第15章 昨日なき放浪から



 母の手料理と懐かしい寝心地のベッドと布団で過ごした一晩は、いくらかの睡眠不足を補って
余りあるものだった。
 ちゃんと布団は干されてあった。
 部屋も掃除が行き届いていてホコリが積もったりしてなかった。
 来るかどうかわからない娘のために、母ができるだけのことをしてくれていたのがすぐにわかった。

 朝6時半、ご飯に味噌汁にという慣れ親しんでいて、上京以来自分では再現できなかった朝御飯
を食べていると父が帰ってきた。

 いつもは、すぐに風呂に入って寝てしまうのだが、今日は食卓にどっかりと座った。昨夜の賑わい
で疲れているだろうに。

「おかえりなさい」と箸でアジの切れっぱしをつまんだまま鮎。
「ああ・・・・・おい、お茶」
「はい」
 母が父愛用の湯飲みを取りに台所へ行った。

 新聞を手に、注がれたお茶を飲むでもなく湯呑を持ったり離したりの父。
 鮎はほどなくして朝食を平らげた。
 以前は食器を自分で台所に持っていったものだが、今朝は母がやってくれる。少しでも楽をさせ
たいのだろう。

「鮎」
 立てた新聞紙の向こうから、やっと父が口を開いた。
「調子は、どうなんだ」
「ん?仕事の?」
「まぁ、いろいろだ」
 新聞を読んでいるように見せたいのだろうか。頭も視点もぜんぜん動かないので、読んでいない
のはすぐにわかる。
「いい感じだよ。うまくいかない時とかもあったけど、なんとかここまでこぎつけたし」
「周りの人とは、うまくいっているのか」
「うん。仕事できる人がいっぱいいるし。彼もいろいろ助けてくれてるんだよ」
「そういう人たちの事は、ちゃんと考えておくんだぞ。お前一人でなんでもできるんじゃないんだから」
「うん」
 父は新聞を畳み、お茶をぐいっと飲み干した。


 7時。水上が迎えに来た。
 昨日のうちに鮎が渡した手書きの地図で、迷うことはなかったようだ。
「それじゃあたし、行くね」
「ああ」
 荷物を手に鮎が座布団から腰を上げ、玄関へ向かうと、父も後ろからついてきた。

「おはようございます」
「いつも娘がお世話になっております」
 玄関では母と水上さんが深々と頭を下げあっていた。

「おはよう川原さん。もう準備はいい?」
「はい。もう出れます。あ、お父さん。この人が、あたしのマネージャーをしてくれてる水上さん」
「はじめまして、水上です」

「娘を、よろしく頼みます」
 そうしてたっぷり5秒ほどは頭を上げなかった。
 自分の手から離れてゆく娘への、言い尽くせない愛情の無骨な表現だった。


 見送られないのは寂しいけれど、見送られたからといって辛くなくなるわけじゃない。

「行ってきます」
「体に気をつけるのよ」
「しっかりな」

「うん」

 タクシーが角を曲がるまで、家の前で母は手を振り、父は後ろ手に組んだまま見じろぎもしない
のを窓から身を乗り出して鮎は見ていた。窓枠に腕が当たるの構わずに彼女も手を振り続けた。

「じゃ、東京に帰るわよ」
「はい」


 空路、羽田へ。
 そして会社に直行。
 水上が上司に報告をする間、鮎は完成したプロモーションビデオやCM、そしてまだ店頭に並んで
いないシングルCDを見ていた。

 白いプラスチックの枠。
 紙のジャケット。
 収められたディスク。

 刻印された自分の名前に、どうしても視点が留まる。

 AYU KAWAHARA
 1、イノセント・シー
 2、二人の水平線
 3、Innocent Sea(Instrumental Version)


「鮎ちゃん、地方はどうだった?」
 スタッフが一人でいる彼女に声をかけてきた。
「もう大変でした。疲れて疲れて」
「でも、効果は出てるよ。このグラフ見てごらん」そう言って、書類を鮎の目の前に並べる。
 出演したラジオの聴取率。イベンターの反応。CMの効果。そういったデータが示されている。
「ほら、どんどん上がってきてるだろ。昨日のラジオなんてここまで伸びた。CMのスポンサーの広報
部にも、毎日君についての問い合わせがあるってさ」
「へぇ・・・」
 こういう数字で自分のやったことが弾かれるのは初めてだった。
「この調子なら、チャートでもいいとこまで昇るだろうって予想が出てる。沢井さんはさすがだよな」
「そうですね」
「あのタイアップなんてさ、あ、まあ、それはいいや。これからも頑張ってな」
 不自然な話の打ち切り方をされた。

 眉をひそめる鮎。
 タイアップがどうしたっていうんだろう。
 あのお蔭で売れそうだってことを言えば、あたしが不快になると思ったのかな。実力じゃなくて、
テレビの効果だって。
 そんなのはわかってる。
 でも、いい歌だからこそ採用されたんだから、あたしのやったことだって意味がある。
 あたしの歌にも、意味がある。

 やがて、水上が戻ってきた。
 発売日までのスケジュールの再チェック。都内を中心に、関東近郊を回ることになっている。
それほど無理なものではない。毎日自宅に帰れそうなことが、何よりも鮎をほっとさせる。

「じゃ、今日はもういいわ。明日の朝、現場に遅れないように気をつけるのよ」
「はい」
「荷物があるから、タクシーを使いなさい。領収書があれば経費で落とせるんだから」
「そうします」

 そして車に揺られること1時間足らず。やっと帰ってこれた。
 一階の郵便受けにはチラシやダイレクトメールが溢れていた。
 でも、片付けはあとでいい。
 それよりも。

 重いバッグを肩に感じながら、マンションの階段を登る。

 辿り着いた303号室。
 ずっと触っていなかったキーを出して、部屋に入る。
 まずカーテンと窓を開けて湿った空気を追い出す。
 点滅する留守番電話のシグナル。
 鞄の中で息苦しそうにしている荷物。
 それよりも。

 電話するんだ。

「もしもし、邦彦さん?」
「鮎か。今はどこだ?」
「帰ってきたよ!自分の部屋にいるの」
「そうか、おかえり。それじゃ、どうするん・・・・・」
「会いたい」
「まぁ、今は時間あるけど、疲れてないのか?」
「会・い・た・い・の〜!」
 だだっ子のように一語一語強調する鮎。
 彼の苦笑が受話器から洩れる。
「わかったわかった。今から行くよ」
「うん!」

 自転車を走らせて彼が来るのを、ベランダの上でずっと待つ鮎。
 立てた爪先がトントンとコンクリートの床を叩く。
 あの自転車は、違う。
 これも違う。
 あれかな? そうだ!

 スニーカーの踵を行儀悪く踏みつけたまま、一目散に部屋を出て鍵を掛けるのももどかしく、階段を
走り降りる。
 自転車を停めて、立っている彼がいた。
 口が、手が、心が翼に風を受けるように軽々と逸る。
「邦彦さん!」
 彼の首に抱きつく。
 その勢いによろけそうになった邦彦。
 顔を胸板に押し付け、絡めた腕をほどこうとしない鮎。
 いくらか抱き上げるように、鮎の細い背中に回した両腕を交差させる邦彦。
 世界一素敵な温もりを通い合わせるための時間が、ゆっくりと彼と彼女だけのペースで微動して
いた。

「ね、カラオケ行こう! いいでしょ。行こう!」
「う〜ん。俺腹が空いてるんだけどな」
「カラオケの中で食べようよ。と・に・か・くカラオケがしたいの」
「わかったよ。今日は何処へなりともお付き合いするから」
「やったぁ!」

 駅前のカラオケボックスへと入る。値段も安く、料理もインスタント物ではないのが特徴で、
これまでにも使ったことがある店。
「お時間は何時間になさいますか?」
「4時間!」

 最初の1時間は、ほとんど鮎のコンサートだった。
 ずっとステージに立ちっぱなし。
 流れもなにもなく、ただ曲目リストで目についた好きな歌で狭い空間を埋めつくしていた。運ばれて
きた軽食を口にしながら、邦彦はこれまでと変わらない微笑みを彼女に注ぎ続けていた。

 テレビ画面に流れるテロップを追いかけ続けていた鮎。
 ふと、曲の再生に間が開いた。

 荒れた呼吸を整えようと、テーブルのジュースに手を伸ばす。
「声、枯らさないようにしろよ。時間あるんだから」
「うん」
 イントロが流れはじめる。
 再びステージに戻る鮎。
 よくカラオケで歌っていた歌。
 耳慣れたメロディ。見慣れた映像。
 邦彦と出会うより前から、好きな歌。
 でも、彼の声が、一言二言の彼の声が、どんなものにもできないことをしてくれる。

 ただの気配り。
 そうみせかけている。
 いつも、態度には出さない。
 心配はしてないけど、というふり。
 どうして、もっとはっきり言ってくれないんだろうと思ったこともある。

 彼の口から、理由を聞いたことはない。
 でも、もうわかってる。
 心配してるって言えば、あたしが弱さを隠すから。
 心配させないように、辛さをしまいこむから。

 いろんな優しさがある。
 だけど、あたしは彼の優しさがいちばん好き。


 後からは邦彦もマイクを持ち、たっぷりと歌った二人。
 ボックスの閉塞感から解放されようと、手をつないで国立の街路を歩く。

 蝉時雨と雲間の白い三日月
 繁る大学通りの銀杏並木。
 西からの陽光が二人の影をひとつにする。
 ゆっくりとした歩調のせいだろうか。
 人波から鮎と邦彦だけが風の手のひらに包まれているよう。

 長い梅雨は、もう彼方へ。

 あるビルの前で足を止める。
「店に寄るか?」
 店というのは、鮎がバイトしていたCDショップだ。
 かぶりを振る鮎。
「今日はいいの」
「挨拶ぐらいしといても・・・」
「いいの。だって」

「今日は、邦彦さんとだけいたいから」

 その夜、邦彦は鮎の部屋に泊まった。
 ずっと使っていなくて湿った布団も、気にならなかった。


 そして、7月25日の朝が訪れる。







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