ポンペイの公共施設

ポンペイは古代ギリシャの植民地であったので古代ギリシャ式の様々な施設が造られている。先日オリンピックの開催の時であるが、オリンピックの起源であるギリシャの古代オリンピアの放送で、ギリシャは侵攻した都市には必ずギリシャ式の神殿や公共施設を造って市民を取り込んでいく戦略を取ったようである。公衆浴場、野外大劇場、円形闘技場、大体育場などである。市民が喜び熱狂するイベントや施設を提供していったのである。大体育場ではもちろん古代オリンピックの競技を開催したということでした。

6日目は前編のマテーラ観光のあとナポリの手前になるポンペイの観光となりました。ポンペイについては誰しもが中学だったか高校の歴史教科書での強烈な印象をお持ちだと思います。市民がいつも通りの日常生活を営んでいたポンペイの町が、それまで大した活動もなかったヴェスビオス火山の大噴火で、避難の間もなく一瞬にして火山ガスと噴出物に覆われ都市すべてが埋め尽くされた悲劇であります。現在のポンペイは都市文化の遺跡としての保護再生に力が入れられているようで、昔、写真や文章で語られたような人的な悲惨な状況は展示場にわずかに置いてあるだけでした。それでも遺跡の発掘作業の時に火山灰の空洞に石膏を流し込んでみたら出現したという人の型、その悲惨な状況を目にすると、こんにち世界の各地で発生している自然の猛威になすすべのない人間の脆弱さに改めて気付かされるのである。
「おい!世界のリーダー達よ、ちまちま戦争だのテロだの、国民生活無視して兵器開発したり、ゴリゴリ領土拡張したりしてる場合じゃないだろう。 アホ共が!」

ポンペイの町は丘の上
一般の住宅地区

一昔前に行った人の話では現在のようなフェンスは無かったそうである。観光地化したので保護に力を入れていると言うことなのでしょう。
市街地の道路はすべて石で舗装されており両側には歩道が設けられている。車もないのにと思うが馬車があったのだ。
下の写真2枚は大変興味深いものが写っている。左は道路に設けられた飛び石。これは正に飛び石で、丘陵地のポンペイでは雨が降ると道路は雨水の排水路となって水が流れる。そんな時市民が道路を横断するときに使ったのである。
右の写真には飛び石の間に轍がある。舗装の石に付いた轍、飛び石のためそこだけ同じ所を車輪が通過した痕跡である。ポンペイは交易で栄えた都市ということで何百年に渡って荷馬車が往来したのであろう。
また石に轍が付くということは車輪には鉄なりの金属帯が巻かれていたのであろうし、それだけの冶金技術があったということになる。紀元前のことだから驚きである。
フォロの広場からヴェスビオ火山を望む
正面がジュピター神殿、左右は穀物倉庫や図書館など古代社会の中心地。
人面の彫像が転がっているがこれは現代アート、遺跡とのコラボ、何ぞイベントが行われていた。 邪魔だ〜!
通りの所々には水飲み場が作られていた、人面の口の所から水が流れ出ていた。なんと水道が布設されていたのだ。
水道管は鉛の板を丸めて作って接続は溶接で繋いでいたというのだからこれもまた驚きである。
ポンペイの災害は紀元1世紀のことですから栄えていたのは紀元前、日本で言えば縄文時代、この時代にこんな立派な文字、現代のアルファベットがもう完成されていたということが驚きである。

この時期のポンペイは古代ギリシャの植民地だったので、文化も建築もギリシャの様式なのです。
大体育場   古代オリンピックの競技が行われたんでしょうね。 ポンペイ代表を決めたのかな?  
舞台の方向   写真上手く撮れなかったー
野外大劇場
ポンペイには交易都市には必ず存在した所謂 「吉原」があったそうで これは各部屋の入り口の上に描かれた絵です。解説はいたしません。
それから傑作なのは右の写真の「吉原」への「道しるべ」 です。笑っちゃいましたよ、「言葉の通じない異国の人間でも分かるでしょ」ってガイドさん。
浴場内部の壁にはレリーフ
浴槽
浴場内部の通路の天井画
スタビアーネ浴場の通路
パン屋の窯らしい
食べ物屋のカマド
その隣のアポロ神殿は修理中
ジュピター神殿の対面側には法廷の役割のバジリカ
制作中
イタリア旅行記
2016年7月27日〜8月5日
ギリシャ式のジュピター神殿
現在の市街地
H ポンペイ 編
市街地の様子
都   市