。
 彼女は瞳を輝かせて聞き入った。

「関心ない男の人って多いのよね。とくに大学だと。クラシックじゃないと音楽じゃないみたいなことを
言うのよ」
 音楽家の一部には、かなり古い体質が残っている。邦彦にも想像がついた。
「そいつはロックにもジャズにも失礼だ」
「ね、そうでしょ。今度、学園祭であたしもステージに出るの。もちろんジャズを弾奏するんだけれど、
好意的に聴いてもらえるかどうか心配なの」
 そう言って瞼を伏せる。
「いい演奏すれば大丈夫だよ」と邦彦。
「いい演奏すれば、って、結構難しいのよ。それって」
「だろうね。わかんないけど」

 無責任なような言い方。それでいて無感情ではない邦彦の言葉が、彼女にはありふれてなく
聞こえる。
「あの、冴木さん?」
「ん?」
「よかったら、学園祭に聴きに来てくれないかしら」

 やがて二人は会計を済ませ、特別サービスで3倍になっているスタンプを押してもらって店を出た。
色紙はもう残ってないらしい。その背中に注がれる視線のことは、まるで気がつかないまま。

 太陽は中天に近づき、エアコンの効いていた店内とは別の世界が路上に広がっている。木陰の
多いこの街でも、東京独特とも言えるじっとりとした不快感はいくらも減りはしない。
「暑くなりそうね」
「自転車にはつらい季節だよ」
 鍵をポケットから出して外す邦彦。
 さて、どこかで・・・・・
「宮本さん、お昼をどこかで食べないか?」




 一週間が過ぎた。

 鮎には宣伝のための仕事が続き、邦彦ともなかなか会えない日々が続いた。

 そしてチャート順位の発表がある。

 すでに社内では当初の予想以上の売れ行きだと噂になっており、鮎の耳にも入ってはいた。
彼女には、順位よりも枚数が気になる。この国の男女の何人が、お金と引き替えにしてでも自分の
歌を必要としてくれたのか。それを知りたくて、そして恐い。

 夜、都内での仕事を終え会社へと戻る鮎と水上。タクシーはラッシュも終わったオフィス街を走る。
水上の携帯が鳴った。
「はい。水上です。・・・ええ・・・はい・・・・」
 相手の話を聞きながら、鮎に頷く。チャートの話だと。
「はい。ではこれから戻ります」と、電話を切って微笑んだ。
「10位よ。おめでとう」

 10位。
 信じ難い数字だった。
 7月は、かなりの大物ミュージシャンがシングルを次々とリリースする。海岸で流されるポップソング
を、若者達が待っているのだ。その中で新人の鮎がベストテン入りするというのは、快挙という言葉
では足りないほどだ。

 第1週での売上枚数は7万枚を越えた。
 業界の停滞期である1月や2月ならトップを狙える数字である。

「どう、感想は」
 問われて、はっと我に返る鮎。
 感想。
 どうあたしは感じているんだろう。
 嬉しいし、すごいと思うし、どこか信じられないし、戸惑いもある。
 浮かんでは混ざってゆく感情で、どれが一番大きいだろう。

 不安。

「・・・・・まだ、よくわかんないです。実感が沸かなくて」
 触れられたくない。
 そう思った鮎は、当たり障りのない返事をした。
 水上はなにも気づかなかったようだ。
「無理もないわね。会社では、お祝いの準備をしているそうよ。社長以下、盛り上がっているみたい」
「社長もいるんですか?こんな時間に?」
 まだ数えるほどしか会ったことはない。
「もちろんよ。うちみたいな中堅のプロダクションでは、なかなかトップ10入りはできないもの。
金一封くらいは期待していいわよ」
「そう、なんですか」
 正直、社長のことはどうでもいい。話題が変わるように反応して見せただけだ。

 10位。
 ここまで夢中でやってきた。
 売れなかった時のことばかり考えて。
 もう、そんな心配はしなくてもいい。


 不安。


 会社のフラットで、一番大きな部屋に高らかな声が響く。
「今日は内輪での打ち上げということで社内でやりますが、改めて『イノセント・シー』のヒットを祝う
席も持ちますので、みなさまひとまず、これまでの仕事が報われたことを・・・」
「早くしろ〜」
 どっと笑いに沸く一同。
「え〜、せかされてますので、では、社長に乾杯の音頭をお願いします」

「では、乾杯!」
「かんぱ〜い」

「おめでとう、川原さん」
「ベストテン入りに乾杯!」

 沢井もいた。

「沢井さん。今回は本当にありがとうございました」
「いいデビューができたな。これからもっと上を狙ってやっていこうな」
「はい。お願いします」



 不安。



 氏家は、かなり時間がたってからやってきた。

「氏家さん、お久しぶりです」
「10位はたいしたものだよ。よく頑張ったな。
これからもいろいろあるだろうけど、困った時はいつでも声を掛けてくれていいぞ。な?」
「ありがとうございます。氏家さんのお蔭です。これからもご指導をお願いします」




 不安。




 今、どうなっているんだろうという不安。
 これからどうなるんだろうという不安。

 幾何学倍数的な速度で、不安が膨れてゆく。
 蟻走感が手の届かないスピードで肌を駆け巡る。
 人造大理石の床が、地震の時のように頼りない。
 わからないところで川原鮎という存在が切開され、分解され、もともとあったものが外されて
べつのなにかを取り付けられているような違和感。
 ここにあたしはいる。
 なにの、他のところにも別の川原鮎がいるみたい。
 そして、どんどん増えてゆく。
 あたしはここにいるのに。
 ここにしかいないのに。





 不安。












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