思いつくまま印象記 旅体験あれこれ その8
 来て見なきゃ解らない、を改めて実感 
バイク・米・龍の国 ベトナム(越南)の旅
もちろん、ホー(胡)おじさんの国
今回も3人旅・8日間 

[ホーチミン市の中心部、ベンタイン市場前のロータリを疾走するバイク] [ホイアン郊外の田園風景。牛が居ます。南国的な木も見えます] [フエ郊外のカイディン帝廟の正面階段の龍]

 はじめに…待ちに待ったリフレッシュ休暇、2度目も、やりくりして、12月上旬に 
 夏のエジプトに続いて、冬にベトナム、その間に韓国修学旅行(これは純然たる仕事!)、半年に3回も海外、何をしてるのか、とお叱りを受けそうですが、今年は特別で、こんなことは教員生活で初めてで最後のことです。
 昨年、三上は、リフレッシュ休暇が取れることになり、西矢は今年。行使期限は2年ですから、今年にあわせた次第です。約10年前、組合の要求が実現。リフレッシュ休暇が創設され、高教組の再建時期でもあり、明るく「リフレッシュ休暇の使い方の模範はこれだ」とばかり、シンガポールに出かけましたが、その時から、これはこの時期がベストと10年後を楽しみにしていた訳です。
 期間は5日ですから、完全週休2日となった土・日で挟んで9日間がマックス、ギリギリの計画を立てたことになります。この程度の日数ですから、アジア、それも日本人が忙しいこの時期にこそ行く値打のある所、ベトナムにしました。ベトナムは日本の若い女性に人気があり、冬休みに入ると航空券の入手も難しくなるようです。
 因みに、この時期の航空券は日本発に関する限りボトムで、中でもタイ航空を使いましたから、5万9千円でした。

月・日 行               動 宿泊ホテル
12月6日             JR高槻21:50→関空1:25⇒5:50バンコク空港 機中泊
12月7日 8:50⇒10:20タンソンニャット空港  統一会堂(旧大統領官邸)   アンアンH
12月8日  クチトンネル半日ツアー 戦争証跡博物館 サイゴン聖堂 アンアンH
12月9日 ホーチミン空港6:20⇒7:40フエ空港旧王宮(阮朝王宮) ビンミンUH
12月10日 フエ郊外寺院・帝廟巡り ホーチミン記念館   トァンホアH
12月11日 フエ駅7:42→鉄道→10:25ダナン駅  ホイアン  ヴィンフンUH
12月12日  ミーソン遺跡・川下りツアー ヴィンフンUH
12月13日  チャム彫刻博物館 ダナン空港7:00⇒8:20ホーチミン空港  アンアンH
12月14日 覚林寺 動・植物公園/歴史博物館 ホーチミン空港21:05⇒22:30バンコク空港     機中泊
12月15日 バンコク空港0:00⇒7:10関西空港 

街を見て、まず、ビックリするのはバイク天国、それとも地獄(?)…
 ホーチミン市に着いて、話には聞いていたのですが、これほどまでか、と驚いたのは、バイク(もちろんモーターバイクです)の多さでした。 [夫婦の間に子供を挟む4人乗りパターン] [夕方、色々な組み合わせの二人乗りが登場]
 タクシーは安いので、それなりに乗ったのですが、二車線ある内、外側は完全にバイク、内側は車が通るのですが、そこにもバイクがはみ出して来て、それを避けながら、或いは警笛を鳴らしながら走るという状況ですから、車1台にバイク200台くらいの比率でしょうか。
 それも、オールデイなのです。いくつかの街を訪れましたが、どこでもなのです。もちろん、もっと郊外では風景は変わるかも知れませんが。朝、昼間はもちろん、夕方は夕方で恋人同士、家族連れがバイクで繰り出す。もちろん1台で。だから二人乗りは当たり前。3人乗り、そして何と4人乗りまで。【写真上】
 一人乗りと二人乗り以上の比率は2対8くらい。もちろん、HONDAカブが人気ですからガッチリしているとは言え、50ccであることには変わりはありません。と言う訳で、信号が変わると、それこそ蝗の大群のような(これってもう死語かな?)バイクが飛び出して呆気に取られて見ていました。 [ホイアンで修理するお兄さん]
 でも、お陰で本格的な渋滞がないのです。タクシードライバーは危ないので警笛を鳴らしますが、夏のエジプトのように車同士が警笛を鳴らすわけではないので、それほどの騒音にはならないという訳です。
 首都ハノイは訪問していませんが、ホーチミン市は大阪市レベルですから、ここでの出来事です。老婆心ながら、もしこれから市民の生活水準が上昇し、自家用車保有率が上がれば、もう大変なことになります。シンガポールが都心に乗り入れる時には、課税するというような政策を取っていると聞きましたが、何らかの交通政策を持たないと街は破綻する、と感じました。
 【右の写真は、ホイアンのバイク屋さん。HONDAはバイクの代名詞】

南国の風土、豊かな実り、お米やフルーツが一杯 [ライスペーパーヴィレッジ]
 ベトナム反戦世代である私達にとって、ベトナムは特別の思い入れがあります。学生の頃聞かされてきたことですが、ベトナムは本来豊かな実りの国で、戦火に見舞われなければ平和で豊かな国だということ。
 平野部を移動すると一面に水田が広がっています【トップの写真】。だから、お米の生産量は世界有数です。お米の味も、日本人には評判のよくないタイ米と違って、日本の米に似ていて、僕達には美味しく感じられます。 [バナナの葉で包んだ蒸しものも周りはお米]
 そして、このお米を料理に最大限生かしているという印象を受けました。お米から作る麺・ビーフンはもちろんのこと、生春巻きもそうですし、それ以外にも米粉を使った料理がたくさん作られています。【左の写真:クチへの途中に立ち寄ったライスペーパーヴィレッジ。おばさんが器用に作っていた。右の写真:バナナの葉で包んだ料理も米粉が使われている】 [ホーチミン市で。手前の赤いのがドラゴンフルーツ]
 風土は南国の雰囲気ですから、フルーツも豊富に実っています。バスの車窓からバナナがたわわに実っているのは見えますし、街中でココナッツをカットして飲ませてくれる店もあります。ホーチミン市のベンタイン市場前で飲んださとうきびジュースは美味しかった。これは他の東南アジアと同じです。
 ホテルの朝食とかにフルーツが出ますが、その中に、スイカやパパイアに混じって「ドラゴンフルーツ」があり、どうしてこれがドラゴン(龍)やねん?と思っていたのですが、外見を見て納得。そう言われれば龍に似ているのです【写真左】。因みに、果実は白く、そこに黒ゴマを散らしたような感じなので、キウイに似た舌触り。アッサリした味です。

民衆レベルは分かりませんが、遺跡には龍がイッパイ… [屋根にもドラゴン。トゥドック帝廟で] [柱の模様もドラゴン。ミンマン帝廟で] [カイデン帝廟本殿のドラゴン]
 日本で言えば、京都のようなところがフエ。そこには中国の北京郊外の「明の十三陵」のような帝廟が広がっています。そこにはとにかくドラゴン(龍)が至る所に散りばめられています。
 民衆の中ではどういう文化があるのかは別にして、阮朝の皇帝達は龍が大好きだったようで、これは本当に驚くばかりの執拗さでした。写真の様に、階段、柱、屋根の上まで龍だらけでした。そして、ドラゴンフルーツです(笑)。 
 僕が旅行業界に居たら、「龍年の新年海外ツアーはベトナムで」なんてやるけど、どうでしょう?

ベトナムは本来「漢字文化圏」だった、今さらながらの発見! [来遠橋の中央。橋の中に寺院がある]
 今回も、事前学習の時間はほとんどなく、往路の機内でゆっくり本を読むなどという時間もありませんでしたから、追いかけ読みという感じでしたが『物語 ヴェトナムの歴史』(小倉貞男 中公新書)を読みながらの旅でした。
 韓国や日本がそうであったように、中国の高い文化を受容した文化圏の一つであったという、思えば当たり前のことに気がつきました。
 韓国で、漢字を復活する動きがあることを、漢字文化圏にある僕は大変嬉しく思っていることは何度か書いています。新大統領がノ・ムヒョンと書かれたり、僕のペンフレンドがキム・ユンミと書かれても、どうも実感が湧かないのです。
 実は、ベトナムでも同様で、元の名前は漢字があるようなのです。フランスの植民地になることがなければ、ベトナムも僕達と同じ漢字文化圏の一員であったに違いありません。
 僕達ベトナム反戦世代でも勉強不足で知らなかったのですが、グェンさんという人名は、あまた見聞きしましたが、それは阮さんです。ホーチミンも胡志明です。これは先の本で知ったことですが、彼は弾圧を逃れるために結局本名で登場したことがないそうですが、彼が一番よく使ったペンネームはグェン・アイ・クォックだったそうです。このカタカナを見たら分かりませんが、これは漢字表記すれば阮愛国です。なんと解り易い名前であることか! [覚林寺の正門。漢字表記とローマ文字表記を見て下さい]
 地名もそうです。有名なホーチミン郊外のクチトンネルは古芝トンネル。ホイアンにある通称日本橋は来遠橋【写真上 右上の看板見えます?】(これを見て、「思えば遠くへ来たもんだ」という武田鉄矢の歌を思い出しました)は、ベトナム語でカウ・ライ・ヴェン。らいえん=ライヴェン。ホーチミン市で最後に訪れた古くからの仏教寺院は覚林寺。これはヤックラム。かくりんに似ていないでもありません。【写真左】
 フランス植民地にされるまで、チュノムという漢字でベトナム語を表記しようとした時期があったようですが、植民地化後はローマ文字表記が急速に普及します。それは押し付けと言ってもいいのでしょうが、そこは文字をもたなかったベトナム民族の悲哀と言えるのかも知れません。
 解放後、漢字に戻るか、このままフランスに押し付けられたローマ文字表記で行くか、難しい判断を迫られたのではないか、と推測しているのですが、どうなんでしょうか?戦後の日本でもローマ字のみで日本語表記しようという見解があっただけに思いは複雑です。
 『漢字と日本人』(高島俊男 文春新書)で、いかに日本人がやまと言葉に漢字を当てはめるのに苦心したかを読んだだけに、色々と考えさせられることが多かったのですが、割愛します。
 ただ、結論的に言うと、以前から僕が主張している「中国・台湾・韓国・日本の漢字の統一化構想」にベトナムが加われるかと言うと、答えはNOのようです。ベトナムは中国との関係で言えば大変複雑な論理と心理がありそうです。地続き故に、強大な中国は常に脅威であったし、被支配体験もあるわけで、そのことへの反発は大きいと思われるからです。
 日本は中国文化を受容しながら(恩恵を受けながら)、中国に虐められていない稀有な国ということになります。漢字を何の抵抗もなく使える幸せな民族という結論に至りました。因みに、韓国で必要以上に漢字への忌避感があったのは、植民地支配した日本の文字としての漢字に対する反発が大きかったと聞きました。

季節のせいもあるのでしょうか、ヨーロッパ人観光客がいっぱい
 特に多いフランス人観光客。あなた達、ベトナム戦争があってよかったね?!
 はじめに、若い日本の女性に人気沸騰と書きましたが、日本では年末の多忙な時期故、来られている日本人はパックツアーも殆どがシルバー世代。
 その代わり(?)、ヨーロッパ人観光客が多く来越。特にフランス人が多いのです。過去の彼等の行状からして、僕なら「どの面下げて来てるんや?!」と毒づきたくなるところです。韓国へ「日朝関係史を学ばずして訪れる莫れ」の気持ちです。これも先の本で確認したところですが、フランスは相当ひどいことをベトナムにしています。だから、独立宣言のときにホーチミンがフランス革命の時の彼等の精神を引用し、皮肉ったのも故無しとしない感じです。
 もちろん、彼等が仏越関係史を学んでから来ておられるのかも知れませんから、断定はできないのですが、少なくとも、一時あったような韓国での反日感情のようなものは今のベトナムにはない、そのことが多くのフランス人観光客を招いているのでしょう。
 それは、全て、ベトナム戦争のお陰なのです。対して、合州国からの観光客は殆どお目にかかりませんでした。英語を話している人に聞くと、殆どフロム・イングランドでした。
 チョッと話が逸れるのですが、ホイアンで一人で旅行している女性の学生に遭遇しました。「凄いですね。でも、ベトナムは治安もいいし、女性の一人旅も安全かな?」と言ったら、猛然と「警察以外は!」という返事。彼女はハノイへ行き、世界遺産のハロン湾へのツアーに出かけたのですが、そこで警察の検問に会い、パスポート不携帯で30ドルの罰金を取られたと言います。ベトナムでは殆どのホテルがパスポートを預かってしまいますから、ホテルに聞いてくれと言っても、全く取り合ってくれなかったそうです。そのバスには日本人は彼女だけで、日本人虐めではなく、他のヨーロッパ人も同じ扱いを受けたと言います。これは、要するに警察の腐敗だと思いますが、問題は次の発言です。警察は「アメリカ人は居るか」と聞いたそうです。幸い、そこには居なかったそうです。他のヨーロッパ人の話によれば、アメリカ人が居なくて良かった。居たらもっと罰金を取られていたかも知れない、とのこと。
 というわけで、反米感情で、反仏感情は洗い流されているのでしょう。そのため、博物館の説明もベトナム語・フランス語・英語の順です。場合によっては、フランス語で終わりというのもありました。料理が美味しいのはフランス植民地であったためとか言うのは植民地支配を美化するようで嫌な言い方である以上に、僕達は料理にフランスの匂いがするかどうかまで判断するほどグルメタイプではありません。だから彼等フランス人がベトナムでフランスの香りを体感しているのかどうかまでは分かりませんでした。

人気の秘密はわかった!物価の安さ・治安の良さ・清潔さ・料理の美味しさ
 「日本の若い女性に人気」に戻りますが、その理由がよくわかりました。東南アジアで、生活水準は戦争の惨禍を早く脱出できたところほど改善されているようで、だから、ベトナムはタイとカンボジアの間という感じです。だから、物価の感覚もそんな感じになり、相当安い。 [ホイアンのヴィンフンU] [ホーチミン市のアンアン]
 タクシーの初乗りが12000ドン(今のレートは、1ドンが0.0085円です)なので、約100円。ミネラルウォーター3000ドン(25円)。ホテルも僕達は例によって滅多に三ツ星以上には泊まりませんから、あまり参考にならないかもしれませんが、比較的物価が高いと言われるホーチミン市で泊ったアンアン【写真上左】は、トリプルで1泊20$。フエのビンミンUは24$。ホイアンは可也いいホテルでした【写真上右】がそれでも30$でした。ですから、ホテル代は通算して、一人1泊当り1000円強。しかも、アンアン以外は朝食付き。アンアンも朝食は頼めば一人何と1$。
 エジプトに続いてこんな物価のアジアを回っていたら、もう怖くてヨーロッパに行けないな、と家族で話しています。

 4カ月前お巡りさんがウヨウヨしていたエジプトを旅した後の感覚からすると、異様なほどお巡りさんを見かけませんでした。3、4年前ベトナムを訪れた友人からはベンタイン市場でスリに会いませんでしたか?と聞かれましたが、そんな風は全く感じられませんでした。 [市民がショッピングを楽しむCO−OP]
 ドイモイ政策が功を奏したのか、少なくとも都市住民の生活は向上しているのだろうと思います。ホーチミン市のCO−OPを覗いてみましたが、物凄い人で溢れていて、日本で言えば一時のSSOKみたいな雰囲気でした。【写真左】
 詳しい経済循環は判りませんでしたが、とにかく消費熱は凄まじいものが見られました。家族連れでバイクでやって来て、ショッピングを楽しむ、そんなある種健康的な雰囲気を感じました。だから、治安も良いのだろうと推測。

 これも、ついついエジプトと比較してしまうのですが、街は清潔だし、ベトナム人は綺麗好きと言うか、意外と神経質なようです。
 バイクの項の写真ではお気付きの方は少ないと思いますが、バイクに乗っている人の一割くらいはマスクをしています。それも、色々なスタイルがあって、一時の新左翼の諸君が顔を官憲に見られない為にマスクをしていた、あんな感じの人。それから、街では専用のマスクを売っていて、それを着用する人。綺麗なスカーフでお洒落する人。
 カイロなんて、気分が悪くなるくらい排気ガスが凄かったし、西安なんか、黄砂で喘息が悪化する人が居た。でもこんな風にマスクをする人は居なかった。しかも、ここの空気は確かにバイクが縦横無尽に行き交うので良くはないのですが、でもたかがバイクですから、ウンとましだと思うのですが、気持ち悪いのでしょう、このマスクスタイルが広がっているようでした。

 そして、料理。味のことを文字にするのは至難の技ですが、味がスッキリしていて、嫌味がない。素材の味が生かされている、そんな感じでしょうか。色々な料理にそれぞれソース・タレ・薬味というようなものが付いていて、それで味をつけるので、好みの味にできる。だから、激辛のものなら控え目に、気に入れば、タップリ、というようにas you like の世界なのです。
 野菜も豊富で新鮮。ヘルシーな感じイッパイです。それと香味野菜と言うのでしょうか、そういうものがたくさんあって、これも苦手な香りならパス、気に入ればタップリの調整可能。
 【下の料理】@(右下にある番号です)着いたその日に食べたホテル近くのデタム通りの普通のベトナム料理店での夕食。  Aホーチミン市民に人気の屋台村「クァン・アン・ゴン」。もちろん中央はホー  Bフエの高級ホテルの料理店で最後に食べた海鮮鍋。ヌードル付き。  Cホイアンの三大名物料理。カオ・ラウ、ホワイトローズ(左奥)、揚げワンタン(右奥)  D帰国直前、テラスで豪華に最後の晩餐。ブルージンジャーというお店。  E同じく。アオザイを着たウェイトレスさんのサービス。揚げソバのような料理。満腹で食べ切れず!
[デタム通りの普通のベトナム料理店での夕食] @[ホーチミン市民に人気の屋台村「クァン・アン・ゴン」] A[海鮮鍋。ヌードル付き] B[ホイアンの三大名物料理] C[ブルージンジャーというお店] D[アオザイを着たウェイトレスさん] E
   美味しい料理だけなら、きっと他の地域にも色々あるのでしょうが、これが先に書いた安さと結びつくからたまりません。Bのフエの高級ホテルのレストラン・ホアマイは近くを流れるフォーン川の景色を見ながら食事ができるお店で、+αがあるのでは、と心配したのですが、これ以上は食べられないとこまで食べて、三人で17$弱。一人当り700円弱。D、Eのブルージンジャーというお店も僕達には不釣合いな豪華な雰囲気の店でしたが、一人当り900円弱。他は推して知るべし、です。

国内の移動は飛行機・列車を上手く使い、正解でした
 [ベトナム航空でフエへ向かう] 今回のプランは、主に西矢が担当。正味8日間ですから、ハノイを捨てました。パックならハノイが入らないと売れないでしょうが、僕達は慌しい旅をしたくないと考え、各都市連泊プランにしましたが、これは良かったようです。
 飛行機会社によっては、国内線のエアーチケットは無料や格安になったりするのですが、ベトナム航空もタイ航空もそういうシステムは取っていません。少し不安がありましたが、比較的空いているこの時期だから、ホーチミン市で飛行機のチケットを取る事にしました。着くなり、暑い中ベトナム航空のオフィスを尋ねるのは少ししんどくはありましたが、街を見ながらの道中で、マア、何とかなりました。
 日本から予約すると手数料もかかるし、ホーチミン市でもツーリストで取れば割高になるので、節約家の私達はベトナム航空オフィスを直撃(笑)。お陰で、ホーチミン市からフエ、ダナンからホーチミン市の2枚で15000円強で済みました。 [フエ駅に入るドイモイ号]
 西矢のお母さんは列車の旅が大変好きですし、僕達もそうなのですが、今回は多用するのは困難でした。と言うのは、ベトナムの列車は大変遅いのです。ホーチミン市からフエなんて20時間弱もかかるのです。ですから、ベトナムで車窓からの景色が一番良いと言われるフエ・ダナン間を列車にしました。景色の方は生憎の雨で楽しめませんでしたが、フエ駅で予約。3時間近くも乗せて頂いて280円という信じられない料金でした。座席チェックにはコンピュータ処理がされていました。 [ドイモイ号の車内]
 とにかく、超長距離列車でハノイを夜7時に発車。フエに着くのは朝7時半頃ですから、前からの乗客はお疲れのようでしたが、リクライニングシートであっという間にダナンに着きました。【写真右】
 季節にもよるので断定は出来ませんが、前日で予約OKでしたが、列車そのものは満席でした。大半はベトナム人でしたが、ヨーロッパ人もちらほらという感じでした。
 【写真上】因みに、列車が入ってくる時に撮影しているので、その時は見えなかったのですが、この列車は「DOI MOI」(刷新…ベトナムの政策総体を指すスローガン)という名前がついていました。 

ここで、敗北を迎えた人達の最後の瞬間を思うと、感慨もある統一会堂
 [統一会堂の屋上にあるヘリコプター] さて、後は順を追って報告して行きます。
 今回もお世話になった『地球の歩き方』の表現を借りると、「リーズナブルな旅ならデタム通りを目指せ」という訳で、ホーチミン市でのホテルはデタム通りの一筋東のアンアン。
 デタム通りは他のホーチミン市の通りが比較的広いのと違って、どちらかと言えば狭く、長さも100mもないのです。ところが伝統的に?ここにヨーロッパ人達が集まるようなのです。僕達が利用したようなミニホテルが林立している感じです。 [地下にある軍司令部]
 先に書いたように、ベトナム航空オフィスを訪ねた後は、その近くの統一会堂へ。ここは旧大統領官邸ですから、ベトナム戦争時のサイゴン政府最後の砦ということになります。
 大統領の執務室、応接室とか大統領夫人の応接室とかがあるのですが(ジェンダーの観点からすればこれは意外)、ヨーロッパなどの宮殿とは比較にならない貧相さです。ただ、それこそホーチミンサンダルを履いて闘っていた解放戦線の民衆との違いは歴然としていて、国民はこの程度でも、贅沢な暮らし振りに怒りを覚えるのかも知れません。
 ですから、いつでも逃げ出せるように(?)、屋上に設けられたヘリポート【写真右】、そして、地下の軍司令部【写真左】の方がリアリティがありました。

公開されているのは、ごく一部。全容の凄さを推測させるクチトンネル
 [シンカフェ前でバスを待つ] ホーチミン市はそんなに遺跡とかがあるわけではないので、ここでの訪問先は何と言ってもクチトンネル。普通なら、バスとか電車とかを乗り継いで出かけるところなのですが、残念ながら、クチの町からでも30キロあるそうで、デタム通りのツアー会社のバスツアーに参加。日本なら○○ツアーというネイミングのところが、何故かベトナムではカフェと言うんですね。シン・カフェ、キム・カフェが老舗。
 シンカフェ前に8時集合。狭い通りにバスが入ってきて、精々2台並ぶのが限度。列車未発達な地域で、よく使われるのはバス。ヨーロッパ人は節約家が多いのでここからカンボジア3デイズツアーなんてのも出ている訳で、大混雑。むしろ、僕達のようなクチ・ハーフデイ・ツアーは少数派と言う感じ。【写真右】 [ガイドさんが解説]
 人は見かけで判断してはいけない(裸足でサンダル履きだった)ですね、単なる整理係の人かと思ったら、その人が英語ガイドさんでした。この人の機転でラッキーなことになります。ホーチミン市からのバスツアーは、より近いベンディンを訪れるのですが、着いたら駐車場も満車状態。駐車場を出て、ベンズウォックへ。ドイツのおばあさんが僕達の横に乗っておられて、彼女はベンディンなら降りないが、ベンズウォックなら降りると言うのです。乗客が不安そうにしているのを見て、ガイド氏はこのことを伝え、それほど良いところへ行くんだと力説。僕達は『歩き方』で読んでいて、こちらの方が少し広く見応えがあると知っていて、ラッキー!と叫んだのですが。
 森の中を進んで、幾つかある説明ルームでビデオを見て、ガイドさんが解説し【写真上】、その後地下へ入ることになります。ビデオは日本語バージョンがあるようで、日本語ガイドを頼めばそれが聞けるようですが、追加料金を取られるので、節約家の僕達は英語バージョンで我慢(笑)。
 【ベンズウォックの風景】@地下トンネルへの入口。ピンクの服が前述のドイツのご婦人。  A階段の段差がきついので西矢のお母さんは大変でしたが、頑張りました。  B警備の人が、この小さな穴から入る実演をしてくれました。そして、10mほど向うの穴から現れてくれました。  C地下作戦本部の会議風景。もちろんロウ人形。  D米軍と闘う工夫の数々。後の壁画は米軍が慌てる様を描写。
[地下トンネルへの入口] @[階段の段差がきつい出口] A[この小さな穴から入る実演] B[地下作戦本部の会議風景] C[米軍と闘う工夫の数々] D
 
 片道1時間半、ガイドさん付きで、一人4ドルはお値打です(入場料は別で500円強)。チップは渡しませんでしたが、予備に持っていたハイライトをプレゼント。運転手さんも欲しいらしいと言うので、持っているハイライトも彼に進呈。発展途上国の人はスモーカーが多く、親近感が湧きますね。(笑)

狭いスペースの割には展示はなかなか良い戦争証跡博物館
しかし、日本のベトナム反戦運動の展示は大いに疑問!
 [戦争証跡博物館の入口。すぐにあるのがM48戦車] ホーチミン市2日目の午後は、クチトンネルから帰って、ホテルで休憩し、タクシーで戦争証跡博物館へ。小田実が代表の「市民の意見30」の集まりで、事務局の北川さんからも、小田さん達とこの夏訪れた話を聞いていたし、もちろんこの旅のハイライト。夕方になって少し暑さも和らいでいたので、冷房無しも我慢できました。 [米空軍の戦闘機等の戦利品]
 とは言え、膨大なパネル展示は全部見るには疲れるし、解説も英語なのでサット読み進むのも難しい。朝からの疲れもあって飛ばし見学にならざるを得ず。
 この博物館に限らずそうなのですが、ベトナムのあちこちに、米軍戦車、米軍戦闘機が展示されています。いわば戦利品。ここでも建物の周りにはそういう陳列がいっぱいでした。武器も不充分な解放戦線側がこういう戦車や戦闘機をやっつけたことは誇りの象徴みたいなものなのでしょう。これは生きた歴史教材に違いありません。【写真左】
 【博物館の展示】@博物館冒頭のホーチミンの写真と言葉  A政治犯監獄の様子。現物を移動。もちろんロウ人形。韓国のように音声がないのでリアリティはないが。  Bご存知、ギロチン。さすが旧フランス植民地。  C故沢田教一の写真等の展示。  D背骨が一つの胎児のホルマリン漬け。  EVICTIMSの部屋の展示。南京虐殺の写真を思い出す。  F石川文洋の部屋。当然だが、これは解り易い。
[博物館冒頭のホーチミンの写真と言葉] @[政治犯監獄の様子] A[ギロチン] B[故沢田教一の写真等] C[胎児のホルマリン漬け] D[VICTIMSの部屋] E[石川文洋の部屋] F
 
 逐一丁寧にパネルを見て周ったわけではないのですが、ただ愕然としたのは、世界のベトナム反戦運動の紹介の部屋。確か「WAR&PEACE」と表示されていたと思いますが、この部屋は、世界の民衆がいかに広範にベトナム人民を支援してくれたかを誇示するような展示の部屋でした。下の写真を見てください。
[スペインの展示] @[旧ソ連の展示] A[日本の展示] B
 言語から推測して@はスペインの展示、Aは旧ソ連の展示。Bは言わずもがなですが、アジアコーナーにある日本の展示です。両横にあるモノクロの展示は(家永さんに似ていますが違います)、アジアの他国です。
 ポスターやカレンダーですが、日本共産党・民主青年同盟・新日本婦人の会・赤旗・全日自労等と並んでいます(いわゆる共産党系の組織のみです)。この国の支配政党がベトナム共産党であることは自明のことですし、そのことをとやかく言う積りもないし、共産党同士、友党と団結するのはいいでしょう。ただ、ドイモイ政策=中国流に言えば改革開放路線とでも呼ぶべきことを推進している今、これは世界認識を誤っていませんか、と問いたくなります。
 日本のベトナム反戦運動で大きな役割を果たしたのは、総評(及び社会党ブロック)ではなかったか。飛鳥田横浜市長だって米軍戦車を止めたし、小田さん達のベ平連だってあった。それに、抗議の焼身自殺をした由井正之進さんだって居られた。
 公平に展示しろと言っているのではないのです。果たした役割の大小を競えば嫌らしくもなるでしょう。ただ、博物館の運営委員さんは、もう少し勉強して、日本コーナーを共産党一色にするのはお止めになった方がいいですよ、と申し上げたいのです。それがホーチミン路線ですよ。
 昨年冬休み、ここを訪れた大阪高教組のメンバーに聞いても「そんなコーナー見てない。そこはガイドさんが連れて行かなかった」とのこと。ガイド氏が勉強家で意識的に避けたか、単に時間不足で飛ばしたのか? 小田さんなんかは紳士だから、そういうことに触れないのか、少なくとも僕は「これはアカンで!?」と思い、「感想ノート」に日本語でですが、疑問を呈してきました。

敬虔なクリスチャンが集っていたサイゴン聖堂・ホーチミンの肖像が印象的な郵便局 [サイゴン聖堂のミサ風景]
 この日の夕食は地元の人に人気の屋台村で、と思っていたのですが、まだお腹も減っていないので、近くの観光スポット、サイゴン聖堂と郵便局へ。 [郵便局の内部] フエでチャーターしたタクシーのドライバーが「ベトナムでは仏教徒とクリスチャンしか居ない。ムスリムは居ない」と話していました(テロの心配がない?)。それは不正確で、最終日夕食のブルージンジャーの横にモスクがありました。でも基本的にはその通りのようで、この日は偶々日曜日だったのでミサが行われていて、美声の持ち主の女性が賛美歌を指導し、広い教会がベトナム人で埋め尽くされていました。
 聖堂の直ぐ前にある郵便局は、風格のある建物で、植民地時代に建てられたものなのでしょうが、奥にあるホーチミンの肖像が私には印象的でした。

飛行機で古都フエへ。日本で言えば、急に10月の感じ。しかも、雨…
気候の読みを間違っていた
[午門に入る橋] [午門の楼閣に登る]  ベトナムも日本と同じで南北に長い国。面積的にも日本の九州を除いたくらいだそうです。ただ、日本以上に気候差あり。ホーチミン市では12月は乾季で降雨は無し。飛行機で1時間チョッとなのにフエは雨季の始まり。フエにいる間、雨と付き合うことになりました。不用意な三上はホテルの傘を借りっ放しになります。
 ここフエは、ベトナム最後の王朝であった阮(グェン)朝の首都。その王宮が残っており、阮朝の皇帝達は北京の紫禁城を真似てここを作ったと言う。入ってみて、何を言うてるんや、紫禁城の比ではなかろう、こんな直ぐ終わるような。紫禁城は私も行ったけど、幾重にも、門や宮殿があるよ。 [旧王宮の北側に広がる破壊跡] [王宮の復元模型]
 ところが、中で復元模型を見て愕然【写真左】。その大半はベトナム戦争時の米軍の爆撃で破壊されたと言うのです。そう思って、雨の中、残った建物の向う側を見てみると、原っぱになっているのです。いくつかの柱とかを残して【写真右】。
 日本の古都・京都の爆撃は避ける余裕があったが、ベトナムではその余裕も無かったということでしょうか。だから、中国で言えば天安門に当る午門だけが不釣合いに大きく残っています。これはなかなかの建物で、楼閣に簡単に登れます。大きな太鼓や鐘も残されています。【写真:この項の初め】 [顕臨閣の門から本殿を望む]
 結構保存が良いのは阮朝の菩提寺であった顕臨閣。歩いて5分くらいの所にあり、近付くと爽やかな音がし、何の音かなと思ったら、門の各屋根の端に風鈴が付いているという変わった造りでした。 [連なる鼎の遠景]
 日本の寺院や中国の寺院に詳しくないのですが、黄色を主体としたこういう寺院というのは中国風なのでしょうか【写真左】。少なくとも日本の寺院とは趣が異なります。尤も日本でも、建立当初は金ぴかだったとも聞きますが。
 この顕臨閣は13人居たという皇帝を象徴する鼎【写真右】が特徴で、それぞれのパーソナリティを漢字一文字で表した刻みが見られましたが、強い雨の中ゆっくり検証する元気はありませんでした。

小雨の中、フエ郊外の寺院・帝廟を巡る
遺跡としてはここが最大の見所
 [ティエンム寺入口の八角堂] フエ2日目は、フエ郊外に点在する帝廟や寺院巡りなのですが、ここも交通の便が発達していませんから、いわゆるツアーかタクシーのチャーターしかありません。フエはフォーン川という川が中心なので、この川をドラゴン舟(舳先に龍を飾っている)で回るというツアーがあります。4ドルと安いのですが、帝廟とかが川岸から離れているので雨の中歩くのはキツイ。僕達の好みではないのですがタクシーをチャーターということになりました。
 この選択は間違っていなかったようです。良い運転手さんをどうしたら探せるか、迷っていたら、ホテルマンが、当然のように紹介してくれて、これもこの町では当然のようですが日本流に言えば白タクです。車もトヨタ車で、大切にされているようでした。25ドルで5ポイント、2時頃まで。運転手さんは饒舌でもなく、超寡黙でもなく、良い加減でした。
 阮朝の皇帝達は、中国への憧れが強かったのでしょうか、「明の十三陵」と同じパターンで郊外に自分の墓を造らせているのです。
 最後の王朝ということは、当然フランスの植民地にされた時期に重なっています。「貴方達、豪壮な自分の墓造っている暇あったら、自国の運命を真剣に考えんとアカンのと違うのん?!」と思いながら帝廟を廻りました。しかし、初めの方に書いた『物語 ヴェトナムの歴史』によれば、彼等は彼等なりに反仏ゲリラや反乱グループを陰ながら支援してたようです。しかし、フランス植民地に甘んじることによって、私財をため込む官僚グループも居て、そういう温床になったとすれば罪深い人達です。
 マア、こんなことはベルサイユ宮殿だって、紫禁城だって同じです。こういう風に富が偏在しないと文化遺産は残らないのですから、仕方ないことではあるのですが。
 【フエ郊外巡りの風景】@ティエンム寺に展示されているベトナム戦争時、政府の弾圧政策に抗議し、焼身自殺した住職が乗って行った車。  A言葉は通じないが住職に招き入れられお参りする西矢のお母さん(ティエンム寺)。  B川の対岸にある遺跡には渡し舟で渡る。  Cミンマン帝廟の奥から。門と堀が何重にもある。  Dカイディン帝廟の正面階段。この階段の区分け部分が龍。  Eカイディン帝廟のテラスにある臣下の像。象と馬も。  Fトウドゥック帝廟の蓮池。  Gトウドゥック帝廟の奥にある門とオベリスク。
[焼身自殺した住職が乗って行った車] @[お参りする西矢のお母さん] A[渡し舟で渡る] B[ミンマン帝廟の奥から] C[カイディン帝廟の正面階段] D[テラスにある臣下の像] E[トウドゥック帝廟の蓮池] F[奥にある門とオベリスク] G
  [ファン・ボイ・チャウの像]
 5ポイントの約束でしたが、帰り道でもあるので、ファン・ボイ・チャウの墓、記念館にも立ち寄ってもらいました。ただ、フエ中心街に近く、道路沿いに駐車せざるを得ないので、記念館には入らず早々に出てきました。
 これも、先の本で知ったことですが、ファン・ボイ・チャウは同じ頃、植民地化されなかった日本に学ぶべきだと横浜辺りに留学生を送る「東遊運動」をすすめた人で、本格的な反仏抵抗運動の草分けだった人。ホーチミンにも声をかけたそうですが、彼は渡仏を選んだそうです。
 だから、記念館は見たかったな、と今思いますが、止むを得ません。ただ彼の巨大な顔像の横に自由を渇望する民衆の像らしきものが彫り込まれているのを見ることは出来ました。

タクシーを降り、明日の鉄道チケットを予約。安心してホーチミン記念館へ
 [フエ駅前で運転手さんと記念撮影] タクシーの運転手さんに鉄道のフエ駅まで送ってもらい、切符売り場へ直行【写真右。建物はフエ駅】。 
 ホーチミンはこのフエ出身なので、彼の出身高校も駅の近くだし、その手前に最近リニューアルオープンした記念館もあります。小雨はまだ続いていましたが、訪問。 [記念館内部のモニュメントとホーチミンの立像] [ホーチミン愛用のステッキなど]
 リニューアルを期に有料化されたようで、パンフレットもくれましたが、こういう所は無料でないと、と思ったのですが、外国人プライスなのかも知れません(尤も80円ほどですが)。
 ベトナムは至る所にホーチミン記念館がありますが、ここは彼の故郷ですから、充実しているようでした。彼が身に着けていた特徴的な服装も展示されていました。
 因みに彼の母校クオックホックは守衛さんが居て、授業終了までは立ち入り禁止でした。

特急列車でダナンへ。古い貿易港ホイアンへ直行
大変落ち着いた町でした
 [来遠橋(日本橋)遠景] 前述したダナンへの列車の旅を終えて、タクシーでホイアンへ直行。またエジプトとの比較になるのですが、タクシーに乗るにしても、物を買うにも、ベトナムが疲れないのは、値段の交渉がそこそこの水準から始まるからです。この時も『歩き方』に書いてある20$と言ってくれるので即決で済みました。「いいホテルを知っている」くらいは言いますが、シツコクすすめるわけではありません。
 ホテルも『歩き方』に書いてある値段に近い水準ですからあまり値下げ交渉せずに済みます。ホイアンでもヴィンフンUというホテルは老舗ホテルの系列なのですが、トリプルで1泊30$。ウェスタンスタイルと中国風を選べ、同じことならということで中国風を選びました。
 さて、このホイアンは日本人街もあった、東西交渉の海の道の拠点だった町。よく考えると日本から海沿いに下ってきて一番近いのはベトナムなのですから、タイなんかより余程距離的には近いことになります。しかし鎖国政策のため、中国風の文化が根付いたようです。
 歩いて小1時間もあれば一周できるくらいのこじんまりとした町で、ゆったりと落ち着いた雰囲気で、観光地としては人気上昇中。世界遺産に登録されています。
 ここは、総合チケットのようなものがあり、50000ドン出すと、古い貿易商の家(写真@)・博物館(これも元商館)(A)・華僑の会館・クァンコン寺(B)・クラフトと伝統音楽コンサート(C〜E)に入れるという仕組です。チケットには珍しく税務署のナンバーがありましたから、貴重な税収源のようです。
 【ホイアンの街】@築後200年の中国人の商家フーンフンの家  A海のシルクロード博物館の入口。  B派手な装飾のクァンコン寺の入口。中には関羽が祀られていた。  C伝統音楽コンサート。なかなか聞き応えがありました。  Dベリーダンス風の、或いはシヴァ神的踊り(と推測)。  E漁師と天女の踊り(と推測)。
[中国人の商家フーンフンの家] @[海のシルクロード博物館] A[派手な装飾のクァンコン寺の入口] B[伝統音楽コンサート] C[シヴァ神的踊り] D[漁師と天女の踊り] E
  [アオザイを作る仕立て屋さん]
 世界遺産であることもあって、街並み保存には相当力を入れているようでした。しかも、物価はホーチミンなどに比べても安いときているので、先に書いた人気に拍車をかけているようです。私達は、飛行機の飛び立つダナンはあまり見所もないので、ここを早く出ても仕方ないし、天候もイマイチなので、のんびり過ごすことになりました。 [これがベトナムコーヒーだ]
 この町にはベトナムの民族衣装であるアオザイを作る店があまたあって、西矢とお母さんは何度かお土産の為に足を運びました。【写真右】
 伝統音楽が始まる前の一時、中庭でコーヒーを飲みました。これがベトナムコーヒーと改めて知ったのは、この時です。ブリキの器にお湯がはってあって、その中にグラス入りのコーヒーが入っていて、ミルクが付いて来ないので、尋ねたら、何と引きあげてみると下にミルクが入っているという次第でした【写真左】。 しかし、チョッと困るのはご覧の通りミルクは練乳。砂糖とミルクを調整できないのですね。入れすぎたら甘いし…

ホイアンからバス&舟のチャンパ王国の聖地・ミーソン遺跡ツアーへ
ここは一転してインド文化の影響
[ミーソン遺跡中心部]
 この旅のメインイベントの最後はチャンパ王国の聖地・ミーソン遺跡訪問でした。ホテルの近くで前日予約。バスで行って、バスで戻るプランとバスで行って舟で戻るプランがあり、時間も十分あるので舟戻りを選びました。何と昼食付きで4$。
 バスの通れる橋がないので、バスを降りて、人しか通れない竹の橋を渡り、そこからピストン運転しているジープに乗って遺跡の入口に到着。
 ここも世界遺産に登録されているのですが、8世紀から13世紀にかけて造られた遺構が草木に被われて残っている所。インドシナ半島とはよく言ったもので、この地域はインドのヒンズー教の影響が濃厚です。壁面レリーフ等もシヴァ神像などが彫り込まれていました。
【ミーソン遺跡】@バスを降りて、この竹の橋を渡ってそこからジープ。  Aレンガ造りの壁のレリーフ4体。  BグループGの遺構の角にあった像。  Cチャンパの守護神ドヴァラバーラ像と思われるそうです。何せ首がないもので詳細不明。  DグループFの丘から。向うの山がマハーパルヴァタ山。  E砂岩のレリーフと彫像。 

[竹の橋を渡って] @[レンガ造りの壁のレリーフ] A[遺構の角にあった像] B[チャンパの守護神ドヴァラバーラ像] C[グループFの丘から] D[砂岩のレリーフと彫像] E
  [川下りの船]  日本のパックツアーの人たちが居られ、その人達には日本語ガイドさんが付いていましたが(因みにこのガイドさんに聞いたのですが、ここもベトナム戦争でかなり破壊が進んだようです)、私達雑多組は、思い思いに見学後再集合。再びバスに乗って、結構な距離を走り、橋の袂で降り、ぬかるみの中を乗船。 [伝統工芸村の作業風景]
 雨脚も少しきつくなり、寒い川下りになりました。オール込みで4$ですが、一応昼食付き。どうしてくれるのかと思っていたら、舟の中で、ホイアン名物ホワイトローズとカップケーキ、そしてミネラルウォータが配られました。お腹も空いていたので、これはありがたかったですね。 [舟から眺めるホイアンの町]
 伝統工芸村を訪ねるプランなのですが、この寒さなので、行かなくてもいいよ、という感じでした。が、一応、木工をしている村を訪ねました。大きな家具をノミで作っていたりするのはいいのですが、こんなもの買う訳にはいきません。小さな豚を作っているのは買ってもいいのですが、これは売っていませんでした。【写真左】
 舟はどこに着くのかと思っていたら、何と、私達が散策している通りの川側。舟から眺めるホイアンの町もなかなか風情がありました。

 

再びタクシーでダナンへ。飛行機に乗る前に訪れたのはチャム彫刻博物館
なかなかの収蔵品
 相変わらず天候はすぐれず、シトシト雨。ホイアンで最後の買い物をしたり、レストランでヒューマンウォッチングしながら日記をつけたりして過ごしました。ただ、土産に作ったアオザイのサイズがどうも合いそうにない、ということで、特急仕上げで朝注文、午後納品の離れ業には驚きました。
 午後、ホイアンを出発してタクシーでダナンへ向かい、チャム彫刻博物館へ直行。
 『歩き方』の解説によれば、フランス極東学院の研究者の収集、展示によるものだそうですが、予想以上に素晴らしい展示物でした。
【博物館の展示品】@想像と破壊の神・シヴァ神像  A少し珍しいヴィシュヌ神像。  B男性の象徴・リンガ。  Cライオンと象の合体動物。  D龍の前にカムラという怪獣。  Eガルーダのレリーフ。  Fガネサ像。後にハン川が見える。

[シヴァ神像] @[ヴィシュヌ神像] A[男性の象徴・リンガ] B[ライオンと象の合体動物] C[龍の前にカムラという怪獣] D[ガルーダのレリーフ] E[ガネサ像] F
 
 博物館を出ても、小雨で、近くにレストランもなく、荷物も重いので、思い切って空港へ向かうことにしました。ダナン空港は驚くほど市街地から近く、殆どワンメータで着いてしまいました。
 ところがこの空港がまた殺風景な空港で、チョッと期待外れでしたが、今夜は例のアンアンで決めているので、ブラブラしながら待ちました。

最終日は見残しホーチミン市。覚林寺・歴史博物館
 [覚林寺の本堂にある仏像。柱に色即是空…と書いてある] 幾つかある仏教寺院の中でも、ホーチミン市最古と言われる覚林寺、初めの漢字文化圏のところで触れたように、ヤックラム寺へ向かいました。
 ホーチミン空港を二度往復しているし、この覚林寺へも結構な距離を走ったのですが、驚くのは、市街地が途切れないことです。どこにもプチ繁華街があるのです。普通、空港から暫くはあまり人気のない道を走ったりするものですが、ホーチミン市は違うんですね。 [七重の仏塔] [七重の仏塔内部の像]
 歴史のある寺だけに、本堂の仏像はなかなか立派なものでした。古色蒼然と言うのでしょうか【写真右】。
 それと対照的なのが入口近くに建っている七重の仏塔で、これはピカピカで、各階にある中の仏像もド派手でした【写真左】。
 
 肌寒かったフエ、ホイアンから再び暑いホーチミン市へ来ると体がビックリしている感じでした。でもタクシーはクーラーも効いているのでエジプトに比べれば…。
[動・植物園で象さんに餌をやる] @[歴史博物館のホーチミンの胸像] A[見学に訪れた生徒達] B
 
 少し長い道のりをタクシーで再び市の中心部にある歴史博物館へ。ところが、お役所的と言うか、社会主義的と言うか、1時間半の昼食休憩に遭遇。歴史博物館は動・植物公園の中にあるので、ここでのんびり過ごすことにしました【写真@ 象さんに餌】。入園料は50円ほどですから、市民の憩いの場として休日などは賑わうのだろうと思われました。 [水上人形劇最後の挨拶] [水上人形劇]
 歴史博物館はベトナムの先史時代からの展示ですから、生徒の歴史の時間の学習でしょうか、見学に来て、メモをとったりしていました。【写真B】
 この博物館の名物でもある水上人形劇に時間を合わせて駆けつけ、待ちました。期待通りの人形さばきでした。最後に操っていた人が前に出て挨拶され、三人でやられていることが判った次第。

 ここを出て、何度も前を通ったベンタイン市場で買い物し、横の通りでさとうきびジュースを何回もお変わりし、休憩。市場前ロータリを通過し、初めに書いたブルージンジャーというお店で最後のベトナム料理を味わいました。ホテルアンアンに頼んでおいた6時のタクシー(因みに4$)で空港へ向かいました。

 ホーチミンの空港は使用料を円で払えると聞いて喜んだのですが、危うく計算間違いを見逃す所でした、こういう時は電卓を放してはいけません。という教訓を最後にバンコク経由で関空へ飛び立ちました。

最後に、ホーおじさんの国ということ [共産党の看板]
 表題に書いたことですが、今まで掲載した画像にも、ホーチミンの写真、肖像、胸像が頻繁に登場しています。偶像崇拝的なことを嫌った彼はどう思っているでしょうか?北朝鮮の今の惨状を見るにつけ、リーダーの扱われ方の困難さを痛感します。残念ながら、志半ばで倒れた人の方がよき指導者像として歴史に残るのかも知れません。トルコを訪れた時、ホーチミンと同じくらい肖像を見たのがケマル・パシャ(尊称はアタテュルク)でした。彼も比較的若くして亡くなっています。
 先の本にあったのですが、公式文書でも彼のことを「バック・ホ」と書くそうです。バックをおじさんと訳すのですが、筆者によればこれは翻訳不能な言葉(尊称でありながら親しみがこもる)。独立・統一から30年、ベトナム戦争世代が引いていく時にこの国がどういう方向を歩むのか、難しい時代を迎えるだろうことだけは予想されます。
 中国と同じく経済は資本主義化し、政治は社会主義というこのシステムの行方は不明ですが、一旅行者に人々の思いまでは解ろうはずはありませんでした。表面的には、この国が社会主義だと気付かせてくれるのは、【右の写真】のような共産党の看板(ホイアンで撮影。他市でも同様のもの散見)くらいでした。どれも、階級・階層を超えての団結を呼びかけているようでした。彼が今後の政治家に利用されないことを祈るばかりです。訓古学的に「バック・ホはこう書いている」等と言われて解釈論争などし出したら、ホーチミンは悲しむに違いありません。 
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