第14章 秒の写真



 初めてのテレビ出演が生放送となった鮎。緊張を紛らわそうと、準備中のスタジオで演奏の練習を
繰り返して待ち時間を消費していた。

 レコーディングの時のように緊張してしまったらどうしよう。
 どうしてもそんな考えがよぎる。
 もう「イノセント・シー」は完成以来、練習も含め何十回となく演奏して、歌ってきた。人前で失敗した
ことはこれまでにない。それでも、ここ一番というところでミスをしてしまいそうな予感がするのだ。

 自分の曲も満足に弾けないミュージシャンのCDを、自分の歌も満足に歌えない歌手のCDを、
誰が買うだろう。

 正直、録画にしてほしいと思う。しかしいまさらどうしようもない。スタジオでは自分だけにカメラが
向けられ、最後のコードを奏でるまで離れることはない。せめて隣でピアノを誰かが弾いていてくれた
ら、どれほど気が楽になるだろう。

 もちろんここに氏家はいない。
 CDのカラオケ・バージョンがバックバンドだ。

 楽屋に鞄と一緒に置いてきた携帯のことを思い出す。邦彦さんに電話しようか。彼の声で、少しは
しっかりするかも。でも、さっきかけたばかりでまたってわけにもいかない。
 怒られたりしないのはわかってる。
 きっと、言ってほしい言葉を聞かせてくれるだろう。

「ふぅ・・・」

 頼ってばっかりだな。あたし。

 邦彦さんにも、水上さんにも、沢井さんにも、氏家さんにも。

 みんながあたしを支えてくれるけれど、あたしは誰を支えているんだろう。

 もう本職のミュージシャンなのに、仕事一つ自力でこなせない。そんなんじゃ、いけないんだよ。


「今日はスタジオに、札幌からデビューするミュージシャン、川原鮎さんにおいでいただいています」

 夕方の全国ニュースの前に放映される地方情報番組。それが鮎のテレビ初登場の舞台だった。
鮎を紹介する男性キャスターも女性アナウンサーも、ブラウン管のガラスの向こうでなら見慣れて
いる。ミュージシャンやバンドが演奏するコーナーは以前からあって、メッセ・ホールでの先輩が
出たこともあった。

 二人のキャスターの立ち位置から5メートルほど離れたところに、スタンドマイクと黒いパイプで
組んである椅子がセッティングしてある。
 何度かリハーサルをして、具合のいい場所に固定した。
 うっかりとぶつからないように注意しながら、紹介に応じて「こんにちは。川原鮎です」と一礼する。

 男性キャスターが手元のメモに目をやりながら尋ねる。
「川原さんは生まれも育ちもずっと札幌で、この3月まで市内の高校に通っていたんですよね。
ライブハウスでの演奏が認められて、晴れてデビューとなったわけですが、今のお気持ちはいかが
です?」

「まだ実感はないんですけど、しっかりやらないとなって思えてきました」

 事前の打ち合わせで、何を質問されるかは決めてある。
 用意してある答をそのまま言えばいいのは助かる。棒読みになってもいけないのだが。

「25日発売のこの歌。こちらですね」
 シングルCDをかざす女性アナウンサー。
「この『イノセント・シー』には、札幌でのエピソードなどが関わっていたりするのですか?」

「東京に出て、なかなか曲ができなくて辛かった時に、大きな公園に連れていってもらったんです。
北海道の草原みたいなところに。そこで、生まれた曲です。だから、間接的に北海道をイメージして
いるとも言えると思ってます」

 そつのない受け答えがいくつか続いた。
 まだ、レコーディングの時のような震えと緊張は襲ってこない。
 むしろ、テレビ映りをよくするためにデコレーション・ケーキのクリームのように塗りたくられた化粧
と、それをあぶるような強い照明のせいで顔面がむずがゆく、そっちばかりが気になった。

「高校は大里高校でしたよね」
 男性キャスターが確認するように尋ねる。
「はい」
「その大里高校の生徒さん、そしてOB、OGからもたくさんの応援FAXが届いていますよ」

 ここからは、筋書がない。番組スタッフが収録中にも届くFAXから、よいものを選んで直前に
キャスターの前に滑り込ませるからだ。

 女性アナウンサーが、一枚を手に取る。
「ひとつ紹介しますね。これは札幌市平岸のことりさんから」

 ことり?琴梨?

 体をねじ曲げて、覗きこんで字を見たい。
 自分の手で持って、自分の目で読みたい。
 カメラさえなければ。

 読み上げる声がスタジオに響く。
「『テレビ出演おめでとう。いよいよ夢が叶うね。これからは、歌いたかったことをもっともっと
いっぱいの人に聴いてもらえるんだね。ラジオから流れる歌が、もう別世界の声みたい。
鮎ちゃんがひとつずつ階段を登っていくのをずっと応援してるよ。今日も素敵な歌を聞かせてね!』
これは川原さんのお友達からでしょうか。頑張って、という気持ちが伝わってきますね」

「こういう声を励みに、いい歌を歌っていきたいです。どうもありがとう」

 どんなFAXを読まれてもおかしくないような返事を、予め考えておいた。



 琴梨。
 思っていることを全部言葉にするわけにはいかないけれど。
 いまは、これだけしか言えないけれど。
 ありがとう。


「では、歌ってもらいましょう。川原鮎さんのデビュー曲、『イノセント・シー』です」



 あたしにできる、あたしの大好きなやり方で、心に満ちている気持ちを伝えるからね。



 瞳を閉じて歌ってはいけないと言われた。
 だから、一瞬の2つ分ぐらい、長く瞬きをして大事な親友の面影を想い描いた。

 聴いてね。琴梨。




「お疲れさま」
 スタジオの出口で見守っていた水上が、戻ってきた鮎に囁くように声をかけた。邪魔にならない
ように、すぐにスタジオを出る。重い扉が閉まりきる前に、鮎は振り向いた。歌が終わると同時に
CMになり、もう次のコーナーが始まっている。
 熱い胸を冷ますかのように、吐息を廊下に振りまく鮎。
「緊張しました」
 手に少しだけ痺れがある。
「そうは見えなかったわよ。今日の演奏はこれまでで一番よかったと思うわ」
「そうですか?なんとかいつも通りにはできたかなってぐらいだったんですけど」
「パフォームに余裕があったわ。一生懸命もいいけれど、あなたが楽しそうに歌えてなければ、
聴く側も楽しんで聴けないでしょう。その点、今日はよかったわ」

 どこに余裕があっただろう。
 琴梨の朗らかな顔を思い出して、焦りがなくなったのかな。
 なんにせよ、やり遂げられてよかった。

「さて、次の仕事の前に実家に電話を入れておくといいわ。今夜は実家に泊まれるようにするから」
「えっ、いいんですか?」
 今夜は雑誌社で取材を受けて、それから空港近くのホテルで一泊することになっていた。明日、
朝一番の飛行機で東京に戻り、会社での会議に出なくてはならないのだ。
「調整したから大丈夫。そのかわり、少し早起きになるわよ」
 いつもなら嫌な早起きだが、もちろんこれなら話は別。
「はい。あ、水上さんもうちに泊まりませんか?お父さんもお母さんも挨拶したいと思うんで」
「私は仕事もあるし、ホテルにする。家族だけで寛いでくるといいわ」
 家族の再会を邪魔しないように気を使ってくれているのだろう。素直に気持ちを受けることにした。
「じゃ、お言葉に甘えます」
「それじゃ、また取材よ。雑誌は新聞よりも言葉を選んで慎重に話すこと。足をすくわれないように」
「はい」
 鮎の記事程度で新聞の売れ行きはぴくりとも変動しない。しかし、雑誌となるとセンセーショナルな
見出しや内容で部数の伸びが違う。言葉尻を捕らえて、大げさに書き立てられる可能性だってある
のだ。まだ里心を出している場合じゃない。

 楽屋へ戻り、スタッフへの挨拶を済ませ、荷物をまとめる。
 何度かPHSで琴梨と実家に電話をかけようとしたのだが、電源を入れるたびに呼出音が鳴って
しまう。話をしている時間がないので、出るわけにもいかない。
「番号を替えるなりしないと駄目ね。悪戯電話もこれから増えるわよ」と水上。有名税というもの
だろうか。テレビの持つラジオとは比べものにならない影響力に改めて気づかされた。

「あ、ちょっと待っててください」
 局を出ようとしたところで、鮎は立ち止まった。
「何?」
「応援FAXを貰ってくるのを忘れたんです」
 どこで貰えるんだろうと考えて、答が思い付く間もなく水上があっさりと言った。
「ここにあるわよ。あなたが欲しがると思ったから、放送中に届いたのはさっき持ってきたわ」
「・・・・・」
 言葉もなく、水上を見つめてしまう鮎。
「どうしたの?」
「水上さんってすごいなぁって。いつでもしっかりしてて」
「マネージャーというのはこういうものよ。さっ、行きましょう」
 彼女は苦笑と照れ笑いが混じった表情をかすかに浮かべていた。

 タクシーの中で、鮎は自分のPHSに見切りをつけ、水上の携帯を借りて電話をかけた。
「もしもし、琴梨?」
 実家より、まずここにかけたかった。
「はい。って、鮎ちゃん?」
「そうだよ。テレビ見てたでしょ?」
「見てたよ。ビデオにも録ったよ。かっこよかった。すごく」
「なんか照れるよ。琴梨に言われると。あのファックス、嬉しかった。とっても。今、ここにあるんだ。
なんていうか、とにかく嬉しいんだ」
「まさか読まれるって思ってなかったから、あたしは恥ずかしかったよ。匿名希望って書き忘れ
ちゃったし」
「アナウンサーの人は、小さい鳥のことだと思ってたみたいだよ。読む時戸惑ってたもん」

 ゆっくりな口調の琴梨と、いくらか早口の鮎。
 友達になったばかりの頃から、独特のテンポでいつまでもお喋りができた。
 それが変わっていないことが、うれしかった。
 10分ほども話しただろうか。
「今回は時間なくて会えないけど、お盆休みが貰えたら帰ってくるから、遊ぼうね」
「うん。楽しみにしてるよ」
 そう約束して、電話を切った。

 続いて実家へ。
「はい、川原です」
「あ、お母さん?あたし、鮎」
「あぁ、鮎かい。今日のテレビ見てたよ」
「なんとかやれたよ。それでね、これからもう一つ取材があるんだけど、それ終わったらそっちに
帰るから」
「あ、泊まれるのかい?それじゃ支度しておくよ。何か食べたいものとかある?」
「う〜んと、特にないや。普通のがいいな」
「はいはい。じゃ、戻ってこれるようになったら電話をおくれよ」
「うん」

 雑誌の取材は中年の男性記者が相手だった。やはりどこか気持ちが緩んでいるのか、つい
余計なことまで冗舌に口にしてしまいそうなのを、水上の言葉を思い出しながら制御して話す。
現在恋人は?という質問もあった。
 「いないけれど、好きな人はいる」と答える。
 会社側の指示で、こう言えと。「いる」と答えても「いない」と答えても好ましくないらしい。
「いる」と言えば男性からの支持が得られにくいし、「いない」と答えるとラブソングがリアリティに
欠ける。
 もちろん、大好きな彼がいると正直に言ってしまいたい。でも、彼にどんな形で迷惑がかかるか
わからないと指摘されると、反論できなかった。

 なんとか口を滑らすこともなく、写真を何枚も撮影されて取材は終わった。

 母に電話をすると、「お父さんのとこに寄ったら?」と言われた。常連さんが集まって、鮎の応援を
しているという。
「わかった。じゃ、お店にまず行くから」
「そうしてあげて。明日朝早いなら、お父さんとは話ができないだろうしね」
「うん」
 澤登は深夜2時までの営業。父の帰宅はいつも、市場で仕入れをしてからの朝7時過ぎ。
今夜のうちに会えれば、父も喜んでくれるだろう。

 水上に送り出され、タクシーでラーメン横町方面へ。
 ビルの一階に「澤登」の看板が懐かしい。
 扉に手をかけようとして、店内から珍しいほどのざわめきが洩れているのに気づく。
 からからと引き戸を開ける。
「ただいま」

「おおーっ!」
 野太い歓声が上がった。狭い店は、お客で溢れていた。隙間もないほどで、座れない人までいる。
みんな、昔からの常連さんなのはすぐにわかった。
 まき起こる拍手。
「鮎ちゃん、やったな!」
「テレビ出たんだってな」
「ほら、親父さんもなんか言ってやんなよ」

 カウンターのなかに、いつもの父がいた。
 俯きかげんに、いつものように寿司を握っている。
「ただいま。お父さん」
「・・・おう、おかえり」
 ちらりと娘に視線を送り、また寿司を握る。

「それだけかい?親父っさん。相変わらず不器用だねぇ」
「包丁は器用に使えるのにな」
「わはははは」
 店中が沸く。
「やかましい」
「ははははは」
 ほろ酔い気分のおじさんおばさん。
 みんな、鮎が子供の頃から彼女の歌を聴いていた。
 ここはもうひとつの家だった。
 ここのみんなが褒めてくれて、歌を歌うのが楽しくなった。
 歌っていたくなった。
 ここが、始まりだった。

「鮎ちゃん、歌ってよ」
 あの頃のように、みんなが口々に言う。

「いい?お父さん」
「聴いてもらえ。応援してくれてるんだから」
「うん」

 誰よりも聴きたがっている誰かのために、鮎は歌う。

 お父さん、この歌どれぐらい聴いたことあるんだろう。
 今日のラジオは聴いてたのかな。
 今日のテレビは見てたのかな。







トップへ
戻る