自身の高校生活、教員生活を振り返る
                 定年退職を機に
  寝屋川高校28期生ホームぺージ  インタビューに答えて

はじめに
 三上の教員生活のスタートは府立寝屋川高校でした。そこで授業した生徒諸君の最年長は5歳下で、弟や妹のような年齢差でした。担任した生徒諸君はもう少し若く、10歳ほどの違いになります。引退真際になるとその違いは無いに等しくなります。最近よく参加する彼らの同窓会には、元教員ではなく同窓生のように埋もれている印象です(笑)。
 彼らのITのスキルは高く、素早くホームページが立ち上がったりしてしまいます。そのサイトに求められて書いたインタビュー記事が掲載されています。管理人の了解を得て、元版をここにアップすることにしました。
アップされたのは2008年4月頃です。
このホームページには、卒業アルバム(下掲)や卒業生が撮った写真等が豊富にアップされています。
▲28期生の担任団 ▲3年1組の面々 ▲3年1組の担任

三上先生の足跡
 1976年3月 私たちと共に寝屋川高校を巣立った(先生を「巣立つ」と表現するのも変なのですが)三上先生の“その後”を伺ってみました。
 三上先生のHPを見ると、「社会」の先生から「情報」の先生へ変わられたいきさつや海外旅行記を垣間見ることができます。

Q.先生のこれまでの赴任先を教えてもらえますか?

寝屋川高校  5年(1971〜75)
吹田東高校 17年(1976〜1992)
大冠高校  15年(1993〜2007)


 最近、同一校勤務は短くなって来ていて、4年を超えたら転勤があり得る状況ですが、以前は同じ学校に20年、30年というケースがありました。高校の教員としては、3校しか経験していないのは少ない方です。今から思えば寝屋川高校のような学校にもっと居れば楽しい教員生活が送れたかも知れないな、と思うこともあります。
 でもその頃「こんないい学校に長く居たら、他所で通用しなくなるよ」とアドバイスされ、当たっていたかも知れないなとは思っています。

高校生の移り変わりを見てきて、変化したところは?

A.高校生の気質の変化とかを語るには定点観測と言うか、同じようなレベルの学校でないと比較しにくいですね。上にも書いたように高校の教員の場合、どういう学校で教えるかによって、極端な言い方をすれば「労働条件」が異なります。逆に言うと高校生の状態と言っても千差万別になってしまいます。時間のズレがなくても学校を替わると激変し、カルチャーショックを受けて退職に追い込まれる人もあるくらいです。
 だから、「最近の高校生はどうですか?」って聞かれると、結構答えに窮するんですね。結局三上は寝屋川レベルの進学校には赴任しなかったので、今どうなんだろうと思うくらいです。
 ただ、変わらないなと思うのは、例えば文化祭の取り組みとかです。僕のホームページを見てくれた人は言ってくれますが数年前に担任したクラスが取り組んだミュージカル「キャッツ」は凄かったです。
 寝屋川の28期のこの3年1組が凄かったのと同じです。皆は覚えているでしょうが、あの頃、寝屋川高校では演劇が盛んで、僕が直前に持ち上がった27期生は1年から3年までズット演劇でした。てっきりこのクラスも演劇かと思いきや違ったんですね。
 体育館での演劇でなく、普通教室でのバラエティと言うか、アラカルトと言うか、新しい試みだったんですね。その上、理系・文系が混じっているクラスだったからか音響とかのセッティングもなかなかレベルが高かったようです。
 そういう意味では、自主活動の意気込みは当時も今も(一定以上の学校では)なかなかのものがあります。ただ、今の生徒の方が教員の援助をより必要としているようです。僕は3年1組で何が行われようとしているのかも知りませんでしたからね。今の高校生の場合、僕のホームページに書いたように、色々と気を揉むことは確かです。

先生ご自身の高校時代の印象に残っていることは?

A.中学でバレーボールをしていたので、今度は文化系のクラブに入ろうと思い、物色。
 当時、テレビドラマ「事件記者」に人気があり、深く考えず新聞記者になりたいなと思い、新聞部の部室を覗きました。
  そしたら、壁に「これが発禁の新聞だ!」とか書いた新聞が貼ってあり、中味はよく解らないまま「なんか凄いことするクラブなんや」と感心をしたのを覚えています。そして入部。
 内容的に先生の指導を受けたことは全くありませんでした。もっぱらそれは先輩がしてくれるもので、原稿を何度も突き返された記憶があります。
 ただ、今から思えば凄いことですが、学校は茨木市にあったのに印刷所は桜ノ宮にあり、校正はそこまで行くのです。公欠で行けるので、大変嬉しかった覚えがあります。新聞には広告(例えば当時高槻にあった日清食品)があり、広告料は部活動に使っても良かったみたいで国鉄の電車賃はそこから出ていました。
 どこかで言ったかも知れませんが、高校時代の三上は極端に貧しく、父が大きな胃潰瘍手術で仕事(クリーニング店自営)をできなくなり、母が突然働き出したのですが、薄給でした。だから、浪人なんかできず、現役合格が至上命令でした。そのために生徒会の会長とかに出るよう勧められたのですが、断り続けました。クラスの学級委員には選ばれ、当時人気のあった女子生徒と楽しく(笑)生徒議会に行き、議長なんかをしました。
 当時は部室もあり、新聞部の部屋にたむろしていたからか、学年の上、下の生徒とも知り合うチャンスが結構あり、それは恵まれた環境だったと思います。

寝屋川高校赴任時代のことなどもお聞かせいただければ…。

A.大学を出るころは色々と迷いがあり、とりあえず1年間は留年しました。と言うのも、予想に反して現役で合格できたので(先の話と矛盾するようですが、その後1年だけなら浪人してもいいことになっていました)、儲かった1年(笑)を此処で使おうと思ったのです。
 時期順に言うと、民間は日本電池・光洋ベアリング不合格(70年安保が終わってから受けに行ったので怪しまれた?)。自治体の公務員試験1次合格、2次ペケ。学校から口を利いて貰い民間の古野電機内定。大学院入試合格。教員採用試験合格(この段階で古野電機辞退)。
 教員の具体的な採用の話が遅くまで来ず諦めていたら、2月に入って寝屋川高校の校長から電話がありました(当時はこういう牧歌的なやり方でした)。
  3月に結婚することにしていたので、未来の妻とも相談し、大学院は休学にし、とりあえず寝屋川高校に赴任することにしました(今から思えば生意気な話ですが)。しかも後で聞いたら、僕の前に決まっていた人が居て、でもその人が事故か何かで駄目になり、急遽三上のところへ話が回ってきたそうです。
 その頃「デモシカ教師」という言葉がありましたが、「教師デモやってみるか」という部類でした。が、結局1年後に大学院には退学届を出しました。大学院では何もしていないですが「合格・入学・休学・退学」という目まぐるしい経過です。
 寝屋川高校が初任校であったことがホントに幸せだったんだと思います。色々な困難を抱えた高校に行ってたら、逃げ出してたかも知れません。或いは根性が歪んでいたかも知れません。
 その頃は教員の大量採用時代が始まる直前だったと思います。まだ政治経済の枠での採用は府下で1名か2名だったようです。
  寝屋川高校でサッカー部の顧問をしていた公文先生(数学)と赴任したのですが、「久しぶりに新任が二人も来た」ということで教職員の間でもちょっとした事件だったのです。

今後はどういうことに取り組まれる予定ですか?

A.自由気ままに、海外旅行を、とは思っています。時期が自由になるので、安い航空券が手に入りますから、格安の中でも格安のチケットで、あまり時間にせかされない旅をしてみたいと思っています。
 ただ、教師根性と言うのでしょうか、今までは体験したことを生徒諸君に伝えられることが楽しみだったのにそれができないのは少し拍子抜けという感じがしています。
 ホームページにも掲載しているように旅は妻との2人3脚みたいなことをして来たのですが、妻は僕より一つ年下なので、リタイアーまで1年あります(小学校の教員です)。だから、上に書いたような旅行をするのは1年後迄お預けになりそうです。
 そういう事情もあって、次の1年は週20時間勤務(月・火と水の午前)の教育専門員という仕事をする積りです。年金が満額出ないので、その間は再任用とかの道もあるのですが、それは若い人の仕事を奪うことにもなるので、やりません。
 ゆとりができた時間は、これまでパスさせて貰っていた自治会長の仕事をしたり、フルタイムで働く妻のために家事をこなしたり、息子や娘の病気になった子供の面倒を見てやったり(昔、自分達も親の世話になったのですから)、というようなある意味平凡な暮らしをしてみるか、と考えています。
 家には暖炉があり、冬は大活躍ですが、その薪を調達するのも大変なので廃材や材木の切れ端を探しに出かけることもありそうです。
  そして、どこかで言ったかと思いますが、高槻はあの辻元清美が頑張っている地域なので、応援を手伝ったりと、結構色々ありそうです。
 でも、まだまだ実感は薄く、定年後というのはどんな毎日なのか、茫洋としています。真っ白なキャンバスに自由に絵を描いていい、というのは結構大変なんだなと感じ入っているところです。

健康面で、気をつけておられることがありますか?

 A.この前の同窓会で自分が交通事故で九死に一生を得た話をしましたネ。今は殆ど後遺症も無く、すこぶる元気で過ごしています。
  現役の時にはあたふたと動き回っていたので、特に何も感じないのですが、医者からは運動不足になると警告されています。
  ジョギングって何か無駄なことのような気がしますから、辻元清美のビラでも走って撒くとか、山に出かける(大学時代は妻も共々ワンゲルでした)とかしようかなと考えています。


 漠然と原稿をお願いするのも、先生が書きにくいかと思い、
 こちらから事前に質問事項(ちょっとありきたりというか、抽象的な質問で申し訳ないです。)を設定させてもらい、先生にメールを送りました。
 しかし、さすが「先生」という職業ですね。いっぱい答えていただきました。(笑)
 他にこんなことを聞いてくれればよかったのに…と思われる方もあると思います。
 今後も、聞いてみたいという要望があれば、先生にお願いし、
 随時、記事を追加していきたいと思います。管理人に連絡してください。   管理人 井上美和子