Ⅶ心、諦める
諦
①あきらめる。あきらかにする。
②つまびらか。えみ。
③さとり。まこと。
(角川 大字源より)
諦-前口上
年取る者の定めで
諦めなければならないと
したりげにほざいていた私の病いと死の問題。
いざ年取って当事者となっても
のんきにほざき続けられなくなった。
果たして幾つかの生活習慣病にかかった私。
不摂生故の結果だと言われても
それで楽しんできた人生は否定したくはない。
だがその病気で死ぬとわかるのも癪な私。
心のどこかでそろそろだなと悟る一方で
90過ぎても矍鑠とした人にも憧れる。
してみると病気で死ぬことあるを忘れ
そのまま突然死ぬのが
一番の生き方なのかなと模索する私でありたかった。
諦①
落ちれば確実に死ぬ高いところで
綱渡りをしているような今の自分の生き方。
生老病死を悟るお釈迦さんの気持ちは
理屈としては何となく判るようにはなってきたが
人間いつかは死ぬものと諦め出してきたからか。
だから遂にその時が来た時
その時来たかと覚悟するつもりではいる…。
でも肉体的苦痛が激烈に起こってきたなら
心頭滅却すればの心境に達しられるかどうか。
かつての入院時に
大静脈破裂で死ぬ寸前の同室の患者が
生き抜くことより痛み止めて貰う方に夢中になって
この痛み止めてくれと神仏に頼んでいたことが
今になって生々しく思いだされてきた。
諦②
なかなか悟りきれずにいる諦め悪い人間には
至る所で愚痴が出る。
疾うに死を覚悟していても
何か体に不具合感じると
その不具合何とかせいの気持ちになる。
ましてやその不具合
激痛ともなると
死んでもいいからこの痛み取ってくれと
必死に祈る。
生き続けることはいいことだが
痛みと闘い続けることだけならば
生きている質そのものが問われることになる。
年とともに体の不具合増し続け
それのみと葛藤せねばならぬわが身がせつなくなる。
諦③
最新の私の大病は脳幹出血。
母の介護で自動車とばし郷里に帰った夜
頭の軽いずきずき感で変だなと思っていると
左の手足がどうも思うように動かなくなった。
当然母には通じずたまたま手元に置いた電話子機のお陰で
深夜にもかかわらず偶然妻に繋がり
口のもつれで察知して直ぐに救急車を手配して貰った。
救急車の中で嘔吐したのを覚えていたが
駄目かもしれないと諦めているうちに
自分が何をされているか分からなくなり
気がつけば点滴受け心電図をとられていた。
病因から生きても人工呼吸器によるしかないと
家族が脅かされる中で症状が悪化せず今に至ったのは
天与のラッキーが連続したからとしか言いようがなかった。
諦④
あるもの作る喜び持つよりも
あるもの味わう喜び持つ方がよいとの諦観は
年取ればこそ起こってくる。
あることして命潰すよりも
あることしないで命ながらえさせる方がよいとの諦観は
年取ればこそ起こってくる。
それらは決して賢者の諦観ではない。
若い時に言えば何と嫌なやつと煙たがられ
年取って言えば何と老けたのかと哀れがられる。
人間という生き物は
死に晒されても何かをしようとする方が大事か
何もしないでも生き続ける方が大事か
年取り命の少なさ実感する者には
若い時には実感できなかった死の観念が頭もたげる。
諦⑤
10年間愛用のノートパソコンを
移動中の不手際で落とし壊してしまった。
こんな時に限ってバックアップを怠っていた。
膨大な量の文章だったので
諦めようとしても諦めきれない思いである。
物忘れのひどくなった私のアイデンティティは
今やノートパソコン中にしかない。
もし私が死んだら私のアイデンティティも消える。
私の死は生き物のサダメとして諦められる。
だが私のメモリー機器や私のコンピュータを見て
かくかくしかじかの「もの」ものなんだと
つまびらかには出来ない後世の存在者から
不思議そうに眺められ撫で回されるのを
眺められるほどに諦めのよい人間ではない。
諦⑥
どんなに悲しいことがあっても
どんなに我慢の時が起こっても
人間生きてる限り空腹覚え
何かを食べずにいられなくなる。
何かを食べるから生きておられ
その生きているおかげで
新たな悲しいことや我慢の時が起こってくる。
それと同量にうれしいことや至福の時も起こっている。
こんな繰り返しをするのが人間の常態なのだと
諦めてしまえばことは簡単なのだが
よけいにも人間は値踏みしたくなって
良いか悪いか決まるまで諦めきれない存在となる。
まさに人間には「諦める」とは
己の生の総括をして初めて可能となる言葉なのである。
諦⑦
もともと政治家とはそんなもの。
もともとお役人とはそんなもの。
もともと経営者とはそんなもの。
こんな悟ったような諦めの言葉は
私人となって力失った者のやるせない嘆き節なのか。
政治家は国を作り
お役人はその国に奉仕し
経営者は利益あげることで国に貢献する。
現役の頃に聞いたそんな建前が
悪しき戦後教育を受けたなれの果てとして跋扈している。
権利意識の亡者となって我欲のみを追い求め
己の影を失いますます軽く薄っぺらくなり
国に依拠しなが我欲求める人が存在するとは
国民も諦めるに諦めきれぬ思いだろう。
諦⑧
霞ヶ関文学とは文学の一つではない。
国の政策を法文化する時に
官僚が自らの既得権を守るために
あるいは新しい権益を得るために
不勉強な政治家の目をくぐり抜け
自利目ざとい政治家に利するように策定した文案をいう。
この作文によって国民は
どれだけ騙され諦めさせられたことか。
日本文学は美の追究をしているが
霞ヶ関文学は日本語的表現を悪用して
霞ヶ関官僚の利益になるように画策している。
霞ヶ関の官僚は国思う公僕としてではなく
諦めのよい国民あってこそ
省益追求が生き甲斐の似非文士となれるのである。
諦⑨
日本人は横並びがお好きな国民。
隣の芝生は青いと感じるのは人間の性。
わが芝生は自分で青くしようなら許されたとしても
それをお上にやって貰いたいと思うのが
日本人の第二の性。
そしてお上がその気がないと悟ると
泣く子と地頭に勝てぬとばかりに
何となく諦めてしまうのが
日本人の第三の性。
まことに日本はお上が考えるままの
個性のない国や地方や個人ができあがってしまった。
かくて
国民として高速道路あり、新幹線も通り、空港もある
そんな町はいい町と思い思わされる国民が誕生した。
諦⑩
やっと民主党政権なったかと思うと
すぐ自民党政権に変わってしまったというこの事実。
日本人は変化求める気持ちあると分かる一方で
諦めるというのも早いということか。
やはり市民運動しただけでは総理大臣になれないのか。
それともその総理大臣の資質がよっぽどなかったのか。
政治はプロでなければならないとする思い上がりが
企業献金を当然とする政治システムを生み
日米安保のお陰で日本は立ち直ったとする刷り込みが
アメリカに従うだけの日本政治となっていた。
お陰で政治の金権体質とアメリカ依存体質は
これまで総理が何度変わっても変わらなかった。
日本人は政治改革に諦めずに邁進するのは
今のところ見果てぬ夢なのである。
諦⑪
いじめはあってはならない。
体罰はあってはならない。
公にはすべての人がそう言う。
実際はいじめは歴然と存在する。
実際は体罰は歴然と存在する。
建前は建前、本音は本音と
両方を許す日本にはこれが当たり前のことと
諦めているのではないか。
だから人権唱う人間でさえも
その被害者は気の毒とは口では言うが
その加害者にも人権があると言って
結果としてその加害者のみならず
その加害許す組織までも認めてしまう。
日本人には諦めることが出来ない陋習の典型である。
諦⑫
プロ野球の世界で
「隠れ巨人フアン」の言葉がある。
口ではアンチ巨人フアンを標榜しながら
実は巨人フアンであったという意味である。
仕方がなかった。
テレビやラジオでの放送は対戦相手変われど巨人だった。
政治の世界でも
「隠れ自民党支持者」が多い。
仕方がなかった。
戦後の政治は自民党を中心に動いていたからだった。
こんなぬるま湯のようなフアンに支えられて
まこと日本人は
「和を以て貴し」のもとに
笑み浮かべつつ勝ち組に乗るようになった。
諦⑬
本当に健康な人は
健康の「け」も言葉にしない。
本当に誠実な人は
誠実の「せ」も言葉にしない。
不健康な人ほど健康という言葉に拘り
不誠実な人ほど誠実という言葉に拘る。
言葉とはものを表す記号との考えがあるが
逆にものが現前していないからこそ
その言葉が使われるとも言える。
その喩えでいうと
本当に諦めきれない人が
殊更に「諦める」という言葉をよく使うことになる。
私も諦めることをよく考えるが
実は諦めきれない心が残っているのかもしれない。
TOPへ 和魂の調べへ 次へ