思いつくまま印象記 旅体験あれこれ その3
 『ペルー…マチュピチュ&チチカカ湖の島々11日間』


[誰もが知ってるマチュピチュの全景]

 はじめに 
   〈今回も前回、前々回同様、Kさん宛ての手紙風印象記です〉
 2学期も始まってから1週間以上が過ぎてしまいました。毎年そう言っているのかも知れませんが、今年はひときわ残暑が厳しいように感じられますがお元気ですか。
 前回までの旅行の印象記は、いずれも帰ってからのゆとりがもう少しある時期に急ぎ書いたものだったのですが、今回は帰国が夏休み最終日で、印象を聞かれた時に「ハイ、これ」と渡す訳にはいかず、だから、印象記も遅れ気味になりました。
 さて、既にお知らせしているように、この夏休みに苦労しながら、タグを使って個人のWebサイトを作り、今までのあなた宛のメールなどをほり込みました。ですから、この文書も、そのことを意識することになります。
[予定外で訪れたチチカカ湖上タキーレ島のゆるやかな上り坂]  僕のWebサイトを見た友人からは「文章が多いのもひとつの個性だから気にしないで」と優しいメールを貰ったりしていますが、やはり少し冗長に過ぎる嫌いがあります。尤も、旅の情報を得たい人はもっとそれらしいサイトを検索されるでしょうから、これはこれでひとつの読み物でいいかとも思っています。こんな風に書くから冗長になるんだ!
 少し工夫したのは写真です。前回は写真をスキャナーで取り込んだのですが今回はSONYのデジタルビデオの静止画像を使うことになりそうです(よく宣伝しているメモリースティックです)。以前から旅の印象記の冊子を渡しても「こんな字ばっかのもの読むのはシンドイ」とお叱りを受けたことは少し解消できそうです。
 それと、いつも時系列に沿わない印象記のため全体像が掴みにくいという「苦情」もありましたので、冒頭に全行程を表で示しました。


月・日 行               動 宿泊地
8月21日  関空17:00⇒15:30ダラス16:30⇒23:30リマ リマ空港
8月22日  リマ6:00⇒7:30クスコ 午後:市内見学 クスコ
8月23日  午前:高山病回復を待つ 午後:クスコ近郊ツアー クスコ
8月24日  クスコ→アグアス・カリエンティス→マチュピチュ アグアス・カリエンティス
8月25日  アグアス・カリエンティス→マチュピチュ→クスコ クスコ
8月26日  クスコ→フリアカ→プーノ プーノ
8月27日  プーノ8:40⇒9:30ウロス島10:30⇒13:20アマンタニ島 アマンタニ島
8月28日  アマンタニ島8:00⇒9:00タキーレ島12:30⇒15:50プーノ プーノ
8月29日  プーノ9:40→10:50フリアカ11:30⇒14:00リマ 機中泊
8月30日  リマ1:20⇒8:00ダラス11:20⇒15:00関空 《31日》 機中泊
今回は“3世代4人旅” 先ずは重要な費用の話
 今回の旅のいつもと違うところは、夫妻&妻の母(以下「おばあちゃん」)の3人旅ではなく、息子大亮が加わった3世代4人旅だったことです。25歳から73歳まで。大亮は2年程前南米を1年近く旅していますから、彼にとっては再訪ということになります。当然と言えば当然なのですが彼はスペイン語ができる。どの程度の実力なのかはわからないのですが、少なくとも日常会話はでき、現地の人と冗談くらいは言えるようです。価格交渉などずいぶん助かりました。何せ、タクシーに乗る時もメーターはなく(それも俄かタクシーがいっぱい)事前交渉で決まるのですからこの役割はきわめて重要でした。だから、いつも初めに書いている「イギリス語が通じる国かどうか?」はI don't knowと言わざるを得ません。なんだか嬉しいような寂しいような複雑な気分でした。
 いつも通り、ツーリスティックな話から。費用はお土産代とかを除くと、なんと締めて一人20万円! 帰ってきて決算をして、改めてその安さに驚いた次第。その理由は主に二つ。エアーチケット代が予想以上に安かったこと。これは旅行日程とも関係するんですが、いくつか選択肢があった中で、妻と大亮が懸命に代理店を探し、結局アメリカン・エアーを選択。ダラス経由リマ行き。航空運賃というものはハイシーズンに向かって高くなり、過ぎれば下がるというのが常識。ところがこのチケットはズット高くて、突然8月21日に下がるという非常識な価格設定。それも半端な下がり方でなく3分の2くらいになる。これだったら、21日出発を選ぶしかない。だからきつかったけど31日帰国になった次第。11日間と言っても、結局正味9日間だからこれで精一杯の日程。とにかく14万円強という南米としては破格の安さ。これにペルー国内の飛行機代2回分が2万円弱。合計で16万円。
 もうひとつの理由は言うまでもなく現地の物価の安さです。だって引き算をすればわかるように残りは4万円なのですから。これでホテル・昼夕食などの飲食費・現地交通費・見学料等が賄えたのですから推して知るべしというところです。しかもどちらかと言えば円安傾向の中で出かけていますから円高であればもっと安くついたかも知れません(因みに1$=111、5円で計算)。ホテル代は中の下クラスで一人1泊平均(朝食込み)1400円程度でした。勿論、4人旅の有利さもありましたが。食費にいたっては何と1日平均500円弱です。決して粗末な食事ではなく、フォルクローレの演奏付のレストランとかで食べての話です。
暑いのか寒いのか想像できなかった気候と。気を付けた筈なのに罹ってしまった高山病
 次は気候です。これは想像力の欠如の結果でしょうが困惑しました。国内の旅行でも、大阪の酷暑の中で北海道へ出かける時、その寒さを想像できないで困ったことがあるのと同じことです。@先ずペルーは南半球である。だから今は冬である。Aしかし、南緯10度から15度にあり亜熱帯である(北緯ではバンコックくらい)。Bしかし、僕たちが訪れるのは高地である。Cしかし、陽射が大変きつい地域でもある。と、考えると、何が何だか解らなくなりました。『歩き方』によれば、クスコで最高気温が24℃、最低が−2℃。要するにこれが正しいのです。夜になると寒くて長袖にトレーナー、それだけでは足りずセーターにヤッケやコートが要るという訳です。昼は半袖でもOK。なんと言ってもペルーの特産品はアルパカのセーターですから早速買い求めました。10$くらいです。それだけ着込んでもまだ寒かったというのが実感です。 [ホテルの前のロレト通り。この窓は僕達の部屋の窓] [インカ帝国以来の精巧な石組み。2日目の午後こういう所をブラついたのが高山病のモト?]
 そして、問題は高山病です。友人から「とにかく油断しないこと」と散々忠告を受けていたにもかかわらず、結局かかりました。行程に少し無理があったのも事実なのですが、リマに着くのが深夜、次の日国内便でクスコに向かうのが早朝、だから空港で夜を過ごし、クスコに着いたのが2日目の朝8時前。ここで3000mに到達してしまっています。時差ぼけと長旅の疲れと気候の変化(寒い!)で体調は不良。勿論忠告通り、ホテルをとり、そこで体調調整でゆっくり。インカ時代の石組みがそのまま部屋の壁になっている趣のあるホテル。すぐ前がクスコの中心のアルマス広場でロケーションも抜群。半日はそのように過ごしたのですが、翌日以降の準備もあるし、昼飯も食べなくてはいけないしと買い物がてら街に出たのですが、これがいけません。夕方から夫妻はダウンです。おばあちゃんは少し気分が悪くなったものの、セーフ。息子もほぼ同様。
 高山病は思えばプルトニウム被爆に似ています。直ぐには痛くも苦しくもないのですが、知らない間にかかるという感じです。空気が薄いと言っても別に息苦しくもないし、どちらかと言えば爽やかな空気だし、直ぐには倦怠感がやってくるでもなし。
 症状は、寝過ぎた時に頭が痛くなることはありませんか?その経験が無いとすれば風邪の頭痛かな。あんな感じです。それと嘔吐。これで胃の調子が悪くなります。
 それと驚いたのは、高山病には免疫が無い!何度もかかるという訳。僕が2回、妻は4回ほどかかりました。妻は風呂好きですから終盤のチチカカ湖湖畔のプーノでバスタブのある部屋がとれて大喜びでシッカリ入浴したのが間違いの元。朝方、強烈な頭痛に見舞われました。僕の場合は、そのチチカカ湖の中のアマンタニ島で島の一番高い所に遺跡があり、360度の展望が約束されているので、疲れていたのですがガイドさんや他のメンバーと一緒に登りました。この主に欧米人のメンバーは20歳台が多くてピッチが早くバテてしまい、ダウン。
 出かける前、おばあちゃんが高山病を心配し不安そうだったので、「かかるのは覚悟して、それもひとつの体験と思えばいいのでは」と言っていたのが、自分達のことになってしまい、貴重なチョッピリつらい「体験」になった次第です。
南米はヤッパリ遠い!
 今回の旅は距離的には遠いのに正味9日間ですから、ほんとの観光旅行に終わりました。クスコ・マチュピチュとチチカカ湖周辺、この二つをジックリ観光したという感じです。首都リマには半日居ただけでした。だから前回や前々回のようないわば社会現象的考察や歴史的考察は皆無に近いので簡潔に終わりそうです。現地の人と話せなかったのも大きいかな。
 先の高山病を含め、今回は肉体的には少しハードな旅になりました。やはり南米は遠い!
今回は概ね時系列に沿って報告します。南米直行便はありませんからUSA経由。ロス経由やダラス経由になります。そこまでが概ね12~13時間。そこからリマまでが約7時間。飛行機はあまり苦にならない僕でも20時間は中々なものです。先日朝日新聞の論説委員のコラムで「機内のビデオとかの整備不調で2時間も遅れたのは本末転倒だ」という趣旨の記事がありましたが、アメリカンエアーも一人ずつビデオが見られて、好きな人は音楽あり映像ありでいいのでしょう。僕は日本でも見たくて見られなかった佐高信推薦『金融腐食列島・呪縛』を見ることができました。でもこれが見られないからというので2時間遅れられたらたまりませんね。国内線の飛行機の利用客は結構多くて深夜や早朝から空港は混雑していた印象があります。
全体的な色調は”黄土色” [クスコのアルマス広場]
 アンデスの総てがそうではないのでしょうが、全般的に黄土色の色調が印象的です。シチリアの色と同系色。クスコは屋根瓦も同系色。クスコでの1・2・4泊目のホテルは先に書いたのですがロレトという名前で、インカ以来の石組みで有名なロレト通りの入口にあります。ロケーションはアルマス広場奥だということも書きましたが、ペルーでは(他の南米でもそうらしいのですが)、街の中心には必ずアルマス広場があります。ドイツではマルクト広場で、これはマーケットですから意味は理解できるのですが、アルマスの意味は今のところ大亮に聞いても不明です(きっと植民地形成と何らかの関係がありそう)。でも、とにかくどんな小さな街に行っても(タキーレ島やアマンタニ島でも)アルマス広場があり、地理感覚的には便利です。
 クスコはインカ帝国の首都だったところで、植民地主義者がやって来て、滅ぼされたとは言え、先ほどから書いている石組みだけは強固に残っている。例のカミソリの刃一枚も入らないと言われる程の精巧さです。高山病にかかる前、現地の人が利用している食堂で昼定食みたいなものを食べましたが、香辛料が好きな人はいいのですが、少しきつすぎる感じです。少し濁った野菜入りのスープ、ご飯と白いマメの上に牛肉のつけ焼きが乗っているもの。その後にジュースがくるのですが、これはどうしようもない代物でピンク色のついた水。さすがに飲めませんでした。これで一人3ソル(1ソル=32.5円)。百円定食ですネ。
食べ物の話。土地の人達の食べるものと観光客のものは違う
 食べ物の話が出たついでに先に食べ物について。観光地には欧米人や日本人の口に合いそうなものがいっぱいあって、不自由はしません。『歩き方』を見れば、適当なレストランや名物料理も載っているので、探せばOKです。特にフォルクローレの演奏付のところはマークすればいいですがテーブルチャージが付くこともあります。ただ、金額的には先にも書いたように僅かなものです。ただ今回は大亮のガイドで名物料理選びには困りませんでした。チチカカ湖は鱒が捕れますからそのバター焼きは美味。鰯の仲間だそうですがペヘレイという魚も同じようにして食べました。アンティクーチョという肉の串焼き、チュペ・デ・カマロネスというシチューのようなスープ、ビーフカツのようなものも美味しかった。
 物価が高ければこんな料理も食べずに、現地の人が食べているものを食べざるを得ないのでしょうが、先に書いた定食のようなものは何日も食べるのはきついなと思いました。露店や土産物屋さんの人が食事しているのをよく見かけましたが、彼らはタッパウェアーのようなものに食べ物を入れてきているのですが、日本風に言えばオジヤ、雑炊の感じ。それを来る日も来る日も食べているようですが、少しずつ味に変化があるのかも知れません。
 総じて言えば、トルコ、スペイン、イタリアのような何処ででも美味しいものが食べられるというのとは違うようでした。
クスコとクスコ近郊を巡るツアー
 クスコでは、近郊を巡る半日観光が各旅行社から出ていて、マイクロバスで周るのですが、これはインカ時代の遺跡、それも勿論石組み中心にならざるを得ません。ただ、そこへ行くとクスコ市街が一望でき、クスコが盆地であることがよくわかります。
 クスコの街の印象は何日も滞在したわけではないのでたくさんは無いのですが、インディへナというかネイティヴの人が多い感じがしました。いわゆるモンゴロイド系の人々です。リマなどへ行くともう少しスペイン系が増える感じですし、アルゼンチンなんかはウンと増えるそうです。これは古都ゆえか、奥地だからか、観光地ゆえか、よくわかりません。
 リマ以上に感じられたのは日本車が多いこと。特にTOYOTA。それと、日本の中古車が多く、車体やウインドウに日本の企業名が表示されていてそのまま走っている。多分日本の車検落ちのクルマで排ガス規制をクリアーできないような車が走っているようです。「公害輸出」と目くじらを立てる気は無いのですが、これが現実なのでしょう。
マチュピチュとワイナピチュ登頂
 高山病に苦しみながらクスコでマル二日過ごした後は、メインスポットのマチュピチュを目指す旅です。実際に行く段になって初めて知ったことですが、マチュピチュはクスコから列車で4時間の遠さなのです。それも高度的には下がるのです。概ね3000mから2000mに。だから、高山病で苦しむ人もここへ向かえば治ると言われています。一番高級な観光列車には乗らなかったのですが、それでも結構いい車輌で、物価の低いペルーにしては往復35$(この中には手数料5$が入っているが、高山病中につき止む無し)もしました。クスコは盆地なので抜け出すためには懐かしいスイッチバックでゆっくり登っていきました。
 一応、線路はマチュピチュへの登山口周辺の駅以降も続いているのですが、実質的には終着駅はアグアス・カリエンティス。以前はブエンテ・ルイナス駅だったようですが何も無いところなので廃れたようです。アグアス・カリエンティスはその名の通り「熱い水」、温泉地なのです。駅から15分ほどのところの川沿いに温泉があり、日本にもありそうな温泉。勿論オープンですから水着で。温度は低く、床も砂。母と娘は大変ご満悦でしたが、温泉好きでもない僕は早めに上がりました。ただ日本の昔の銭湯にタイル画で富士山があったようにマチュピチュの絵が描かれていたのを見て苦笑しました。こういう事情もあってこの街がマチュピチュへの基地になっていて賑わっていました。
[マチュピチュから見下ろすウルバンバ川]  マチュピチュについては、多くが語られ、紹介されているので付け加えることは殆ど無いのですが、それにしても不思議な遺跡です。現地へ行ってみて改めて思うのは、この地形、位置です。カレンダーなどに写っている写真ではイマイチ分からないのは、この遺跡が更に高い山に囲まれていること。そして、ウルバンバ川という川に三方が囲まれていること。去年行ったトレドと同じ地形なのだけど、違いはその切り立ち方。ほんとに急峻な絶壁に囲まれているのです。この都市の頂からは回りの川が両サイドに見える。どうしてこんな場所に都市を造ったのか?僕たちはジグザグの道をバスで登るのだけど、それでも25分はかかる。「空中都市」と呼ばれ、確かに防御体制は完璧だけど、そこまでする必要がどこにあったのか?忽然と消えた人々に何があったのか?彼らは何処へ行ったのか?
 強い陽射の中、心地よい風に吹かれながらボーっとしてきたのですが謎は深まるばかりでした。色々な説があるようですが、どれも正しそうで、また違っていそうで、ワカンナイな、で終わりました。
[ワイナピチュからの壮大な展望]
 前に都市遺跡がありその後ろに突き出た山が見えるあの構図は空中写真ではなく、遺跡の「見張り小屋」と名前のついた場所からの展望なのです。飲食物持ち込み禁止を犯してその端っこの方の草むらで昼食をとるという贅沢をしてきました。
 その後ろの山がワイナピチュという山で、マチュピチュが「老いた峰」であるのに対して「若い峰」の意味だそうです。1日目は時間的に無理なので2日目にここへ登りました(因みに入場料は1日目は10$、2日目は5$)。見たところとても登れそうにないほど急峻なのですが、鎖や手すりが整備されていて普通の人で往復2時間、僕達はゆっくり3時間かけて登頂に成功。おばあちゃんは登山者名簿を見る限り最高齢でした(名簿のおばあちゃんの年齢のところに勝手に赤丸をつけてきました)。頂上ではスペイン語を母語にする人たちで盛り上がっていました。日帰りせざるを得ない人達は走るように登っていました。
クスコからプーノへ、高原列車の旅。何と12時間
 さて、再びクスコに列車で4時間かけて戻り、翌朝は8時出発でプーノというチチカカ湖畔の街まで高原列車の旅。4人掛けの真中にテーブルもあって、結構居住性はよかったのですが、何せ長時間。約12時間。もうチョッと速く走ってもよさそうなのにゆっくりしていました。車窓はいい景色で、出入り口も開けてそこに座ることもできるのですが、それも飽きてしまう長さ。車内販売(オレンジやバナナ、土産物)で車掌さんや土地の人もひっきりなしに来ます。グリーン車(?)はそう人をシャットアウトしているようでしたが。 特に見通しが甘かったのは後少しでプーノというフリアカ駅でのこと。『歩き方』にはここでタクシーを飛ばしてプーノへ直行してもいいと書いてあったのですが、そんなに待たなくていいと聞かされたのに、何とここで1時間半も停車。プーノに着いたらトップリと日は暮れていました。列車の中から客引きのおじさんが乗っていてその人のワゴン車で市街地まで送ってもらったけど、もう少しいいホテルに最終の宿を決めました。ここが前に書いたバスタブつきの部屋。
チチカカ湖に浮かぶ三島周遊?一泊の旅 [最初に訪れたウロス島]
 翌日はこの旅第2のメインスポット、チチカカ湖(3850mの高所にあり、船が航行する湖としては世界1高い位置)に浮かぶ島への旅。TVのウルルン滞在記でふたりっ子の二人が訪れて有名になったのがタキーレ島。ところがここは500段にも及ぶ階段を登らねばならず、もう一つのアマンタニ島はもっと簡単に入れるとの大亮情報で、こちらへの旅。朝、港付近でエイジェントと交渉。勿論大亮がやり取り。初めの予定では翌日帰って来るのは午後になる。そうすると有名なウロス島に午後出る船はないのでチャーターするとかなり高い。が、仕方ないと思っていたら、この船はアマンタニへ行く前にウロス島にも寄ってくれる。アマンタニでの民宿は勿論、昼・夕・朝食付きで4人で135ソル(一人約1100円)。信じられない価格。しかも後で分かったことですが、翌日帰りにタキーレにも寄る。「チチカカ湖の島々満喫ツアー」
 ウロス島は葦でできた浮島。観光客用に葦でできたボートにも乗せてくれる。どうしてこんな生活を敢えてするのかはよく分からないが、とにかく珍しくはある。
 更に船で3時間。アマンタニの港はボートだけが入るような岸辺という感じ。船が着く頃には民族衣装に身を包んだ人達が迎えに。この人達が民宿先の人。この船は20人強のメンバーのツアーになっていたのですが、欧米人が大半。ガイド役はアランさんという大変日本人に似た人だったのですがよく気の付く人で、おばあちゃんのことを気にかけてくれ、僕たちの民宿は最も港に近い家を割り当ててくれ、大助かり。
[民宿でお世話になったルーベンさんの子供達] [アマンタニ島の頂上からのSUNSET]  民宿はウルルン滞在記そのマンマ。僕達は1泊だけですから何もマスターするものはなかったのだけど、狭いながらも一部屋をあてがわれ、そこで食事し寝た次第。ルーベンさんという方で、子供さんが3人居られ、この子達がはにかみながらも結構人懐こく、楽しいひと時でした。食事は、家の前にある小屋の中に釜戸があり、そこで調理され運ばれて来ます。スープともう1品が基本で、そう美味しくはないのですが、まあ心がこもっていますから頂きました。水もポリタンク、火力は薪で、大変です。尤も、先に書いたように僕は高山病にかかってそれほど食べられた訳ではないのですが。
 長女のシンティアちゃんは僕らの集合地点のアルマス広場まで連れて行ってくれ、そこから僕と大亮は頂に向かったのですが、母と娘は断念し散策と買い物。再び合流した頃には真っ暗。電気は一応あるようなのですが、特別の時にしか使わないようでまったくの暗闇。こんな中でルーベンさんの家を探すなんて至難の業なのですが(日中なら壁が青く塗られているので目印になるのですが)、突然シンティアちゃんが現れてくれて先導役。ガイドのアレンさん、お父さんも迎えに来てくれ大助かり。先導はローソクのランタン。民宿に帰ってからもローソク暮らし。その分と言っては変かも知れませんが、星の輝きの素晴らしさは伝達不能です。
 翌朝、別れの朝は持参したプレゼント渡し。色鉛筆や筋肉マン消しゴム、色々な折り紙。そして持参したけど食べなかった品々。特にチョコレートは弟のネルソン君が独り占めし、隠れて食べて暫く現れない始末。お決まり通り記念写真を撮って別れを告げました。
[タキーレ島の石のゲート]  ここから予定にはなかったタキーレ島へ。丁度対岸といった感じの位置。それが理由で避けた500段の階段の登りを覚悟していたら、その裏側から入港。全くラッキー。少し登ると後はほぼ平坦なプロムナードと行った感じの素敵な道。いつもチチカカ湖の青い湖が見える。高山病再発の妻はしんどそうでしたが、何とか歩き切りました。下りはあの急坂でしたが所詮下りは下りです。そう苦しくはありませんでした。
 乗客の話ですが、欧米人の中でも、多かったのはドイツ人。ミュンヘンからの家族連れ。フリージャーナリストの青年をリーダーとする6人組。イングランドの人も多く、6、7人居たようです。大学生で途中島に残った人も居たのですが。その一つのカップルはインカ道を歩きワイナピチュで僕達と会ったそうです。フリージャナリスト氏とは、日独の歴史についてタバコを吸いながらの船上討論。英語を少しまとまって話したのはこれが初めてで最後。彼は徴兵が残っていて、勿論シヴィルサービスを選ぶそうですが、それが済んでから仕事は本格的に考えるとか。
 またしても3時間の船旅でプーノに戻りました。決して居住性は良くなかったのですが、総て込みで1000円強では贅沢は言えませんし、舳先の屋根の上で寝転がって何もない空と海を眺めるのも悪くなかったです。
 プーノ最後の夜はDON PIEROというレストランで初めに書いた大亮のガイドで名物料理を食べ、フォルクローレを聞きました。あちこちで体験したことですが、このメンバーの何人かは日本人と言っても通用する風貌でした。
首都リマは、半日だけ。天野博物館は噂通り良かった
 日程も十分ではないので今回はこれで終了するはずだったのですが、オマケが付きました。チチカカ湖畔のプーノには空港がなくクルマで1時間弱のところにフリアカという街がありここからリマに向けて飛び、そこからまたダラス経由で帰るのですが、その飛行機が、出かける直前に増便になりリマに午後2時に着くこともできることになり、そちらを選びました。リマからは深夜1時ごろの離陸ですから、半日あることになります。首都なんていうのは何処でもたいした見所もない割に喧騒と空気、治安の悪さが目立つので魅力的ではなかったのですが、折角なので立ち寄ることにしました。
 とにかく限られた時間なので、安いタクシーで何か一つだけ博物館へ、後は中心街を散策・食事というプランでした。タクシーの運ちゃんは友人が日本人だとかで乗るなりフジモリのカードは出すは、テープで演歌(それも偶然大阪演歌?)を流すは、大変なはしゃぎ様でした。選んだ一つの博物館は天野博物館。ここは予約制でまだ時間があったのでミラフローレスという新市街でブラっとしてから向かいました。天野博物館を知っている運ちゃんは少なかったのですが、何台目かでよく知っている人に当り、全然それらしくない建物の真ん前まで。この博物館は日本人が多いのは当然ですが、解説を日本の人がしてくれるので大変解り易く、オンリーワンとして此処を選んだのは正解でした。
 そこを出て最後は旧市街。ウニオン通り(ここもアルマス広場、そこからサン・マルティン広場までの歩行者天国の繁華街)を散策、食事。サン・マルティンというレストランで最後のお茶して、リマ空港へ向かいこの旅は終わります。広場でフジモリ大統領を認めないみたいな集会をしていましたが盛り上がりに欠けていたようです。
 帰りのダラス空港では2時間ほど待ち時間があり、喫煙に厳しいUSAですから覚悟していたのに、トランジットルームは全体の4分の1ほどが喫煙可。南米出張から帰るサンヨー電気の貿易部の人とタバコ吸いながら、帰ったら直ぐ始まる授業「情報」について貴重な体験談とかを聞くことができました。
いつもの旅の贅沢、現地で現地関連の本を読む。今回は『狙われる日本』
 この報告では最後になってしまいましたが、いつもの旅の贅沢の話。今回はあまり適当な本が見当たらず、少し古い〔97年3月刊〕けど標記のような本を持っていきました。
 副題に「ペルー人質事件の深層」とあるように、例のあの事件を扱ったものですが、著者が伊藤千尋氏なので読んでみることにしました。朝日の記者で海外特派員の経験が長く『燃える中南米』や『歴史は急ぐー東欧革命の現場から』を読んで評価している人でした。あらためて、フジモリという人の人となりを知ったり、フジモリ氏の当選が「革命」と呼ぶにふさわしいゆえん、非民主主義的といわれてもやらねばならないこともあったことなどがそれなりに理解できました。
 最後は強権的な解決を計ることになる背景・深層も比較的同情的に書かれていて少し納得いかないこともありましたが、欧米的民主主義の物差しだけでは測れない面があることも解らないではないなと思わされました。
 ただ、2期大統領を務めたフジモリ氏の歴史的役割は終わったのに、3期目は潔く引くべきだったというのが印象です。白人圧倒的優位のペルー社会を革命的に変えた、それもアジア人蔑視の劣情を組織してまで潰そうとした旧支配層に打ち勝ったのですから、今度はネイティヴのオルテガ氏が勝って、共生社会は完成するだろうに、というのが印象でした。FUJIMORIと書かれている壁を何度も見ました。同時にPERU2000と書かれているのも。ただ、多くの壁の文字はその上に×が書かれていましたが、それは決選投票をボイコットしたオルテガ陣営に対して、「選挙は終了!」を宣告するものだったようです。
 〔今追加でこれを書いている段階で、フジモリ氏辞任の報が入りました。まだ今後の動向はわかりませんが、今度こそ潔くと願わざるを得ません。〕



Copyright © 2000 MIKAMI HIROSHI