今、思うこと(バック) PART XLX
去りゆく者の宴(ノートW)
X−1(2017/10/1)
精神の白紙説とは人間が生まれた時の心の状態を示す比喩である。
その考え方の極端な事例は人間は環境と教育次第では
善人にもなれるし悪人にもなれるという考えである。
実際には人間必ずしもこの説通りにいかないにしても
今の韓国人にこの説の典型的具体例を見ることができる。
彼らが総じて反日的であるのは
所謂「日帝」や今の日本を悪の根源と見なすような土壌があり
それを助長する教育が子供の頃から行わているからである。
いわば洗脳されているのでその教育内容を信じて疑わない。
だから彼らには反日行為は正義であり無罪なのである。
実は洗脳されているという点では今の日本人も同様である。
大半が日教組の教育のもとに自虐史観を吹き込まれている。
ただ韓国と違うところは日本人の場合には
それに異議を唱えるだけの自由と民度が多少はあることであろう。
X−2(2017/11/1)
NHKや朝日が問わず語りに実証してくれたおかげで
日本のマスコミは中立で公正であるとする神話がついに崩れた。
実際、自らの資質が低下しているにも気づかず
「安倍倒せ」に拘る余り偏向報道し出してから
高給取りした正義面の化けの皮が剥がされ
不変と思われた権威と信用を失ってきてしまったのだ。
正しくこれはネットを通じての情報が得られるようになって
彼らが正義の名の下に好き勝手に情報操作していることに
我々が気づいてしまったからである。
それで今までは頭を垂れて聞き入っていたマスコミの報道にも
全幅の信頼を置かなくなっばかりか
またいつもの戯言かと蔑みさえするようになったのである。
ただ一つ残念なのはそのネットも未だに既存のメディア依存から
抜けきれないでいることぐらいであろう。
X−3(2017/12/1)
つい最近までは新聞やテレビの影響力は絶大であった。
その情報はまるで天の声のように受けいれられた。
おそらくそれは情報源が限られていたことや
その情報源が公正公平なものと盲信されていたからかもしれない。
戦後70年あまりたってその神話がついに崩れた。
それはネット情報が盛んに発信されるようになって
新聞やテレビが事実を捏造していると暴露されたからである。
とりわけNHKと朝日は日本のオピニオンリーダーだっただけに
ネットを始めた日本人の受けた衝撃は大きかった。
結果「信じていた者に裏切られたような思い」が加わって
倍返しの不信感と侮蔑感さえ持つ日本の人たちが現れたのだ。
しかしまだまだ新聞やテレビに依存する情弱者も多く
古い「新聞テレビ派」と新しい「ネット派」のせめぎ合いが
ここしばらくは続けられるマスコミ界となるだろう。
X−3(予備)
別段力があったわけではない。
あるいは毛並みに支えられていたわけでもない。
たまたま運が良かったのだろう。
恵まれた社会的地位にありつけて
金に苦労することのないそこそこの人生を送ってきた。
自慢するわけではないが
現役時代に納めた税金も人並み以上ではなかっかと思っている。
ところが病気以外に誇るものがない後期高齢者となった今は
病院や国の世話になってただ生きている。
その使う費用たるや年に500万もあろうか。
まるで今まで納めた税金の払い戻しを受けているようで
若いときに働いてよく税金納めていて良かったと思っている。
その意味で若いとき働けて社会的貢献できた私の人生は
幸運に恵まれていたのだとつくづく思ってしまう。
X−4(2018/2/1)
外にでると言っても実は車に乗せられての病院通い。
人と出会うと言っても相手はテレビかパソコン。
仕事で稼ぐでなく養護施設で世話受けるでもない
実に中途半端な年金受給者と今の私はなっている。
欲さえかかねばそこそこ生きながらえてはいけるものの
後は死ぬのを待つばかりというのも詮ない話である。
所詮人間は歴史の奴隷とか社会の奴隷とかよく言われるが、
ならば私と同じ歴史的社会的環境で育った同世代人は
今何を考えどう生きているかは気になるところである。
私は戦後教育で純粋培養されて社会人となり
そのくびきをくびきとも思わず後期高齢者となった人間だ。
これまで日本で平和裡に過ごせたのは
そんな戦後の精神をひたすら信じたからと思っていたのだが
最近はお前も遂に老害左翼となったのかと言われるようなった。
X−5(2018/3/1)
卒業式などで国歌唱わぬグループがよく言うセリフとは
「それが天皇陛下礼賛の詩であり
日本を戦争に駆り立てようとする意図を持っている」である。
このグループは戦後70年たった今でも
GHQ主導の教育の申し子として日本の各分野に巣くっている。
だが国歌「君が代」はこのグループが考えるような歌であるのか。
もともとこの歌詞は「和漢朗詠集」から取られている。
しかも作者は天皇ではなく詠み人知らずである。
従って君が代の「きみ」とは相手をを示す人称代名詞
又は男と女を示す普通名詞であった。
「きみ」が天皇を示す言葉として限定されるようになったのは
たかだか明治期になった軍国主義の百年足らずであり
それを否定したかったGHQの策動に洗脳されたこのグループは
君が代を戦争導く天皇の歌として未だに唱おうとしないのである。
X−6(2018/4/1)
情報正しく取るには最低2紙は取る必要あると
昔からそれとなく言われていた。
最近はその新聞や(同系列下の)テレビが公平な情報機関ではなく
情報操作機関であることが徐々に分かってきた。
ネットの発達のおかげであることは言うまでもない。
当初ネットは玉石混淆で余り信じられていなかったが
リテラシーが高まり紛い物の情報は淘汰されていった。
それにつれ新聞やテレビが事実を意図的に報道しない部分を
伝える役割を果たしているとさえ思われるようになった。
何故に新聞やテレビがジャーナリズム精神を失い
偏向報道や世論誘導を喜々としてするようになったのか。
そこには携わる人たちに質的変化があったのか
それとも自らの既得権を守るための所作もあるのか
いずれにしても日本のジャーリズムにとって嘆かわしい話である。
X−7(2018/5/1)
GHQの占領後独立許された日本の政治世界では
一時期を除いてほとんどが自民党的政権であった。
曲がりなりにも与野党対立の形は取られたものの
野党は政権取る覚悟も能力もなく
ただただ与党のおこぼれを頂戴することで存在性を保ってきた。
一度ばかりマスコミの扇動で民主党政権が作られて期待されたが
政治はやはり自民党でなければの思いを日本人は強くした。
以来野党は名を変えながらも堕ちに堕ちていき
ついに対案なしの何でも反対の党の烙印押されるまでに至った。
そんな野党は問題外としても問題なのは与党の姿勢であった。
野党の体たらくに毅然とした態度もとれずなあなあで来た。
自民党の人たちも戦後民主主義の垢にまみれていたのだった。
だから今の与党自民党も野党諸々の合わせ鏡のようになって
戦後レジューム体制を乗り切れないでここまできたのだった。
X−8(2018/6/1)
安倍批判する勢力を指す言葉に
「アベガー」とか「アベノセイダーズ」とかがある。
彼らは安倍首相の言う事なす事すべてに対して脊椎反射的に
「安倍が悪い」とか「安倍のせいだ」とか非難するので
ネット民が彼らを茶化して命名した言葉である。
彼らの目的はとどのつまりは安倍政権自身の打倒である。
その理由は自らの政権を打ち立てるためではない。
安倍首相でなければ誰が首相になっもいいとさえ考える。
そこまで妄想的に思いこむには
首相自身を毛嫌いする彼らなりの理屈に縛られているからである。
彼らは己のイデオロギーのみが正しいと信じている。
良く言えば理想主義者なのであるが一面独善的で排他的である。
だから現実的な首相はそれだけで排除されねばならないのである。
その典型を今の特定野党とその支持者に見ることが出来るだろう。
X−9(2018/7/1)
かつてはクォリティーペーパーと言われた朝日新聞。
今ではグーグルでさえ嘘の新聞、捏造新聞と検索する。
この変様は朝日新聞の本質が露呈されたにすぎなかったのか。
戦前「撃ちてし止まん」と政治家以上に国民の戦意煽りたてながら
戦後はGHQの「日本人洗脳工作」に先導的に加担することで
A級戦犯級の咎めから逃れようとしたのは
朝日新聞の立ち位置を示す象徴的な出来事であった。
その上にGHQが撤退してからもその忠実なしもべとして
今に至るも「戦争についての罪悪感」を日本人の心に植え続けた。
その結果「日本死ね」は国会議員も認める流行語大賞を取り
「HINOMARU」は軍国主義的とデモされることとなった。
GHQによって朝日新聞が「反日」へと洗脳され
その朝日新聞によって「反日」へと洗脳された日本人見るにつけ
朝日新聞は報道機関というよりまさに「反日工作機関」であった。
X−10(2018/8/1)
アメリカのある心理学者によれば
人は教育次第では大学者にも大泥棒にもなれると言われている。
とりわけ学校教育で組織的恒常的になされれば
疑いもなく教えられたことがそのまま真実だと思うようになる。
後で事実でないと分かってもなかなかそれを受けいれられない。
私は中国や韓国の人が反日的であるのは学校教育として
日本人は戦争中に自分たちに酷いことをした、
だから日本人は根っからの悪人なのだと
教え続けられていることに起因していると思っている・
問題なのは反日は中国や韓国だけではないということだ。
あろうことか日本人にも反日の人がいるのである。
それは正しく戦後GHQが作った日教組の先生による学校教育で
「かつて日本は世界を侵略し多大の迷惑かけた」と洗脳されて
75年経った今でもその考え金科玉条としている人たちである。
X−11(2018/9/1)
最近の日本に見られる珍現象は
少なくなった街中でのデモの光景を見ると
参加者に若者が少なく年寄りばかりだということである。
ところが今のテレビはその中の若者だけを切り取り
それがデモの全体であるかのように情報操作して放送する。
その時点ですでに報道機関として失格である。
かつて佐藤元総理は活字メディアは事実を報道しないとして
テレビを前にしただけの無人の引退会見をした。
テレビならば言った事実通りに伝えてくれると信じたからだった。
その後画像編集が可能となってから嘘の報道するようになったが
大抵の視聴者はテレビの放映は真実だと思いこまされていた。
ユーチューブメディアの出現によってそれに気づいた視聴者は
それからは新聞やテレビのニュースを絶対視しなくなった。
まさしくそれはオールドメディアの衰退の始まりとなった。
X−12(2018/10/1)
私は日本がGHQの統治下にあった時に小学校時代を過ごした。
独立直後の中学・高校時代ではそこが作った日教組の先生に教わり
大学では進歩的と言われる教授からの薫陶を受けた。
今から思えば一貫して「日本は駄目」と教えられ続けてきたと思う。
だから後に朝日新聞によって
「慰安婦強制連行」や「南京大虐殺」の記事が掲載された時
日本軍ならそれくらいはやると単純にその内容を信じた。
その数が20万や30万とされても何の疑問も抱かなかった。
まさに戦勝国の「日本人洗脳工作」に嵌ってしまったのである。
私の世代を初め団塊の世代を経てゆとり世代が始まるまでの間
すべての日本人は大なり小なりその影響を被った。
とりわけリベラルと称する知識人や活動家はその先兵となった。
私がその洗脳から逃れたのは「珊瑚KY事件」報道をきっかけに
朝日新聞の記事全般に疑いを持つようになってからだった。
X−13(2018/11/1)
最近リベラルと称する人たちに共通するところの
興味深い特徴がよく見られる。
「平和」を唱いながら実際は好戦的で暴力的であったり
「人権」を強調しながら他者には人権無視を平然と行ったり
「多様性」を主張しながら敵対する考えの人を排除したり
「報道の自由」を建前としながら自らは報道しない自由を行使する。
どうやら彼らリベラリスト達にはリベラルという言葉同様
自分たちにだけ通用する概念規定があって
普通の人たちが考える概念規定とは違うものらしい。
普通の人たちはいくら自分の理想を持っていても
常に現実やファクト、あるいは客観的証拠との兼ね合いで
理想実現を図ろうとするものだ。
ところが自称リベラルは己の理想像だけしか見えないため
あらゆる手段も可とする自己撞着に陥ってしまっているのである。
X−14(2018/12/1)
喜寿を超え傘寿を迎えようとする今を思うに
よくぞここまで生きてこられたものだと己を愛でる一方
生きてきただけのことをしてきたのかと囁く声にも悩まされる。
所詮は歴史の奴隷にすぎない人間が
それでもこれまで人生は己の力で切り抜いてきたのだと
嘯くのも人間なればこその悲しい申し開きなのだろう。
所謂戦後民主主義なる革袋の中で純粋培養された私は
朝日・岩波・NHKを戦後日本のバイブルとしてきたので
なんとか勝ち組の側に立ちそこそこのおこぼれを頂戴してきた。
だが平成30年も終わろうとする今、その革袋にも綻びが生じ
この不謬のバイブルさえも偏向の権化と騒がれているのに遭遇し
古きに拘り老醜を晒すか
新しい革袋に余生を託し晩節汚すかを巡って
不治の病持つ私個人の歴史もまた翻弄され始めたのである。
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