第10章 Don't let me down


 翌日はボーカルの録音が予定された。
 ここまでの鮎の体力消耗も考慮され、午前は完全休養を指示された。邦彦に会いたかったが、
やはり休んでいなくてはならないと自分を戒めた。それも仕事だと。

 鮎が午後にスタジオの玄関をくぐると、沢井と氏家がロビーで談笑していた。邪魔にならないよう
に、「おはようございます」と挨拶だけをしてセッションルームへ急いだ。待たせてはいけない。
コンソール・ルームでは準備に忙しいスタッフと水上が待っていた。
「調子はどう?」
「いい感じです。ゆっくり寝ましたから」

 セッションルームの防音扉を押し開ける。
 できるだけリラックスして歌えるように、腕時計を外し、深呼吸をする。
 丸い、アームで上から吊り下げられたマイクに向かい、まずは喉のチェック。
 アカペラで知っている歌を歌ってみる。
 よし。
 それからマイクの高さを合わせる。
 一般的なスタンド・マイクではないのは、床からの振動がマイクに伝わるのを防ぐためだと水上が
以前教えてくれた。更に、立ち位置によって音響が変化することを避けるためにマイク位置は固定
され、歌う鮎のポジションも考えられているのだと。
 それだけ精密さを要求されるんだなと気を引き締めていると、防音ガラスの向こう、コンソール
ルームに沢井が入ってきた。全員が挨拶。言っても聞こえないが、鮎も防音ガラス越しに「おはよう
ございます」と。意外にも、氏家もやってきて沢井の隣に座った。

 自分の関わった仕事は、やりっぱなしにしたくないのだろうと彼女は思った。ここでみっともない
歌を聴かれては、「こんな歌に私のピアノは使わせられない」と言われかねない。頑張らなくっちゃ。
いいところを見せれば、これからも仕事を受けてくれるかもしれないし。

 ヘッドホンを着け、喉に左手指を当てて沢井の指示を待つ。コンソールルームではスタッフが
持ち場について、鮎にはまだ用途もわからない機器で、彼女の歌のためにプロの技能を発揮しよう
としている。真剣そのものな表情とてきぱきと飛んでいるらしい指示。一人、また一人と準備を完了
し、沢井に頷く。

 サイドテープルの上にはミネラルウォーターのペットボトル。
 黒いコードが蛇の群れのようにフローリングの床を這う。
 規則的に凹凸がつけられた壁。
 カバーがかけられているキーボード。
 閉ざされた空間に鮎だけがいる。

 恋人の願いも家族の祈りも、防音壁が過剰に働いて跳ね返してしまっているかのような断絶感が
心理の隙間に滑り込んできた。

 静けさが彼女の頬を撫でる。
 吐息がつくる体の振動が鼓膜に伝わる。
 そして鼓動が。

 自分が生み出す雑音が苛立たしい。
 歌に全ての精神を注がなくちゃならないのに。
 この日のために、この時のために練習してきた世界に一つしかない楽器、あたしの喉。
 真価が初めて問われている。

 誰にも頼れない。
 誰にも手助けしてもらえない。

 どうして助けてもらうなんて考えるんだろう。あたしは。
 望んでここにいるんじゃないの?


 やがて、防音ガラスの向こうの目が鮎に集中した。
 沢井の声がヘッドホンに響く。
「用意はいいか?」
「はい」
「昨日の調子でな」
「はい」


 膝に最初の兆候が現れた。
 立っているだけなら普段存在を感じることもない膝が、勝手に自己主張する。
 足が板切れのように心許なく揺れる。

 緊張しているのだ。

 制御しようもなく、鼓動が高まる。

 だめ。落ち着いて。
 川原鮎、落ち着いて。お願いだから。
 今だけでもいいから。

 ヘッドホンからイントロが流れ始めた。
 ぎゅっと拳を握る。
 そんなことで、体が震えるのを止められるかのように。
 目を閉じ、きしむ肺に空気を送り込む。

 1分ほどで、曲は止められた。
「どうした。具合でも悪いのか」
 うつむいて、閉じた瞳もそのままに首を振る鮎。
「緊張、してしまって。ごめんなさい」
「冷静になれ。昨日はできたことなんだ。特別なことはしなくていい。もう一度いくぞ」
「はい」

 焦燥は必然として最悪の結果をもたらす。
 30分が経ってもNGばかりが積み重なるばかり。
「少し休憩だ」
 沢井は席を立って、煙草でも吸うのか廊下へと出ていった。スタッフの多くも続く。

 誰の存在も感じ取れなくなった。
 手近にある椅子に両手を掛け、座りこんでしまいたいのを鮎は全力でこらえた。
 体のあちこちが、継ぎ目からばらけてしまいそうだ。
 ステージにも立った。
 レッスンも受けた。
 練習もした。
 どうして、その成果が出せないんだろう。

 まだ、指先は小刻みな振動を止めない。
 胸腔は麻痺したように呼吸を妨げ、背中に張り付くほど心臓を圧迫する。

 不甲斐ない。
 こんなに弱い自分は、大嫌いだ。
 失敗が恐くて、注目が恐くて、弱さを知られるのが恐い。
 変わりたいのに。
 なんにも変わってなんかいない。

 背後で、ドアが開く気配がした。
 水上さんだろう。
 慰められるのだろうか。
 いっそのこと、激しく叱咤してほしい。
 それで強くなれるのなら。

 聞こえたのは、女性とは違うスニーカーの足音。
 振り向こうとする鮎。

 氏家だった。
 何も言わず、鮎を見るでもなく、キーボードに歩み寄る。

 呆れられちゃったんだろうな。
 素人並だなって。
 いいところを見せようなんて、できもしないことを考えてこんな醜態。
 あんないい演奏をしてもらったのに、こんな歌しか歌えないなんて。


 部屋に、見えない音符が舞った。

 氏家の長い指が、鍵を慈しむように撫でる。
 生み出されるメロディ。
 どこかで聴いたことがある、懐かしい緩やかな響き。
 古い映画のBGMだったろうか。

 途切れることもなく、途中で曲が変わった。
 今度はクラシックだろう。モーツァルトのようだ。

 そしてまた、違う曲へ。オールディーズ・ポップス。
 立ったまま、指先が勝手に飛び跳ねるように演奏する彼。

 ジャズ、ロック、ブルース、ブルーノート、
 くるくると万華鏡のように姿を変える音楽。
 いつしか鮎は、名前を憶い出せないけれど、誰もがどこかで巡り合っている音楽を泳いでいた。

 彼の演奏は何分ほど続いたのだろうか。
 彼女にはわからなかった。

 ふっと訪れる静寂。

「なぁ、川原くん」
「は、はい」
「俺は、弾きたいように弾くのが音楽だと思ってる。ジャンルなんてものは、あとから付けた、
ただの区分だろ。そうじゃなきゃ、こんなに・・・」
 ポン、と鍵を叩く氏家。
「好きになれないよな」
「そう、ですね・・・」
「だから、君も好きに歌ったらどうだ?歌いたいように。なにかのためじゃなく、気持ちのままに」
「気持ちの、ままに・・・」
 鸚鵡返しに呟く鮎を残して、彼は部屋を出ていった。


 好きに歌う。
 どうしてそれが一番難しくなったんだろう。
 ずっとそうしてきたのに。
 何を見失っていたんだろう。
 氏家さんがわからせてくれた。
 自分自身だ。

 こんなことになっても、あたしは歌が好き。
 ずっと歌っていたい。
 変わっていきたいけれど、この気持ちだけはずっとずっと無くしたくない。
 上手にできないからといって、やめたくなったりしない。
 歌いたいんだから、歌えばいい。
 そう、そうだよね。
 歌おう。もっともっと、何度でも。


 プロデューサーとスタッフが戻ってきた。
 氏家もそこにいる。
 鮎は再びヘッドホンを取った。
 マイクに向かう。
「沢井さん」
「なんだ」
「またお願いします」


 それから数回のテイクで、全パートにOKが出た。
「よし、お疲れさま」という沢井の声を受け、ヘッドホンを外し髪を振る鮎。
 コンソールルームで、氏家が微笑んでいた。
 そして手を振って、廊下へ出ていこうとする。
 そうだ。お礼を言わなくちゃ。慌ててドアへ向かう彼女。

 しかし、コンソールルームに出たところで沢井に呼び止められた。
 もう氏家の姿はそこにはない。追いかけて行きたいが、仕事の話が始まってしまった。水上も
話に入ってくる。待ってくださいとは言えなくなってしまった。

 今度会う時には、と、鮎は太いペンで心のメモ帳に「お礼を言う」と書き入れておくことにした。


 沢井の話は、カップリング曲のこと。これも制作しなくてはならない。現在のシングルCDなら3曲
収録も可能。「イノセント・シー」は4分ほどの曲なので、容量的に障害はない。
 たいてい1曲は表題曲のカラオケ・バージョンになる。カラオケが下火になってきたとはいえ、
これは外せない。鮎としては更に自分の弾き語りによるアコースティック・バージョンを収録したいの
だが、別の歌も聴いてほしい気持ちもある。

 1枚のシングルでアレンジ違いの同じ曲しか聴けないのでは購入意欲をリスナーの減退させるし、
楽曲の制作能力も低く見積もられるという意見から、『大好き』も候補に加えて沢井と鮎が話し
合った結果、デビュー曲のために最初に書き上げた曲が採用された。沢井がサウンドのアレンジを
するが、歌詞そのものは鮎自らがいくらか手を入れるのみで、ほぼ原詞のままレコーディングされる
ことになった。

 タイトルは、『2人の水平線』
 邦彦と初めて海に行った時のことを。
 電車に揺られながら、こっそり彼の横顔を見つめていたことを。
 どきどきしながら水着になったことを、
 彼の気持ちが知りたくて、でも自分の気持ちは言えなくて、ただ波間に燦く8月の太陽と、彼と
一緒にいたかったことを、スロー・バラッドにした歌。

 提出した時は、デビュー・シングルにバラッドはどうかと鮎自身思っていたが、カップリング曲なら
問題ないとのこと。翌日にまずは演奏からレコーディングすることとなった。

 午前だけで収録は終わった。アコースティックギターのみというスタイルだということもあり、さほど
複雑なことはない。ただ、シンプルなだけにミスタッチは目立つ。慎重なチェックが繰り返された。

 さらに半日かけて、ボーカル録り。このレコーディングは緊張もなく、すいすいと完了。
 瞼に投影される彼との記憶を舞台にして、まるで邦彦がそこにいるようにリラックスして録音
できた。

 カラオケ・バージョンの作成に鮎の出番はない。実際のところ、スタッフの機械的な作業に終始
するだけに、沢井も腕の振るいようがない。この時点ですでに完成しており、鮎も何度か聴いて
みた。ピアノの音色が小粋なアクセントとなって、感覚に控えめに訴えかけてくる。
 これが、本当にカラオケで配信されるのだろうか。
 やっぱり売り上げ次第なんだろうな。
 どうかそうなりますように。

 ミュージシャン川原鮎の初仕事は、こうして終わった。
 しかし、彼女以外のスタッフにはまだまだ仕事がある。まずはミックスという作業。

 ミックスをするミキサーとエンジニアは似ているが違う。リ・ミックスという言葉を思い出すと理解
しやすい。エンジニアが手がけた音を受け取り、一つの曲として首尾一貫したものとする。
しかし、作業上求められる技術はほぼ重なっており、同じ人物がミキサーとエンジニアを兼任する
こともまた多い。今回もそうなった。

 全ての音を重ねてダビングすると、個別に扱っていた状態とはいささか異なる場合が多い。音は
デリケートな物理現象であり、単純な足し算だけでは思うような成果を出せないものなのだ。曲を
イントロから最後の無音部分まで整え、それをデジタル・テープに録音するミックス・ダウンという
作業が、スタジオでなされる最後の制作活動になる。

 これで終わりではない。
 テープをマスタリングのできるレコード会社のスタジオへ運び、マスタリング・エンジニアの手に
よって、CDに記憶させるデータに変換しなくてはならない。これは純然たるデスクワーク。しかし、
曲間の無音部分の長さなど、ミュージシャンの個性を反映させる場合もある。

 こうして、1枚の音楽ディスクが出来上がるわけだ。







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