第11章 旋回する紙飛行機

 デビュー・シングルは完成した。
 タイトルは「イノセント・シー」に正式決定。

 同時に、完成を喜ぶ一幕もなく膨大な仕事が鮎を煽りたてることになる。

 プロモーション活動である。

 最初に、ジャケットや告知用ポスターなどに使用するための写真撮影。
 プロモーション・ビデオの撮影。
 ラジオ番組へのゲスト出演。
 地方を回ってのイベント出演。
 大手CD販売会社への挨拶。

 レコード会社の販売担当者と水上が打ち合わせ、沢井が決定したスケジュールで、鮎の手帳の
予定表は数字と地名と矢印で隙間もなく真っ黒に埋められた。
「こんなに?」と思わず口にした鮎に、沢井は「もっと増えるかもしれない。うまくいけば」と答えた。


 そして発売日が決定。7月25日。
 梅雨明け直後となることが予想された。


 まずは都内近郊で写真の撮影。数ヶ所のロケ地を車で回り、沢井が提示した案に沿って撮影は
進められた。
 夜明け直後で無人のオフィス街で。
 ビルの屋上で。
 河川敷のベンチで。
 ギターを持ったり、持たなかったり。
 立ったり歩いたり座ったり。
 レフ板の反射光で目が眩みそうだった。

 沢井に、鮎は「イノセント・シー」が昭和記念公園で生まれたことを話し、ここも撮影地に加えて
もらいたいと希望した。しかし、国立公園は許可を取るのに時間がかかり、期限が迫っていること
から断念させられた。

 続いてプロモーション・ビデオの撮影。
 予め作成された絵コンテを元に、これは都内の屋内スタジオで撮影された。写真ではなく映像を
撮るカメラを向けられるのは家庭用の8mmぐらいしか経験がない鮎。撮られていると思うと意識して
しまい、どうしてもぎくしゃくとした大根役者になってしまって苦労した。演奏も歌も後からCDの音を
被せるので、なんとかこなすことができたようなもの。
 撮影した映像をコンピューターで加工して完成することになる。
 それと同時にあらゆる宣伝媒体に載せようとレコード会社の営業マンたちが走り出すのだ。


 まずはポスターが刷り上がった。
 石畳の河川敷で、ベンチに座りギターを抱える鮎を斜めから撮ったもの。
 背後には緑の芝生。
 ブルージーンズに白いカットシャツというラフなスタイル。
 あえて微笑まず、静かに空を見つめている彼女。
 まだ川原鮎という名前も歌のタイトルもない、ただのポスター。
 ジャケット写真も同じものが使われることになる。曲名などの字体・レイアウトはデザイン関係の
会社が手がけ、会社の承認を経て早速生産に回された。

 初回生産枚数は10万枚。
 無名の新人アーティストとしては異例と言っていいほど多くなった。
 理由は、タイアップ効果である。「イノセント・シー」が、大手化粧品会社のCMに起用されることと
なったのだ。

 タイアップ曲というのは、テレビドラマの主題歌の場合は予めミュージシャンやプロデューサーに
ドラマのストーリーを説明し、内容に合った歌を作ってくれと依頼するのが一般的だ。CMの場合も
同様のケースは稀ではないが、制作をする広告会社が複数のレコード会社と協議して候補の曲を
提示してもらい、CMを制作することが多い。そうしてできた作品を企業に説明(プレゼン)し、他の
制作会社の作品と比較検討して採用されることになる。最終的に決定するのは企業なのだ。

 タイアップは以前ほどではなくなったとはいえ、やはりヒットするための大きなファクターである。
特に鮎のような新人にとって、画面の隅に「song by 川原鮎」と名前が記されることの有意義さは
計り知れない。

 音楽業界の競争は激しい。最もタイアップ効果が高いとされるのは高い視聴率が予想される
恋愛ドラマ。続いて清涼飲料水のCMというのが定説になっている。
 「イノセント・シー」が流れることになったのは10代をマーケットにした化粧品シリーズであり、
これはドリンク類には及ばないまでも、かなりの回数、しかも視聴率のよいゴールデンタイムに
放送されることから、容易に新人が獲得できるスポットではない。

 沢井が広告関係者と強いコネクションを持っていたことと、新商品にはフレッシュな新人がふさわ
しいとする企業側の思惑が一致した結果だと鮎は聞かされた。だからこそ、プロモーションできる
仕事が多いのだと。タイアップの話など全く考えていなかった彼女にとって、一挙に全国レベルで
名前を宣伝されることに戸惑いが、そして予想のつかない渦に巻き込まれるような不安がよぎった。

 しかし移動と仕事を繰り返し、自室にすら戻れない毎日に追い立てられている鮎にとって、うじうじ
と悩むことなど叶えられない贅沢になっていた。
 わずか15分の出演となる地方のFM局のために飛行機、電車、タクシーを乗り継いで10時間も
移動する。海開きのイベントでは、手製のステージでミスなんとかに紹介され、1曲歌うだけで
ギターが塩風と砂で痛んだ。

 ラジオの仕事ではトークの機会も時にはある。
 鮎は札幌でライブをしていた頃にMCはこなしていたし、話をするのが苦手なタイプでもないつもり
でいる。しかしストップウォッチで管理されながら、言葉を途切らせず面白い話を迫られるのは別物
だと思い知った。録音の場合はやり直しがきくのだが、いくら新人だからといっても何度もNGを
出しては迷惑がられ、出演が大幅にカットされかねない。
 生放送ともなればさらに緊張が加わる。
 基本的には台本があるが、それに頼るばかりではアドリブについていけない。水上からのアドバイ
スを受けながら、ただただ懸命にスケジュールをこなすだけで精いっぱいの鮎だった。


 その日宿泊するホテルへ帰るタクシーの車中。
 日付も変わってしまった深夜。
 眠ってしまいたいのに、神経が痺れて睡眠を拒絶する。
 初めて訪れたこの街も、もう糸を引くように窓の外を流れる
 ネオンライトでしか記憶にとどめることができない。

 車のテールランプ。
 信号機。
 01:24と誰の目にも留まらずに数字を刻む時計。
 闇に慣れた瞳がつい避けてしまう
 眩く輝くコンビニとガソリンスタンド。
 眠るビルディング。

 虚ろにシートにもたれる彼女を気遣ってか、水上は一言も言葉を発しなかった。

 水上は鮎のデビュー曲完成以来、彼女の専属になっている。
 他の抱えているミュージシャンは別の職員に預けられ、どこの仕事にも影のように付き添って
いる。航空券からその日の現場への道順まで手配し、新人が仕事こなすのを見守りながら次の
仕事の打ち合わせをし、鮎同様、いや鮎以上に多忙なスケジュールに身を置いている。鮎は自分の
面倒を見てもらえるが、水上は全てを一人でこなしているのだから。

 やがて駅近くのビジネスホテルへと滑り込むタクシー。
 トランクから取り出したギターケースがずしりと指に重い。
「貸しなさい。あたしが持つわ」
「これはいいです。これだけは自分で持たないと」
「じゃ、そっちの鞄を持つわ」
 鮎の肩には着替えなどが入ったバッグの紐が食いこんでいる。
 自分の物ぐらい自分で、そう思うけれど。
「・・・すいません」
「あなたが少しでもいい仕事ができるようにするのが私の仕事なの。遠慮するより、疲れを取ることを
考えて」

 ホテルのロビーには当然ながら全く人影はなく、カウンターのボタンを押してフロント係を呼び出し、
ルームキーを受け取る水上。照明の落とされたロビーのソファーから体を引き剥すように鮎は立ち
上がった。

 エレベーターで3階へ。
 鮎はどこが自分の部屋なのかも知らない。
 ただ水上についてゆくだけだ。
 彼女が開けてくれるドアに、部屋番号を見もせずに体を押し込み、ベッドにぽすんと倒れ伏す。
「そのままで寝たら駄目よ。風邪を引くといけないし、体も休まらないわ」
 背中から聞こえる水上の声が、どこか遠くからのもののよう。
「は・・・・・い・・・・・」
「疲れているところを出さないようにね。さっき、ため息をつきそうになったでしょ」
「・・・・・あれ、入りました?」
 ラジオで、トークが終わり音楽に移る時にほっとして、うっかりとやってしまったのだ。
「うまく音声さんがマイクを切り替えたから、入らずに済んだけど、気をつけないとだめよ」
「はい。・・・・・はぁ」
「今はいくらついてもいいわ。明日は7時に、いや、そうね、朝食は移動しながら取ることにする
から、7時半に起こすわ。水分を取って、できるだけ休んでおくのよ」
「ふぁい」
 欠伸交じりの返事。
 キーをベッドサイドに置き、ギターケースや鞄をそれぞれふさわしい場所に整え、水上は出て
行った。

「歌いたいなぁ」
 うつ伏せで、シーツに横顔をめり込ませたまま呟いた。
 『イノセント・シー』なら毎日のように歌う。でも、自由に、歌いたい歌を歌えない。
 自分のギターでも、カラオケでもかまわない。
 好きな歌なら、誰のでもいい。
 ただ気持ちを解放したい。
 ストレスが皮膚の下にぐいぐいと詰め込まれているのが手で掴めるほどにわかる。
 チャックが弾けそうな鞄のように。
 仕事は仕事。それはそう。
 これからも歌い続けるために、どうしてもやらなくちゃいけないこと。
 でもまさか、歌手になって歌えないなんてことがあるなんて。
 時間もない。そして余分な体力も残ってない。
 よしんばあっても、夜中のホテルで歌うわけにはいかない。
 ずぶずぶとベッドに沈んでしまわないのが不思議なほど、全身が重たい。
 このまま動きたくない。
 でも、本当に風邪を引いてしまう。
 ホテルの部屋は空調が効きすぎて体調を崩しやすいから注意するように何度も言われている。
 もう、病気になることもできない。

 せめて強ばる筋肉だけでもほぐそうと、鮎はバスルームへ入った。
 そこに鏡があるのはわかってる。
 どこのホテルもそうだから。

 自分を見たくない。

 朝、ベッドから降りるための気力を捻出するために、彼女は眠りにつく。







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