恐竜に必要な学問

 分岐学がもたらしたもの:恐竜好きな子供を持つお母さんへ

 新しい世代の研究者の意識を少し感じさせる話を紹介しましょう。

 ある恐竜学者とあるジャーナリストとの間でこんな会話がなされたことがあります。

 私はジャーナリストですが、形質のコーディングに興味があるのです。

 ああ、形質のコーディングは非常に興味深い問題だね、論理学的にも哲学的にも生物学的にも数学的にも非常に興味ある問題だ。例えばどの形質をオーダーするか、あるいはアンオーダーするべきか?。例えば私は、発生学的に手の指の数はオーダーするのが妥当であると思う。論理的にもそれが妥当であろうと私は思うが、君はどう思う?。

 今の時代、恐竜学者になるにはどうすべきか、それが少し分かる気がしませんか?。

 恐竜という分野は1986年、現在、イエール大学にいるジャック・ゴーティエ教授が発表した論文で大きく変わってしまいました。1950年にドイツの昆虫学者ヘニングが提案した分岐学という手法が、初めて本格的に恐竜の世界に入り込んだからです。恐竜学に分岐学を応用したのはゴーティエさんの研究が最初というわけではありません。しかし彼の論文は今もしばしば引用される代表的で基礎的なものであり、そしてまた鳥が恐竜の一種であることを明確にしめした最初の論文でした。彼の仕事は画期的なものだったのです。

 かつて遺伝学者のドブジャンフスキーは、進化は生物学の基礎である、そう述べました。

 進化学を打ち立てたチャールズ・ダーウィンは、我々が見ている自然界の分類体系とは、じつは生物の進化と血縁関係をある程度反映させたものであり、分類体系とは血縁関係を反映させるべきであると述べました。

 しかし生物学者たちは50年代にいたるまで生物の進化を探るちゃんとした方法を持っていませんでした。ですからそれまで生物の分類体系は系統をちゃんと反映しているのか?、そしてどのように作られたのか明言されないままだったのです。

 そうした状況はヘニングによる提案と70〜80年代に行われた分岐学と表型学との激しい議論をへて変わりました。

 今では、およそ分類体系とは系統解析の結果を踏まえたものであるべきだと考えられるようになっています(もちろん反対する人もいます)。そして進化の歴史を探る幾種類かの方法やアルゴリズムが開発されて、生物の系統を探った研究発表が数多く行われるようになりました。現代人の起源がアフリカであることなど、これもこのような系統解析と系統学の発展と開発からうまれた成果です。

 そして分岐学(最節約法)も系統解析の手段として確立されたのです。

 恐竜学に分岐学が流入したのはちょうど系統学と分岐学が激しい議論をへて、現代の姿になりはじめた頃のことです。逆にいうと80年代にはいるまで恐竜学は進化を探る方法をもたないまま恐竜の進化を語ってきたわけですね。

 ですから、ジャック・ゴーティエ以後、科学が急激に恐竜の世界に流入した、そう言っても良いかもしれません。この見解が妥当か妥当でないかはともかくとして、学問としての恐竜は大きく様変わりし、それまではびこっていた多くの仮説が根拠を失い消えていったことはまぎれもない事実です。そうした仮説には以下のようなものが上げられます。

 恐竜は多系統で寄せ集めである

 竜盤類は寄せ集めである

 鳥は恐竜ではない

 コエルロサウリア(コエルロサウルス類)は崩壊した

 始祖鳥は鳥の祖先ではない

 以上のような仮説は進化という考え方を十分に理解していないまま提案され、分岐学の出現で消え去ってしまったものです(例えば[The Dinosauria ] University of California Press pp18 を参考にしてください)。しかし今でもこうした情報は私達の間に残っています。これはいわば木霊のようなものだと言えるでしょう。提案した人がいなくなっても、科学が大きな力を持つようになっても、たとえ古い仮説の根拠が失われても、過去の叫びそのものは亡霊のように残るものなのです。

 おかしな話かもしれませんが、インターネットで探るとこのような木霊を数多く見つけることができます。ネットの恐竜情報には古い時代からそのままの姿で抜け出してきたガラクタが転がっていたり、時には破たんした情報や論理がまかり通っています。

 なぜこんなことになったのでしょうか?。理由は良く分かりませんが、少なくともそうしたガラクタや破たんした情報に共通するのは、どうやら分岐学や系統学、そしてそうした方法論の背景にある哲学と科学の欠如です。

 過去の議論の過程で分岐学は生物学の世界に大きな変化と、そして受け取る人によっては混乱をもたらしました。その後、分岐学が恐竜の世界にはいってきた時、研究者たちがどうであったかはともかくとして、恐竜ファンや多くの人にはやはり同じような理解の混乱をもたらしました。

 そうした理解の混乱や分岐学に投げかけられた疑問のほとんどは、かつて研究者の間でかわされた激しい議論をひどく単純化した、あるいは卑俗化/矮小化したもののように見えます。ようするにかつて起きた大激論が小規模ながら私たち、一般人の間で起きているといえるでしょう。

 こうした混乱は、ひと昔前、地学の世界に”大陸が移動する”という革新的な仮説が導入された時に起こったことと似ているかもしれません。

 科学ではしばしば大きな変化が起きます。それは科学者たちがそれまでよりどころにしていた古い仮説が崩されて、そして新しくより妥当な仮説にとってかわられる、という出来事です(いわゆるパラダイムシフト)。大陸移動説の導入もそうですし、天体の運行を説明する理論が天動説から地動説に変わったのもこういう変化です。ニュートンの万有引力から相対性理論など他にも多くの例があります。

 そしてこうした変革の時に起こる出来事はこれもまたおよそ同じです。大陸移動説の導入の時には日本ではこれを積極的に妨害しようとした人たちがいました。相対性理論が出た時にもいろいろな反論が噴き出しました。それらのものの多くは健全で、むしろ望ましいものだったかもしれませんが、今でも適切とはいえない疑問の眼を向ける人がいます。

 たぶん、これと同じことが恐竜に関して私たちの周囲で起こっているのでしょう。それはかつて研究者の間で起きたことのミニチュアのようなものですが、そのおおまかな様子や論法はおよそ似たりよったりです。いずれも、分類学と系統学を混同する、進化に関してまったく知識を持っていないか、あるいは知識が間違っている、進化と称してダーウィン以前に存在した中世的な概念でものを考えている、そうしたことが見て取れます。場合によっては価値観と論理を混同したものや、はなはだしい場合には陰謀論めいたものまであります。

 かつて80年代、レディング大学の教授ホールステッドさんは大英自然史博物館が分岐学に基づいた展示をしたことに反対して「マルクス主義者が大英自然史博物館を乗っ取っている」とめちゃくちゃな攻撃をしたことがあります(例えば「生命40億年全史」リチャード・フォーティー 草思社 246ページを参考のこと)。じつはこれと似たような反論が現代の恐竜ファンの一部でも起こっているように見えます。それは、系統解析と違う仮説でもいいじゃないか、という穏健な、しかし無意味な意見から、分岐学論者は原理主義者だという、受け取り方によってはなにやら意味深げなものまであります。

 しかしじつはこのことを逆に言うと、恐竜を理解するには今や進化や系統学、分岐学、科学そのものを学ぶことが必要だということを示しています。

 単刀直入にいうと、あなたやあなたのお子さんが恐竜のことを研究したいのなら、進化や、進化の様子を再現する分岐学を知らないでいったいぜんたい何をどうするのだ?、ということなのですね。これはいじわるな言い方ではありません。単なる現実です。生物の系統を知らなくても生物の研究はできるかもしれません。ですが基礎は知らないとまずいでしょう。生物の系統を知らないばっかりに、オオカミとコヨーテで分かった事柄をジャッカルにではなく、アライグマに応用してしまうかもしれません。それは広い意味では妥当かもしれませんが、狭い意味では極めてまずいことではないでしょうか?。

 事実、今の恐竜研究の論文では多くの場合、分岐学が使われ、その結果とそれをふまえた考察が並んでいます。もし私たちが研究者になったとして、そして自分の研究でまったく分岐学に言及しなくても、他の論文の成果を踏まえないと論文は書けません。そしてほとんどの論文は分岐学を使っているのです。

 また、分岐学で使われるPCソフトが使える、というだけでは笑われるでしょう。パソコンを使えるからといって、パソコンを理解できるわけではありません。自動車の運転ができれば、技術者になれますか?。なれませんよね。同じ理由でソフトが使えるだけではどうしようもありません。

 分岐学、系統学、進化学への理解が必要なのです。

 これは、少なくともこのHP管理人、北村にとっても厳しい現実です^^;)

 北村は分岐学を学ぶことをあきらめてしまった人を何人も見ました。そういう人は見た限りでは40代以上の人に多いように見えます。これはこの年令の人間が目の前にやってきた時代の変化についていけるかどうか、ということを反映しているのかもしれません。彼らにとっては残念ですが、もう彼らには現代の恐竜学の成果は理解できないでしょう。さきほど言ったように現代の恐竜学では分岐学は欠かせないものになっています。ですから分岐学に興味がなくては恐竜を理解することはできません。論文も理解できません。確かに英語を知っていれば論文を読むことはできます、しかし内容は理解できないでしょう。そしてどんなに分岐学に反感をもっているとしても、結局のところその成果を使わなくてはいけないのです。

 それでも分岐学や系統学、進化学に興味が無い場合は、まあ、恐竜の名前を暗記したり絵やフィギアを眺めて遊ぶという手があります。文化論の範囲ならば技術を知らないことは別に有害ではありません。そこに閉じこもればいいのです。そしてそこからでないことが肝心です。私は全人類が技術者であれといっているわけではありません。単に趣味で飛行機を眺めるのとパイロットになるのとはまったく別の作業だよといっているだけです。趣味では航空力学に口出しできないのと同様、趣味の世界からは科学や技術の世界を眺めることしかできません。これは単なる事実です。

 あるいは化石を掘る仕事や職業を選ぶという選択肢もあるかもしれません。他の、例えば冒頭で述べたような優秀な研究者のために資料を見つけることは極めて有意義です。科学者は仕事があるのでいきたくても発掘にいけないということがままあります。ですから科学者の代わりに化石を掘るというのは(それが適切であれば)科学への貢献です。そしてそれもまた確かに必要な仕事ではあります(法律の範疇内でがんばってくださいね)。

 しかし、だからといってレポートを書く作業にまではたずさわるべきではないかもしれません。いかに掘る技術があっても基礎的なことを知らない人が報告書を書いたら、どういうことになるのかいささか難しいものがあります。

 反対に、もしあなたやあなたのお子さんが分岐学に興味を持ったならば、分岐学に必要な色々な科学の知識もまた必要となるでしょう。ですから恐竜に直接言及していませんが、

  

「生物系統学」 三中信宏 東京大学出版会

「系統分類学入門 ワイリー et al 宮正樹 訳 文一総合出版

「種の起源」(上下) ダーウィン 岩波文庫

「現代によみがえるダーウィン」 長谷川眞理子 三中信宏 矢原徹一   

 

以上の書籍が分岐学/系統学を、ひいては恐竜を理解する上で参考になります。また、

「恐竜と遊ぼう」 北村雄一 誠文堂新光社 も参考にしてください。

 

 あきらめてしまったり、あるいは変化についていけなくなった旧世代に属する人がいる一方で、分岐学に最初から触れた学生さんは分岐学に抵抗はありません。お子さんが早いうちから分岐学や系統学、あるいは進化学、数学、科学、哲学に恐竜を通して触れること、それを北村は期待します。

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