ⅩⅠ 僅を貶す



         禍は足を知らざるより大なるは莫し
                          (老子)



前口上

天下りが貰うのとは比べようもない少ない退職金。
それを食いつぶしてなくなる日を
出来るだけ先に延ばしたいと
浅はかにも考えたものだから
つい口車に乗って株を買ったら
かえって食いつぶす日が近くなってしまった。
小心者の庶民が欲に火を付けた結果である。
それでも
口だけうまい政治屋の無策で
私よりも何も出来ない不幸な境遇の人が
この日本という国に
ごまんもいるのだいう思いが
自己責任として悔いる自分を
どうしようもなく慰めている昨今である。



かろうじて21世紀にまで生きて
世の中の変わり具合
実に面白く味わっている。
はしなくも障害者と認定され
社会に何も働きかけられない環境に生き
言いたいことは言いたいと思い
蟷螂の斧であること承知で
隠遁者なりに何とかほざいている。
一切の利害得失から離れているので
二つ心の政治家や経済人や
マスコミに働く人の言動や
未だに独立国とも
近代国家とも思えぬ日本の姿が
少しはわかってきたようにも思える。



どんなに言葉を尽くしても
自分の気持ちが完全に伝わるとは限らない。
どんなに耳を傾けても
相手の気持ちが完全に伝わっているとは限らない。
ましてや
相手が聴く耳持たなかったり
自分がいい加減であったりすると
完全なコミュニケーションは
不可能のような気がしてくる。
そうかと言って人間は
言葉を通じてしかコミュニケーション出来ないので
時には誤解して一悶着よく起こす。
人間社会はそんな誤解の上で
今に飽きたらず前進してきたのかもしれない。



言葉使う商売で
人生送ってきたわが身でさえも
言葉使うにおっくうになった。
舌が回らなくなったというのではない。
言葉自体が浮かんでこなくなったというのでもない。
言葉で説明することのむなしさをふと感じたのだ。
言葉の大切さを知りながら
又言葉の恐さも知りながら
己の欲満たす手段として不用意に使ってきたのだろう。
言葉は本当のことを伝えているのだろうか。
本当のことを伝えていないのだろうか。
所詮言葉とは
不在のものを補うものでしかないと言うことに
気づくようになった。



今のマスコミ確かに変だ。
あまた放送局ありながら
言うことなす事少しも変わらぬ。
これなら独裁国と少しも変わらぬ。
今のマスコミ勉強不足。
確認・証拠も取らないままに
情報そのまま垂れ流し。
これならロボットにやらせればよい。
今のマスコミおごっている。
世論を作るはわればかりと
いっぱしの権力者気取り。
これなら昔の日本と少しも変わらぬ。
こんなこと言われて反省しないのも
何も言わない日本の庶民がいるからなのか。



文字通り過疎の村に住んでいる。
例えばダム造りで村が沈められたなら
追い立てられた村人の悲哀はよくわかる。
でも平成時代に入り次第に
村人が少なくなっていく様を見るにつけ
別の意味で何とも言えぬ寂寥感が漂う。
村を出ていったわけも
食うためにはやむを得なかったのかもしれない。
己の夢を実現したかったからなのかもしれない。
時代がそうさせたと言えなくもない。
長く都会生活してきた者が勝手に帰っても
過疎を云々する資格はないかもしれない。
ただずっと村に留まり生活してきた人は
その意味でも偉いと思う。



お盆の季節で長蛇の列の車を写す画面をよく見るが
これらの車の向かう先はどこなのか。
郷里なのか、遊び先なのか。
いずれにしても「盆休み」がとれる
幸せな日本人の気質をよく表している。
一年一度は田舎に帰り先祖供養や親孝行してみたい。
日頃仕事で何も出来なかった家族孝行してみたい。
そのためにはガソリン高くても仕方がない。
そのためには多少の疲れは我慢もしよう。
それでも「盆休み」もとれないで
都会だけに住む人はごまんといる。
帰りたくても帰れない。
遊びたくても遊べない。
そんな事情が多々起こるようになってきた日本である。



人生間尺に合わぬことあるわさと
したりげに悟ってみたところで
人間特有の思い込みかも知れない。
そもそも自分に都合悪ければ
間尺に合わぬと思っているだけかもしれない。
正しいのも正しいと思いたいだけ
悪いのも悪いと思いたいだけのように
事実判断と価値判断とをごっちゃにするのは
神様や機械でない人間ならばこそだ。
それなのに人間て奴の真に間尺に合わないのは
生者必滅のことわり
理窟で分かり分かろうとしても
己の場合は例外なのだと
都合よく思い込むようになっていることだ。



経験積み老い先短いときになって
理解不可能な出来事に遭遇するのは
人間惚けてきたせいなのか。
それとも時代が変わる予兆なのか。
天変地異なら諦めもする。
人災も時には起こるくらい承知はしている。
しかし、この頃の
普段注意しておれば何も起こらない出来事が
うっかりミスによって続発するのはどういうことなのか。
普段人に未熟だからだとか
心がゆるみきっているからだとか
講釈垂れる立場の人までもが
うっかりミスをすること多くなったのは
一体全体どういうことなのか。



年金をもらう者しかわからない嘆き節だが
もう少しもらえるはずだったのに思ったより少ない。
これからもらう人にもその思い強くなるだろう。
実際、年金受給可能の年見れば
初め55歳が60歳になり
今や65歳になり
そのうち70歳にする陰謀も巡らされている。
口先だけでは天下国家を論じているが
実際は何も出来ない官僚や政治家輩が
特権に胡座をかき自己保身にのみ
これ努めているのを見るにつけ
貧すれば鈍するあまり
暴発してしまう国民が出てきたとしても
なんの不思議もないだろう。



時々何となく物わかりが良くなってきていて
困り果てている。
官庁の人間が裏金を作るのは
それなりの経済的事情があったのだろう。
次世代担う人間が人のことや社会のことを考えぬのは
それなりの歴史的事情があるのだろう。
親殺し子殺しが頻発するのは
それなりの家庭的事情があるのだろう。
相手の立場に立って考える癖が高じて
相手の立場に立って考えぬ鬼子達にも
物わかりが良くなってきている。
かつてのいけないものはいけないとする
義憤に近い感情が起こりにくくなってきているのは
老いとつながりがあるからなのだろうか。



時代が変わる。
社会が変わる。
そして私が変わる。
変わることが進むことならば
ましては己がそれで映えるのなら
変わることは誰もが望む。
それを誰が悪いと言えよう。
時代が変わる。
社会が変わる。
そして私が変わる。
変わることが退くことならば
ましてや己がそれで陰るのなら
変わることは誰もがいやがる。
それを誰が悪いと言えようか。



あの時に
もう少し親身になっておればと思うことが
今思うとあまたある。
あの時は
己以外の人間に
わがことのように思いやることの大切さが
もっと親身になってやることの大切さが
それほどわからなかった。
あの時の
己の傲岸不遜によって
傷つきうらぶれていったわが同胞の
今を思うとき
それはそれらの人たちの力の無さのせいだったのだと
あの時ほど言い得なくなるほど老いてしまったのだ。



幼児に体験し脳に刻み込まれた思いは
大きくなってどんな環境になっても
未だに尾を引いているものだ。
そう言えば物心つき始めた頃
大人の理不尽な仕打ちに悔し泣きしたことと
躓きひっくり返った足の悪い紙芝居のおじさんが
笑われながも独りで後かたづけしている光景を見たことは
妙に記憶に残り
権力持つ人には何が何でも逆らっていいように
弱い人には常に寛容であるようにと後の私を縛り付けた。
いい格好しいなのか、己の矜持なのか
それは今でもわからないが
それでずいぶん損してきた人生だとも思うし
満足の人生だとも思っている。
                               完
  TOPへ  目次へ