第12章 マイ・ホームタウン



 故郷・札幌での仕事が入っていた。1日だけ、昼間のラジオと夕方の地方番組へ生出演できる。
さらに合間に地元新聞と雑誌のインタビュー。当初、会社としては地元であるということから道内で
もっと多くのプロモーション活動を構想していたという。タイアップが決まり全国的に名前を浸透
させる必要が生じて、札幌以外は削られていったのだ。
 前日、関西泊りだった鮎は朝の飛行機で札幌、新千歳空港へ。
 3ヶ月ぶりの北海道。
 100日ぶりのホームタウン。
 なのに、高揚感もノスタルジーも置いてけぼりに、機内で眠り続ける鮎だった。

 もうシングルの発売は一週間後。
 化粧品のCMは一昨日から流れはじめたという。
 まだ一度も自分では見ていない。そしてスケジュールはますます過密になってゆく。
 発売前日には、深夜の音楽番組でプロモーションビデオに加え鮎自身による短いコメントも放送
されることになり、急遽撮影の仕事も入った。タイアップしてくれる化粧品会社がその番組のスポン
サーになっていることで、実現したらしい。化粧品会社としても、鮎の歌がヒットするどうかは商品の
売り上げに多大なる影響がある。使えるオプションはできるだけ活用して、CMの効果を増やしたい
のだ。

 梅雨のない北海道は、どこよりも深いブルーの空で鮎と水上を出迎えてくれた。
 他に、出迎えはいない。
 両親も、友達も。
 家族には電話で、この日に札幌入りするとは伝えた。仕事がある父も、母も迎えに来て、娘の顔を
見たいようだった。しかし、すぐにラジオ局に直行しなくてはならないことがわかっていた。「仕事
だから」と言うしかなかった。仕事の時間を考えると実家に寄っている暇もほとんどないのだ。
 琴梨にも連絡した。でもやっぱり会ってはいられない。「そっか。久しぶりにカラオケとか行きた
かったね」と残念そうに言ってくれたけれど。


 高速道路から札幌市内へ。
 タクシーの窓越しに18年を過ごした街が移ろう。
 使ったことのある公衆電話。
 大通公園のベンチ。
 地下鉄の駅。
 なにもかも、変わっていない。

 そう思えるのに、そうじゃない。

 映画館のポスターは新作に。
 オープンしたてのヘア・サロン。
 工事中だった道路は濃紺のアスファルトに。
 そして、もう雪はどこにもない。

「久しぶりの札幌はどう?」
 車外へ目を向け続ける鮎の横顔に話しかける水上。
 たっぷり数秒も返事の言葉に鮎は悩んだ。あまりにも感性に飛び込んでくるものが多すぎて。

「あたし、ここで生まれ育ったから1週間ぐらいしか札幌にいなかったことってなかったんです。
なのに3ヶ月離れただけで、もうここの住民じゃなくなっちゃったんだなってどこかで感じてます」
 そう考えるのは、やっぱり寂しい。
 世界で一番、思い出が残る街だから。
 世界で一番、好きな街だから。

「そういうものなのかしらね」
「水上さんは、出身はどこですか?」
「浜松よ」
 東海地方の都市を挙げる彼女。
「え、じゃ、こないだ行ったところじゃないですか」
「そうよ」
 5日ほど前、浜松での仕事があった。しかし、そんな素振りひとつ見せることもなかった。
「だったら、ゆっくりするとか・・・・・」
「休暇で行ったんじゃないもの。それに、馴染みの場所に足を運ぶ時間なんてなかったわ」
「それも、そうでしたね」
「今日もそういうことになると思うけれど、我慢して。キャンペーンが終われば、自然とスケジュールも
余裕が出るから」
「はい」

 鮎も何度も前を通ったことのあるラジオ局前に2人を運ぶタクシーが近づいた。運転手が前方の
様子を伺う。
「なんだか、人が集まってるよ。お客さん、中に車入れていいのかい?」
「一度、守衛のいるところで停まって」
 水上が身分証を手にした。最近はメティア関係の建物で外部の人間の侵入による事件が頻発
している。厳しいチェックを受けなければ入れない。
「はいよ、了解」

 信号待ちで止まるタクシー。あと100mほどで到着だ。
 ラジオ局の正面入り口に、高校生ぐらいの男女が30人ほど何かを待っているかのように並んで
いるのが遠目に鮎にも見えた。
「だれか、有名人でも来るんですかね。ミュージシャンだったらあたしも見たいな」
「えっ?」
 不意を突かれたように目を丸くする水上。
 そして、珍しい、と言っていいほどにお腹を抱えて笑いはじめた。くっくっと、声を出さないように、
顔と膝がくっつきそうになるほど体を曲げて。
 突然に針が逆回転し始めた時計でも見つめるような表情の鮎。
「水上さん?」
「ご、ごめんなさい。あんまりおかしかったものだから」
 目元にこぼれた一滴の涙を人指し指で拭う彼女。
「あれは、あなたを待っているのよ」
「まさかぁ。地元だからって、そこまでする人いないですよ。今までどこに行ったって誰も待ってたり
しなかったし」
「今まではね。でも、これからは違うわよ。そっちの窓を開けておいて、握手してあげるのよ。
にこやかに笑ってね」
 『今まで』と『これから』の違いを聞こうとする前に、タクシーは局の前で止まった。窓を開け、守衛
に来訪意図と身分を示す水上。
 そして鮎めがけて、そこに集まっていた若い男女たちが走り寄ってきた。


 手を振る人。
 写真を撮る人。
 「鮎ちゃ〜ん」と呼びかける人。
 そして次々と争うように差し出される左右の手。
 知っている顔は一つもない。
 制服の中高生が多いようにも感じたが、細かいところを観察する余裕などなかった。
 「ありがとう」とただ繰り返し、握手をするだけ。
 「この人たち、誰かとあたしを間違えてるんじゃないの?」と本気で疑いながら。

 やがて建物の入り口へと車は進んだ。
 追いすがろうとする男女を守衛たちが制止する。
 後部座席で後ろ向きに座り、その様子をリヤウィンドウ越しに半ば以上呆然と見つめる鮎。
「どう、わかった?あなたの名前を呼んでたでしょう」
「どうして、急に・・・」
 正面玄関に横付けされるタクシー。
「はい、着きましたよ。お客さん、有名人だったんだねぇ。なにやってるの?」
 好奇心から振り向いてしげしげと鮎を眺める運転手。
「あ、歌手です。でも有名人じゃないです。本当に・・・・・」
 戸惑いながら焦って否定する鮎を、水上が促した。
「さ、まずは降りましょう。すぐにあっちを向いて、手を振るなりするのよ。そんなにびっくりして
ないで、にこやかにね」
「あ、はい」

 言われた通りにすると、大きな歓声が上がった。「先に中に入っていて」と水上の指示。
「頑張って」
「シングル買うからね」
という声とカメラのフラッシュを背中に、鮎はラジオ局へと入った。
 水上は渡してほしいものなどがあればと彼らのところへ行く。

 楽屋へと向かう廊下で、「まだ信じられない?」と水上。
「・・・あんまり突然で」
 事実を受け入れたくないような鮎に、彼女は説明した。
「CMが始まったからよ。あの中にはデビュー前のあなたを知らない人もいたと思うわ。あなたの
歌を聴いて、名前を知って、ラジオの番組表を見てあそこに駆けつけた人がきっとね。そろそろ
ポスターも行き渡ってショップに貼られているし、雑誌にも広告を載せてる。もうあなたは無名じゃ
ないのよ」
「はあ・・・・・」
 どうしても現実感が伴わない。無名じゃないということは、有名人のはしくれになったということ
だろうか。それほどのことじゃないよね。でも、あの人たち。あんなに。4通のファンレターまで。
まだデビューしたわけでもないのに。

 出演の打ち合わせを局の担当者と水上とする。
 届けられたお弁当で早めの昼食。

 そして待機。

 12時からの生放送は、聴取率の高い人気番組だ。平日しかやっていないので、鮎は夏休み
ぐらいしか聞いたことはないのだが。

 水上は会社への連絡に電話をしに行った。

 一人になり、手紙に目を通す。
 「メッセ・ホールで演奏していた頃から聴いてました。これからもファンでいます」
 「イノセント・シー。素敵な歌ですね。CMが流れるのをいつも期待してテレビを見ているんです」
 「あたし大里高校の2年生。先輩のことはみんな応援してますよ」

 嬉しさに熱くなる胸。
 これまでの辛苦。悩んで、塞いで、泣いて。
 それらがいっぺんに洗い流されてしまう。
 ちゃんと全部に返事を書こう。

 「入り待ち」をされるなんて考えたこともなかった。ああいうのは、タレントやアイドルグループや
大物アーティストだけがされるものだとばかり。そのうち、サインを求められたりするのかな。

 シングル発売日には、都内の大型店舗でのサイン会が予定されている。メッセ・ホールでライブを
していた頃にはサインなんてしたことはなかった。どんなのにするか考えておくようにって水上さん
言ってたっけ。

 街を歩くだけで、あたしだと気づく人がいるようになるのかな。
 東京なら、そんなことはないよね。
 邦彦さんとのデートを写真に撮られたりとか・・・・・
 誰もそんなことするわけないか。写真週刊誌なんてのは、もっと有名な人が載るものだもん。
 そうだ、邦彦さん。

 確かもう夏休みになっているはず。
 バイトは休みかな。
 電話、してみよう。家にいるといいな。

 短縮の1番がもちろん彼。
 呼出音が続く。
「はいもしもし」
「もしもし、邦彦さん?」
「おー、鮎か。今は札幌だろ?」
「うん。あと少ししたらラジオの仕事なんだ。邦彦さんは何してるの?」
「今さっき起きてニュース見てた」
 まだ寝間着姿で、コーヒーを煎れていた彼。
 最後の一杯。買ってこないと。
「あたしも寝坊したいよ〜。いいな〜」
「はは、マネージャーさんを手こずらせるなよ」
 言いながら邦彦はテレビのリモコンのミュートボタンを押す。
「うん。気をつけてる」
「琴梨から昨日電話あったぞ。ちゃんと録音するって。こっちじゃ聞けないから、後で俺も聞かせて
もらうよ」
「なんか、恥ずかしいな。今日のは出番長いんだ」
「その方がいいじゃん。言いたいこと言えて」
「そうでもないんだけどね。あ、CM見た?」
「見た。昨日」
「あたしがまだ見てないのに〜。どんなだった?」
「・・・・・いい感じだと思うぞ。あれなら。映像と曲が合ってて。だからって俺が化粧品買わない
けどな」
「あはは、そうだね」
「シングルは予約したぞ。鮎がバイトしてた店で。予約特典はないみいだけど、買うとポイントの
ハンコ3倍らしい。しかしあの店、すごいことになってたな」
「すごいって?」
「壁一つ占領してポスター4枚ぐらい並べて貼ってあるし、『超期待の本格派新人デビュー』とか
書いてあったぞ。手書きで。ずっとプロモのビデオ、エンドレスで流してるし」
「えーっ、そうなの?」
「最初は『当店所属のミュージシャン』とかも書いてあったけどそれはなくなってた。他の店でも、
ポスター貼ってあるとこあったし、いよいよデビューなんだな。俺がするわけじゃないけど、なんか
感慨深いものがあるよ」
「うん。だって、あの時からずっと見守っててくれたんだもん。邦彦さんがいてくれたから・・・・・」
「よせよ。まだまだこれからだろ。次に札幌に行く時は、凱旋パレードができるぐらいになんないとな」
「なんかお相撲さんみたい」
「俺が隣で旗持ちか?」

 楽屋がノックされて、扉が開けられた。
 スタッフが顔を出す。
「川原さん、そろそろスタンバイお願いします」
「あ、はい」
 送話口を押さえて応じる。

「もう行かなきゃ。ごめんね」
「しっかりな。ドジんないようにしろよ」
「うん。またかけるね」
「おう」

 1000kmを隔てて、結ばれる想い。
 たとえ離れていても、触れ合うことができなくても、本当に自分たちを隔てられるものなどなにも
ない。
 いつだって同じ空を見て、同じ空気を吸って、互いの夢を応援していられる。
 そう二人は信じていた。







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