第13章 誰かの声が届く街


 正午。
 正確な時刻を告げる電子音が終わり、オープニングメロディが流れる。
 メイン・パーソナリティーの陽気な挨拶とともに番組はスタートする。DJ、というよりは司会者と
いう言葉の似合うベテランの男性がこの番組の看板だ。


「今日はゲストに、メジャーデビューを果たした札幌出身のミュージシャン、川原鮎さんを迎えて
います。ようこそ」
「こんにちは。川原鮎です」


「鮎ちゃんだよ〜」
「すごいよね。ゲストだって」
 春野家では、琴梨たちがステレオの前ではしゃいでいた。
 運よく職場のレストランが定休日で、時間のある友達と一緒に鮎の出演を聞くことにしたのだ。
ちゃんとMDに録音されているだろうか。あまり機械に強くない彼女はちらりと心配した。


「川原さんはここ札幌のメッセ・ホールを中心に高校時代から活動していたんですよね」
「はい。1年生の時にコンテストに出たのが始まりです。ずっと歌手になりたくていたから」
「子供の頃から楽器に親しんでいたわけですか?」
「そんなことはないです。歌は好きで、機会を見つけては歌っていましたけど。ギターを弾くように
なったのは高校に入ってからですね」
「それから僅か4年でデビューというのは速いと思うんですが、川原さん的には、当初からプロを
目指していたんですか?」
「う〜ん、そこまで考えていたのかはわかんないですね。歌手になりたいっていう夢はずっと
持って・・・・・」


 午後0時40分。

 冴木邦彦は、コーヒーの豆を買いに国立の街へ出た。
 いつも買う店は決まっている。自転車でなら10分もかからない。大学通りと称される、国立駅から
真南へ伸びるメイン・ストリートには、歩道の車道側に銀杏の樹が植樹されていて、更に外側には
自転車専用の通路がある。
 向かい風に髪をなびかせ、ペダルをこぐ彼。
 ここ数日は湿り気のない空が続き、梅雨の終わりと夏の到着を予感させる太陽が、ついと灰色の
カーテンをめくる。
 初夏の入り口でしか聞けない蝉の独奏が街のノイズを彩って。


「デビュー曲、今インストのバージョンをバックに流していますけど、ギターは自分で弾いているん
でしょ」
「ええ。歌うのも好きですけど、演奏もやってて楽しいんです」
「この曲はCMに使われてますから、もう耳にした方も多いと思いますが、デビューのために書き
下ろした曲なんですか? それとも札幌で歌っていたとか?」
「歌詞は、以前に書いたのをいろいろ合わせてできました。全然すらすらとはいかなくて・・・・・」


 午後0時50分

 コーヒーショップ前には運よく駐輪スペースがあった。 チェーンロックをして、歩行者の邪魔に
ならないのを確認して、店内へ入る邦彦。


「今はキャンペーンで移動中なんですね」
「もうずっと家に帰ってないんですよ。家賃払ってるのになんかもったいないなって思っちゃい
ますね」
「どこか、印象に残ったところはありますか? おいしいものを食べたとか」
「失敗しちゃったところはよく憶えてます。そんなゆったりした移動じゃないから、食事とかを
楽しむってことはなかったんですよ。でもやっぱり、札幌は特別ですね」


 午後1時。

 邦彦はいつも買う豆を選び、お店で挽いてもらう間、することもなく大きなガラスの壷に各種の
コーヒー豆が詰められている店内に視線をさまよわせている。
 この店の入り口の扉は、いつも開け放たれている。
 だから歩道をゆく人並もざわめきも自然と目と耳に入る。
 平日の午後。
 子供の手を引く母親。
 腕を組む恋人。
 店内は一段高くなっているので、顔は見えないのだが。
 ここは地元でも人気の店で、喫茶店も兼ねているので人の出入りも頻繁にある。

 視界を右から左へと流れてゆく足の一組が、店の前で止まった。お客か。
 店への段差を登るワインレッドの靴。

 淡いオレンジの服。
 レモンイエローのスカート。
 板張りの床にローヒールの足音。
 長い髪。



 視線が交叉する。



 「あ・・・・・」

 まだ互いの名前を知らない二人、冴木邦彦と宮本未来は、かけるべき言葉を探す。

 どちらからともなく、その滑稽さに笑みがこぼれた。
「やぁ」と、歩み寄ってきた彼女に、邦彦は気さくに声をかける。
「こんにちは。コーヒーを買いに?」
 手を後ろに組む彼女は思ったより背が高いことに彼の意識が向いた。前会った時は気にも
しなかったが。鮎と俺の中間ぐらいかなと、埒もないことが脳裏をよぎった。
「そう。いつもここなんだ。俺。君は?」
「大学の帰りよ。買い物してたら、ちょっとここのコーヒーが飲みたくなったの」
 邦彦にかけられる店員の声。
「お待たせしました。どうぞ」
「あ、はい」
 ほんのりと暖かい紙袋を受け取る邦彦。それじゃ、と言おうとする矢先。
「よかったら、コーヒーを一緒しません?」


 午後1時15分。

「そろそろ今日のところはお別れの時間です。川原さん、札幌のファンにメッセージを」
「今日、ここに入る時にもみんなの暖かい応援を受けました。札幌の人たちがミュージシャンとしての
あたしを育ててくれたんだなって思ってます。聴いてくれる人の心にいつまでも残るような歌を
歌っていきたいです。これからも、頑張ります」
「これからが楽しみですね。本日のラスト・ソングは今月25日発売の川原鮎さんのデビュー・
シングル『イノセント・シー』をどうぞ。では、またこの時間に・・・・・」


「よく、この店には?」
 二人の間には、カップから豊潤に香るキリマンジャロと立ち昇る白いリボンがたなびいていた。
「気まぐれに寄るの。3日続けて通うこともあれば、2週間ぐらい通り過ぎていたり。冴木さんは?」
「友達とたまに。中で飲むのはね」
「彼女とは?」
「これを」と言ってさっき買った紙袋を示す。
「一緒に買いに来たことはあるよ。あいつもコーヒー好きだし」
 邦彦の家にはサイフォンがある。鮎は遊びに来るたびに使ってとせがむのだ。洗うのが手間
なので普段は使い捨てのフィルターしか使わない彼なのだが、強い要望に応えていつも苦笑
しながらアルコールランプに火を灯していた。
「そうそう、彼女のポスター見たわよ。○○の地下のCDショップで」
「こないだまであそこでバイトしてたから、特別派手に宣伝してくれてるんだってさ」
「○○○のCMソングになってるんでしょ。まだ見てないけど、もう放送してるのかしら」
「してるよ。名前もちゃんと出てる」
「なんか、すごいわよね。隣に本物のミュージシャンが住んでるなんて。サイン貰っておこうかしら」
「そういや、俺も貰ってないな。くれっていうのもなんかおかしいけどさ」
「ふふっ、そうね」
 宮本のしなやかで長い指が、磁器の縁取りに伸びた。


 午後1時30分

 鮎はラジオ局内の一室を借りて、地元新聞の文化部記者からの取材を受けていた。
 音楽についての姿勢。
 札幌時代のエピソード。
 デビューシングルにかける思い。
 将来へ向けた情熱のかたち。
 固くならないようにか、雑談を交えながらの記者の問いに頭の中を整理しながら答える鮎。


「あたしも見たわ、その映画」
「やっぱり。ピアノやってるっていうからそうかなって思ったよ」
「あの話、ピアノを弾いている人の間では有名なのよ。続きがあってね・・・・・」


 午後2時30分。

 新聞の取材は終了。
 午後5時台の地方情報番組での生演奏のために、テレビ局へと移動する鮎。

 もう鮎を待っている人たちはいなかった。出演が終わったらすぐに出てくると思って「出待ち」を
しているファンはいたのだが、取材中でいつ終わるかわからないと水上が説明したのだ。


「もうこんな時間だったのね」
 2杯目が空になっていたコーヒーカップ。話題が途切れることがなく、互いに時計を見ることも
なかったのだ。
「そろそろ出ようか」
「ええ」
 伝票を取り、会計のレジへと向かう邦彦。
「あ、あたしに払わせて。誘ったのはこっちだから」
「いいよ。俺は楽しかったし。コーヒー代ぐらい構わないさ」
「でも、悪いわ。彼女に怒られない?」
「なんで?」
「・・・・・いえ、それならいいの。じゃ今日はご馳走になるわ。どうもありがとう」

 店を出る冴木と宮本。
 邦彦はまずはと屈み、自転車のキーを外し、そして自転車につけてある専用ケースへ入れる。
あとは走り出すだけ、という所で振り向くと、彼女は待っているかのように彼を見ていた。
「どっちへ行くの?」
「んー、帰るだけだよ。こっち」と、大学通りの南を指さす。
「じゃ、途中まで一緒に行きましょう」
「いいよ」

 邦彦が押す自転車を挟むように、右側に彼女が、左側に彼が並んで駅と反対方向へと歩き出す。
「冴木さんは、どの辺りに住んでるの?」
「東区」
 大学通りの東側である。宮本や鮎の住むマンションは通りの反対側の「中」という地区にある。
「実家なの?」
「実家だけど、独りで住んでる」
「え?」
 小首を傾げる宮本。
 彼は説明した。
「一戸建だけど、親父は仕事で金沢なんだ。お袋は中学の時に病気でね」
「あ、ごめんなさい。変なこと聞いて・・・」
「もう昔のことだよ。兄弟もいないから、高校の途中からずっと独りで住んでるんだ。親父はあと一年
ぐらいで東京に戻ってこれそうらしいけど」
「そうなんだ。独りじゃ大変じゃなくって?」
「掃除がね」


 午後2時45分

 鮎の乗ったタクシーはテレビ局に到着。ここでは待ち人もなく、そそくさと受け付けを経て番組の
スタッフと打ち合わせを始める。


「じゃ、俺こっちだから」
 この交差点で、彼らの家路は正反対になる。
「うん。今日は楽しかったわ。また、一緒してね」
「ああ。鮎もそのうち時間取れるだろうし、そしたら食事でもしよう」
「そう、ね。あ、携帯の番号教えてくれない?」
「携帯の? まぁ、いいけど」
 彼が口にする番号を自分の携帯に入力する彼女。
「ありがとう。それじゃ」
「じゃ」

 邦彦はサドルに腰を落とすなり、振り向くこともなく自宅への道をたどった。
 だから、彼にはわからなかった。







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