今、思うこと(バック) PART XLY

     
       去りゆく者の宴(ノートW)

Y−1(2019/2/1)

若い頃には人生60年だから
20世紀まで生きれば十分だと粋がって生きてきた。
ところがその60年を迎えたときはまだ現役で
人生お終いの意識のかけらもなく
己の人生70と勝手に決めつけていた。
そしてその70もあっという間に迎えてしまうと
人生80も夢ではないと思い直していた。
さて今の私は後2年でその80に達しようとしている。
よくぞここまで生きてこられたものだと思う。
だが私の人生の中身は花咲かず実もそれほどならなかった。
不摂生による病気も医学の力で救われたにすぎない。
名なく徳なく知もなくひたすら生きただけなので
いざ80を迎えても更に人生90年をと願い続けるだろう。
それこそ凡庸な人間の唯一の存在理由となるのだから。


Y−2(2019/3/1)

心理学上の用語として「投射」がある。
これは自分にある考えなどを他人に見出そうとすることである。
例えばリベラルと称する人たちの中に
自分に都合の悪い事実を指摘された時に
すぐに「デマだ」と言い放つくせがあるのは
自分にもデマ垂れ流す気のあること認めているからである。
このたとえを更に敷衍すれば
嘘つきは他人の嘘には敏感だし
自分に正直なものは相手の正直さを信じて疑わない。
逆に自分に残忍な心があると相手も残忍であると思ってしまう。
かつて「南京30万人の大虐殺」と「20万の慰安婦強制連行」を
学校や報道で知らされた時に何となく違和感を覚えたのは
GHQや日教組からの洗脳溶けかかった今になって思えば
日本人である私にはそんな残忍な発想すらなかったからである。


Y−3(2019/4/1)

年金生活15年を過ごした一老人の独り言である。
ご多分に漏れず数度の大病で一級の身障者となり
家と病院との往復繰り返して非生産的にしぶとく生き延びている。
社会と関わる情報源は初めはテレビと新聞であったが
その胡散臭さを覚え今ではインターネットとなっている。
現実的つきあいは病院内での患者仲間とスタッフだけだが
そこでは色んな人間模様が垣間見られ楽しませてもらっている。
同病の仲間は私と同じ歳の人が多いが
人生の荒波を切り抜けてきた経験談に教えられるところが多い。
病院スタッフは私より一世代から二世代も離れて若いが
彼らとの会話は今を生きる妙味を与えてくれている。
今のところは無事平穏な日々が続いているが
何れ終焉を告げる急変が起こっても不思議でないと思っている。
それはそれで悠揚と受けいれないといけないと覚悟はしてはいる。


Y−4(2019/5/1)

元号が「平成」から「令和」に変わる初日に思うこと。
私はこれで昭和、平成、令和の三代を生きたことになる。
昭和は私を肉体的にも社会的にも作ったメインの時代。
平成はその昭和で得た社会的力を行使し私を持続させた時代。
令和はたぶん肉体的力の余剰分を使って残りの人生を楽しむ時代。
だが令和の終わりを見ることはできない歴史的環境にある。
今も私は日本の年号を自明のものとして受けいれ
それを基に自らの歴史的位置づけをし自らを説明するのであるが
他方では戦後っ子の私は西暦による歴史理解も教えられた。
これは日本の年号を天皇による人民支配の表れとして否定する
共産主義思想の影響が敗戦国日本に蔓延ったからである。
だから過去の日本の歴史も西暦と和暦併用で学ぶこととなった。
ところが最近日本の歴史教科書に西暦だけのものが現れだした。
これが遍く使われると「令和」も使われなくなるかと心配でもある。


Y−5(2019/6/1)

今の首相が念願としてきた「戦後レジームからの脱却」が
最近やっと肯定的にとらえられるようになった。
戦後レジームとは敗戦後GHQ管理下に作られた
日本の政治的経済的あるいは教育的な諸体制の総称である。
それは日本を二度と戦争仕掛けないよう弱体化するための
戦勝国の思いの具現化であった。
敗戦国日本は国体を守ると言うことでそれを受けいれたが
平和主義と個人の権利意識を昂揚させる美名に隠れて
実際は日本は悪いとする自虐史観の醸成場となっていた。
この戦後レジームを歓迎したのは政治的イデオローグはもとより
多くの日本人デュープス達だった。
彼らの中にはとりわけ知識人・エリート達に多く
日本の官界・経済界、更にはマスコミ界・教育界に巣くって
75年にも亘って日本人を教唆し戦後の日本を貶め続けてきた。


Y−6(2019/7/1)

戦後75年の間ずっと
日本の思想界をリードしたのは所謂「進歩的文化人」であった。
彼らは戦前の日本に批判的な知識人として
戦後日本の民主主義的体制の担い手となった。
彼らが専らに精神的拠り所としていたのは
「岩波・朝日新聞・NHK」の三つの媒体であった。
当初はこの三つの媒体は自由・中立・公平性を保っていて
新生日本の国益に寄与していたのであったが
戦勝国によるWGIPの軛からは逃れられなかったばかりか
とりわけ東亜の人間が参画しその影響力を強めるにつれ
本来のリベラリズムを失い反日的教条主義に特殊化してしまった。
ネットという媒体が生まれてからやっと
旧媒体の胡散臭さに気づき洗脳から抜け出た日本人も出始めたが
それでも多くの日本人はまだまだ騙され続けたままであった。


Y−7(2019/8/1)

畏れ多くも皇位継承について一日本国民として陳述させて戴く。
今の「日本国」は2600年も保ち続けてきたところの
万世一系の皇室制度が崩れるかもしれないと危惧されている。
即ち日本国が変わるかもしれないという危機に晒らされている。
先人の日本人はどんな苦境に陥ろうともこの伝統を守ってきた。
ところが今の日本人の中にはこの伝統を守らなくても
別に日本という国は無くならないとする人がいるようになった。
これは敗戦国日本が所謂西洋の民主主義国になるよう
GHQによって要請され日本がそれを甘受したことに起因している。
幸いにも後継を男系男子と決めるこれまでの伝統だけは
現行の日本国憲法の皇室典範によっても何とか保証されたが
それでもこの憲法のもたらす平等主義や人権意識に災いされ
女系天皇でも天皇制は維持されるという考えを導き出していた。
それは2600年続いた伝統が途切れてもいいと考えることだった。


Y−8(2019/9/1)

国際芸術祭を唱う愛知トリエンナーレは
現代の日本人に色々な問題を投げかけた。
まず芸術的表現や表現の自由を隠れ蓑にして
特定の政治的プロパガンダすることを許してしまったことである。
昭和天皇のご真影をバーナーで焼いて踏みつけにしたり
特攻で死んでいった人を間抜けな日本人と揶揄したりするのは
普通の日本人の感覚なら絶対にしない。
それを芸術監督や実行委員会は堂々と芸術だと僭称し展示した。
知ってか知らずかこの日本ヘイトに国や県や市は税金を使った。
あまりの反発に驚いて中止決定下した主催者の知事に対しては
協賛した朝日新聞やマスコミは何も言わず
中止勧告した市長を非難するのは何ともまか不思議なところだ。
今回の事件にはヘイトはいけないが日本ヘイトなら良いとする
特定の日本人が絡んでいたことに起因していたのは間違いない。


Y−9(2019/10/1)

今の高齢者が子供の頃の遊びの時に
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」と言って
子供同士でも約束は守るものだという風に教えられて育ってきた。
こういった行いは今の高齢者に限らず
日本でならいつの時代、どこの地域ででも見られた光景である。
それはこの言葉が日本の国柄そのものを表しているからである。
日本には元々「言霊信仰」というものがあった。
それは言葉で発せられたものは必ず現実になるというものである。
そこから約束したものは必ず守ろうとする信念が生まれ
更に、嘘はつかない、つけば天罰が下ると思い込むようになった。
だから「嘘も百回つけば真実になる」と言う人とは相容れない。
ところが今の高齢者には厄介な時代性を背負わされていた。
戦争に負け戦勝国より「自虐史観」を植え付けられたので
嘘つく国から戦犯国と言われても遺憾としか言えないのである。


Y−10(2019/11/1)

クオリティーペイパーを自称する朝日を初めとする各新聞の
またNHKを代表とする各テレビ及び他のマスコミの
「報道しない自由」ほど民主主義を否定するものはない。
彼らは建前として報道の自由、表現の自由を唱う一方で
社会の木鐸としての高潔な使命感を失って
いつの間にか権利意識だけの社会正義感を持つようになってきた。
だから韓国のことわざにあるように
「自分がすればロマンス、他人がすれば不倫」と言った
ダブルスタンダードを後ろめたさなく用いられたのである。
今回の愛知トリエンナーレで主催者や表現者が
「日本を貶める表現は自由、それを批判するのはヘイト」と
考えたのはそれを示す典型的な事例であった。
マスコミがその問題となった本質を隠したまま報道していたのは
もはや民主主義の担い手でなくなったことを示す証左となった。


Y−11(2019/12/1)

新聞、テレビを代表とするオールドメディアが叩かれている。
とりわけその本丸とも言える朝日新聞に対しては厳しい。
かつて私が現役だった頃の朝日新聞は
社会の木鐸と言われクォリティーペーパーとも評され
それを購読する人はインテリと見なされ
その記事は入学試験の問題にも供せられた。
ところが今の朝日新聞はどうだろうか。
グーグルでは嘘の新聞、捏造新聞と検索され
ネット民からはチョウニチシンブン、バカヒ、アカヒと揶揄される。
コアーな読者には耐えられないことだろう。
朝日新聞が客観的立場の報道機関と言うより
日本や日本人を貶めるための情報操作機関に成り下がったのは
中韓からの外的要因によるのか、朝日自身の内在的要因によるのか
精査してみるのも今後の日本にとって必要なことかもしれない。


Y−12(2020/2/1)

最近はほとんどテレビを見ないようになった。
見るとしても昔の映画やドラマの再放送分
もしくは昔のメロディ奏でる歌番組くらいのものだ。
どうしてなのか。
一つには私が年取り現実の動きに対応できなくなり
それにつれて興味を持たなくなったことがあげられる。
それても頭の回転が鈍いなりに
今のテレビ報道に質の劣化と偏りを感じ取るようになり
次第に見る価値を失いはじめてきたからだ。
どうしてそうなったのか。
時代を追えなくなったテレビ側の人間の資質によるものなのか
それとも日本的感性とは異質の考えに蹂躙されてきたからなのか
グローバリズムの流れにも何とか調子あわせられた私も
年のせいで正しい判断ができないくらいに劣化してきたようだ。


Y−13(2020/3/1)

今、思うこと−政治雑感
年金で優雅な生活の老人達が正義漢ぶってデモして騒いでいる。
アベガーを言うだけでいっぱしの政治批判をしている輩がいる。
多様性を言うリベラルは他人の多様性は認めない。
ネット現れて初めて既存マスコミが偏向していることを知った。
19歳の女子学生に今は戦争の前夜のようだと言わせる朝日新聞。
マスコミをさしてマスゴミという人がいる。言い得て妙である。
日本の国会議員なのに反日的行為をしている。
自民党議員の中にも憲法改正反対の人が多くいる。
公明党の支持母体創価学会は当初自らの軍隊持つこと考えていた。
民主党政権時代の鳩山総理、菅総理の言動の罪は重い。
社民党の前身社会党はかつて拉致はない、デマだと広言していた。
日本共産党は当初「日本国憲法」に反対していた。
維新の会が大阪でしか認められないのはどうしてだろうか。


Y−14(2020/4/1)

新型コロナウイルスによる疫病が世界的に流行っている。
人類の歴史とはウイルスとの戦いの歴史であると考えれば
今回の流行も幾つかの葛藤を経て
いずれは終息する類の一つとして位置づけられるのであろうが
未だ治療法も確立せずワクチンも開発されていない現在では
感染拡大による不安感が高まるのも事実であろう。
何れにしてもこの流行で顕著に取り沙汰されたのは
未知のウイルスについての科学的的解明の経緯そのものよりも
その経緯を報道する一部マスコミの反政府的な報道姿勢であろう。
戦前は日本臣民を戦争へと煽り立てたように
今回は日本国民の不安感を高めるような報道を繰り返えした。
恐らく感染拡大を痛快として政府批判をしたかったのだろう。
テレビを筆頭に新聞や雑誌、それにネットにおいてまでも
あまたのアベガーが陰に陽に日本ディスる報道していたのだから。

TOPへ   バックXLTへ 次へ