「大阪高教組」(高教組ニュース) 2005年春〜2007年春
 《モナド》〈コラム〉 僕の執筆欄 《そのW 最終回》

 丁度2000年は高教組結成10周年、その機関紙『大阪高教組』は200号を数え、僕の執筆のコラムを中心に整理し、アップしました。
 続く約3年分も《その後》として2003年に、続く2年分も《その3》として2005年に整理、アップしました。
 そして、2007年度、いよいよ定年退職まで1年を残すばかりになり、編集の仕事も退くことにしました。ですから、今後、映画評とか書評を書くことはあるでしょうが、モナドの執筆をすることはありません。
  随分長い間、高教組のニュース作りに関わったことになり、その合い間の《モナド》であれば、感慨深いものがあります。480文字の制約下、舌足らずにならざるを得なかったのですが、冗漫さは剥ぎ落とせたようです。
 尚、このページから見られる人もあるでしょうから、これまでと同様、本編の〈まえがき〉はそのまま再掲しますので、以前訪れられた方はパスしてください。
                            2007年 春     三 上 弘 志


 はじめに  [『大阪高教組』の最近号のヘッドライン] [2面右下の固定位置にあるモナド]
  以下のような文章をまえがきにして小冊子を2000年秋に作りました。先に少し補足を。
 大阪高教組:正式名称は「大阪府高等学校教職員組合」。本文に何度か出てくるが、正確には1990年1月21日に結成された。日教組に属し、義務制の大阪教組の一つの単位組織となっている。共産党系と言われている全教・大教組・府高教から独立(正確には高教組が日教組に残った)。
 『モナド』:タブロイド版2面の機関紙2面目の左下に在って、その位置のためもあって先ずここを読むと言う読者も。モナドの意味は「窓」(ラテン語)で、初期の編集部員の原田さんが命名。

 高教組ニュースは創刊時からワープロを駆使。当初はNEC文豪でした。古いフロッピー(何と2DD!)が出てきて、整理するついでに自分の書いたモナドをまとめてみました。今年で高教組が結成10年、ニュースは200号。この間、1年目は副、その後6年間は編集長、後の3年は支部長をしながらの編集部員として関ったことになります。
 モナドは当初、部員の回り持ちで、それぞれのパーソナリティの肉声が聞こえ好評でした。(M) のイニシャルで、登場は早くても2ヶ月に一度と飛び飛びでしたが、個人的な思いのこもった学校、組合、政治・経済の10年史アラカルトと言ったところでしょうか。文章はそのままで、見出しを付けました。                          2000年 秋     三 上 弘 志


年・月・日 見 出 し  モ  ナ  ド など  本  文 
2007.
3月
第335号
「規制緩和」路線の行き着く先

 惨状は輸送業界だけでなく、教育の世界でも
  タクシー運転手や運送業界の「悲鳴」は、報じられては来た。規制緩和→過当競争→労働条件の劣悪化という話だ。先日のスキーバスの事故で死者まで出て初めて「大問題」になる。しかも、犠牲者は十六歳の少年で家族となれば、何とも痛ましいが、乗客に死者が出ていれば怒りの激しさはもっと大きくなるのかも知れない。▼犠牲者が出て初めて問題が顕在化するが、ジャーナリズムや政治は想像力に基づいて警鐘を打つ責務があるはずだ。この欄で規制緩和でなく、必要なものは規制を強化すべきだと何度か書いて来たが、教育の場ではとりわけそうだ。NHK土曜ドラマで放映中の『ハゲタカ』で「銀行は晴れの時に傘を貸すが雨が降ったら取り上げる」という中小経営者の台詞が印象的だったが、今こそ規制をきっちりすべき時だ。大学の設置に関する規制緩和は典型だ。高卒人口が多い時に設置に枠をはめ、少子化の下で増やし放題。▼規制緩和路線は、競争を奨励し、淘汰され、優秀なもののみが生き残ればいいとする。そこで生じる歪みは省みられない。しかも、生き残れない大学にも生身の学ぶ人間がいることにもお構いなしなのだ。
2007.
2月
第334号
 【書 評】

〔紙面の都合で大幅に削減されましたが、これは元文です〕


『イギリスの教育改革と日本』

 競争主義のもたらすものとイギリスの蓄積
 「教師は常に第一線に置かれ、ベストを尽くしても、まだ足りないという状況に置かれている。人々が選挙の投票に行かないと、公民科の教育が求められ、ティーン・エイジャーの妊娠が増えれば新しい性教育基準が出され、ワールドカップで勝たないと、学校の体育のせいにされる。」…これはどこの国の話だと思われるだろう。
 著者が紹介しているイギリスの新聞に掲載された校長の手記の一部なのだ。イギリスよお前もか!と嘆息した。「本屋の棚は、良い学校と悪い学校を選り分ける学校ランキングの分厚い本でいっぱいである。校長は、学校を売り出すマーケッティングに時間をとられ、生徒や教師のことをかまっていられない。子どもたちが互いに良い関係を作り、異なった考えを尊重しあうように育てようとしても、その努力はリーグ・テーブル(後述)には反映されない。」と続く。
 「教師の苦悩」の章では、「イングランドの教師の半数が、一〇年のうちには教師を辞めたい」という統計結果が紹介され、新聞では「教師のクライシス」と呼ばれているそうだ。その理由は、仕事のきつさ、生徒の態度の困難、行政の指示の多さ等が挙げられていると言う。過度の要求と管理が教師を押しつぶしつつあると分析されている。
 では、それらをもたらしているものは何か。紙幅がないので項目的に列挙するしかないが@ナショナル・カリキュラムの設定、Aそれに基づくナショナル・テスト、Bリーグ・テーブル(著者は日本語訳すると内容が誤解されると考え原語表現を使うが、学校成績一覧表)、Cインスペクション(同じく査察的学校評価)、Dそれらの公表に基づく親の学校選択の自由。総じて言えば、教育の世界における新自由主義的な競争主義、ということになる。
 こういう施策が何をもたらすか、容易に想像できるし、ここでは詳述しないが、教員や校長のなり手が居なくなる事態でいい教育がもたらされるとは思えない。そして、廃校や教員の解雇まで行き着くのだ。
 イギリスの場合、先の競争主義の浸透はサッチャー政権の仕業であることは容易に想像できる。が、注目されるのは、ブレアー労働党政権も基本的にそれを引き継いでいることである。ブレアーはイラク戦争でブッシュと組み早期退陣も確実になっているが、保守党から久しぶりに政権を奪った「ニューレイバー」路線は当時斬新なものがあった。賛否はあるが、そういう路線が提起されざるを得なかった背景説明も本書には比較的公平に著述されている。登場時のスローガンは「教育、教育、教育!」であったが、その由来が経済政策を絡めて客観的に書かれている。
 故森嶋通夫氏が早くから紹介していたように、イギリスは政権交替で正反対の政策を採ることのロスを覚悟の上で民主主義を大切にしている。しかし、ブレアーの時代は当初こそ保守党の教育政策に正反対の方針(例えば、グラマースクールの廃止)を対置したが、やがて、方針転換が図られる。その歴史的経緯も丁寧に描かれている。
 著者は進行中のイギリスの教育改革を批判的に紹介するのだが、ただ、全否定ではなく、見るべきものもありとする。その典型はガバナー制度である(誤解を招くかも知れないが学校理事会)。親や地域の代表が構成し、管理運営を行う(校長の任命も)独立性の強い機関である。参加型、民主主義的要素を持つものとして高く評価される。
 日本との比較をする場合にも、イギリスの蓄積を評価したり、労働党ならではの政策を敷衍したり、一方的非難に終わらない「揺れ」が見られる。そういう点で、スッキリ感はないが、今後考えねばならない課題を残してくれる著作である。
2006.
11月
第330号
「遊就館」と「女たちの戦争と平和資料館」

 wamに行こう、カンパしよう
 日教組の同世代の書記さんがガンで、見舞いや告別式で東京へ行く機会があり、対照的な博物館を訪ねた。「遊就館」と「女たちの戦争と平和資料館」。▼「遊就館」は歴史観が余りにも明瞭で驚いてしまう。先の戦争は欧米勢力のアジア侵略に対抗するために止むを得ない戦争であった。日本のアジア侵略もその線上にあった。そういう歴史観で貫かれている。以前のピースおおさかの展示を巡る悶着は府立だからで、靖国が運営する「民営」なら言いたい放題なのか。しかし、これが摩擦にならないはずはなく、合州国の要求を入れ一部修正されるらしい。韓国からも抗議があったはずだが、修正の報は聞かない。▼後者は、戦時性暴力中心の資料館。松井やよりさんが提唱し、その死後に完成。この二つの理念の違いは言うまでもないが、その入館者、規模の違いは余りに大きい。前者は観光バスも来るくらい、後者は日曜の昼下がりだったが私一人。そして、狭い。今後広い所へと考えて寄金を募っている。▼保険会社の払い渋りが話題になる中、先般の交通事故に際して実に良心的だった教職員共済から給付されたものの一部をカンパしようと思っている。
2006.
9月
第325号
高教組夏期セミナーはいつもいい講師

 病み上がりの身で参加の甲斐あった小熊英二氏の講演
 講演をしてくれそうな人としそうにない人が居るが、小熊英二氏は後者の人と思っていた。だから彼が大阪高教組の夏期セミナーで講演すると知って驚いた。ご本人も基本的に講演とかは受けないと言われていた。高教組の担当執行委員の熱意が通じたのだろうか。▼二年ほど前、氏の共著の『〈癒し〉のナショナリズム』を読んで、鋭い視点を持った人だと思い、続けて『民主と愛国』を読み、唸ってしまった。あの辛口で知られる上野千鶴子氏も「敗戦後の思想史を大河小説のように描いた大作」とべた褒めだ。▼講演は、その人の考えをコンパクトに知ることが出来たり、最近の出来事について考えを聞けるとか、色々なケースがあるのだろうが、僕なんかは著作を読めば解ることはいいのだから、その人柄を感じ取れるのが講演を聞く目的であることが多い。▼夕食交流会まで参加され、若さ故か少しシャイで誠実そうな人柄に触れ、氏の著作では余り扱われていない教育分野の考えを聞けたり、講演の目的を満たす内容だった。大怪我の病み上りで参加した甲斐があった。ただ、氏の提起した問題は、まだ咀嚼できていないから、またゆっくり考えたい。
2006.
3月
第316号
腹立たしい偽メール問題

 情報の信憑性を確かめるのはメディアリテラシーの基礎

 
  腹立たしい限りだが、こんな形でメディアリテラシーの生きた教材を見せつけられるとは思ってもみなかった。例の偽メール問題だ。リテラシーとは、もちろん、情報を批判的に読み解く能力のことだ。▼ソース・情報提供者の確かさをどの程度確かめたのか。大政党なのだから、真偽の程を慎重に吟味するだけの余裕と調査能力はあるだろう、普通は。この政党は寄り合い所帯で筋が通せない、執行部任せで墓穴を掘っているのだろうか。▼それにしても、堀江氏絡みの問題等解明しなければならないことを殆ど有耶無耶にさせてしまった罪は重い。与党は嵩にかかって好き放題を言っているが、一番助かったのはあなた達だろうに。だから、許せないのは名誉毀損とか以上に、彼らの逃げ得に道を開いたことだ。尤もこの騒ぎを仕組んだ勢力が深層に 居るとすれば、情報の判断云々より複雑な問題が存在するのだが。▼高遠さんの講演でも感じたが、こんな低レベルのリテラシーではなく、イラク関連の情報の真贋は、「見えない報道の壁」故、対抗的情報に出会うことさえ難しい現状を痛感する(前に紹介した田中宇氏のメルマガは相変わらず示唆に富む)。
2006.
3月
第316号
日教組教研全国集会分科会報告 

「情報化社会と教育」

情報リテラシーをどう獲得するか
 小・中・高のつながりをどう構想するか
 今年初めて司会される方が(私は二回目)張り切ってレポートの要点をまとめて話したりすると、「司会の○○さんは余計な解説をしないで下さい」とメモが来る。僕のように古い時期の印象が抜けずレポーターのことを正会員、一般参加者を傍聴者なんて言うと、直ぐ抗議が来る。司会より経験豊富な参加者が居られる。
 とにかく、どの分科会でも全国のレポーターの報告を正味二日間でこなすものだから、時間に追われる。わずか十五分程度で報告するというのは至難の技だ。論点整理は共同研究者の仕事なので、余り司会が整理めいたことをすると批判が出る。共同研究者の助言が長過ぎるのも困るのだがこれにストップをかけるのは大変だ。まあ、そこは阿吽の呼吸で進められるようになってきたのだが。
 周知のように分科会は全部で二十四あり、その内一〇は教科別、他は課題別ということになり、各県でもそれに沿う形になっている。課題別の方は歴史と共に変化している例は多そうだ。僕の分科会はそういう典型で、詳細は割愛するが最近では地域の文化活動・図書館活動・情報教育という括りになっている。ここに普通教科「情報」が入れ込まれている(直ちに独立させることの是非は措くとして)。
 私が直接担当する領域は情報教育。全体を概観する紙幅はないが、図書館活動に関して一点だけ言えば、専任司書教諭制度の課題は、既に該当する職種がある高校の場合と、そういう職種が無いか、あってもパートのような存在の義務制の場合と、受けとめ方が異なる。今次、愛知と大阪から義務制の報告があり、高校司書からは好意的受け止め方がされた。人が居ることの重要性という点で共通理解が得られたのは大きな前進だと思われる。
 情報関連の報告は圧倒的に小学校が多かった。中学(「技術」分科会でも一県とのこと)の報告や高校の「情報」絡みも皆無。小・中・高の繋がりの状況を見通したいというレポーターからの発言もあったが今後の課題として残っている。
 共通の課題は@情報モラルAリテラシーの獲得。さらに、児童・生徒の発達段階に応じたメディア教育はどうあるべきか、到達目標をどこに置くかというような問題も関心を呼んでいる。ITに馴染まない教育の重要性(実体験と語られた)をどう保障するかということも多くのレポーターから指摘された。
 ただ、県で出すレポートは概ね一本なので、地域文化や図書館活動で出ている県は情報教育関連はないという場合が多い。従って必ずしも全国の状況が分かるわけではない恨みがある。更に、前年の全国状況を受け止めて県教研が行われるとも限らない。その辺りをどう克服すればいいのか、他の分科会にも共通すると思うが、古くて新しい問題を抱えているようだ。
2005.
11月
第310号
「何でも民営化」の行き着く先

 業績評価に基く処遇問題等、「民」で不評なはず
 「官から民」への大合唱は小泉改革の目玉で、多くのマスメディアの支援も得て、そのトレンドは衰えてはいないようだ。先の総選挙の郵政民営化への国民投票的実施でも、とりあえず「民意」は賛意を表したことになる(だからと言って、すべての小泉の政策が信任されたことにはならないと八月のこの欄で指摘した)。国民投票と異なるのは小選挙区制と絡むことで結果は歪むことだ。▼これについては既に色々な指摘があるが、「官から民へ」がもたらすものやその真の狙いが明らかにされず、「官」への不信や妬みから合唱に流れた面が強そうだ。だが、その綻びも見え始めている。JR福知山線の脱線事故の際に民営化の本質が如実に示された。そして、今回の耐震構造設計偽造問題でも、その検査機関まで「民」が担っており、詳細は未解明だが「何でも民」の行く末がほの見えている。▼この欄で以前に触れた「官活」の必要性を前提に、「民の失敗」「民の災厄」を検証し、そこから学ぶことの意味は大きい。「官」の賃金構造の問題や業績評価に基く処遇問題のあり方もその一つだ。「民」は失敗したら直ぐ改めるという「利点」も持っているのだから。
2005.
8月
第305号
郵政民営化だけが課題なのか

 総選挙をそれぞれに勝手に解釈していいのか
 政治学で「国民投票(レファレンダム)の功罪」には色々な議論がある。ナポレオンからヒットラーまでこれを駆使して、独裁的権限を手に入れた例は多い。他方、直接民主制の復権として、有権者の自覚の高まりを期待する声もある。▼今回の解散総選挙は、国民投票の如き打ち出し方を小泉氏はしている。郵政民営化の可否を問う選挙というわけだ。しかし、今の制度の下で総選挙を国民投票的に行うことは不可能だ。郵政民営化に賛成であれば自・公に投票する。しかし、他の外交や福祉など重要問題では、それらの党の姿勢に共鳴できない、とすればどうすればいいのか。与党の勝敗に関わらず、変なことになることは分かりきっている。結局、与党が勝てば、小泉氏の政治姿勢が支持されたと喧伝するに違いない。逆の場合も真だ。▼そして、前にも指摘したが、二大政党制を強調することによる実質的な選択の幅の狭まりは、民主主義にとって大問題だ。例えば、憲法問題を考えれば、二大政党は選択肢としては一つ(改憲)でしかない。英・米圏以外には見られない小選挙区制の弊害を少しでも減らすには、比例区の投票をも真剣に考えることだと思う。