Z心、諦める
諦
@あきらめる。あきらかにする。
Aつまびらか。えみ。
Bさとり。まこと。
(角川 大字源より)
諦−前口上
年取る者の定めで
諦めなければならないと
したりげにほざいていた私の病いと死の問題。
いざ年取って当事者となっても
のんきにほざき続けられなくなった。
果たして幾つかの生活習慣病にかかった私。
不摂生故の結果だと言われても
それで楽しんできた人生は否定したくはない。
だがその病気で死ぬとわかるのも癪な私。
心のどこかでそろそろだなと悟る一方で
90過ぎても矍鑠とした人にも憧れる。
してみると病気で死ぬことあるを忘れ
そのまま突然死ぬのが
一番の生き方なのかなと模索する私でありたかった。
諦@
落ちれば確実に死ぬ高いところで
綱渡りをしているような今の自分の生き方。
生老病死を悟るお釈迦さんの気持ちは
理屈としては何となく判るようにはなってきたが
人間いつかは死ぬものと諦め出してきたからか。
だから遂にその時が来た時
その時来たかと覚悟するつもりではいる…。
でも肉体的苦痛が激烈に起こってきたなら
心頭滅却すればの心境に達しられるかどうか。
かつての入院時に
大静脈破裂で死ぬ寸前の同室の患者が
生き抜くことより痛み止めて貰う方に夢中になって
この痛み止めてくれと神仏に頼んでいたことが
今になって生々しく思いだされてきた。
諦A
なかなか悟りきれずにいる諦め悪い人間には
至る所で愚痴が出る。
疾うに死を覚悟していても
何か体に不具合感じると
その不具合何とかせいの気持ちになる。
ましてやその不具合
激痛ともなると
死んでもいいからこの痛み取ってくれと
必死に祈る。
生き続けることはいいことだが
痛みと闘い続けることだけならば
生きている質そのものが問われることになる。
年とともに体の不具合増し続け
それのみと葛藤せねばならぬわが身がせつなくなる。
諦B
最新の私の大病は脳幹出血。
母の介護で自動車とばし郷里に帰った夜
頭の軽いずきずき感で変だなと思っていると
左の手足がどうも思うように動かなくなった。
当然母には通じずたまたま手元に置いた電話子機のお陰で
深夜にもかかわらず偶然妻に繋がり
口のもつれで察知して直ぐに救急車を手配して貰った。
救急車の中で嘔吐したのを覚えていたが
駄目かもしれないと諦めているうちに
自分が何をされているか分からなくなり
気がつけば点滴受け心電図をとられていた。
病因から生きても人工呼吸器によるしかないと
家族が脅かされる中で症状が悪化せず今に至ったのは
天与のラッキーが連続したからとしか言いようがなかった。
諦C
あるもの作る喜び持つよりも
あるもの味わう喜び持つ方がよいとの諦観は
年取ればこそ起こってくる。
あることして命潰すよりも
あることしないで命ながらえさせる方がよいとの諦観は
年取ればこそ起こってくる。
それらは決して賢者の諦観ではない。
若い時に言えば何と嫌なやつと煙たがられ
年取って言えば何と老けたのかと哀れがられる。
人間という生き物は
死に晒されても何かをしようとする方が大事か
何もしないでも生き続ける方が大事か
年取り命の少なさ実感する者には
若い時には実感できなかった死の観念が頭もたげる。
諦D
10年間愛用のノートパソコンを
移動中の不手際で落とし壊してしまった。
こんな時に限ってバックアップを怠っていた。
膨大な量の文章だったので
諦めようとしても諦めきれない思いである。
物忘れのひどくなった私のアイデンティティは
今やノートパソコン中にしかない。
もし私が死んだら私のアイデンティティも消える。
私の死は生き物のサダメとして諦められる。
だが私のメモリー機器や私のコンピュータを見て
かくかくしかじかの「もの」ものなんだと
つまびらかには出来ない後世の存在者から
不思議そうに眺められ撫で回されるのを
眺められるほどに諦めのよい人間ではない。
諦E
どんなに悲しいことがあっても
どんなに我慢の時が起こっても
人間生きてる限り空腹覚え
何かを食べずにいられなくなる。
何かを食べるから生きておられ
その生きているおかげで
新たな悲しいことや我慢の時が起こってくる。
それと同量にうれしいことや至福の時も起こっている。
こんな繰り返しをするのが人間の常態なのだと
諦めてしまえばことは簡単なのだが
よけいにも人間は値踏みしたくなって
良いか悪いか決まるまで諦めきれない存在となる。
まさに人間には「諦める」とは
己の生の総括をして初めて可能となる言葉なのである。
諦F
もともと政治家とはそんなもの。
もともとお役人とはそんなもの。
もともと経営者とはそんなもの。
こんな悟ったような諦めの言葉は
私人となって力失った者のやるせない嘆き節なのか。
政治家は国を作り
お役人はその国に奉仕し
経営者は利益あげることで国に貢献する。
現役の頃に聞いたそんな建前が
悪しき戦後教育を受けたなれの果てとして跋扈している。
権利意識の亡者となって我欲のみを追い求め
己の影を失いますます軽く薄っぺらくなり
国に依拠しなが我欲求める人が存在するとは
国民も諦めるに諦めきれぬ思いだろう。
諦G
霞ヶ関文学とは文学の一つではない。
国の政策を法文化する時に
官僚が自らの既得権を守るために
あるいは新しい権益を得るために
不勉強な政治家の目をくぐり抜け
自利目ざとい政治家に利するように策定した文案をいう。
この作文によって国民は
どれだけ騙され諦めさせられたことか。
日本文学は美の追究をしているが
霞ヶ関文学は日本語的表現を悪用して
霞ヶ関官僚の利益になるように画策している。
霞ヶ関の官僚は国思う公僕としてではなく
諦めのよい国民あってこそ
省益追求が生き甲斐の似非文士となれるのである。
諦H
日本人は横並びがお好きな国民。
隣の芝生は青いと感じるのは人間の性。
わが芝生は自分で青くしようなら許されたとしても
それをお上にやって貰いたいと思うのが
日本人の第二の性。
そしてお上がその気がないと悟ると
泣く子と地頭に勝てぬとばかりに
何となく諦めてしまうのが
日本人の第三の性。
まことに日本はお上が考えるままの
個性のない国や地方や個人ができあがってしまった。
かくて
国民として高速道路あり、新幹線も通り、空港もある
そんな町はいい町と思い思わされる国民が誕生した。
諦I
やっと民主党政権なったかと思うと
すぐ自民党政権に変わってしまったというこの事実。
日本人は変化求める気持ちあると分かる一方で
諦めるというのも早いということか。
やはり市民運動しただけでは総理大臣になれないのか。
それともその総理大臣の資質がよっぽどなかったのか。
政治はプロでなければならないとする思い上がりが
企業献金を当然とする政治システムを生み
日米安保のお陰で日本は立ち直ったとする刷り込みが
アメリカに従うだけの日本政治となっていた。
お陰で政治の金権体質とアメリカ依存体質は
これまで総理が何度変わっても変わらなかった。
日本人は政治改革に諦めずに邁進するのは
今のところ見果てぬ夢なのである。
諦J
いじめはあってはならない。
体罰はあってはならない。
公にはすべての人がそう言う。
実際はいじめは歴然と存在する。
実際は体罰は歴然と存在する。
建前は建前、本音は本音と
両方を許す日本にはこれが当たり前のことと
諦めているのではないか。
だから人権唱う人間でさえも
その被害者は気の毒とは口では言うが
その加害者にも人権があると言って
結果としてその加害者のみならず
その加害許す組織までも認めてしまう。
日本人には諦めることが出来ない陋習の典型である。
諦K
プロ野球の世界で
「隠れ巨人フアン」の言葉がある。
口ではアンチ巨人フアンを標榜しながら
実は巨人フアンであったという意味である。
仕方がなかった。
テレビやラジオでの放送は対戦相手変われど巨人だった。
政治の世界でも
「隠れ自民党支持者」が多い。
仕方がなかった。
戦後の政治は自民党を中心に動いていたからだった。
こんなぬるま湯のようなフアンに支えられて
まこと日本人は
「和を以て貴し」のもとに
笑み浮かべつつ勝ち組に乗るようになった。
諦L
本当に健康な人は
健康の「け」も言葉にしない。
本当に誠実な人は
誠実の「せ」も言葉にしない。
不健康な人ほど健康という言葉に拘り
不誠実な人ほど誠実という言葉に拘る。
言葉とはものを表す記号との考えがあるが
逆にものが現前していないからこそ
その言葉が使われるとも言える。
その喩えでいうと
本当に諦めきれない人が
殊更に「諦める」という言葉をよく使うことになる。
私も諦めることをよく考えるが
実は諦めきれない心が残っているのかもしれない。
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