今、思うこと(バック) PART XLT

     
       去りゆく者の宴(ノートW)

T−1(2009/7/20)

権力というものは所持すれぱ必ず腐敗すると思っていたので
自民党が長期に政権持っていて
おかしくならないはずはないと思っていた。
今度の自民党の動きは何かにつけておかしい。
でも今まで戦後ずっと政治の世界を仕切ってきているので
奢り解ければ何とか立ち直ると期待したいが
今回は果たしてどうか。
それにつけても自民も駄目だが民主党も駄目だというセリフ
無関心派もしくは陰の自民党支持者の常套語となった。
政治に無関心でありながら国への要望だけはちゃっかりしている
権利意識だけのいっぱしの国民にとっては
ベストが駄目ならベターを選んででも
自己責任をかみしめていくという覚悟が必要となるだろう。
自立する国民にとれば政治とは自分たちが決めるものなのだから。

T−2(2009/8/10)

殆ど任期満了に近い衆議院議員総選挙がまもなく来るが
最近気になっているのが投票基準の答えの一つに挙げられる
「まず人物・人柄を見て判断」なる言い方。
いやしくも政党政治を謳うからには
どこかおかしい言い方のような気がする。
党の政策に批判し反対する選挙演説しながら
当選するとその党の言うとおりに採決する。
本人は後ろめたさも感じず有権者もそれを赦す。
政党政治進んだ英国のブラックジョークのように
同じ党派なら豚でもいれるを良しとするわけではないが
どんなに人柄がよくても政党政治の世界では
それを投票根拠にしてはいけないと悟るべきだろう。
公約は破られてこそ日本の政治だと達観するよりも
公約破られて契約違反と憤る有権者であって貰いたいものである。

T−3(2009/10/1)

大昔には「焚書坑儒」。
最近ではポルポト政権による集団殺戮。
又は中国の文化大革命。
歴史的には人間による人権無視した行為とされている。
ナチのホロコースト同様
事実だから歴史からは抹殺できないが
人間のなした非道な事実として忘れられてはならないだろう。
でもどうしてこんな事起こるのだろうかと考えてみた。
犠牲者は知恵者といわれ日頃尊敬されているる文化人が多い。
文化人は文化人なりに社会的貢献しているつもりなのだろうが
いつしかどこか傲慢で抑圧的になってしまったが故に
情持つ権力者の琴線に触れてしまったのだろう。
今の日本には関係ない話をついしてしまったが
日本の官僚の物言い見聞きし何故か思いだした次第である。

T−4(2010/5/21)

新聞はそれほどでもないが
テレビの報道は聴くに堪えないものがある。
特にワイドショー的なものが割り込んできてからは
報道関係者の品格が落ちた。
視聴率第一主義のせいで
人間が犬を噛んだような内容にして
事実を誇張したり警察情報を鵜呑みにして垂れ流す。
無節操に反対の識者を安易に引っ張り出してきては
いかにも批判しているような態度を示す。
あおり立てるだけあおり立てておいて
事実を伝えていて何が悪いかの口ぶりだ。
そのくせ報道に対する責任の意識が
口で言うほど希薄なのは
松本サリン事件以後も変わっていない。

T−5(2010/9/11)

遂に箍が外れてきたか縦割り行政。
ウエシタ・ウチソトを守りたがる日本人の心性と
官尊民卑の風潮にもたれあう日本人の生き様との
見事な具現化の縦割り行政が
せっかちになった日本人の経済的合理主義によって
その縄張り主義の不合理性を晒し始めてきた。
相手の欠点を暴き立てず尊重するふりして
結局自己の欠点をも覆い隠し自己保存を画策する
そんな日本人好みの手法が
縦割りのシステムを生み数々の無駄飯食いを作り
結果霞ヶ関をはじめとするお役人に好いように利用されてきた。
職務上でも身に降りかかる厄介さと責任から逃れるために
口だけ申し訳ない言ってたらい回しにして
自己保身図る体は今や民間人の心さえ眩惑させる悪しき常態だ。

T−6(2010/10/1)

ずっと与党であり続けた自民党がずっこけて
離合集散繰り返した末に生まれた民主党が与党となって
やっと健全な二大政党時代の到来かと期待した。
しかし何かもたもたしているのは産みの苦しみなのか。
やっと与党となった民主党が与党慣れせず
時代に遅れ野党となった自民党も未だ野党慣れしていない。
これまでの政党が明確な国家観やビジョンを持たず
単に仲間の利益守る政治屋の集合体でしかないのは
今の与党も野党も一緒であった。
さすれば日本の政党が真に政策の党であることを願って
一度ガラガラポンして
政界再編し日本を強くするのも一案であろうか。
又首相を替えるのかと言われても
今の状態でいらいら募らせるよりはましと思うから。

T−7(2010/10/10)

検察審査会査なるものが前民主党幹事長を強制起訴した。
検察庁が2度も不起訴処分にしたものに異議唱えたのだから
よほど有罪とするに自信があるのだろう。
こうなった以上いずれ有罪無罪の決着つくだろうが
私にとって興味深いのは
検察審査会を見るメディアの報道姿勢で
偶然に選ばれた11名の民間の判断を
日本国民の世論の意思として決めつけてしまうことだ。
口では世論を代表しているかのように振る舞いながら
実際はマッチポンプのように庶民を扇動し世論誘導している。
今や完全にバランス感覚失っているのは
自らに都合のよい筋読みをして
多くの冤罪の人間作ってきた検察同様
独りよがりな社会正義感に囚われているからなのだろう。

T−8(2010/12/21)

与党としての成熟性がないと言えばそれまでだが
今の政権担う政治家の言葉が軽くなった。
のみならず結果的に嘘をつくこと多くなった。
昔から政治家の公約果たされなくても
何となく許してしまう風潮があったが
今の政権がそれを助長した。
「騎兵隊内閣」として勇ましく出発しながら
与党にしてくれた公約を平然と破棄している。
公務員人件費の2割削減
無駄なダム建設の廃止
一に雇用、二に雇用と言った景気対策
いちいち口にするも不愉快になるが
日米関係などの外向的無策と無能を含めて
これで「有言実行内閣」というのである。

T−9(2011/2/11)

自民党と民主党の元幹事長が強制起訴された。
この問題、別の視点から見れば
旧態の自民党的政治手法を取る政治の実力者を
時代に合わずと大衆利用して犯罪者に仕立て上げ
追放ようとする一種の「貝殻追放」のように見える。
その動きに音頭を取った者には
彼より少しは民主的と勝手に決めつける政敵をはじめ
公平さや正義を唱う司法界やマスコミ界の人間が多い。
思うにこれは近親憎悪にも似て?外体質が近いからではないか。
正体不明の検察審査会ですら白黒つけたいだけというのを
弁護士の検察役が是非黒にしたいと公然と言う。
問われるべきはそんな昔ながらの権威主義的なエリート達で
時代の価値観変わろうとしていても
自分達だけは特別で依然と偉いと思っている。

T−10(2011/4/1)

大地震、大津波、原発事故の三重苦の日本。
スポーツの国際試合ではないが
まさに「頑張れ、ニッポン!」である。
とりわけ原発事故。
チェルノブイリは一基だが福島は五基。
絶対安心を吹聴していた国やその関係筋に対して
かねてから危険性を心配していた人間からすれば
「それ見たことか」と言いたくなるところだ。
が、それは後でいくらでも言える。
ともかく今は
想定外と責任逃れするネクタイつけたお偉方の言動によりも
現場にいる下請けの人たちの必死の復旧活動に託して
これ以上被害が拡大せずに収束することを
ただただ祈るばかりである。

T−11(2011/6/21)

またまた大震災に関連して。
今回の大震災は数多の部分で
日本の脆弱性と欺瞞性を浮き彫りにしてくれた。
これも今気づいた数多の内の一つ。
震災後の復興が遅々として進んでいないのは何故か。
政治家のレベルの低下にすべての原因があるにしても
それを補ってきた官僚の資質の低下も挙げられるだろう。
それが偏差値の高さ故のおごりとゆるみの体質を生み
こんな時にこそ英知を絞り復興任務を果たすべきなのに
それをしないのは
自己保身の虫動き意図的に意地悪しているからというより
いつしか実際的な能力がなくなり
それが出来なくなってしまっていたからというのが
案外正しい見方なのかも知れない。

T−12(2011/8/21)

今の中国を見ていると
かつての日本を思い出す。
帝国時代は国益と思って他国の領土に拘ったし
戦後は他国を真似して経済を発展させた。
おかげで他国からは警戒されるは
拙速の技術のために公害を産むは
そのくせ未だに情報は隠すはで幾多の試練を味わった。
確かにお上依存の日本と共産主義の中国とは違う。
でもやってきたこと、やっていることは同じ。
人のふり見てわがふり直せの諺あるが
確かに中国には私も腹立っている。
でもこれ見よがしに中国の悪さをあおり立てる報道見ると
今の日本の悲惨な現実から目をそらせているなとも思える。
今は沈没寸前の日本のことを考えることが大切なのである。

T−13(2011/9/21)

今回の大震災に起因する人災の原発事故で
責任ある人たちが「想定外」の言葉を使って
責任逃れの「常套句」にしてしまった。
この言葉は今後あらゆる場合に軽々に利用されるだろうが
ともかく彼らは組織の陰に隠れて罪の意識がないものの
数多くの人命奪い生活を奪った以上、まぎれもなく
「業務上過失致死罪」や「業務上過失傷害罪」でとわれる
犯罪者というべきである。
ああ、それなのに
そんな動きがちっとも起こらないのも
この期に及んでも東電がふざけた黒塗りの報告をするのも
原発はお上が推進した事業と民は思っているからだし
東電はお上が守るだろうと思われているからである。
ここにも政財官もたれあう日本村の典型を見る。

T−14(2011/11/1)

推理小説で
殺人事件の犯人はその事件で一番得をする人だとは
フアンなら周知の話としてあるが
耳がタコの「小沢一郎事件」。
こうも長年にわたって検察庁やメディアが
執拗に追い続けている様を見聞きすると
いくら報道で洗脳された大衆も疑念持ちたくなる。
「いや、正義のための追及だ」と息巻く彼らだろうが
逆に自分たち組織の権力維持と誇示に目障りだと
独善的な正義感に固執しているからではと邪推さえしたくなる。
彼ら自身が主犯なのか何かの手先として動いているのか
推理小説でないから軽々に言えないが、二つの権力が
スキャンダルや過去の恥部を暴き立てることで
人を貶め抹殺していく手法では共通している。

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