Ⅹ 道に外れる



              人界は一生造悪の娑婆世界
                 (浄瑠璃・夕霧阿波鳴渡・相の山)



前口上

国のことは考えなくてよい。
自分のしたいことは認めてもらいたいが
それで人からは干渉されたくない。
そんな気楽な生き方が
お仕着せの戦後民主主義のもたらすブラス面なら
国際感覚はないわ
平和惚けはしてしまうわで
口ではいっぱしに言うものの
自己中で自己責任のなさを露呈しているのは
よりどころとなる戦後民主主義のもたらすマイナス面。
日本のエリートはそれらを利用して
社会のためと称する自己の金儲けに長けているが
下々もまたそのおこぼれに与ろうとして
戦後民主主義の亡霊にとり憑かれ続けている。



かまびすしく取り上げられる夕張市。
全くの第三者的に言えば
財政破綻したのに
その責任についてはあいまいにされたままだしし
公僕の部長がいち早くやめようとしているのは
日本国民を置き去りにした関東軍を思い出させるし
ボランティアでもいいから
再建に努めたいという市議は一人もいないし
そこに留まらざるを得ない住人は
お上を頼りにするだけだし
やむを得ず夕張市を離れる住人とかを見て 
本当の民主主義とは何かを考えさせられるし
いずれわが身に降りかかる
日本の縮図をそこに見た。



歴史は繰り返すとよく言うが
それはそれなりに前代の人たちへの
批判意識に基づくものではある。
ところが前の時代はすべて悪かったとして
後の世代が生半可に事を行うと
その揺り戻しで昔の時代がよかったのではないかと
つい思ってみたりもする。
それを日本のここ数十年の歴史に見た。
「何で俺が社会のこと考えないかんのか」とか
「何で私が自分の得にもならないことせなあかんのか」とか
おめず臆せず言ってしたい放題の輩を見ると
それを許したいわゆる自由主義者達も含めて
公権力使っても厳罰に処してもらいたいものだと
元軍国少年ならつい思ってしまう。



中国開催のオリンピックの前の聖火リレーが
日本ではさしたる混乱もなく粛々と終わった。
予想通りといえばそれまでだが
さすが「そんなの関係ない」の言葉が流行る
日本だと言うだけのことはある。
そのおだやかさと権力に守られた整然とした様は
「朝鮮民主主義人民共和国」に次ぐと認めてもいい。
この聖火リレー問題
スポーツのことなのに政治化してしまった。
中国が起こしたチベットの中国化問題に起因する。
民主主義の国々が問題にするのは
それが「人権」の問題に関係するからだ。
が、上意下達がはばきかせる実質中央集権国家日本では
この問題は大した問題ではなかったのかも知れない。



自分の所属する組織の考えに反対し
そのための反組織的行動をしながらも
自分はその組織の人間だと言い張る。
組織の中の人間として
これは許されていい考えなのか。
許されてはならない考えなのか。
筋を通す人には論外なのだが
この考え、わが日本では何となく通用しているのは
自己責任を問うことも問われることもない
和をもって貴しのお国柄のせいなのか。
それとも甘えの気持ち赦す幼児性のせいなのか。
いずれにしても日本は民主主義の国でもあるので
反組織的行動で命まで取られる心配ないのは
幸せなことである。



派遣社員あるいは契約社員
フリーターあるいはパートタイマー
非常勤あるいは嘱託
束縛なく自由気ままでよいと
一見良いところだけ強調されているが
所詮日本では組織からはずれたよそ者扱い。
経営者は彼らから搾りとるに長けているし
正規の雇われ人は同じ雇われ人なのに
差別の眼で身内に入れず
時には経営者ばりに敵対する。
この現状
江戸時代の身分制度と差別の構造に
どこか似ているようだと思ってしまうのは
いつも冷や飯食わされる者の僻み心なのか。



親が子を思い
ために自ら犠牲になるも厭わず
子を育てるというそんな話が
人間の「作られた美談」でしかないことを
暴露するかのような出来事が
たびたび起こる。
親が子供を殺すのは
親の利己的な遺伝子のためなのか。
親が子供をいたぶるのは
切れた脳持つ親の未成熟さのせいなのか。
単に批判して糊塗するのも簡単だが
親が子供の面倒見なくても
何となく許される雰囲気ある社会が
できかけていることも問題だ。



長寿社会に見られる
ごく当たり前の出来事として
いつか親を介護しなければならないときが来る。
その上介護しなければならない人までも
介護保険証をもらっている。
これまで親から離れて生活した子供は
親の面倒見なかったことを周囲から言われ
これまで親の面倒見ていた子供は
十分面倒見なかったと身内から攻められる。
その光景の繰り返しの中で
都合の良いときは親から離れて勝手に行動し
都合の悪いときは親に頼る行動することが
そう簡単にできない世代の人間には
親に育てられた記憶を消し去ることができないのだ。



情報時代の世の中で
イラクでの人質事件はいろいろ考えさせられた。
その一つは情報操作。
拘束されている日本人を映すビデオが
公開されてからというものは
あれは日本人が絡んでいるのだの、
証拠もありますなどと
元政府関係者のコメンテーターを通じて報道されると
待ってましたとばかりに広まった「自作自演説」
確たる証拠がなければ軽々に語れないのに
こともなげにそれを伝える情報提供者
こともなげにそれを信じてしまう一般大衆
そこに操作されやすい日本人と日本の
危ない未来を見るようだ。



いつものテレビのワイドショー。
右も左も硬いも柔らかいもごったまぜの
十分な下調べもしないコメンターやレポーターの
ほとんどのテレビが横並びの
日本人好みの主語抜きの言い方の
だが公平のふりした先入観混ざりの
いろんな報道が無責任に繰り返されている。
「世間をお騒がせした」といって頭を下げるが
懲りもせず又過ち繰り返す企業のように
このワイドショーも品のないことうけあいだ。
事実を精査すると言う名目で
再現シーンをよく撮るが
たまには自身の悪業示す再現シーンを
作って見せてほしいものだ。



IT時代と言われるようになって
科学には良いところもあれば
悪いところもあるという2面性の話
ウイニーのソフトでまた蒸し返された。
簡単に他人のデータがコピーできて楽しめる反面
機密の自分のデータもコピーされてしまう危険性。
そんなすごいソフトを作る人は良いのか悪いのか。
そんなすごいソフトを使う人は良いのか悪いのか。
自分が得すれば良く損すれば悪い。
作る人は作る人、使う人は使う人とは別。
これらはそう簡単に割り切れて言えるのか。
とにかくここでは
欲と良心をごたまぜに持つ
近代人そのものが問われているのである。



原因さかのぼれば
人類幸せ願って作った「文明」に
潜んでいるのであろう。
今まで人類に害を及ぼさなかったウィルスが
次から次へと暴れ出している。
新種ウィルスと人知との間の戦いが
いたちごっこのように繰り返される21世紀は
まだ始まったばかり。
お陰でウィルスと人間との間の生き物は
その媒介者として翻弄されている。
インフルエンザウィルスがたまたま鶏に住みつき
その鶏がたまたま人間の食料であったばかりに
何10万羽の鶏が捕食のためにではなく
不可避的に人間の手によって殺されるのである。



日本では、今
従軍慰安婦問題に
軍が直接関与してたとかしていないとか
沖縄住民の集団自決に
軍の命令があったとかないとか
かまびすしい。
今のお国を取り仕切る人たちは
いずれも軍がそんなことしていなかったと言う。
それは軍の意向を思んばかって
民や下々が勝手にやったことだと言う。
そうであるにせよないにせよ
このパターンは日本ではよくある話。
切腹は大抵処刑の場合が多いし
天下りは下からのお伺いに答えた形にもなっている。



都会で生活し定年迎え
郷里に帰った者の驚き。
住む人の数少なくなり
構えだけは立派な空き家が増えている。
住人と言えば古希超えたような人ばかり。
我が郷里もまた
わずかばかりの年金もらって住む人だけの
過疎の典型のような村となっていた。
元を正せばこの現状
田舎に魅力なしと判断し
都会へ出ていった人間の所為かもしれぬ。
それでも都会に出て行ったはよいが
帰るに帰れぬ人考えれば
帰れた人は贅沢な悩みしているのである。

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