]T 僅を貶す



         禍は足を知らざるより大なるは莫し
                          (老子)



前口上

天下りが貰うのとは比べようもない少ない退職金。
それを食いつぶしてなくなる日を
出来るだけ先に延ばしたいと
浅はかにも考えたものだから
つい口車に乗って株を買ったら
かえって食いつぶす日が近くなってしまった。
小心者の庶民が欲に火を付けた結果である。
それでも
口だけうまい政治屋の無策で
私よりも何も出来ない不幸な境遇の人が
この日本という国に
ごまんもいるのだいう思いが
自己責任として悔いる自分を
どうしようもなく慰めている昨今である。

@

かろうじて21世紀にまで生きて
世の中の変わり具合
実に面白く味わっている。
はしなくも障害者と認定され
社会に何も働きかけられない環境に生き
言いたいことは言いたいと思い
蟷螂の斧であること承知で
隠遁者なりに何とかほざいている。
一切の利害得失から離れているので
二つ心の政治家や経済人や
マスコミに働く人の言動や
未だに独立国とも
近代国家とも思えぬ日本の姿が
少しはわかってきたようにも思える。

A

どんなに言葉を尽くしても
自分の気持ちが完全に伝わるとは限らない。
どんなに耳を傾けても
相手の気持ちが完全に伝わっているとは限らない。
ましてや
相手が聴く耳持たなかったり
自分がいい加減であったりすると
完全なコミュニケーションは
不可能のような気がしてくる。
そうかと言って人間は
言葉を通じてしかコミュニケーション出来ないので
時には誤解して一悶着よく起こす。
人間社会はそんな誤解の上で
今に飽きたらず前進してきたのかもしれない。

B

言葉使う商売で
人生送ってきたわが身でさえも
言葉使うにおっくうになった。
舌が回らなくなったというのではない。
言葉自体が浮かんでこなくなったというのでもない。
言葉で説明することのむなしさをふと感じたのだ。
言葉の大切さを知りながら
又言葉の恐さも知りながら
己の欲満たす手段として不用意に使ってきたのだろう。
言葉は本当のことを伝えているのだろうか。
本当のことを伝えていないのだろうか。
所詮言葉とは
不在のものを補うものでしかないと言うことに
気づくようになった。

C

今のマスコミ確かに変だ。
あまた放送局ありながら
言うことなす事少しも変わらぬ。
これなら独裁国と少しも変わらぬ。
今のマスコミ勉強不足。
確認・証拠も取らないままに
情報そのまま垂れ流し。
これならロボットにやらせればよい。
今のマスコミおごっている。
世論を作るはわればかりと
いっぱしの権力者気取り。
これなら昔の日本と少しも変わらぬ。
こんなこと言われて反省しないのも
何も言わない日本の庶民がいるからなのか。

D

文字通り過疎の村に住んでいる。
例えばダム造りで村が沈められたなら
追い立てられた村人の悲哀はよくわかる。
でも平成時代に入り次第に
村人が少なくなっていく様を見るにつけ
別の意味で何とも言えぬ寂寥感が漂う。
村を出ていったわけも
食うためにはやむを得なかったのかもしれない。
己の夢を実現したかったからなのかもしれない。
時代がそうさせたと言えなくもない。
長く都会生活してきた者が勝手に帰っても
過疎を云々する資格はないかもしれない。
ただずっと村に留まり生活してきた人は
その意味でも偉いと思う。

E

お盆の季節で長蛇の列の車を写す画面をよく見るが
これらの車の向かう先はどこなのか。
郷里なのか、遊び先なのか。
いずれにしても「盆休み」がとれる
幸せな日本人の気質をよく表している。
一年一度は田舎に帰り先祖供養や親孝行してみたい。
日頃仕事で何も出来なかった家族孝行してみたい。
そのためにはガソリン高くても仕方がない。
そのためには多少の疲れは我慢もしよう。
それでも「盆休み」もとれないで
都会だけに住む人はごまんといる。
帰りたくても帰れない。
遊びたくても遊べない。
そんな事情が多々起こるようになってきた日本である。

F

人生間尺に合わぬことあるわさと
したりげに悟ってみたところで
人間特有の思い込みかも知れない。
そもそも自分に都合悪ければ
間尺に合わぬと思っているだけかもしれない。
正しいのも正しいと思いたいだけ
悪いのも悪いと思いたいだけのように
事実判断と価値判断とをごっちゃにするのは
神様や機械でない人間ならばこそだ。
それなのに人間て奴の真に間尺に合わないのは
生者必滅のことわり
理窟で分かり分かろうとしても
己の場合は例外なのだと
都合よく思い込むようになっていることだ。

G

経験積み老い先短いときになって
理解不可能な出来事に遭遇するのは
人間惚けてきたせいなのか。
それとも時代が変わる予兆なのか。
天変地異なら諦めもする。
人災も時には起こるくらい承知はしている。
しかし、この頃の
普段注意しておれば何も起こらない出来事が
うっかりミスによって続発するのはどういうことなのか。
普段人に未熟だからだとか
心がゆるみきっているからだとか
講釈垂れる立場の人までもが
うっかりミスをすること多くなったのは
一体全体どういうことなのか。

H

年金をもらう者しかわからない嘆き節だが
もう少しもらえるはずだったのに思ったより少ない。
これからもらう人にもその思い強くなるだろう。
実際、年金受給可能の年見れば
初め55歳が60歳になり
今や65歳になり
そのうち70歳にする陰謀も巡らされている。
口先だけでは天下国家を論じているが
実際は何も出来ない官僚や政治家輩が
特権に胡座をかき自己保身にのみ
これ努めているのを見るにつけ
貧すれば鈍するあまり
暴発してしまう国民が出てきたとしても
なんの不思議もないだろう。

I

時々何となく物わかりが良くなってきていて
困り果てている。
官庁の人間が裏金を作るのは
それなりの経済的事情があったのだろう。
次世代担う人間が人のことや社会のことを考えぬのは
それなりの歴史的事情があるのだろう。
親殺し子殺しが頻発するのは
それなりの家庭的事情があるのだろう。
相手の立場に立って考える癖が高じて
相手の立場に立って考えぬ鬼子達にも
物わかりが良くなってきている。
かつてのいけないものはいけないとする
義憤に近い感情が起こりにくくなってきているのは
老いとつながりがあるからなのだろうか。

J

時代が変わる。
社会が変わる。
そして私が変わる。
変わることが進むことならば
ましては己がそれで映えるのなら
変わることは誰もが望む。
それを誰が悪いと言えよう。
時代が変わる。
社会が変わる。
そして私が変わる。
変わることが退くことならば
ましてや己がそれで陰るのなら
変わることは誰もがいやがる。
それを誰が悪いと言えようか。

K

あの時に
もう少し親身になっておればと思うことが
今思うとあまたある。
あの時は
己以外の人間に
わがことのように思いやることの大切さが
もっと親身になってやることの大切さが
それほどわからなかった。
あの時の
己の傲岸不遜によって
傷つきうらぶれていったわが同胞の
今を思うとき
それはそれらの人たちの力の無さのせいだったのだと
あの時ほど言い得なくなるほど老いてしまったのだ。

L

幼児に体験し脳に刻み込まれた思いは
大きくなってどんな環境になっても
未だに尾を引いているものだ。
そう言えば物心つき始めた頃
大人の理不尽な仕打ちに悔し泣きしたことと
躓きひっくり返った足の悪い紙芝居のおじさんが
笑われながも独りで後かたづけしている光景を見たことは
妙に記憶に残り
権力持つ人には何が何でも逆らっていいように
弱い人には常に寛容であるようにと後の私を縛り付けた。
いい格好しいなのか、己の矜持なのか
それは今でもわからないが
それでずいぶん損してきた人生だとも思うし
満足の人生だとも思っている。
                               完
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