今、思うこと(バック) PART XLW

     
       去りゆく者の宴(ノートW)

W−1(2016/7/1)

94歳までは元気に動き回っていた母親は
死の前年から不意に体調おかしくなった。
それでも本人には死の意識のかけらもなく
「体が動かない」とよく愚痴ったものだった。
中でも「なんもせんのにかいだり」は
当時の私には理解不能の言葉だったが
その数年後
まさかこの私自身が「何もしないのに体が疲れる」を
体感する羽目になるとは思わなかった。
人誰もが経験する老いの過程の一つにすぎないとしても
母とは違い「死の意識」に翻弄される私には
体の不具合で痛みまで加算されていたこともあり
「生きることは苦しむことである」と
文字通り比喩でも衒いでもなくなった。


W−2(2016/8/1)

酒飲んで己忘れて心配されても
酔ってはいないと我を通したり
病気して体弱って心配されても
元気元気と殊更言いつのったり
間違い多く考え鈍くなって心配されても
惚けてはいないとまともさ誇示したりする。
人は己の不具合自ら認めていても
他人にはつい空威張りに嘘ついてしまう。
人はそれほど己の弱点知らせたくないのか。
若いときには我欲満たそうと
相手を知り相手を攻撃して得意になっていたのに
年をとり己が受け身の側に回るようになったら
ひたすら己の正体覆い隠そうとたくらむ。
やはりまだまだ生の執念くすぶり続けているからなのか。


W−3(2016/9/1)

オリンピックの金メダル受賞者に
国歌と国旗掲揚の栄誉が授けられる光景見て
日教組の先生に育てられた子供たちが
どんな思いなのだろうかとふと思うことがある。
韓国や中国で今の教科書で育てられた人たちが
基本的に反日的であることをに非難出来ないのは
未だに日の丸と君が代に不敬の日本人もいるからである。
時代が少しずつ変わっていく事実に少しも気づかずに
昔ながらの価値観に固執する観念論者には
井の中の蛙さながらに自らの代だけを賛美し普遍化している。
彼らは風見鶏さながらに今を生きることを変節と見て軽蔑するが
生物学的に特殊化してやがて未来から取り残されていく。
それでもそれはそれなりに人間の生き様だと開き直るところに
人間の良さがあり哀れさがある。


W−4(2016/10/1)

内蔵はぼろぼろ
脳に血管障害
ために余儀なくされたよたよたの生活。
不具合な肉体を薬漬けで維持しつつも
痛い、痒い、怠いの症状伴って襲う肉体への時々の攻撃に
悲鳴を上げている。
生への執念が今生きていることの確認をしているのだと
受け止めてはいるものの
恒常的な攻撃となってきて
死んでもその苦しみ取り除いてほしいとさえ願ってきている。
人間惚けたり狂ったりするのは
そんな苦痛忘れさせる天の配慮なのだから
人間性失いたくないのなら
それくらいの苦しみは我慢せよと言われているのだ。


W−5(2016/11/1)

透析費年間500万の補助を受けている今の立場を顧みると
補助受けて当然とする身勝手な権利意識と
節制できなかった過去への自責の念とが錯綜する。
ネットの世界で炎上した大手メディアの一人のブログ
「透析患者は自業自得で殺せばよい。
その患者を金の成る木と見て
医療従事者に大儲けさせる国のシステムを解体せよ。」は
名言なのか、それとも妄言なのか。
透析受ける当事者として言わせてもらえば
このブログに対して誉めたくもあり言い訳したくもある。
後期高齢者になるまで生き延びてきた結果
国の補助まで受ける金食い虫となる羽目に
まともに国見る目もいつしか曇りだし
国に金使わせてまで生きて申し訳ない気になってきている。


W−6(2016/12/1)

何故に私が癌にむしばまれたのか。
何故に私が卒中に襲われたのか。
そして何故に私が人工透析受ける体になったのか。
己の不摂生?
ならば自業自得でいやしくも生きようとするならば
その苦しみ受けいれなければならない。
天から与えられた体質?
ならばそれは定めでありそれでも生きようとするならば
その苦しみ超えていかねばならない。
生きるとは苦しみそのものと釈迦を気取るわけではない。
いつしか後期高齢者となった私が苦しむ病気は
長く生きすぎた代償として有り難く受け取らねばならない。
それで人に迷惑かけることもあればそれで儲ける輩も出てこよう。
それも受けいれてこそ人生なのだと思いたい私である。


W−7(2017/2/1)

ここしばらくは痛みや痒さや怠さがない小康状態が続いている。
何をする気も起こらず
ぼんやりと時間の進むままに身を預けているだけだが
今の私には生を感じる至福の時となっている。
体に何の不具合も感じず
いわゆる惚けてもいないのは
健康な人には別段価値あることとは認識されないだろう。
しかし今の私には必要不可欠の存在条件となっている。
そこで私は初めて昔の私を彷彿し
今の私を味わうことができるのだ
われ何かを思っていられる、故にわれ生きているの思いは
足なえて行動できない私にも想念の世界に色を与えている。
どうかこのままの状態であってくれよというのが
他人にはちっぽけだが私には何よりも大事な願いとなっている。


W−8(2017/3/1)

なまじ現役の時に人を差配しそこそこの活動をし
成果もそこそこ残してきたという自負持つリタイアー組は
自分の思いと違う状況に出遭うと
過去の所業に拘る余りついあれこれと言ってしまう。
本人は経験に基づくまっとうな考えと悦にいるだろうが
周りはそれを年寄りの戯言として受け流しているにすぎない。
時の流れに応じて人や物の考えも変わるご時世とはいえ
勝ち組のリタイアーの人ほど変化に気づくのが遅い。
気づいたとしても過去のやり方で何事も通用すると思っている。
勝ち組とはいえないまでもそこそこの現役生活送ってきた私も
体の不具合で現実にいらつき始めたのも
思い通りにできた過去の自分が忘れられないからなのか。
過去への執着残したままに悠々自適の余生も送りたいとは
凡人には惚けがきて初めて適えられる願い事でしかない。


W−9(2017/4/1)

年齢や体力から考えてみても
最早社会に出て活動していくことはできない。
過去にはそこそこ活動してきた自負はあるものの
その観点では私は社会では用済みの人間でしかない。
社会の役に立たないばかりか迷惑をもかけるような人間は
生きる資格はないとほざく現役からの圧力を感じながらも
無駄飯食べて一日くらしていると
何のために生きているのだろうかの気になる。
幸い今の私には外の情報受けいれる認知能力はまだ残っている。
私の知らないことに次々とぶち当たる。
だから社会のお役に立てないけれどそれら位は知りたいとも思う。
そこにこそ今を生きる意味があるのだと妙に信じてしまう。
そんな生き方していて悔しくもあり恥ずかしくもある。
でも惚けがきてそんな思い煩いもすべて解決してくれるだろう。


W−10(2017/5/1)

森友問題はさすがに闘病中の私にも興味を抱かせた。
結果としては
夢の学校を作ろうとした学園の野望が自らの不手際で
十数億の負債を残して頓挫したというそれだけのことであるが
面白いのはこの問題に関わってくる様々な人間集団が
それぞれに打算的に立ち回っているのが垣間見られたことである。
そこでは政治家と官僚、企業とメディアの思惑のみが
絡みあった狂想曲となって言いたい放題の花が舞い散らかった。
問題をこじらせ長引かせたのは
これら人間集団の金属疲労による資質の低下と幼児化である。
思い上がった日本のエリート層はいつしか腐食し始めていた。
特にその傾向はメディアにおいて著しく
その身びいきな報道ぶりは報道機関としての本来性を
もはや失ってしまったのかと慨嘆させる格好の証左となった。


W−11(2017/6/1)

総じて今の中国や韓国が反日であるのは
初等学校から刻み込まれる反日的教育に起因している。
学校の授業として、憚るところなく
「日本は悪いことしたのだ。」
「日本人は邪悪の人だ。」と教え込まれれば
大人になってもそのこと信じて動くこと間違いない。
同様に戦後の日本人もGHQ下の学校教育で影響を受けた。
そこでは個人に「権利の意識」を芽生えさせる代わりとして
過去の日本を否定するための「贖罪の意識」が植え付けられた。
21世紀になっても先生達の教育スタイルは変わらなかったので
結果、日本人は自虐的になりその又結果中韓にも迎合した。
とりわけその呪縛から未だに逃れないままの人が
日本の主要な社会組織のエリート層に偏在することになったのは
今後の日本を考える上で大切な留意点である。


W−12(2017/7/1)

現状への不満からデモしてアピールしようするのは
昔なら大抵の場合若者が多かった。
ところが今ではどういうわけか高齢者ばかりである。
たまに若者だらけと思われる光景をテレビは映したが
ネットで見ればその周りには何倍もの高齢者がいた。
一般的に政治的アピールについて考えるに
日本の場合50年前と今とでは逆転現象がよく見られる。
このデモ参加者の例を取り上げるまでもなく
昔を思い出したのか高齢者ほど過激的だし
革新的な人といわれる人や組織ほど既得権益に拘り
リベラルといわれる人ほど己の思いだけを主張する。
マスコミはファクト報道よりも印象操作するようになっている。
戦後教育を受けた私は喜寿迎えてもその洗脳から逃れられず
これら変化の波に戸惑い続けている。


W−13(2017/8/1)

村の卵塔場には2m余の墓石が数体建てられている。
これらは兵士として亡くなった村人の墓石である。
貧しい村なので国からの補助もあって建てられたのだろう。
戦後作られた日本国憲法下で純粋培養された私は学校で
「戦前の日本は他国に侵略し暴虐非道なことをした」
と言われて育ったのでこれらの墓について疑問視していた。
しかし私が年重ね他の情報も得ていくにつれ、ついには
「ここに祀られる人たちはお国のために亡くなってくれたのだ」と
改めて感慨深く思い直すようになった。
これは日本人としての私の血が甦って愛国的になったからなのか
戦後教育で醸成されてきた私の思いが惚けてきたからなのか
そしてこの変節が私の人生にとって
良いことなのか…、それとも悪いことなのか…
人にとっては取るに足らぬ、が自分にとってはハードな問となった。


W−14(2017/9/1)

テレビ放送キー局の一つ、TBSなる報道機関が
「テレビは洗脳装置、嘘でも放送すれば真実になる」と広言し
又日本のクォリティ新聞と言われた言論機関の朝日が
「安倍政権を倒すことが社是」と堂々と言い出し
ついには国民から視聴料を強制徴収するNHKまでが
中韓よりの偏向放送を臆面もなくするようになったのを見ると
日本のマスコミはまさにネットの言う「マスゴミ」となりはてた。
とうとう日本のマスコミは言論機関としても又報道機関としても
党派性持つプロパガンダ機関となってしまったのである。
報道の自由ならぬ報道しない自由を行使したり
切り貼りや捏造報道したりするのは日常茶飯事となり
果ては「日本死ね!」を流行語大賞とするに至っては
今のマスコミは本当に日本のためのマスコミなのかと
つい叫ぶ日本国民が多くなったのは確かなことである。

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