法話1 学ぶということ
「学んだということの、たった1つの証しは、変わるということである。」もしもあなたが、仏法を学んだとするならば、どこかで、何かが、かわらなければなりません。もしも、あなたが、何1つ変わっていなければ、それは、何も学んでいないということです。 |
法話2 いただきます
天の橋立の北、丹後半島の東海岸の中頃に、伊根という 漁港があります。湾沿いに、舟屋という2階建ての建物が並んでいます。 一階の裏は、海とつながっていて、舟が、海から直接建物に入れるようになっています。つまり、現在、車が一階の車庫に入れるように、舟が直接一階に入れるように、作られているのです。伊根の湾の中ほどに、青島という島が浮かんでいます。鯨が湾の中に入ってくると、高台で見張っていた者がのろしを上げます。すると、湾の入り口付近の小屋にしまつていた網を出します。そこから、網を出し、青島まで網を引っ張ります。もう一方の入り口と、青島に網を張ります。すると、出口が島と網でふさがれて、鯨は湾から出られなくなります。こうやって漁民達は、力を合わせ、みんなで、鯨を捕まえていました。鯨は大きくて、1頭捕まえるだけで、多額の収入になった為、漁民はみんなで協力しあい、鯨を捕獲していました。鯨がたくさんいて、鯨を捕ってもよかった頃の、昔の話しです。 あるとき、親子の鯨が湾の中に入ってきました。漁民達はのろしを上げ、網を張りました。もう鯨は逃げられません。そして、とうとう母鯨を捕獲しました。つまり、殺してしまったのです。 網をはずしましたが、子供の鯨は、いつまでも母鯨のそばから離れません。いつまでも母くじらのそばにいました。そして、とうとう、子くじらも、つかまえられてしまいました。 鯨は哺乳類ですから、母鯨は子を思い、子鯨は母を思います。その思いはとても強いものです。子鯨は母を思い、いつまでもその場所を離れず、とうとう捕まえられてしまいました。漁民達は、子鯨のその思いがいかにも哀れに思えました。 そして、その母と子の鯨の為に、お墓を作ってやることになりました。今、青島には、鯨のお墓(墓石)が、3基たっています。 私達人間は、食べ物を食べます。魚を食べるということは、魚の命をいただくことです。野菜を食べるということは、野菜の命をいただくということです。私達は、命をはぐくむ為に、命をとらなければなりません。殺生は、悪なのです。仏教において、五悪の1つが、殺生です。罪を作りながらでなければ生きられない、それが命の存在です。すまないなあ、あなたの命をいただきます。その思いが、「いただきます」という言葉です。 殺生は罪である。だが、殺生をしながらでなければ、生きていくことが出来ません。罪を作りながらでなければ生きていくことの出来ない存在。 そんな、存在を凡夫といいます。仏教徒は、食事をとるとき、いただきます、と合掌して食べ物をいただくのです。 |
紹介
法信 公照(ほしな ひろあき)
法信寺住職
名古屋拘置所教誨師
参考 教誨師とは、少年院や刑務所に行って
宗教的なお話しをする、宗教家のことです。
法信 知己(ほしな ちき)
法信寺副住職
現在、心理学の学習をしています。
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最終更新日 平成18年 6月15日
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