思いつくまま印象記 旅体験あれこれ
 『イスタンブル&イオニア諸都市11日間』

 はじめに
 この文章は前回の「イベリア半島&チョットだけモロッコ17日間」(99年夏)と同様、一応、Kさん達宛てのEメールをプリントアウトしたものです。ただ、特殊、個人的なものでなく、一般的な内容ですので興味があればお読み下さい。(冒頭は旅立つ前のものです)

少しご無沙汰していますが、お元気ですか?
 2月も下旬に入り、まもなく春の訪れの兆しも感じられそうなこの頃ですが、同時に卒業式のシーズンです。いつもなら、終わりと始まりの交差する独特の雰囲気で、それも嫌いではないのですが、今年はひと味もふた味も違います。もちろん、例の国旗国歌法案の成立による式への日の丸・君が代の導入の強制です。2月はそれに翻弄されている感じです。一応高教組の支部長ですから、高槻・島本の全高校の状況調査と情報提供に忙殺されています。せめて、歌わない自由を生徒・保護者・教職員に選択しやすい環境作りをと最後の奮闘が続けられています。
 今年の僕は、授業は全て3年生なので、1月いっぱいで終了して、いろいろ整理や、来年担当する情報処理・現代社会の情報化社会・選択の政治経済などの授業準備にいそしんでいる筈なのですが、それはまったく手付かずです。ただ、泣いても笑っても、卒業式はあと数日でやってきます。どんな混乱があるかわからないのですが、あれこれ思い悩んでみてもどうなるわけでもないので、ケセラセラの精神で数日を乗り切るしかないと思っています。
 という訳で、色々ありますが、研修の旅に(もちろん自費でですが)出ます。以前から、世界史担当者としては一度は行っておかなくてはと思っていたトルコに旅立ちます。最初はブルガリアにも脚を伸ばそうと思っていたのですが、日数を短縮せざるを得なくなり、断念しました。14日間とプランニングしていたのですが、応援している衆議院議員・辻元清美の選挙本番近しの情報もある中で、10日に短縮しました。まあ、ほかの仕事もあるのでこれくらいで我慢かな。地震のこともあるし、十分な準備もできないし、全くの一人旅だし、最初はパックツアーも考えたのですが、結局フリー個人旅行になりました。パックはプランに入っているイスタンブルがとてつもなく短いのです。どうしても行きたいとは思わないカッパドキア等が必ず入っていて、肝心の場所に時間が取れないのでフリーにしました。それと一人参加の割増も痛い。アンカラやカッパドキアはパス。イスタンブルは4,5日居ます。
 これまでのように鉄道網が発達していないところなので、必然的にバス中心になると勝手が良くわからないという不安が大きいのですが、まあ、何とかなるでしょう。円安もアンラッキーですがこれも巡り合わせで諦めるしかないですね。という訳で、3月6日の午後帰宅予定です。今回はトルコ航空の関空直行便ですから、便利な分少し高いのですが仕方ありません。 まずは近況報告でした。(00.2/20)


出かける前に読んだいくつかの本
 今日3月6日、30分遅れで、11:15に関空着で無事に帰ってきました。
 家に帰って、先ずEメールを見たら何本かメールを頂いていたので、差し当たり帰国報告です。スペインの時と同じく誰にでも話すような印象記になると思います。あれは好都合だったので今回もそうしようと思っています。出発前に出した近況報告も4人ほどの人に出しているので、これも同じように送ろうかな(C.Cで)と思っています。それと、大冠のリニューアルされたコンピュータールームにワードしか入っていず、厭でもこのソフトで4月から授業をやらざるを得なくなりそうなので、今回はその練習も兼ねてワードで打って、それをメールに乗せることにします。
[大変参考になった 出かける前、旅行中に読んだ本]   前置きが長くなりましたが、もうひとつ前置きです。前回の印象記を書きながら、やはり、事前の準備をもっとするのが本来だなと考え、今回はこれまでと比べると少し本を読んでから出かけました。トルコに出かけるなら「これだけは」と言われている『コンスタンティノープルの陥落』(塩野七生)。それと村上春樹の『雨天炎天』のトルコ部分(ギリシャの方は割愛)。後者は、いわゆるトルコの田舎を周った印象記なので僕が今回訪れた地域とは違ったのですが、マァ、トルコを理解するのには悪くない本でした。「パンが美味い」「マルボロを持って行け」などが僕にとっては印象的でした。前者はあの有名な1453年のオスマン(トルコ)帝国による、ビザンティン帝国攻撃を描いたものです。千余年続いたキリスト教圏(東ローマ帝国)の文字通り陥落です。この本を読んだ時からして知らないことが幾つかありました。イタリア諸都市のこの攻防への深い関わりです。ヴェネツィア・ジェノバ等、東西交易で利を得ていた都市が軍事力も含め、ビザンティン帝国に根拠地を持ち、そしてイタリア都市同士、互いに協力と反目をしていた事実。そんなことくらい世界史を教えているんだったら知っとけよ、と言われそうですが、浅学のため知りませんでした。コンスタンティノープルの危機を知りながら、どうして十字軍の時のようにオールキリスト教圏で支援軍が派遣されなかったのかは、面白そうな課題ではあります。
 [テオドシウスの城壁がつづく] こんなことを初めから書いていると、何の話か判らなくなりそうなので、止めておきますが、ただ、後で出てくるガラタ塔付近にジェノバ人居住区があったということを知るとこの塔を見ながら思うことも少し違ってくるということなのです。これも後で出てくるテオドシウス帝の城壁(陸側の攻防戦の境界)もグルッと歩くことになるのですが、ここが一大決戦が行われた場所かと思いながら歩くとまた感慨深いものがあるというわけです。
 そして、行く前に読みかけて、向こうで読了することになるのが『イスタンブール、時はゆるやかに』と『イスタンブールを愛した人々』でした。前者の著者は澁澤幸子さん。この人自身は良く知らない人ですが、あの澁澤龍彦さんの妹。扉にも「兄の霊に」と書かれている。文庫本の解説は海老坂武さん。塩野さんの文庫本の解説も森本哲郎氏で、いずれも僕が評価できる人なので持っていって無駄にはなるまいと思った次第。ただ、この旅行記は1981年から始まるので、大半はまだ日本人が珍しかった頃の古き佳き時代のトルコの話が多くを占める。その頃は正味、トルコ人は日本人好きで、日本に興味を持ち、時によっては日本人であるだけで歓待してくれるという時代なのです(今は商売相手と見て歓待してくれると思わざるを得ない、悲しい状況)。でも、主な観光スポットを巡り、その歴史的背景を含めて書かれているので、ガイドブックの役割も果たすというもの。
 後者の『…愛した人々』はナイチンゲール、シュリーマンから始まりトロツキー等で終わるのですが、日本人として、乃木希典や芦田均、他は名前も知らないような人物が並んでいたので、どうかなとは思ったのですが、結構いい本でした。著者は松谷浩尚さんで慶応を経てイスタンブール大学で学んだという人なのでその道の通ではあるようです。外務省勤務を経て東京大学の講師をしている人なので、見方に若干の違和感がないわけではありませんでしたが、人物を描く時に当時の国際情勢を絡めているので大変立体的な理解が出来ました。近代史を十分やっていない(特に授業で)身にとっては大変勉強になりました。
 何だか、メチャクチャ長い前置きになりました。多分これから書いていくうちにまた登場するかも知れないのでこの辺で措いておきます。

気候、費用、食べ物…
 さて、本題になりますが、イベリア半島印象記も、旅ガイド的なところからスタートし、歴史、文化と進んでいった、何となくそうなってしまったのですが、今回もそうしようと思います。これを「ツーリスティックな話から始める」というのは和製英語でしょうか?
 先ずは、お決まりの気候の話。これは旅立つ前に、前回書いたスペインへ留学した息子の友人から聞いてはいたのですが(彼女は数年前、女二人でこのシーズンにトルコを旅している)、ほとんど大阪並み。寒さも、日の長さも。天候は少し雨がち。イスタンブルからスタートし、最初の2日間は曇天か小雨だったので先が思いやられたのですが、エーゲ海沿いの都市に入ってからはほとんど好天続きでした(パムッカレは別)。再びイスタンブルに戻ってからも概ね晴天だったので地域差ではないようです。2月までは雨が多いとは言え、もう3月にかかっていたのが幸いしたのかもしれません。
 そして、費用。前回、イタリアより安いスペインと書いたのですが、更に安いトルコということになります。イベリア半島では17日間26万円だったのが、11日間18万円。「何だ、比例しているだけではないか」、と言うなかれ! 3人旅と違って一人旅は割高。2年前アメリカ東海岸へほぼ同じ日程で出かけた一人旅は25万円かかっています。しかも、本来の僕らしい旅をしていたらもっと安く上がったのですが、今回は現地でエイジェンシーにセットしてもらったのが割高の原因です。とにかく、鉄道が全く発達していない国なので不安がいっぱいで、ついその気になってしまったのです。エーゲ海沿いの古代都市遺跡を巡る旅は全部そうしてしまったのです。だから、普通なら雇わないガイドが全部付いてくるのです。後で書きますがそれも全部英語のガイドでした。だから割高は仕方ないというわけです。旅行社の人が「時間を大切にした方がいいですよ」(もちろん英語で)と言うものだから、それもそうだなと思った次第。こうしたのが良かったのかどうか今も分らないのですが。夕食は自分で食べることが多かったのですが、これも高くても精々800円程度。普通は300〜500円程度。
そこで、ついでに料理は日本人の口に合うかどうか。これは個人差があるでしょうがピッタリです。たまたま、イタリア、スペインと続けてきて、味はどれも良かったのですが、その延長ですね。トマトの類、ナスビの類が多いと何となくヘルシーじゃないですか。ムスリムなので豚は食べないのですが、豚肉なんて無くても一向に構いませんから。羊、鶏、牛、それで十分。味もクリーミーです。どういう調味料が使ってあるのか、僕には良く分らないのですが、おいしかったです。 [現地の人がよく食べるドネルケバブ] 
 時差の関係であまり眠くはないのですが、この調子で行くと前回と同じように数日かかりそうなので、今日はこの辺までにします。(2000.3/6)

シシケバブ、ピザ、とてつもなく美味しい!
 今日も急ぐ明確な仕事はないのですが、一応学校へ出かけ約10日間の不在の情報ギャップを埋めてきました。帰って、近くの工事現場で薪を貰ってきたりした後、早めにこの印象記をまとめようと思っています。
 トルコと言えばシシカバブが有名ですが、庶民はあまり食べず、ドネルケバブがポピュラーなのです。これは高価な塊でなく薄切り肉を巻きつけたような円錐状のものを削り取って使う肉です。それを野菜などと一緒にパンに挟んだサンドイッチみたいなものを街のあちこちで売っています。初めに村上春樹が「パンが美味い」と書いていたことを紹介しましたが、それは全くその通りでした。1泊目のホテルについていた朝食に出たパンを食べた時に痛切に実感しました。形状はフランスパンと同じなのですが、外はフランパンのようにパリッとしていながら、中身は餅モチしているのです。日本でも最近売り出されている食パンの宣伝みたいですが、ホントにそうなのです。だから、サンドイッチにしてもパンがおいしいからいけるんでしょうね。蛇足ながら、マクドナルドはもちろんイスタンブルにも幾つか在ったのですが、これは完全にトルコのパンに負けています。結局一回も入りませんでした。 [鯖サンドを売っているおじさんと舟] [セルチュクで食べた本物のシシケバブの豪華ディナー] 
 日本に居たら絶対食べない鯖サンドもガラタ橋の袂の海の上に揺れる小さな船で炭火で焼きながらの雰囲気に飲まれて食べました。100円。
 でも、シシケバブも一度は食べないと、と思いセルチュクという街でこの日は少し豪勢にボルシチみたいなのと、マッシュルーム・肉じこみ、そしてシシケバブを注文。ただ、「鶏か牛肉か」と聞かれたので久しぶりに牛肉を注文。そしたら、日本でもよく見る金の串に野菜と一緒に挟んだやつでなく、竹串に牛肉だけを巻いたものが出てきて、えっ、こんな簡単なもん?と思いつつ、ついている粉の調味料を付けて食べてみたらおいしいので二度ビックリ。 [ベルガマで食べたpizza] 
 ピザも気軽な庶民の好物なのですが、これもイタリアンとトルキッシュがあり、もちろんトルキッシュ。ただ、イスタンブルとベルガマと違い、イスタンブルでも町を外れたところとではまた違う。概ね、形が円形でなくボート型とでも言うような形。ボートのように周りが高いのです。これも好みによるでしょうが、僕は圧倒的にトルキッシュに軍杯を挙げます。中でもベルガマで食べたものは、今のところ世界一(そんなに食通でもない僕の言うことですからあまり当てにしないで下さい)。これはベルガマをガイドしてくれたジャアンさんが「ここのピザは木で焼いているから特別」と薦めてくれたもの。これはツアー料金に入っていたので値段は不明なのですが、挽き肉にチーズのお決まりのトッピングの上に卵がかぶしてあるもの。薄手でジューシーな感じで、ホントにおいしかった。
 こんな調子で書いていたら、トルコ料理巡りみたいになるのでやめますが、「おまえはパンとピザばっかり食べていたのか」と言われそうなので、あと少し。初めは良く分らないのでピラフも注文。後はあのおいしいパンが必ず付いてくるのが判ったので、米類はやめましたが、結構いけます。後で書くつもりのディナーショウでは初めてコース料理を口にしましたが、前菜からメイン、フルーツまで、これもいい線をいってました。
1円=5000リラ。トラムに乗るのに2万5千リラ。
 高い安いと言う時のお金の話。イタリアでも1円が15リラ程なので、計算が難しかったのですが、もうここは頭が変になるほどの世界。ほぼ1円は5000リラです。だからトラム(路面電車)に乗るのに250000リラ払う。最初は慣れないでアタフタの連続。最終的に僕が両替したのは1万円と110ドルなので、合計は1億1千万リラ程。持っていった電卓にEの文字が出る始末。やっと慣れて、万の上の数字を2倍したら円(100万リラは200円)と解った頃にはトルコの旅の後半に差し掛かっていました。しかもインフレが激しく『地球の歩き方』(99〜00年版)には1円が2550リラとありましたから、換算のややこしい時期だったらもっと頭が変になっていたでしょうね。ドルの国の人は尚更でしょうか。
 人の国のことをとやかく言うのは控えた方がいいのでしょうが、こんなだったら(誰も千リラ以下の数字なんか問題にしていない)、デノミをすればいいのにと思うのですが、何かと難しい問題があるのでしょうネ。
治安は悪くない、商売熱心なだけ…
 ツーリスティックな話の最後は治安のこと。これも全く問題はなかったです。ただ10日ほど居ただけですから不確かかもしれませんが、一応、女性が夜一人歩きできるかどうかを基準にすれば問題なしです。昨年中国に行った時、先ず一泊目の北京で、夜暗い中を外出して、ここはOKだなと思いましたから。
 物売りがよく近付いてくると言われています。僕も出かける前、ホームページで見たらそれにウンザリして、しかもその人は何か騙され、「もうトルコへ男の一人旅はこりごり」という投書がありました。これが僕の不安の元になったのですが、シーズンオフだからか、全くそんなことはありませんでした。もちろん街で声は掛けられますが、比較的アッサリしています。カンボジアや中国に比べたら軽いものです。尤も、グランドバザールの店なんかは少ししつこいですが。
 初めに書いた澁澤さんの20年前と違って、日本人観光客が増えたため、残念ながらホントの善意で日本人に近付いて来るなんてことは稀有のことになりました。日本語で近付いて来るだけで身構えてしまうというのは悲しいことですが、それも時代の変化で致し方ありません。
[ホテル・レジェンドのエントランスで]   ただ、英語で来られると、その警戒心が緩んでしまうのですね。しかも、それは客引きには違いないのですが、結果的には、別に騙されたわけでもなく、一応、正当な商取引のチャンスを提供しに来たと言えるのかも知れません。初日からしてそうでした。イスタンブルに着いた初日は空港で既に夜8時。ホテル探しは大変と思い、先の息子の友人の服部さんが薦めてくれていたホテルを当たろうかなと思いながらアクサライという広場でバスを降り、トラムに乗り換えようとしたら、おじさんがやって来てどこへ行くのかって聞くものだから「トラムに乗りたい」と言ったらコッチだとばかり連れて行ってくれる。バス会社の者だとか何とか言うので、えらい親切なバス会社もあったものだと思っていたら、トラムにまで乗ってくる。もう後は分るからここでいいと言うと、家に帰る途中だから気にしなくていいと返事。服部さんから聞いていたホテルの名前を言うとOKとか何とか言いながら、あるホテルに入って行き、僕が言ったホテルなら高いがここだったらいいホテルで安いと説明。マア、一応値段くらいは聞いても悪くないかなと思って聞くじゃないですか。そしたら、連泊するなら安くする、という訳で、いろいろ交渉した結果4泊100ドル、気に入らなくて1泊なら40ドル。これは上手い。誰だって2泊目を変える気にならないじゃないですか。結局このホテルレジェンドに5泊することになるのでした。もちろんこの間の会話は英語。後でここに泊まっている日本人に尋ねたらみんな同じルートを辿っている。そしてみんな、「マア、そう悪くないですもんね」と言う。これも後でよく見たら『地球の歩き方』のホテルリストにも載っていて結構いいことが書いてあった。という訳で、これは詐欺でもなんでもない。マア、商売熱心の部類に入るくらいかな。
良かったのか、悪かったのか、今もよく解らないけど、現地でツアーを組む [地下宮殿のカフェ。これを撮ってくれたのも絨毯屋さんの息子?]
 次はイスタンブル2日目の話。ブルーモスク(スルタンアフメットジャミイ)、アヤソフィアを見て、地下宮殿(これは昔の地下貯水池)で幻想的な雰囲気の中、カフェがいい雰囲気だと『歩き方』にも書いてあったので探して休憩【写真】。青年が近付いて来て話し掛ける。さっきも書いたように日本語なら胡散臭く思うところですが聞き取りやすい英語で話してくる。日本のことやトルコのこと、世間話のように。てっきりここでバイトしてる青年だと思ったのですが、その割に仕事もしないでトークが続く。友情の証にネームカードを渡したいから店に来て、みたいなことになり、今更イヤとも言えないのでついて行ったら、ジャン!絨毯屋さんだ。興味もないし買う気もないと言ってるのに、マアせっかくトルコに来たんだから、と色々見せてくれる。ターキッシュコーヒーも出て、従兄弟の日本語の達者な青年も登場。しかし、初めはホントに興味もなかったので買いませんでした。
 ただ、その日ホテルで朝食の時一緒だった日本人学生が現地旅行社でホテルとかバスをセットしてもらって良かったと言っていたものですから、お奨めのエイジェントは?と聞いたら、知り合いがあると言うので地下宮殿で会った青年がまた連れて行ってくれました。若いスタッフでやっているコモドーレツアーという会社。ここで自分のエーゲ海沿いの古代都市遺跡を廻るプランを話す。それに基づいてこういうプランはどうかと提案。僕のプランは順番に北から南へ廻るのだが、彼のは1泊目は同じだが、次の3泊をセルチュクにし、そこから少し戻るがベルガマ(北へ)、そしてパムッカレ(東)へ向かうプラン。後で考えると、この方が荷物持ちながらの移動が少なくてすむいいプランだったかもしれません。
 問題は価格。初め500ドルと言っていたような気がします。ここで問題になったのはガイドを何語の人にするか。日本語なら3日分で50ドルアップ。全体の計画も含めて価格が高いのか安いのかも、このガイドの言葉も、とにかく迷いました。結局all英語のガイドで450ドルまで下がったのですが、最終的に日本語が話せるガイドさんが事務所に立ち寄り、彼が「保険に入っているならその分を引いてもらえば?」ということになり、435ドルで一件落着となった次第。バス代、移動の費用、ホテル代、朝・昼食代、ガイド代全て込み。少し高いとは思ったけど、アジア側のバスの便がいまいち不安だったのでそれをズット引きずりながら行くのもイヤかなと思い決断。これは安心と安全を金で買ったことになるのですが、マア、出かける前のメールにも書いたように最悪でもトルコへのカンパだと思えばいいか。治安の話から、かなり逸れたけど、後は、靴磨きをさせてとせがむ人が多かったくらいかな。

混ざりあう国トルコ。先ず文化的混ざり合い
 さて、トルコの印象は、これまで書いたこともその一部ということになりますが、なんと言っても、いろいろなことが混ざり合っているところだということです。民族も文化も時代も混ざり合っています。もちろん、イスタンブルとその対岸のアナトリアの西海岸に限ってのことですが(尤も、東部へ行けばもっと複雑に混ざり合うのでしょうが)。トルコと聞いて思い浮かべるトルコ人の顔ってありますよネ。ああいう顔をした人が半分くらい。後は西ヨーロッパ的な人もいれば、アジア的な人もいる。有名なグランドバザールでなく、地元の人もたくさん集まるエジプシャンバザールがガラタ橋(この橋はイスタンブル旧市街と新市街を結ぶ。下は金角湾)の近くにあるのですが、そこを出たところでトラムの駅を尋ねた青年は全く日本人そっくりで、本人もよくそう言われると言っていましたがアフガニスタン出身だとか。もちろん日本語なんか全く駄目でした(澁澤さんによればタタール人が日本人に似ているそうですが)。黒髪が多いことは確かなのですが、金髪もいると言う具合。当たり前と言えば当たり前なのですね。この地域はいろいろな民族が支配し支配されて来たのですから。そのまま居ついてしまった民族がいてもおかしくはないのでしょう。
 文化的にも「ヨーロッパとアジアの掛け橋」とか「東西文明の十字路」と言われるので当たり前なのですが、イスラム世界でありながら、ヨーロッパ的というところでしょうか。僕が買ったイスタンブルのガイドブックには「オリエントへの扉」と副題がついていました。ただ、僕がアジアから来ているのだから当たり前ですがイスタンブル中心街を見る限りそこはやはりヨーロッパなのです。ギリシャ、イタリア南部、スペイン、要するに南欧とあまり違わない雰囲気なのです。それもどちらかと言うと洗練されていない南欧ということになりますか。中心街を見る限りムスリムぽい雰囲気はあまりありませんからそう感じるのでしょう。女性もスカーフさえ被っていない人が大半。それと、1923年のトルコ革命以来の大胆な西欧化の結果、文字がアラビア文字でなくラテン文字(ローマ文字)に一新されたことも大きく影響しているのでしょう(このトルコ革命の影響というのは凄いと思いますがここでは深入りしません)。街を歩いていても、意味は解りませんが一応読めるわけです。ただ、英語よりドイツ語の影響が大きかったようで(これは歴史的な経緯がありそれを再認識したのですが)、ウムラウトが付いていたりするんですね(僕は一応第2外国語はドイツ語でした)。Oをエとオの間の音を出すというようなやつです。だから料理のところで書いたドネルケバブというのは正確にはDONERとなるわけです。後はCをジュ、Iをほぼウと発音するくらいで、他はいわゆるローマ字読みでいけるという寸法です。ただこれも、イスタンブール中心街のことで、イスタンブルでも少し中心を離れると、牛や羊を飼っていたり、古い出窓のある木造建築があったり、スカーフを巻いている人の数が増えたりということになるので、東へ行けばもうそこはヨーロッパ的ではなくなるのでしょう。
[博物館の壁のアタテュルク像] [駅構内のアタテュルク像] [学校の壁に浮かび上がるアタテュルク像]  23年のトルコ革命ですが、それを指導したケマル・パシャ(その後アタテュルク=父なるトルコ人という尊称を与えられるのですが)の最大の功績は政教分離を推進したことでもあるわけで、こういう国家を世俗国家と言うようですが、世俗のもつ語感がよくないですよね。でもとにかく政教分離はイスラム世界ではきっと珍しいのでしょう。これも世界史担当者が今更と言われるかもしれませんが、実はこの時に女性の参政権も実現しているのです。トルコ帽を禁止したりもしてこれはさすがに善し悪しの判断はつきかねますが、まあ、いろいろと急激な改革をやり切ったものです。先の松谷さんによれば当然反発も多くそれを弾圧した歴史もあったようです。しかし、彼は本当にトルコ国民に敬愛されているようで(これも心の底までは判りかねますが)、至る所にアタテュルクの写真や像や、何とセルチュクでは学校の壁面に電飾で、と飾られていました。これも松谷さんの本によると、彼は「内に平和、外に平和」をポリシーにし、第2次大戦中も「巧妙な外交政策」が奇跡的に貫かれ、連合軍(主に英仏)、枢軸国(ドイツ)からの執拗な圧力をかわし、結局「中立」を通したと言います。尤も、彼自身は大戦の始まる前の1938年に57歳の若さで死亡しているが、ケマル主義が貫かれたようです。今のトルコの政治的力関係までは精通していないのですが、このケマルの持ち上げられ方は個人崇拝と言えるのでしょう。ただ、毛沢東やスターリン、ましてやヒットラーなんかとは違うものを感じました。それは、この外交政策も相俟って侵略してない、そして権力を集中していたとしても早く亡くなったので有りがちな腐敗の暇はなかった。というところでしょうか。もちろん彼の他の功績を別にしてもという意味です。
時代的混ざり合い。トロヤ、エフェス、ベルガマ [フェリーでバスごと渡ったダーダネルス海峡]
 さて、最後に時代的混ざり合い。これは巨視的意味と現在的意味で言えそうです。巨視的というのは、この国が持っている歴史的複雑さと重なります。1453年のコンスタンティノープル陥落はもとより、この旅の半分を占めたアナトリアの西部、エーゲ海沿いの古代都市遺跡はイオニア諸都市と言われるわけで、これは明らかにギリシャのポリスが起源です(もちろんシュリーマンの発掘によるトロイはもっと前になりますが)。澁澤さんによればトルコ人はこんな所はトルコの遺跡と思っていないようですが、ギリシャやローマでは見られなくなってしまったような比較的保存状態がいい遺跡であることに違いはないようです。都市化が進んでいない、地中に埋もれていた等の理由でいい保存状態であるような気がします。トルコ4日目には、ラッキーな快晴に恵まれながらイスタンブルを出たバスは乗客を乗せたり降ろしたりしながら、マルマラ海をヨーロッパ側から見ながら南下し、ダーダネルス海峡をバスごとフェリーで渡りチャナッカレ迄着き、翌日はこれも同じような青空の下今度はエーゲ海をアジア側から見ながら南下、セルチュクへ。マア、半分以上は気持ちよくウトウトの連続だったのですが、途中で町のバスターミナル(トルコ語でオトガル)に着いてはトイレ&スモーキングタイムを何度も繰り返しました。スモーカにはパラダイスのような国でしたがさすがに車内では吸えませんからネ。 [トロイの木馬の3階?から手を振る]  [エフェスの図書館跡] 
 トロイ、エフェス(エフェソス)、ベルガマと訪れました(位置的にはベルガマが真中ですが)。トロイはあのシュリーマンがホメロスの『イーリアス』を信じて掘り当てたトロイ戦争の当事国であることは言うまでもありません。ここは、何重にも都市が重なっているのでガイドさんの説明を聞いても今一よく解らなかったのが本音なのですが、ヒッサルリクの丘を確認し、あの復元されたトロイの木馬に上がって写真を撮って貰って日本人してきました。エフェスはまるでローマかギリシャに居るような気分になるほどアゴラや神殿があり、2階建ての図書館跡や大劇場なんかは感動でした。マーブル通りとかハーバーロード(昔は海がもっと近くにあって直行していた)等という道を歩くのはいいものです。
[ベルガマの大劇場とアクロポリスの神殿跡]  [アスクレピオンから山の斜面にある大劇場が見える] 
 さて、最後のベルガマです。ここはセルチュクから2時間ほども戻らねばならないので、ガイド兼運転手さんは「今からでもミレトスとかの3都市周遊に変えてもいいよ」と言うのですが、やっぱりベルガマにしました。これは大正解。ベルガマというのは古代国家としてはペルガモンです。ご存知でしょうか、ベルリン(以前の東ベルリン)にペルガモン博物館というのが在るのを。それと深い関係があるのです(後述)。他の都市がどちらかというと海港都市であったのに対してベルガマは山岳都市。だから、当然眺望が素晴らしいのです。この日も快晴でしたから余計です。多くは残っていない神殿跡の大理石の柱などの白が青空に映えるのです。そして急峻な傾斜を持つ大劇場跡。そして、ボンゴ車で下って行ったのがアスクレピオン。ここは医療・保健施設。特に面白いのは人々が入る時にトンネルをくぐって行くこと。その時に蛇を突然見せるショック療法もやれば、宿泊して夢治療もやれば、音楽堂があり、それで治療をしたりもする、どちらかと言えば心理療法的な面もあったようで興味津津でした。それと、ここからアクロポリスが見上げられ、あの大劇場が丘の斜面にあるのでバッチリ見える凄さ。
[ドイツが持ち去って何も残っていないベルガマのゼウス神殿跡]   さてもう一度話は上の都市に戻りますが、ここにゼウス大祭壇跡というのがあります。ただ、今はポツンと大木が立つのみです。そうです、ここを19世紀に発掘したドイツの調査隊が建物ごとベルリンに持って帰ってしまったのです。そして建てられたのがベルリンのペルガモン博物館なのです。何年か前そこを訪れた時も建物の中に建物がある凄い博物館だとは思ったのですが、こうして何もない跡地を見ると、「許しがたいナー」と思わざるを得ませんでした(この大祭壇はアレクサンダー大王後の建築なのでヘレニズム芸術の最高傑作だと言われているものです)。だってこれは明確に泥棒じゃないですか。それも家ごと盗るダイナミックな泥棒。尤も、前から思っているのですが、大英博物館やルーブル博物館だって、盗品展示場のようなものです。無論何かの法的手続きは取られたのでしょうが、でもそれは詐欺に近いですよ。だからアジアやアフリカの人々は返還を要求していいと思いませんか。せめてそれが無理なら「借り賃くらい払えよ」と言いたくなります。
[パムッカレの石灰棚の中を流れる温泉暖流?]
荒天のパムッカレ、嬉しかった温泉暖流
 こんなとこで怒ってても仕方ないので次に行きます。後は石灰棚で有名で世界遺産にもなっているパムッカレ。エーゲ海沿いを離れ少し東方に入ります。ここもセルチュクからボンゴ車で2時間位の所。石灰棚は後にして、その上の方にあるヒエロポリスを見学。ここは大理石でなく茶色の建築物でこれはこれで趣あり。しかもここも山岳都市風なので眺望抜群。それも前方の山並みは冠雪していて、そしてその間に丘陵が(下に)見えるという絶好の展望でした。ところが閃光が走り、ヤバイかなと思っていたらやがて雷鳴。そして強風強雨。傘も何もなし。あってもメガネが飛んだ位だから役に立たなかったでしょうが、まだ肝心の石灰棚を見てないよー!誰も居ない中を多分今は立ち入り禁止になっているような所を落ちたらどうしようと思いながら下って行ったら、やがてコバルトブルーのお湯をたたえた棚を目にして感動。強風強雨の中シャッターを切りましたがチャンと写っているかどうか?それと猛烈に寒かったので、溝を流れる温泉水に手をつけると殊のほか暖かさが身に沁みました。猛暑に小川の冷たさに歓声を上げる、あれの冬版ですね。 風を切りながら辿り付いた高級ホテル(ここが集合場所)でコートや濡れてしまったガイドブックを乾かしながら飲んだチャイは100円だったけど値千金でした。ここを少し早めに切り上げ、デニズリという町に着き、ケーキ屋さん(食べ物のところで書かなかったですが、これがまた多い)で更に服を乾かしながら、空港行きのバスを待って、イスタンブルに飛んで僕のアナトリアの旅は終わります。このドメスティックラインはトルコ航空で日本から予約していてエアーチケット代に含まれていました。
[ベルガモを案内して下さったジュアンさん。ガイド一人に客一人!]  そこで最初の方に書いたガイドの言葉問題。All Englishだったので、この4日間はまるで英語のリスニングトレイニングの世界。きっと8割解れば完璧なんでしょうが、7割くらいなので、ちょっと理解できなかったかな。固有名詞の発音が日本のものと違ったりするので余計解り難かったようです。ただ、どちらも(エフェスは女性=英語教授法を専攻し、今はペンションのオーナーだが冬場は閑=と、ペルガモ・パムッカレは年配の男性=元大学の歴史の先生)トルコ人でしたが結構聞き取りやすい英語でした。ベルガモの時は何とクライアントは僕一人。これはチョッと困りました。OK?とかYou know?とか言われるとドキッとするじゃないですか。写真を撮るにもウロウロ出来ませんしね。 ただ、エフェスでは日本の若いリタイアー女性二人と男性学生二人も一緒だったのですが、その時の外国人メンバーがそのままパムッカレに一緒に行くことになりました。米国人父子(子息はテキサス大学の考古学準教授、父は元バンカー。この人達とはトロイも一緒)とオーストラリア人中年カップルの5人。昼食付きなので一緒に食事した時はつらかったですね。4人がナチュラルスピードで話すものだから、全く会話に入れず。ただ、日本語を選ばなくて良かったようです。少しはこの人達とも話せたし、6千円近く節約できたし。 時間的混ざり合いの話からアナトリアトリップに入っていきましたが、もう一つの「現代的意味」は簡単な話で、中心部を少し離れると真っ黒なジャバラとスカーフに身をくるんだ典型的ムスリムが居ると言うことです。イスタンブルの金角湾の奥にエユップスルタンジャミーと言うムスリムにとってメッカ、エルサレムに次ぐ第3の聖地があり、そこにも最終日に出かけたのですが、ここはもうスッカリ一昔も二昔も前のトルコがある感じでした。 今日は完成させるぞと思って頑張ったのですが、駄目ですね。前回のように休み中じゃなく、学校へ行けば同僚に会うし、早く完成させたいと焦っているのですが、後1日位はかかりそうです。(00.3/7)

初めと最後の計5日のイスタンブル
 さて話は前後するみたいですが、イスタンブル。初めの2日半と最後の2日、合計5日弱の滞在。このプランはベストでした。初めに街に慣れて、見残しを最後に、買い物も最後に。ホテルのロケイションが良くて主な見所の真中にあるので何かと便利でした。少し離れていればトラムに50円で乗る。
[ブルーモスクからピンクの外壁のアヤソフィアに向かう]   ブルーモスクと呼ばれるスルタンアフメットジャミーはホテルから歩いて3分。凄い凄いと聞いて来たのですが、それほどでもありませんでした。内部のタイル装飾がブルーなのでこの名前がついたみたいですが、それほど感動しませんでした。もっと真っ青だと思っていたからでしょうか。
[アヤソフィア内の漆喰の中から現れたモザイク壁画] ここから東に歩いて直ぐがアヤソフィア(聖ソフィア寺院)。ここはなんと言っても、ジャミー(トルコ語でモスクのこと)にされる前はビザンティン教会の総本山だったので、塗り固められていたキリスト像とかが調査隊によって漆喰が剥がされ発見されたものが見もの。それとギャラリーがあってそこから広い堂内が見渡せるのもいい。あのコンスタンティノープル陥落の時、多くのキリスト教徒がここへ逃げ込み空しい祈りを捧げたという場所でもあるわけです。今は外壁が濃い目のピンクですが、以前は薄めの黄色でした。入場チケットの写真は黄色なので、何で?と聞いたら塗り替えたんだと言ってました(湿気がどうとかこうとか言っていましたがよく聞き取れませんでした)。後で澁澤さんの本を読むとピンクの方が元々の色に近いのだそうです。
 ついでに言うと、これ以外にも幾つかジャミーを見ましたがどれもシンプルです。スペインでもそうでしたが、偶像崇拝を厳しく禁じているので、ゴタゴタしようがないのですね。その分、アラベスク模様的なデザインが発達する。あるいはカリグラフに力が注がれる。これはブルーモスクの前にあるトルコ・イスラーム美術博物館にアラビア文字を綺麗にデザイン化したもの(色は聖なる青・緑と金でしたが)が展示されていて息を呑みました。そういう意味で、ブルーモスクよりもスェレイマンジャミーの方が良かったです。と言うのは、ジャミーはステンドグラスがあっても偶像崇拝禁止の関係でキリスト教会のように色々な人物が描かれるのでなく、その分精巧ではないのです。ところがスェレイマンジャミーのミフラーブ(メッカの方向を指し示す大きな窪み。ここが祭壇みたいなもの)の横にあったステンドグラスはデザインが精巧で美しかったです。信者でない者は立ち入り禁止区域には近付けないのでつぶさに見られないのは残念でした。それと、どのジャミーにも敷き詰められている絨毯です。僕はまたしても浅学故に知らなかったのですが、信者一人が占められるスペース(畳1帖分より狭く、玄関マットくらい)が絨毯の模様で示されていて、そして模様に線が入っていてミフラーブの方向を示しているのです。あるジャミーでミフラーブはどこ?と聞いたら、その線を指し示してくれました。なるほど、と納得。
 アヤソフィアの前にある地下宮殿は初めの方に書いたのですが、こんなバカでかい貯水池を作る技術が4〜6世紀にあったことが驚異、そして、フランス人学者に発見されるまでその存在が忘れられていたことがまた驚異。10数年前に池の底の泥を取り除いたら円柱の基底にメドゥーサ(彫像)が現れたと言うのも驚きです。冬だったので有難味は無かったのですが、夏はさぞヒンヤリしていい休憩スポットでしょうネ。
[トプカプ宮殿の送迎門。カリグラフも美しい]  こういうジャミーと全然違うのが、トプカプ宮殿です。ここはオスマントルコの歴代スルタン(皇帝)の居城ですから、生活・政治の場です。広大な地域の支配者の財産が集められているのですから、ラグジュリエイトであるのは当然です。キリスト教で言えばヴァチカンに匹敵する富が集中することになります。ここは聖俗両方ですから余計にそうなりますよネ。壁面を飾るイズニックタイルの模様も美しい。だから、バカでかいサファイアや金細工、刺繍に彩られた衣服、東方からもたらされたセラミック(日本からの陶器もあるはずが陳列館がなぜか閉鎖中)が次々と展示されていて、写真は撮り放題だったので、見てもらう方が手っ取り早いでしょうね。ここはアヤソフィアよりも更に東にあり、バルカン半島の先っちょなので見晴らしが最高でカフェテラスのチャイがおいしかったです。
 ただ、さすがにムスリムの拠点でもあるわけで、ある一室だけは、ここは信者にとって重要な場所なのでディスターブするな、みたいなことが書いてある部屋がありました。そこには、ムハンマド(マホメット)の帽子とか靴とか杖、足形まで展示されていました。信者さんらしい人は神妙な面持ちで見入っていました。僕は眉唾だと思いましたが。
 それと、ここはハレムが別料金、ガイドが必ず付くというシステム。15分ほど待たされて入りましたが、また壮大な部屋が続きました。このシステムはこの午後訪れたドルマバフチェ宮殿も同じでした。こちらの宮殿は19世紀の半ばに31代目のスルタンが造営したもので、宮殿の引越しみたいなものですネ。ボスポラス海峡に張り出した位置にあり、最終的にはかのアタテュルクが執務した(そしてここで死亡)という建物です。この建物は時代が時代だけにバロック風で余りにヨーロッパ的で面白みは無かったのですが、共通しているのはそのシステムです。ここもハレムが別なのです。別料金を取られることに不満を言っているのではなく、いずれも建物は近接しているのに全く別の空間だということです。そして、住み心地は結構よさそうなのです。ドルマバフチェなんかは明らかに同じ位の広さがあるのです。門外漢なので知らないのですが日本の大奥はどうだったんでしょう?
 [ガラタ塔からのトプカプ宮殿・アヤソフィア・ブルーモスク 17:30頃] 午後、金角湾の向こう側=新市街へ。ガラタ橋は地震の影響かどうか不明でしたが閉鎖中。シーバスで渡り5分、50円。今書いた新宮殿を見て、歩いてタクシム広場へ。ここにアタテュルク像を含む独立記念碑。ここで食べた焼き栗が暖かくて美味。そこからイスクラティール通りを下りやがてガラタ塔。この通りは日曜日で心斎橋並みの人込み。ガラタ塔はレストラン横が展望台への出入口で、360度の展望。丁度日没時で絶景でした。
 3日目のイスタンブルは午後アナトリアへ向かわねばならず時間がなかったのですが、ヴァレンスの水道橋を眺め(試みたのですが上には登れず)、先のスェレイマンジャミーへ。他のジャミーもそうでしたが拝観料が要らないので申し訳なく思い、受付のお爺さんが毛糸のソックスカバーを売っていたので土産に買いました。その横がイスタンブール大学。海外に行ったら大学を見るのは趣味の一つなんですが(出来れば生協でメシを食う)、ここは時間無く駆け足で通過で残念でした。ただ驚いたのはゲートでも校舎内に入る時もボディーチェックがあること。この大学は松谷さんによると色々な亡命者が教鞭をとったそうで、興味深かったのですが学生と一緒にタバコ吸っただけでバイバイでした。
ボスポラスクルーズ [ボスポラス海峡クルーズ]
 やっと、見残しイスタンブルを巡る最終盤に入ります。これはやっておかないと悔いを残すと思っていたボスポラスクルーズ。冬は1日2便(10:30と15:00)。9:40頃にチケット売り場に行くと発売は10時からと表示。さて、と思っていると客引きです。「この船に乗ったら時間がかかり過ぎる。6時間だ。3時間で行って帰ってくるから、どうだ」と言うわけです。ところで、How much? この交渉が凄くて、最初は37ドル。グループツアーなら30ドル。高すぎる! だったらと言うことで、色々あって結局10ドル。『歩き方』にも帰りはバスでと書いてあったので6時間はかからないとしてもマア時間は手頃。初めの乗合船だったらもう少し遠くまで行くのですが黒海沿岸まで行くわけでもないし、この価格ならリーゾナブルだ。「他のヨーロッパ人もたくさん乗るよ」てなことで決定。
 客は最終的に、ドイツ人母子と母の姉妹と子の友人の4人組・スペイン人とオーストリア人の2カップルそして僕の計9人。エミノニュという桟橋から出帆、ガラタ橋をくぐりながら金角湾を出てボスポラス海峡に出て北上し、ボスポラス大橋をくぐり、第2ボスポラス大橋の袂でUターンするルート。このUターン地点がメフメットU世によってコンスタンティノープル攻略のため急遽建設されたルメリ・ヒサールという要塞。ここで降りて登るのも良かったのですが、ドイツ人のおばさんが「エイジアン サイド!」と連呼するものだから運転手も諦めて直ぐ出航し、ボスポラス大橋のアジア側に着けてくれた。やはりここまで来れば、アジアに渡っておかないと値打ちが無いと思うおばさん達の意気込みもわかるし、僕もダーダネルスは渡ったけどボスポラス海峡は渡っていないことになるので、これはこれで良かったみたいです。
[ヤルの海辺から。アジア側からのボスポラス海峡]  それよりここで良かったのはここがヤルと言って別荘地なので雰囲気が良かったことです。【写真】岸辺のレストランで熱々のムール貝(多分)の天ぷらを食べ、チャイを飲んでゆっくりしました。1時間のランチタイムは長いと思ったのですがそうでもありませんでした。
 乗客同士は余り話ざず、特に2カップルは自分たちの世界に浸っていますから、邪魔かなと思ったのですが、蛮勇を奮って話し掛けてみると意外と気さくに話しました。ドイツ人の青年は航空会社で働いており、今回は友人家族のガイド役みたいなもの。オーストリア人の女性は何かの学校(この説明は難しいと言っていた)の先生。新政府をどう思う?と尋ねたら「好きじゃない」と言いながら、「日本でも話題になってるの?」と驚いた様子でした。もうチョッと語学力と暖かければ(甲板の上は強風)突っ込んだ話も出来たのでしょうが。スペイン人は彼女の方がツアーコンダクター、彼がプライヴェイト・インヴェストゲイターと言っていました。もちろん去年スペインを訪れたことなど話し、彼女たちがバルセロナの人であり、彼女たちがスペインに誇りを持っていることなどが伺えました。初めに書いた混ざり合いという意味では、ちょうどスペインとトルコは逆になることなど話しました。もちろん、スペインはキリスト教勢力がイスラム教勢力を放逐、支配したのに対して、トルコは逆にイスラム教勢力がキリスト教勢力を放逐支配したという意味でです。彼女にアジアには行ったことがありますか?と尋ねたんですが、丁度その場所がイスタンブルのアジア側だったので大笑いでした。もちろん彼女は仕事柄バリ島へ行ったことがあると言っていました。この人達とは写真の撮り合いッコをしたりして、後は曇天でしたがトプカプやアヤソフィア、左に見えるガラタ塔等のイスタンブル中心街を飽くことなく眺めながら桟橋へ戻ってきました。
 とにかくヨーロッパ人にとっては気軽に来られる地域なのですよ。飛行機で約2時間。日本でいえば韓国、香港並みなのでしょう。殆どの人が3〜4日の滞在でtoo shortだと感じるのですが、彼らにとっては週末旅行の感覚です。
グランドバザール、北の城壁周辺
 この後はグランドバザール(カパル・チャルシュ、屋根付き市場の意味)で買い物。旅の通としては土産は買わないことにしているのですが、一応有名なバザールなので行ってみました。貴金属は興味が無いし、絨毯の本物は高そうだし、組合の会議で会った関田さん(吹田東)からブルータイルをと言われていたのを探すくらいでした。タイルは割れる心配があるので小さ目のを買いました。もちろんここは商売のスペースですから、「チョッとお兄さん、安いよ」「見るだけいいよ」と日本語が飛んできます。同じよな英語も飛び交っています。
 本物の絨毯は高そうで手が出ないのは地下宮殿から連れて行かれた絨毯屋さんで判っていました。いいと思うものは10万円位。キリムと呼ばれる平織りのものやスマックという動物模様を中心とした絹のものは安めということが廻るうちに理解できてきました。『歩き方』にも、値打ち物かどうかは気にしても始まらないと書いてあり、要は好みで自分が気に入るかどうかだとありました。最初の絨毯屋のお兄さんが言っていた「せっかくトルコに来たんだから」、妻も「国際交流クラブをやっているので、何かトルコらしいものを」と言っていたので、段々とスマックを買う気になっていました。初めの絨毯屋さんでは300ドルと言っていたように記憶していたのですが、ここで結局100ドルで買うことになりました。スマックは薄手なので、持って帰りやすいのと模様が落ち着いていいのが決め手でした。店の人が優しげだったのもポイントかな。このバザールは迷うと言われていたので深入りはしませんでしたが、中にカフェがあるので休憩。スイス人の小学校教師と高校教師の女性二人連れと同席。この僕が今やトルコの見所を解説する。スゴイナー。
[カーリエ博物館のキリストのモザイク像]  最終日は3時までがフリーで結構時間があるので、思い切ってテオドシウスの城壁まで行くことにしました。初めに書いた通りです。トラムで10駅ほど行った所で降りて、ここが一番保存状態が良いというゾーンです。この城壁は基本的にズーと続いていて壊れ方が違うだけです。ただこれも人の国のことを言うのははばかられますが、こんなままにしておくとその内無くなるんじゃないかと思うくらい放置されています。途中にカーリエ博物館があり、ここもキリスト教会がイスラム寺院に換えられて、その後壁面からキリスト教的壁画が出現したと言うもの。それもモザイク画で、埋められていた分保存状態が良かったのでしょう、色彩が大変鮮やかでビックリしました【写真】。
 ここから、先に書いた金角湾の奥にあるエユップスルタンジャミー迄歩いて30分以上かかるのでバスでもと思ってチケット売り場を探していたらおばあさん(トルコ語オンリー)がコッチと言うわけで歩き始め、ついて行ったらもうそこはジャミーの目の前でした。敬虔な信者さんが日曜日のせいもあって、大勢お参り(?)に来られていました。ジャミーはそれだけと言えばそれだけなのですが、ここはフランス人作家でトルコ人にも人気のあるピエールロティのよく通った茶店(チャイハネと言います)が裏の丘にあることでも有名なのです。森本哲郎さんも解説でここに触れています。裏手はイスタンブル最大の墓地で汗ばみながらそこを登り切ると絶好の展望台になっているチャイハネが現れます。【写真】
[ピエール・ロティのチャイハネで。後は金角湾]  天気もうららかだったし時間もあったので旅のメモを整理したりして過ごしました。ここを降りてからはバスに乗りガラタ橋袂のエミノニュに戻りました。バスストップでお爺さんがチケットを売っているので買ったのですが、それは違うバスだと言われて車内でまた買う羽目に。これで60円の損。カンパ、カンパ。
 ここからはまたトラムに乗ってもよかったのですが、時間もあったのでエジプシャンバザールを通ってホテル方面に向かいました。バザールは日曜休みなのですが、その周りに出店が溢れていて、こんなに人口密度の高いところはそう多くないと思えるくらいの人込みでした。周辺部から来ているのでしょうか、スカーフの女性が目立ったように思います。予約してあった空港行き乗合タクシーをホテルで待ってトルコを後にしました。因みにこの乗り物はトラムと空港バスを乗り継ぐのと同じ値段でした。

ハマム(ターキッシュバス)、ベリーダンス [ハマムで出て来たらこんな格好にバスタオルを巻いてくれる。勿論私は右側。]
 さて書き残しが幾つかあります。トルコと言えばハマム(Turkish bath)とベリーダンス。スペインのフラメンコと闘牛ではありませんが、これも体験しておかなくては。ハマムはセルチュクで夕方時間があったので行きました。あんまり観光用でないところがいいなと思っていたらピッタリの所がありました。トルコの人も来ていたのですが、彼らはマッサージとかは無し。結局アジアを半年以上旅している日本の青年と、京都工繊大の学生2人と一緒に。ドーム状の浴室に入り、アツーい大理石の大きいテーブルの上に寝転がること20分。僕はサウナも好きじゃないのでこの待ちはきつかったですが、やっとおじさんとお兄さんが入ってきてくれて垢すりをしてもらい、シャワー後、シャンプーとマッサージ。これで小1時間。900円。マア一つの体験でした。
 [この人は女か男か? ベリーダンス] ベリーダンスはどっちでもよかったのですが例のコモドーレツアーのマイケルJフォックスに似たスタッフ君が「直接電話したら70ドル、内でならエイジェンシー価格で40ドル。なかなか良い内容だよ」と奨めるディナーショウがあって、迷ったのですが、最後の夜くらい豪華にいこうかと決断。ホテルからの送迎付き、もちろんディナー付き。フォルクローレもありという内容。ラストプライスは35ドル。迎えのバスはほぼ満員で却って安心。何故かレストランの名前はカサブランカ。入ったら国別に席があり、来る前問題にしてきた日の丸がテーブルに飾ってあるという皮肉(尤もこれはトルコ人が終盤踊り出し蹴っ飛ばしてくれるというオマケ迄つきましたが)。この日本人席は僕一人でしたが、舞台の真横、いわゆるかぶりつきでした。3時間のエンタテインメントでなかなか濃密でした。いわゆるフォークダンス、民族音楽あり、そして向田邦子原作のテレビドラマ「阿修羅のごとく」(いしだあゆみ、加藤治子や菅原健二が出てるやつですが知ってます?)で流れるターキッシュマーチ。そして間に3人のベリーダンス。そう老けた人ではなかったようです(『歩き方』によればおばさんも居るそうな)。内一人はマスクをしながら踊り、最後にそれを取ると何と男性!この踊りは、腰とヒップを激しく動かすダンスで宮殿内でエンタテイメントとしてスルタン達を楽しませたのでしょうね。司会兼歌手兼ダンサーの男女がいて、彼らが国ごとのテーブルを廻り各国語で話しかける趣向なのです。僕には「コンバンワ」。4割くらいがトルコ人、US、オランダ、カナダ、フランス、珍しいところでイスラエル等等。司会の彼らがトルコの歌や、スタンダードナンバー(たとえばケセラセラ)を歌い、時に踊るという具合であっという間に12時。終盤はトルコのポップス曲に合わせ舞台で踊りまくる。一昔前のジュリアナかはたまたエイサーか?これで35ドルはお手頃ですネ。往きのバスで隣の席に居たのがてっきり日本人かと思ったインドネシア人。10年程前日本にも2ヶ月程居たというベルリン在住の34歳のインドラさん。日本語も少し出来るので日本語と英語チャンポンの会話。ベルリンの大学を出てコンピュータ関連の仕事。親は大金持ちではなくミドルの上だとか。もちろんお別れはアウフビーダーゼーエンで。
 これで終了なのですが、今年度の僕はイヴン=バトゥータです。その心は?彼の著作『三大陸周遊記』。夏にジブラルタル、春にボスポラス海峡を越えたのですから。チャンチャン。
 今回の印象記は前回のようにどんな内容になるか分からないまま書くというのでなく、イメージが初めからあったのでモーレツなスピードで進みました。僕もこんなヴォリュームになるとは思っていなかったのですが、お付き合い頂いて有り難うございました。写真の整理はこれからですが、ヴィジュアルには機会があればそれをお見せします。(00.3/8)  




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