1984年と科学:その2 

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 :パロディとして描かれた権力の権力者

 そもそもオーウェルが描いたイングソック党は権力者を漫画的に描写したものなのだけど、その描写の仕方がちょっと変わっている。

 普通、権力者を漫画的に描く場合、それは腐敗とか、欲望とか、私利私欲とか、堕落といった側面が強調されているのではないでしょうか? あるいは無能とか、愚かさ、嘘、欺瞞などが描かれる場合がほとんどです。実際、同じ作者であるオーウェルの作品、動物農場はそういう内容になっている。

 ところが1984年のイングソック党は違う。イングソック党における内局の人々、権力の中枢メンバーは過酷なイデオロギーを狂信的に信奉する完全に頭のおかしな集団として描かれている。主人公ウィンストン・スミスを尋問し、彼を党の理想の道へといざなうオブライエン、彼に言わせればイングソック党が権力を追求した目的とは、権力の追求そのものにある。

 権力の目的とはすなわち権力そのものなのだ。

 これまで数多くのメディアで漫画的に描写された実在あるいは架空の権力集団のなかにあって、イングソック党はそのもっとも非人間的なものでしょう。オブライエンはスミスに言います、

 我々は幸せになりたいのではない。

もしこれが他の小説や映画での台詞なら、我々は「嘘つき!!」というところであろうし、オーウェル自身が先に描いた動物農場ででてくるブタたちにしても、こうした台詞は嘘でなければたぶん出てこない。誰もが権力を得たからには富みと欲望をものにしたい。

 だが1984年のオブライエンは違う。拘束されたスミスにつきっきりでえんえんと党のイデオロギーを説明しつづける。彼が語るのはイデオロギーの追求、恐怖と憎悪と苦痛だけの未来、党の根源とその根本的な動機、彼らのテクニックとその衝動のすべて。オブライエンは自分が疲労困ぱいしようが、自分の肉体がいまにも崩れ落ちそうに疲れ果てようが、説明することも尋問することもやめない。どんな時であってもオブライエンはスミスの心のなかを推し量ることも、スミスを理解することも、そしてスミスの稚拙な反論を容赦なく粉砕することもやめない。

 自分たちがよしんば30歳で老衰して死ぬとしてもそれがなんだ?

 疲れ果てた体でスミスにそのように豪語し、共有するイデオロギーこそ存続すべき永遠のものであり、個人の消耗も損耗もどうでもいい、自分達こそ全知全能不滅不敗無敵であるとオブライエンは演説してやまない。彼はいまにも過労死せんばかりに突き進む。

 しかし、それにしても彼がいう全知全能とは果たしてどういうことか? 

 

 :記憶を操作することで過去を支配する

 さて科学に関わりそうな話はここから。

 1984年の世界ではあらゆる記録が改ざんされています。現在では都合の悪くなった過去の画像、文章、党の発表、報告書の数値、言及、個人名はすべて修正されていく。これは典型的にはソ連のスターリンなどがかつて行ったことですね。例えば現在では失脚した個人を古い写真から消して、そもそも最初からいなかったことにしてしまう。そういうことは多かれ少なかれいろいろな政権で見られることなのでしょう。

 しかし1984年はそれを徹底的に押し進めている。主人公スミス自身がそうした記録を改ざんする作業を行う部局に勤めているのですが、オブライエンはそのことから次ぎのように言います。

 我々は過去を支配している。

しかり。彼は正しい。オブライエンが愚鈍極まるスミスに辛抱強く説明するように、過去とは地球上のどこかに存在する実体ではありません(pp322~)。過去とは現在ある証拠から推論するものです。いってみれば過去とは仮説なんですね。もちろん現在も仮説なのでしょうが、すくなくとも過去の方が現在よりも仮説の度合いが大きいとは言えるのでしょう。

 オブライエンの発言は情報操作うんぬんという作業以上に、自分達がなにをしているのか過去とはなんなのか、それを自覚しているということを示しています。

 過去を推論する証拠が改ざんされ続け、破壊されるこの世界では、過去を推論することはどうしようもなく不可能になってしまう。そしてイングソック党は党の作った過去を人々に押し付ける。押し付ける内容すら毎時毎時変わっていく。

 こうなると聞く側の記憶が頼りになるのだけど、イングソック党は党員にたいして党を信奉し、党のいうことを信じるように要求している。党員は例え疑問を抱いても先にいったようにそれを証拠づけることができない。さらに疑問を抱いたことが知れれば粛正。

 このように党は記録のみならず、人々の記憶をも支配している。完全に支配していないことも、できていないことも、それは粛正が起きることから明らかですが、大きな影響を人々に及ぼせることは疑いない。

 反対にスミスは、ある日、党の発表が正しくないことを示す証拠を手に入れます(pp96~)。作者のオーウェルはこの証拠、たった1枚の記事の切れ端を

「意外な地質から出土して地質学上の理論を覆す化石の骨に似ていた(pp101)」

と科学の営みになぞらえて表現しますが。これは正しい。

 イングソック党は過去が推論されるものであることを自覚して過去の記録を破壊してしまう。

 スミスはイングソック党の発表を支持しない(反証する)証拠を手に入れ、その重要性を自覚する。

作者のオーウェルは権力の欺瞞を告発する以上の表現をここでしているように思えます。

 

 :認識を操作することで現実をも支配する

 さて、証拠を変造し、破壊することで過去を支配する。それのみならずオブライエンは党が現実をも支配しているという。もちろん現実のなにもかもを操作できるわけではありません。地球は平らであると皆が信じても地球は平らになりはしない。だが、実際には平らなのだと信じることはできる。皆がそう信じれば、それは少なくとも彼らにとっての事実となるでしょう。

 オブライエンは、星は数キロ先で燃えている火のかけらでしかなく、その気になれば消すことなどわけはないと言う。その一方で、計算上、星は遠くにあり、そして地球は太陽の周りを回っていると仮定したほうが便利だと平然と言い放つ(pp347~)。彼のいわんとすることは非常に分かりやすい。彼は都合に応じて現実を説明する仮説を使い分けています。

 もちろん変化しているのは現実、あるいは私たちが見ている現象そのものではありません。オブライエンが変えているのは現実なり現象を説明する仮説の方です。それにも関わらず彼は現実をコントロールできると言い放つ。おそらくオブライエンの言っていることは、現象を説明する仮説と説明される現象を混合したものなのでしょう。

 とはいえ、人間はしばしば”説明する仮説”の方を信じていたりする。神がいるという信仰も、それは説明であって客観的な真実ではないし、神が我々の目の前に現象として降臨なされているわけではない。しかし、それにも関わらず信じられていますよね? おそらくイングソック党のいうことはさほど世間離れした主張ではないのでしょう。

 そして党は都合のよい仮説を人々に提示する。オセアニア国ではイングソック党がすべてを支配している。だとしたら皆が世界をどのように受け取るか、何が信ずるべき仮説であるのか?。それを支配することもまた可能となる。

 そしてそれをもって現実をコントロールしていると豪語することもできる。

 

 :現実を操作するために科学を放棄する

しかし科学はこうした見解を否定します。オブライエンのいっていることは、

:現象と現象を説明する仮説は同じだ

:どの仮説を選んでも同じだ

:ゆえに都合のよい仮説を選び、それをもって現実をコントロールしているとみなす

ということなのですが、科学はこうは考えません。科学では

:現象と現象を説明する仮説は同じではない

:仮説が同じ程度に確からしいこともあるが、仮説の確からしさには違いがある

:どれが確からしい仮説か、それをテストし続ける

ということが行われています。だから科学の視点からはオブライエンの動作はにべもなく否定されてしまうでしょう。

しかしというか、ゆえにこそと言うべきか、オセアニア国には科学がありません。作中、オブライエンが自らの著作を通してスミスに語っているように、インナーパーティーたちは、科学がイングソックの哲学とは相容れないということをちゃんと知っています。

 だからこの国に科学がない。逆にいうと作者であるオーウェルは、科学というものがどのような行為なのかよく理解しているらしい。

 それにしてもオセアニア国は科学を放棄して大丈夫なんでしょうか? 科学は技術に直結しているし、それに経験を通して確からしさをテストするという行為は私たちが日常に行っている重要な動作です。現実を無視するなんてことをしてオセアニア国とイングソック党は瓦解しないのでしょうか? 

 

 :虚構と詭弁による現実支配のテクニック

 科学を放棄する、あるいは仮説を好きに選んで現実を無視するというのは明らかに危険です。例えば現実世界ではスターリン時代のソ連で、ルイセンコという研究者が遺伝学の分野で非現実的な仮説を唱え、あげくにスタンダードな研究を行っていた人々を粛正に追い込んだことがあります。結果的にソ連の農業は大きなダメージを受け、さらには連邦崩壊の遠因になったとか(このリンク先のルイセンコ騒動も参考のこと)。

 このように現実を無視することは誰でもできるし、実際にする人もいるのだが、その無視の度合いが大きいと現実がそれを許してはくれない。ではオセアニア国もルイセンコの夢やソ連と同様、空中分解してしまうのでしょうか? 

 しかし小説でのやりとりを見る限り、オブライエンがルイセンコ事件を聞いたら、彼はおそらくソ連指導部は素人だ、と冷笑すること疑いありません(というか実際に作中オブライエンはナチス・ドイツもロシア共産党も不十分であるとにべもなく評価しているのですけどね pp344)。

 イングソック党は小説の産物です。まさに漫画的に理想的に設定された権力者であるので、そういう綱渡り技術にぬかりはありません。

 現実を無視することはできるが、現実がそれを許してはくれない。ならば話は簡単。現実の許容の範囲内で現実を無視すればいい。

 計算上は地動説の方が天体現象をより説明できる

 しかし星は数キロ先で燃えているガスであり、消すことなどわけはない

たとえそんな狂気を主張してもオブライエンが星を消しになどいかないことは疑いない。たとえば作中、オブライエンは自分は重力を無視して空中浮遊できるが、党がそれを望まないのでしない、といっている(pp346)。だからオブライエンは同じ論法でいうでしょう。

 星を消すことはできるが、党がそれを望んでいないので星を消しにはいかない。

 つまり実際にできないことは望まれていないという適当な説明を持ち出し、それを回避してしまうわけですね。逆にいうと、じつはオブライエンは完全に正気なのです。そもそも彼はその事実を堂々と言い放ち、著作にまでしている。彼と彼が所属するインナーパーティーたちは自分達の狂気をまったく完全に把握している。実際にできないことは適当な説明を持ち出して回避し、現実を説明する仮説をいかようにでも使い分け、あまつさえそれで仮説ではなく、現実の方を改変したとぬけぬけと言い放つ。

 1984年の世界ではこの行為をダブルシンク:二重思考と呼んでいるけれども、これはようするに詭弁を完全に正気にコントロールするわざです。

 たしかにこうなれば党は実際には全智でも全能でもないのに、全智全能であるかのようにふるまえるでしょう。このことからするとオセアニア国にルイセンコがいたらオブライエンたちに粛正されてしまったかもしれません。オセアニア国の顔のない支配者達は現実的な判断で虚構が壊れる事態をたくみに回避します。

 

 :ひきこもることによる現実からの逃避

 人間は経験から自由にはなれません。オブライエンが自身の著作のなかで言うように毒の入ったものを食べてはいけないし、高い場所から落ちたら死んでしまう。

 しかし逆にいうと経験というのはそういう問題でしかない。日常生活から一歩離れて直接経験できない、あるいはしない場でならどうとでも現実を無視することができる。現実のテストに直接さらされないなら嘘は現実と区別できない。科学はどの仮説が確からしいのか? それを永遠にテストする。だけどテストが否定されてしまう世界でなら嘘を現実と言い立ててしまうことができます。

 そして実際にそういうことをする人が現実にいる。北村自身が目撃した幾つかの例を言えば、

 自分の信じる科学理論は正しい!!と主張する。しかし他人はそうは思わない。その人がいきり立って叫ぶと皆がいう、そこまでいうのなら実験したら? あるいは、ここがおかしいよね? どうなっているの? と問う。しかし彼はそれには答えない。そして彼はさらにいう、皆は古い考えとパラダイムに縛られている!! 皆さんこそ考えを変えるべきです。

 もう皆は何も言わない。

 自分の正しさは信仰するが、自分のあらを指摘されるとそれを無視する。そして説明にならない言葉で切り返す。

 あるいは、

 意見は個人個人で違う。だからどの意見が正しいとはいえない。それぞれで正しいという。

 ではこの窓から飛び下りることも飛び下りないことも同じかね? そう問いかけるとしない。ようするに価値は話すが現実は語らない。彼は価値観を語るだけで何もしない。

 このように現実によるテストを無視すればいくらでも詭弁をはけるし、実際に吐く人が幾人もいる。逆にいえばイングソック党やオブライエンの言うことはやはり世間離れした主張ではありません。

 現実から引きこもれば現実に顔をあわせないですみます。現実のテストから逃げればいくらでも虚言をはけます。

 しかもオセアニア国は国ぐるみで現実から逃げている。この世界にはじつは戦争というものがありません。最初に3つの国家がえんえんと戦争していると書きましたが、この戦争には従来の戦争のような意味がありません。お互いに巨大すぎて占領できないし、解体もできない。それに3つの超大国はお互いに戦争を継続しようという取り決めている。だからこの世界の戦争は戦争になっていない。戦闘自体は国境地帯で起きているだけで、ロンドンに着弾するミサイルも、危機的な状況を演出するためにオセアニア国自身が投下しているらしい(小説の舞台背景じたいは現実の第二次世界大戦であっても、設定自体は未来の特異な世界であるからこうなるのでしょう)。

 ようするにオセアニア国には外敵がいません。そして戦争もすでに脅威ではない。イングソック党は3つのスローガンを持っていますが、それは

戦争は平和である

自由は屈従である

無知は力である

というものです。これはこの小説でもっとも有名な一文ですが、この3つのスローガンのうち、もっとも難解な1番目、戦争は平和である、という意味はここにあります(p256~)。たしかにこの世界では無限に戦争を行っているが、それゆえに戦争は脅威ではなくなった。戦争が恐ろしいのは恐ろしいからだけではなく、終わりがあるからでしょう。それは甚大な犠牲を払った勝利か、あるいは敗北による全滅を意味します。しかし戦争が終わらなければ、それも続けるための戦争であるのなら、戦争は恐ろしくもなんともありません。戦争の無限継続による絶対平和。

つまり、戦争は平和なり。

 他のより効率的な国家や現実的な敵による征服から自由である世界。現実という脅威はこの世界にはほとんどありません。外敵という最大の敵が消滅したこの世界では社会全体が現実から背を向けることができる。そりゃあ経済の失敗と飢餓状態で社会不安が起こるということはなおもありうる。だがそれだけに注意すればいい。面白いことにオブライエンはそれも自覚しています。彼は第3者の口をつかうことで、自分達が不便をかこつほどに臣下の大量餓死が出ぬように心掛けねばならない、と語っている(pp258)。

 ゆえにオセアニア国は現実と経験から離脱して虚構の全知全能の世界にすむことができる。

 オブライエンの語る世界はそういうもので、そしてウィンストン・スミスが最終的に受け入れるのもそういう世界です。小説の最後、スミスは何もかも許されたあげく、真っ白な廊下で待ち望んでいた銃弾に頭蓋骨を打ち抜かれて死にますが、彼が満足して死ぬのも当然なのでしょう。たしかにオセアニア国は幸せのワンダーランド。ここでは現実を虚構で塗り固めて永遠に勝利の凱歌を歌うことができる。1984年はディストピア小説であると言われますが、実際のところこれは真の意味でのユートピア小説だと言えます。言い換えれば地上の楽園だの、ユートピアだのというのは、詭弁と虚構でしか成り立たないのだとも言えるでしょう。

 

 :では科学は?

 オセアニア国とイングソック党からひるがえってみるに、逆に言えば彼らがかなぐり捨てた科学というものは、なんとも過酷なしろものではありますまいか? 科学とは仮説の確からしさを永遠にテストする人間の営みです。昔、ある研究者の卵が、過去の推論を果てしなく続けてそれで何が分かるのか? 私たちのやっていることは何なのか? と問いかけていましたが、いや、じつはそれこそがおそらく科学の真髄なのですよね。

 この仮説が確かであるのかどうかテストしよう

 それをいつまで続ければいいのですか?

 永遠に

永遠にテストをくり返す。なんと不毛で過酷な学問。全知全能を求めたイングソック党が科学を捨てたのは当然ではありますまいか。イングソック党は個人の幸せを放棄することで安らぎを得ていますが、科学はそうではない。科学は真実とかいうものを信奉する宗教などではありません。

 科学は仮説をテストして、ついには現実をある程度コントロールすることもできます。でも全智全能には多分なれない。真実とかいう得体のしれないものに到達することも多分ないのでしょう。そして作業だけが無限に続く。

 反対に現実を無視しさえすれば、テストを放棄しさえすれば全知全能の詭弁と虚構に裏打ちされた幸せの世界が開ける。そして実際にインナーパーティーよりもはるかに稚拙ではあるけど、現実からひきこもって詭弁と虚言を吐く人々がいる。そして彼らは幸せそうです。

 たぶん、オーウェルという人は科学というものをよく理解していたのではないでしょうか? 1984年ほど科学と、そして科学を放棄することで得られる幸せを描いた小説はあまりありません。

もしあなたが幸せになりたいなら

現実を見つめることも

ましてや科学にたずさわることもしてはいけません

科学は人を幸せにはしてくれません

みなさんの幸せは

詭弁と虚構

そして自己欺瞞のなかにこそあるのです

 

 :追記と感想

 :私は科学という不毛な瞬間の無限の積み重なりと苦闘がたまらなく好きです。こんな楽しいものは他にありません。研究者でもないくせに、という人もいるでしょうが好きなものは好き。

 :すでに書いたようにイングソック党のような詭弁は意外とあちこちで見ますね。ただ世の中のそういう人たちはオブライエンほど狂気でもないし正気でもない。オブライエンが架空のキャラなのでそれはいたしかたないのだけど、完全な正気でなければ狂気は正確にコントロールできません。

 1984年を中学生の時に読んでからこのかた、幾人かの詭弁屋さんを見てきましたが、自分の狂気の根本を自覚していないせいなのかどうなのか、不十分極まりない。大体は本の読み過ぎで知識は多いが現実をよく見ていないか、さもなければ価値観と仮説の確からしさを混同しているように見えます。確かにこれは詭弁としては有効ですが、無自覚ゆえに稚拙です。現実を回避しなければ虚言は虚言であるとばれてしまう。しかし現実をしっかり把握しないと現実は回避できません。完全な詭弁を語るには完全に現実を把握しなければいけません。

 本を読んでばかりいる人が時にあきれるくらい間抜けなのは現実をしっかり把握していないからでしょうし、夢見る人がトンチンカンなのはそもそも現実を無視しているからでしょう。

 多くの場合、詭弁屋さんが稚拙になってしまうのは知識がないからではなくて、怠惰で引きこもっているからなのかもしれません。

 引きこもって本のなかにいたら現実は把握できない。いきおい、虚言は稚拙になる。

 初歩的な詭弁についてはこちらのコンテンツを参考のこと。

 :1984年、この小説はいつもスミスを監視カメラで見守っていたオブライエンとスミスのラブロマンス(注:どっちも男ね)ともとれる話です。それにしても永遠不滅、全知全能のイングソック党とはじつはオブライエンとスミスの2人だけが作り上げた虚構ではないかとも思えたり。

 101号室から先は銀河鉄道の夜のように美しいのでお気に入り。

 後、途中でオブライエンがストーリーから消えるのがちょっと気になるのです。たしかに彼の小説中の役割はそれで終わりなんですが、よもやそんなことはないと思うけど過労で死んだか? オブライエン?? スミスのために命を捧げて党のために散ったかオブライエン? そんなことないと思うけど、そうなのか? オブライエン? 

 

 キャラクター紹介(注:あくまで北村の感想ですのであしからず)

 スミス:酒がのめないと寝起きもまともにできないろくでなし。卑猥な言葉を叫びたくなったり、監視カメラの前で目をおおわんばかりの無防備でばればれな反体制行為をしてしまう困ったさん。イングソック党に反逆したかった理由の一部は性的な欲求不満にあったらしい。彼女ができたら品行方正に。もしかしたら正気なのは周囲で、狂っているのは自分ではないか?と疑う程度には頭がまとも。詩人としての才能あり。

 オブライエン:権力マニアで尋問マニアでスミスが大好き。スミスのことならなんでも知ってるストーカー。スミスのどこがそんなにいいのか分からないが、彼がややまともだったことがお気に入りの理由らしい。権力は神で我々は司祭なのだ、と思想犯罪すれすれのなんともきわどい表現をしたりする。

 ジューリア:とにかく男に飢えているらしい。若い女性。直感は鋭いが特に語ることなし。

 サイム:頭はいいが性格がやや粘着質。言葉マニアで月並みな言い方をするとうざいタイプ。空気を読めないキャラなので粛正されちゃった。

 アンプルフォース:詩人。ポエムの訳にこだわったあげくに逮捕された筋金入りのマニア。

 パーソンズ:スミスの同僚。2人も子供がいるのにいつまでも子供でいたい困った親父。汗の臭いが特徴的、というかくさい。体臭のせいなのか、うっとおしい性格のせいなのか、子供に密告されて逮捕。

 パーソンズ夫人:家事におわれる奥さん。世の中の主婦代表、というか小説中、ほとんど唯一まともな人物じゃあなかろうか? そのせいか悲しいくらい不遇。

 チャリントン:秘密警察官で骨董マニア。粗暴でお馬鹿な部下にうんざりしているっぽい。きっと砕けた珊瑚の文鎮を手にして泣いている。突入時に思想犯罪的なジョークをとばすなど、きわどいマニアっぷりが素敵。

 ビッグブラザー:みんなのアイドル、架空の二次元キャラ。攻めっぽいが意外と受けか? この人に国中が萌えている。愛称はビー・ビー。

 ゴールドシュタイン:みんなのアイドル。ただしヒールで受け。しかし意外と攻めかもしれず、一応テロリスト。

 

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