第六章 人類滅亡論の寓話から




 多分にムード的ではあるが、ひたひたとわれわれの心の中におしよせてくる現代の危機意識は、各人各様の具体的なイメージでもって、するどく、社会の諸悪を告発している。とりわけ公害、環境破壊、エネルギー危機、人口問題等々をめぐる深刻な諸情勢が、生活のモンロー主義を確固として守ろうとする働き蜂の蜜作りにさえ直接的に影響を与えはじめた頃から、現代人のすべては、あらためて自分の住んでいる大地に目をむけ、その泥にまみれた赤土の悲しみと怒りがわれわれの恐怖をよびおこしていることを知るようになった。人間ブルドーザーはそれでも、自らの力を過信して何とか攻勢的にあがこうとするが、大半の謙虚な現代人は、自然界における人間の地位というものが、一体何であったのかをあらためて反省するようになってきた。
 本章のテーマを展開させているものもまた、その謙虚な現代人の心のおののきなのである。
 このようなテーマを展開することは、今までは保守主義者とか権力者の良心の証しとみなされないでもなかった。事実そうであったとしても、それを単に責めることで、彼らの困惑ぶりをみて楽しんだところで、われわれの感性が落ちつくものでもないだろう。又、イデオロギー的に事物をながめる変革主義者のかかるテーマの考察に対するアレルギーは、体制内的人間として評価されることへの心配からきているのであるから、大衆が反逆しようとしている現在、かかる変革主義者も又、すでに批判的に展開している先人の如くに、謙虚な態度をとるべきであろう。
 さすれば、われわれすべてがかかるテーマに関する冷静な批判家となった時、少なくとも、それは今まではなんの痛痒も感じなかった社会悪の醸成主に忘れていた人間性をとりもどさせるようになるにちがいない。一市民のわたしの任務も又、したり顔の啓蒙家の言にくつわを並べて、きわめつきの救世主の到来にそなえることにあるのである。
 人間を理性的存在者として位置づけ、意志の自由、魂の不死、神の存在を要請したところの哲学者カントの思いは、われわれに、人間として限りない希望を抱くすべを教えてくれたが、この現代的状況のもとでは、それは、同時に、自然を前にしては無能なる人間の末路を予言する絶望のしらべとしてむなしく響いている。
 この哲学者がもたらした功績と混乱は、内なる人間の確信が、たとえかげろうの如き寸時のはばたきに終わろうとも、それだけでもって、自然の怨念にも似た連鎖のうなりに十分に耐えうる強靱さとリアリティをもっているということをわれわれに信じさせた点にあった。
 断るまでもないが、彼が人間として無駄な行為をしていたのでも、単なる理性の遊びとしての言葉作りを楽しんでいたのでもなかったのは、後継者たちが、そして現代人であるわれわれでさえも、心底、彼の思想に影響されているのをみてもわかるだろう。その意味からも、たしかにわれわれは人間が理性的存在者でもある、という付帯条件を認める限りにおいて、カントの(そしてわれわれの)抱いた思いに陶酔できるであろう。
 しかし一歩さがって考えてみれば、人間が理性的存在者であるという条件付与そのものは、生態学的には、実にまやかしなのかもしれなかったのである。そればかりか、わたしの考えるところでは、理性的存在者という概念の捏造が意志の自由、魂の不死、神の存在を求める人間の自然的欲望の事実を、単に認容するばかりか、それ以上のもの、いいかえれば自然を思いのままにあやつれるという僭越的な態度を導出しているように思えるのである。
 このような概念の捏造は、いわば人間のしゃれた感情の発露であるとして留めておくに越したことはないのであって、それ故に人間に不可避の行為として認められたとしても、それでもって人間的行為の正当性、固有性、絶対性を保証すると考えてはならないのかもしれないのである。
 従ってここにわたしは理性というやっかいな特性にあまりこだわらないで、というよりはむしろ反対の立場から、一つの人間像をうきぼりにしてみたい衝動にかられ、今はやりの「人間生物学」とか「人間生態学」におもねて、素人として、人間の本性と、その過去と未来のうつし絵を描いてみようと思うのである。
 自然的ないしは、生物学的相のもとに考察される人間論は、たいていの場合、他のゆとりある人間論よりもドラスティックであり、またラディカルに生にかかわっているように思われる。というのは、そこでは考察されるべき人間及びその社会に対する混乱的悲観的様相が如実に反映されているからであり、文字通り人間の生死の問題が人間の社会の原理を形成するための布石となっているからである。
 われわれはかかる人間論の展開がかつてない人間の歴史の皮肉であると銘記せねばならない。皮肉とは、のっぴきならない事態に対しては、生物的反応が唯一の解決策とならざるをえない場合をいうのである。



 さて、現代人の関心をひく幾多のテーマの中で、最も興味深げにとらえられ、一種のブームさえひきおこし、あげくには有象無象の文明評論家の糧をさえ提供している「人類滅亡論」は、個人の死の問題同様、ここでも人間の未来を語る重要なテーマとなろう。
 まずわたしは次の著書の紹介から問題の口火をきろうと思う。それは、一ジャーナリストによってセンセーショナルに書かれた最近の反啓蒙書ともいえる『人間滅亡の記録』のことである。それによれば、人類の滅亡の原因となりそうなできごととして次の諸点があげられている。
 一 近々十年未満から百年の間に生じる資源の完全なる枯渇
 二 水爆等の大量殺傷兵器使用の戦争
 三 海、川、湖、大気等の汚染
 四 化学薬品(農薬等)使用による繁殖等の器官障害
 五 人口過密による飢餓や精神の異常
 六 その他医学的人間改造、等々
 この著者も又、「著者自身の広告」の中で「この狭い地球という天然の宇宙船は、もともと限られた横紙破りの船客が、したい放題している限り、やがて死の船となることは確実である」と叫んでいる。いわゆる例の<宇宙船『地球号』>的発想からである。
 ここにあげられたいくつかの滅亡原因は、すべて、人間が自らなすところのものであり、それ故に、人間の責任に帰せられているところが特徴であろう。従って、この主張はカントの崇高な存念にも似た考え方をこれからの人間に植えつけることによって、少なくともその事実の到来を回避しようという警鐘的性格を暗にふくませているのである。
 ところで、わたしは逆にこれら滅亡原因は、人類の大往生としてふさわしい、とされないものだろうかと考えたいのである。この考えは、ひとえに、M・バーネットがいうところの「ドミナント・ママル(支配的哺乳類)」が地球から姿を消したのにすぎないのだと、われわれが考えることができるかどうかにかかっているだろう、
 実際、人類は、現時点において、他の生物種以上にしたいだけのことをしてしまったかもしれないのであり、そのために生じた排泄物を、四五億年以上の歴史をもつ地球の滋養分として新たな生物種の誕生にそなえさせるのが、ドミナント・ママルとしての人類の思いやりなのかもしれないのである。
 この著者はさらに人類滅亡後、生き残る動物として、ネズミやゴキブリ、それに犬等をあげているが、これがダービー馬の予想のように興味本位に言われているのか、あるいは悲しむべき事態として語られているのかの詮索は別にしても、少なくとも、われわれがドミナント・ママルとしての自覚(思いあがり)を放棄するならば、種としての見事な死に花をさかせて、次のドミナント・ママルにバトンタッチするくらいの大様さが生まれ、それが新たな人間像をこしらえる第一歩になるであろうと考えられる。
 これらを考えると、われわれは現在到るところで紹介されている、中生白亜紀の項の恐竜の絶滅過程を思いだすであろう。たとえば恐竜の実態が面白く書かれている一冊の本から、その絶滅過程を紹介して前者と対比させて考えてみよう。その著者は恐竜の絶滅の原因となるものに次の諸点がこれまでにあげらえていると主張している。
  一 気候変化(寒さ、暑さ、早魃、多雨等)
  二 食糧問題(不足、共喰い、ミネラル不足、水の有毒化)
  三 病気、寄生虫、血なまぐさい戦い
  四 体の解剖学的あるいは生理学的欠陥
  五 大気の成分や圧力の変化
  六 恐竜の卵を食べる他種の動物の存在
  七 種族的老衰
  八 他の恐竜を餌食とする肉食恐竜の存在
  九 新星の爆発による宇宙放射熱の増大
 一○ 地球からの月の分離(太平洋のくぼみ、地震、津波)
 一一 造山運動、極の移動、地球自転の変化、湖沼の枯渇
 一二 神の意志、自滅に至るほどの狂気状態、古代世界の苦病
 今わたしはこれらについてのより詳しい説明を省くが、しかし、これらはいかにもホモ・サピエンスのうちたてる仮説としてのバラエティと皮肉を有している。いいかえれば、冷静な科学的判断とロマン的性格と宗教的敬虔を駆使できるホモ・サピエンスが、自己の死に場所を自らきめようとする象の如くに、恐竜に自己のうつし絵をみようとしているかのようである。まさにこの恐竜こそ、その絶滅のパターンにおいて、人間の寓話を提供しているといえよう。
 してみれば生物的反応を要求されているわれわれとしてみれば、その恐竜に対しては次のような態度でなければならないだろう。すなわち、生存が生物に唯一の価値を提供するのなら、たかだか二百万年の歴史しかもたぬ人類は、たとえまだ生存の可能性への道が残されているとしても、一億年以上も種族を存続させた恐竜の、それこそ恐るべき「生き残り術の熟練者」としてのこの動物の生命力にぬかずいて、自らの生息のために謙虚になるべきである。
 この二つの生物の関係について、わたしはこれ以上に、又似非学問的に追求してみようとは思わないし、それに、できないであろう。ただ二つを比較してみて、誰もがそれらの類似性を想起するような切実性をあらためて確認してもらえればそれで十分であろう。
 残念ながら、この恐るべき動物に対する共感はわれわれ現代人の関心にとってはとるにたらぬたわごとにすぎないかもしれない。というのは、一つには、冷静な生態学者や世を憂うる煽動者がいかに人間の悲しむべき未来を語ろうとも、われわれは楽観的な未来学者の言に代表される、理知のパラダイスの到来の信仰に人間の生き甲斐をみいだしているからであり、もう一つには、前述したあのプラグマティスト、W・ジェイムズがいうところの「人間の盲目性」によって自分以外の存在に対しておのずと冷淡になっているからである。
 いずれにしても、人類が滅亡するにあたっては、ある場合には、前述の諸仮説のどれか一つ、あるいはその複合されたものによってその過程が進行するかもしれないと覚悟した方がよいだろう。前述の諸仮説に対する口先だけの反論は、今やわれわれの先祖から忘恩のうらみ言をきかされるだけであろう。むしろわれわれにとって大切なのは、どの仮説が現実になりうるものとなるかを発見することであるとも言えよう。わたしも又ここで、おっちょこちょいの先取り屋に刺激されて、ありふれているかもしれないが、次の仮説をうちたててみようと思うのである。



 「マンモスの牙が、彼自身の生存の基盤であったにもかかわらず、あまりにも発達しすぎたが故に自らを滅ぼす原因となったように、人間の前頭葉もまたマンモスの牙と同様の運命をたどるだろう。」
 このマンモスの牙の例は進化論の世界では「過適応」の代表的事例であるという。そうなると進化の法則に従えば、マンモスが象にとってかわられたように、人類は、前頭葉が全く異質の働きをするところの新しい生物種にとってかわられるだろう。だがその生物種が自然界の帝王であると自覚できるかどうかは不明である。確かなのは、現在の前頭葉の機能する範囲内でわれわれは人間であるという判断をしてもよいということだけだ。即ち、火や言葉や道具を手段として、自然の中で生の欲望を充足する存在であるという限りにおいて、言いかえれば、意識しながら考えながら生の様々な欲望を充足する動物であるという限りにおいて。
 しからば前頭葉が発達しすぎたために人類が滅びるというのはいかなる事態をさししめしているのであろうか。まず浮かんでくるのは、前頭葉の機能の正常性やバランスが、適応力を凌駕する外的要因によって失われ、もって欲望充足の基盤が瓦解してしまうという考え方である。あたかもマンモスが、ツンドラ地帯においては最も機能しうる状態にあったのが、森林地帯に変わってしまうと、もはや牙が無用の長物どころか、有害な存在になりさがってしまって、結局(種々のその他の滅亡原因が考えられるにせよ)生息の条件をととのえられず、滅亡していったようにである。
 もっとも、前頭葉の場合、いいかえれば思考する器官の場合、暑、寒、乾、湿といった自然環境の変化によって多少のポテンシャルを消失するかもしれないが、全く機能しなくなるとは考えられないだろう。というのは、人間には、自然環境がどうであろうと、前頭葉の働きによって自然の中で選択的に生きていく能力があると考えられるからである。過去の歴史においては氷河期の人間が、当時の自然環境からは考えられないような不似合いな肉体的構造をもちながらも、寒さに耐え、生存しえたのはその証左である。(もっとも、ポンペイ市を一挙に破壊してしまうような天変地異が全世界的に発生したことがないので不確かな言明ではあろうが。)
 これが何故に言われうるのかについては、すでに自明の真理となっているのであるが、たとえば、J・モノーは次のような言い方をしている。
 「オーストララントロプスなり、彼と同時代のだれかほかの者なりが、それまでのように、具体的な自分の当面した経験だけではなく、主観的経験や個人的《模試》の内容までも表現できるようになった日から、あらたな治世、すなわち観念、思想の治世が誕生したのである。……数十万年もの間、観念構成上の進化は肉体上の進化にごくわずかしか先んじて進んでいたにすぎず、当座生き残れるかどうかということに直接関係のあることを予測できるだけの皮質の発展しかなかった。……しかし、この両者共同の進化が続けられるうちに、観念構成上の進化は肉体の拘束から次第に独立してくる結果になった。それはまさしく中枢神経系が発達していったため、拘束がすこしずつなくなっていったからである。<人間>は、この進化によって人間より下の世界に対する支配範囲を拡げてゆき、その世界が自分らに隠し持っている程の危険からだんだんとのがれられるようになっていった。かつて進化の最初の段階を導いた淘汰の圧力は、その段階が終わったときに弱められてしまった。少なくともそれは別の性格を帯びることになった。こうなると<人間>はみずからの環境を支配できる立場に立つことになり、自分の仲間以外にはこわい敵はもういなくなった。」
 少し長ったらしい引用になってしまったが、実はこれは本章の結論にも関係する重要さをもっているのである。モノーのこの主張から、われわれは、前頭葉の過適応といわれる現象がこの「あらたな治世」がはじまった瞬間から生じていたとも極言できるであろう。いいかえれば「自分の仲間以外にはこわい敵はもういなくなった」瞬間、前頭葉がもっとも活動できる状況になったのであるが、そこでは自然征服なる観念は、もはや人間的生存のための行動原理の確立とは直接には何の関係もなくなってしまったのである。人間は同じ人間を相手にすることによって、自らの行動原理をうちたてようとしたのである。
 この事実は自然征服の過程が実に多様で豊富であったという事例でもって償われるものではない。なぜならば、自然征服とは、たかだか、他の動物を容易に、平然と食するようにしたとか、当然次のものに変化する自然的存在の寿命を少しばかり、早めたり、遅くしたりする程度でしかなかったからである。
 それにもかかわらず、その事実があたかも重大な意味をもっているかのようにしてしまうのは、人間的(社会的)関係の中でみようとするからなのである。それ故、自然がわれわれにしっぺ返しをくらわしているという比喩的な表現は、いいえて妙であるが、そう言っている限りにおいては(またそう言わざるをえないのであろうが)われわれは人類の大往生をいやいやうけいれなければならないし、その際の生きのびたいという無ざまであくなき欲望ほど、見苦しいものはないであろう。
 自然のしっぺ返しという表現はホモ・サピエンスのずるさをあらわしている。自然のしっぺ返しなるものはなく、ただそうであるかのようにすることによって、ある種の緊張を昇華させているにちがいないのである。この人間の態度もまた、自然の側からすれば、すでに老いたるドミナント・ママルの存在の一様態にすぎない。それはいわば、いつかは狂気の死の帳をくぐるレミングの人間版をしめしている。
 そこで「人間は気がおかしくならない方がおかしい」といったある哲学者の言にもあるごとく、思考するが故に生じる破綻状態によって人類滅亡の原因が作られるのではないか、という考え方が生まれてくるのである。たとえば、(最近においてしばしばとりあげられるテーマであるが)人間の欲望を充足するに実に効果的な手段である機械について考えてみよう。人間はその機械を手段として使用している内に、機械に使用されているという意識が生じ、しかもそれを無抵抗にうけいれる。するといつか機械のデータが死の命令書であったとしても、反逆の態度すらみせなく、黙々としてそれに従う。あるいは敵を一挙にせん滅できる兵器について考えてみても、それが同時に自己の存在をも抹殺できる破壊力をもつことを承知していても、それを使用することを余儀なくされてしまう。今さら説明するまでもないこれらの事例の現実的到来がなかったのは、人間固有の自然的生存本能によって、回避されてきたからというよりは、むしろ反省的な人間が、全人的倫理的意識のもとに「あってはならない」できごととして、狂気の人間の行為を限定し、その結果、かろうじて自制できたからなのである。しかしこういった考え方は理性に対するひかえめな戒めから生じたにすぎないのであり、抑止力としての効果をもちえても、もっと進んでこれらの手段の放棄に迄、人間を駆りたてえなかったのは事実なのである。
 いずれにしても、前頭葉が異常な働きをするようになったのは、前頭葉の対象が人間そのものであったことに起因している。機械にしても、敵を一挙にせん滅できる兵器にしても、究極的には人間の人間征服(支配)の観念によって生じているのである。前者は間接的にそうであり、後者については説明するまでもないであろう。
 ここから一般的に言えることは、前頭葉の過適応の観念は、いわゆる「人間性」と言われるものの喪失の過程の中に種としての滅亡をみようとしている。そしてこの論理が生態学的見地からなされた「人類滅亡論」の骨格をなしているのである。たとえば、最近のノーベル賞受賞者であるK・ローレンツは、著書のタイトルにもなっている「文明化した人間の八つの大罪」として、
 一 地上の人口過剰
 二 自然の生活空間の荒廃
 三 人間どうしの競争
 四 虚弱化による豊かな感性や情熱の萎縮
 五 遺伝的な衰弱
 六 伝統の崩壊
 七 人類の教化されやすさの増加
 八 核兵器をもった人類の軍拡
をあげているが、これこそ人間性喪失の具体的な事実なのであり、現在、生存しているからこそ、大罪として、われわれはのんきに言っておれるが、人類が滅亡した場合には、これらが滅亡原因以外のなにものでもなかったと次のドミナントは断定するであろう。そうなると、われわれは、この考えがさきほどの一ジャーナリストの言明と重複してくるのにも気づくのである。
 これらの滅亡原因は、一応、仮説であったとしても、これからのわれわれの任務は、その仮説のどれが真実になるかを発見することであり、(前にもわたしはそういったのであるが)より正確には、われわれがどの仮説を採用し、そのための生存の方法をみつけていくか、ということになるであろう。これらの滅亡原因のどれも人類の大往生にいたらしめると考える余裕がわれわれにないならば、せめてわれわれの希望する死に方を望むことは間違った人間の態度とは言えないだろう。それではそれはどのようなものであるのか、ここでわたしは一つの例を(それはあくまでも一つの例にすぎないのだが)あげてみようと思う。



 われわれはSF小説といわれるものの中にも人間の未来についての予見がなされているのによくでくわす。今、わたしはH・G・ウエルズの『タイム・マシン』にでてくる、八十万年あまり先の人間の姿を思い浮かべている。
 そこでは人類は二つの種類にわかれて登場している。一つは「生活があまり保障されすぎているために、しだいに退化し、体も力も知能も一般に縮小してしまった」優美な地上のエロイ族であり、他の一つは以前はそのエロイ族のために機械的に働く労働者であったものが、時代とともに「安楽と日光から閉めだされ……色あせて醜い夜行性の化物となった」地下のモーロック族である。
 これら二種類の人類はあまりにも遠い先の人間として考えられるので、もし、先程の「人類滅亡論」が単なる警告ではなく、近々、現実化されるとすれば、われわれはこれら二種類の人類を気楽に想像することさえ不可能であろう。しかし人間の「生き残りの術」がたけて、人類の未来を問えるようならば、わたしはウエルズの描く、この人間像ほど、リアリティをもっているものはないと考えるのである。
 もっとも、ウエルズは人類の二つのタイプについて実際の社会経済状況からその原型をみいだしているようであるが、わたしとしては前者のエロイ族が人間の未来だろうと考えるのである。なぜならばウエルズはあきらかに労働者階級がますます窮乏化に向かうと考えられた社会を前提にしていたからであり、今日のわれわれの社会からは、モーロック族となるべき人種も又、革命によるにせよ、漸次的にせよ、エロイ族の中にくみこまれていく歴史的進行を考えるのがもっとも自然であるからである。
 この具体的事例は、わたしの考える「人類滅亡論」を導きだしている。エロイ族は後にも種としての永遠の生を保証されているのではなく、まさに滅亡寸前の人間の断末魔の姿を彷彿させている。否むしろ新しい生物種の誕生をしめしているようにさえみえる。いいかえれば、前頭葉の発達により人間は、あらゆる人間的欲求をみたすすべをみいだしたので、もはや生息するに必要な人間的欲望を自然の中に作りだしていく主体的機能を放棄してしまったかのようである。
 この仮説は様々な人類滅亡論の主張の一つを採用しているのであり、ローレンツの言葉を借りれば、「感性の萎縮」の考えの延長線上にあるものである。同時にこの仮説は、先程のドミナント・ママルの終焉として傍観的境地に達するための精神的苦痛よりも、はるかに弱々しい苦痛しかともなっていないので、われわれにとって一つの満足すべき理想的末路を想定している。
 というのは、一個体としての人間に老衰死があるように、ここには、かの恐竜の絶滅の例にもあるような、種族的老衰が前提にされているからであり、その限りにおいて、他の自然的要因、たとえば、人間の予想をこえたところで発生した地球的、宇宙的刺激によって、種族としての人類が殺された、というように考えられているよりも、いわば人類がその生を全うした、と考えられているからである。
 わたしの考えるところでは、最近の「人類滅亡論」は自然寿命論的であるよりも、その逆のようである。しかもその内容は短兵急にジェノサイド的傾向を要求している中で、ポピュレーション(個体群)の在り様にのみとらわれている気がする。言うなれば、現在の理性的存在者としての人間のままの状態で、外的要因によって悲運のうちに個体数が減じさせられ、その結果、死滅する、という論法をとっている場合が多い。
 たしかに生物の世界では個体数の減少が繁殖回復能力を失う程度に迄なると、その生物は絶滅の方向をとるという考え方がある。だが前頭葉の発達した生物では、たとえ、将来、人口増により飢餓状態が起こり、その結果、餓死したり、仲間を喰うということがあり、多量の個体的死が生じたとしても、そのことだけで最終的に種そのものがなくなるとは考えられないであろう。(もっとも、人間は十数発の水爆で地球を混乱状態におとしいれることのできる生物であるから、百パーセントそうであるとはいえないが。)それ故に、数多くの不確定要素を含みつつも、人間はその生の欲望を自ら消滅させて死滅するというように考えるのが、もっとも自然的であろうと思われるのである。
 とはいえ、他方、ウエルズを例に出したこのわたしの考えは、現存在する人間には何も言っていないのと等しいとも考えられる。自分たちにちっとも関係のないサロンの話が切実性をもたないのと同じように、ノストラダムスの予言の如く、宗教的色彩の濃い場合は別として、ローマクラブの報告のような、かなりの説得力をもつ主張をとりあげてみても、人類最後の日は二十数年先の紀元二千年を端緒にして、遅くとも百年以内になるだろうという結論が導きだされている今日である。
 今や人類滅亡論はわれわれ自身の、われわれの子の、われわれの孫の存在の問題としてとりざたされている。それ故にこそ、彼らは、まことの人類滅亡論はあと二十数億年の地球の寿命の中で人類の未来を占うような、感性の及ばぬ、気楽なよもやま話であるわけにはいかない、と警告するのだ。しかもこの警告は、必らずしも、悲観主義が先行していた結果生じたものでもないだろう。むしろ、楽観主義に対する若干の戒めが、すなおな表現となって現実性を帯びてほとばしりでたとみるべきかもしれないのである。
 たしかにこれらの見地からすれば、わたしの自然寿命論的滅亡論はわれわれの感性がさわぎたてるに程遠い、無内容を呈している、と言われうるだろう。ここで多少のレトリックを弄させてもらえば、既存の人類滅亡論は理論的構築の態度と実践的態度の完全な分離を前提にしているのである。その代表的例がキリスト教的終末論である。
 この論理が破綻しているといいきれないまでも、少なくとも、永遠の生を要請したところの人類滅亡論であって、中味は人類非滅亡論である点にかわりはないだろう。このカント的理念を含ませたところの人類滅亡論は、いかに感性の血をたぎらせているようにみえても、人間理性のつくるところ以外のなにものでもなく、昔ならば、ライオンにくわれる受難者の気持になって納得したものが、現在では、永遠の生を保証しようとするあがき、実際的には、延命の理性的策を講じようとする冷酷さとなって、非現実的延命への道をしゃにむに志向しているのである。
 こういった考え方のメリットとデメリットを考慮する際に、メリットの諸内容が一時的延命の効果を生んだとしても、又それによって、未来のパースペクティブが展望されうるとしても、今までが、人類滅亡論を生みだすほどの現実的展開であったのであるから、それは、常に、あるたしかな危険性をともなっている、という点を忘れてはならないだろう。皮肉にも、人類滅亡論はその奥にある人間の本心とは別にうちたてられながらも、その展開において、まさにそれの内容を、多少の修正をうけるとは言え、具現化しているのである。その場合、多少の修正とは、全くの幸運の女神によって、人類滅亡への速度が低下させられたことを意味しているにすぎないのである。
 まあ、このような人類滅亡論が論理的破綻をきたしているからといって責めるのも詮ない話であろう。実際、われわれがはじめに紹介したような滅亡の過程の日の目をみたとしても(八〇%の可能性はある)、自分の理性の構図がそうではないと駄々をこねなければ、必らずしも見苦しい様でもあるまい。
 問題なのは人類滅亡の原因の存在を自然のうちにではなく、人為のなかに認めながらも、その到来の回避の可能性をなんとかみつけようとする人間の理性の方なのであるから。重要なのは可能性への期待によって生の証しをみるよりも、可能性のないことの達観によって生の持続のままに身をおくことなのである。そしてこれこそ、自然寿命論的滅亡論に近づくものであるといえるのである。これが可能であるとこについては後述されるであろう。
 しかしその前にこの点をもっと考えてみよう。われわれは人類の歴史を欲望の様々な変化の相のもとにふりかえってみることができると言えるだろう。勿論人間のことであるから、人間は多様の、しかも高尚な欲望形態をもっていると言われるであろうが、いやしくも人間を、動物分類学上、脊椎動物門、哺乳類、霊長目、ヒト科、ホモ属、サピエンス種、といった具合に分類しうる冷酷さがあるのなら、別の観点から、人間を非生物的存在としての神に似せようとするのではなく、生物界の一員としての自覚のもとに、人間生活も又、個体維持と種族保存としての活動以外のなにものでもないと主張するのは、恥ずべき仮説でもなんでもないだろう。
 ただ、ここで問題なのは、かかる仮説の受容が今まで常に付帯条件付でなされてきている点である。即ち、人間の場合、他の生物とは異なった高尚な生活目的をもっているという付帯条件である。ところが高尚な生活目的をもっているという自覚が、人間生活の本質を開示しているのではなく、結局は個体維持と種族保存という知的偏見のない、素朴な生の意欲がこれから必要なのであり、まさにそれこそ、人間生活の本質を開示しているとされねばならないのである。
 ただし、この主張がなされる場合の危険性の多い事実をわれわれが忘れてはならないのは、前頭葉の過度の働きが、億をこえる年限の歴史を通じて確立されてきた生物の生活原則をいとも簡単に曲解してしまうからであり、その結果常に自分に都合のよい解釈を捏造するからである。
 個体維持の原則は何も仲間より物心ともに秀でた状態にあることを理念にしているのではないし、ましてや仲間への殺意を認めているものでもない。又種族保存の原則がその背後に毛なみのよさへの志向性を含んでいるわけでは決してないのである。ダーウィニズムや生の哲学がそれ自体においては、見事な自然における人間のエートスを導出しているにもかかわらずに、後には常に様々に解釈しなおされる悲劇性からのがれられないのは、最近の歴史のしめすところでもある。しかしこの悲劇性は、実は文化といわれる人間的現象が生じた先史時代から始まっていたのである。
 個体維持と種族保存に対する人間精神の価値付与は、それによってこれら二つの事実を、なにか生の目的であるかのようにしている。これら二つは生の事実であるにすぎないのであって、人間がこれらを意欲するというのは、何も虚構の理念にあとおしされているからでもなければ、よき生を志向するためという倫理的意識が働いているからでもない。
 仮にそうだったとしても、前述の前頭葉の過度の働きによる悲劇性をいささかも含むものではない。いいかえれば個体維持と種族保存そのものに対する価値付与が例外的種の行為という根拠づけから許されたとしても、その結果、人間による自然支配の正当性の宣言がなされえても、そこから進んで種としての同じ人間同士に対して、その考えが適用されるとは限らないのである。
 しかるに、生物現象としての個体維持と種族保存の観念が人間に適用される場合には、人間も又生物の一員であるという単純な考えは、もはや通用しなくなり、従って不可避的に、かの悲劇性をも含めて考えられることが例外種としての人間へのより高度の適用として了解されてしまうのである。この場合、悲劇性はあくまでものりこえられるべき障害物として位置づけられ、より高度な段階のための、いわば生みの苦しみとして、生じた現象の尻ぬぐいをしているばかりか、まさに悲劇として大きな括弧の中に包摂されてしまうのである。
 重要なのは前頭葉が個体維持と種族保存を高度な生の目的とすることにあるのではなく、そうなることを、人間的生の本質的な営みであるとして疑わない前頭葉の機能の方にあるのである。
 しかしわれわれはこの前頭葉の機能に対して、倫理的判断を下したところで、これ又詮ない話である。というのは、単に人間にとってのみ意味あるところの個体維持と種族保存の観念は、人間がホモ・サピエンスと言われた時から、自然的環境の支配とひきかえに、与えられていたのであり、その結果人間同士の葛藤を自然のことわりとして許してきたのであるから、さすれば、われわれは次の結論を認めねばならないだろう。
 ホモ・サピエンスとしての人間がこれまで、様々な欲望を充足することによって存続してきたのは前頭葉の対象として自然が意識されたからではなく、前頭葉自身が意識されたからである。いいかえれば、人間がこれまで自然的環境を支配し続けてきたのは事実としても、そこに意味をみいだしているのではなく、実は、その名目のもとに、人間による人間の支配のなかに、歴史的意味をみつけてきたからである、という結論を。
 それ故、人間が個体維持と種族保存の観念を忘れた時、それは人類の終わりを示している。だがその状態は、他の動物に対してわれわれがきめつけた「個体維持と種族保存」としての生命現象への復帰ではない。いいかえれば、動物ならば生存本能によって生を維持していくであろうが、人間の場合、それすらも退化し、様々な生の欲望をもたなくなってしまっていると考えられてもよいだろう。単なる人間にとっての個体維持と種族保存が本来のそれらに変わる時、前頭葉はすでに燃焼しつくしているからである。
 これは何故に言われうるのであろうか。おそらく(ここでは多少でも楽観主義者になりたい)人間は様々な欲望が単なる本能からきているよりも、人間の社会的関係からきているという点を、その前頭葉によって、見抜くであろう。しかし同時に欲望が個体としてのあるいは種としての生を維持する条件であった点がわかっていたとしても、前頭葉は人間としての個体が他の個体の欲望充足のしかたとは異なったそれしか、もちあわせていないことを知るであろう。
 人間的欲望とは空腹時に食欲を覚え、腹がくちれば、それがなくなるといった程の単なる生理的なものではすまされないのである。そこで問題になるのは、前頭葉固有の心的欲望、即ち、他の人間的個体と同じ条件のもとで、同じ様式を伴いながら、均質的に自らの欲望を充足したいという欲望が、過適応の状態になった前頭葉の唯一の機能となり、それがこれからの行動原理をうちたてるのではないかという仮説である。この仮説は、従来、人間はあらゆる意味において自由であり、平等でなければならないという理念としての人間の意識の、生物学的表明であるともいえよう。
 各個体の均質化への欲望はホモ・サピエンスとしての人間の本性のあらわれと考えられる。それ故、決して理念化された架空の実体に帰せられることはできないのである。そのために、おそらく人間は、人間存在のあらゆる様態においても、均質化の方向へむかい続け、その間は、いわゆる「生の欲望」の機能が働いて、種としての存在は続けられるであろう。
 たとえば社会主義社会の建設はそのあらわれであるが、同時にそれはすでに未来の人間のアパシーの到来を予言しているともいえるのは、前頭葉の一つの機能が意味をなさなくなってしまうからである。そして共産社会が再び完全なものにできあがった時点では、それからの人間は、生の欲望が燃焼しつくすまでのおだやかな死を待つだけである。皮肉にも、人間の不平等的存在様態が種としての人間を現在まで生存させていたのである。
 ただしこの言明が、現在の人間における支配者を喜ばせるだけだ、と考えることほど馬鹿げた態度はあるまい。仮にそうであったとしても、それは、ただ人類史のきまぐれとしてのみ、しかもほんの一時的逆行的現象として歴史に残るだけであり、それに比べれば均質化への欲望は倫理性のみならず、生理的反応をまるがかえにして、人間の未来を方向づけているのである。
 わたしはこの態度こそ生物的反応としての人間の行動を規定すると思う。そしてそれは決して理性がそうさせているのではない。むしろ前頭葉が人間の行動を、モノー流にいわせてもらえば、自然的な段階から文化的なものにしてしまって以来、理性といわれるものが果たしてきた役割は、均質化ではなく、その逆であり、そしてわれわれも又、そこにこそ、文化の本質を、いいかえれば人間存在の理想的姿をみいだしてきたのである。その間、均質化への欲望の行動は、あつかましくも、理性的カテゴリーのもとにとらえなおされてしまっており、均質化そのものも又理性的所産とされてしまっていたのである。だがその場合、その行動を促した力は決して均質化への欲望そのものではなかったのは間違いのない事実である。
 ここにわたしがさっきダーウィニズムや生の哲学がみごとに人間のエートスを導出しているといった意味が判明できるだろう。それらが(特に生の哲学が)非合理主義的であるといわれて、今までに批判されたことがあるが、もしその批判が正当なものであったとするならば、それは理性的所産としてのダーウィニズムや生の哲学にのみむけられていなければならない。ところで、ここではその批判に力を貸している合理主義も又、なんのかんのといって、均質化への欲望の実体をすりかえてしまっているが故に、問題ありとされるべきであろう。
 われわれは自然における人間の生のエートスを、いささかなりとも、文化的・理性的次元でとらえることは危険である。なぜならば、その際は、必らずや、スペンサー流の生存競争論や俗流の社会進化論にみられる如き考えが、人間同士の中に適用されるからである。いいかえればわれわれの生物的反応がヒットラーやムッソリーニ的人間観を導出するといって批判される場合、それは生物的反応それ自身にその原因が内在していたからではなく、むしろそういった批判の言葉を言わしめる社会や文化や理性の方に問題があったからである。



 さて、人類滅亡論から、自然寿命論的滅亡論を経て、われわれは均質化への欲望に基づく人間の生物的反応としての行動の重要性を指摘するにいたった。わたしは、その際、何も目新しい主張をしているのでもなければ、さりとて過去の通念を確認しているのでもない。又ホモ・サピエンス的な存在それ自体の誤まりを言うつもりもない。ただ、ホモ・サピエンスとしての人間はこれまでの通念の中に何か盲点をもっていたのではないか、と考えるのみである。
 たかだか、ドミナント・ママルにすぎない人間がカント的発想法をもっているからといって、自然界のドミナントとしていばりくさるのはどうかと思うし、今評判の人類滅亡過程を想像して、あわてふためく現代人が、それでもホモ・サピエンスとしてのプライドのもとに、病める患部にしっぷ療法を必死になってとっているのもおかしな話である。
 思考する器官である前頭葉が過適応の状態になった瞬間、種としての生存のバランスがくずれていたのであり、それから以後、個体的発展といわれる進化の現象はみられたかもしれないが、人類としては、ちっとも進んでいないのである。そのことについては、たとえば、A・コンフォートの「<人間であること>は<感じる>ことにおいては変わっていないが、<考える>ことにおいて変わっている」という言葉がよく伝えている。<考える>ことにおいて変わったところで、良くて、それは種としての生存のバランスのくずれを、多少、しかも観念上、たてなおすのに貢献したのにすぎない。
 所詮、われわれは廻り道をしながら、真の滅亡論者のように種族的老衰死に向かって進んでいるにすぎない。流行の滅亡過程は、いわば現代の交通事故のようなものであり、大いにありうるかもしれないが、あってはならないのである。われわれにとって一番可能性の高い滅亡過程は均質化への欲望がなくなってしまったために生じるアパシーの社会到来があった場合にのみ生じるとされなければならない。そんな時、さきほどのカント的発想(それは現代社会にこそもっとも歓迎されているのかもしれなかったにせよ)はありえないとされ、未来のわれわれは自然界における生物の行動のように、ただあるがままの生を享受して、これまでの人類の自然に対する負債をすまなさそうにあがなっているに違いないのである。
 それほど均質化への欲望は思考する器官を所有する人間においては強いのだ、とわれわれは考えなければならない。しかもこの欲望の働きは、支配欲や物質欲が人間の行動原理を形成していることから生じる、自然による、戒めをうけた現在の人間本性にとって、最も自然的な存在形態であろうと考えられる。そうなれば、今までの前頭葉にコントロールされた知能や想像力や意志でさえも、均質化への欲望のもたらす諸結果の反省から、次第にうとんじられていくにちがいないだろう。
 前頭葉の唯一の機能は、今や、ただひたすらに、ある場合には、ラディカルな手段にうったえても、自己の敵とみなされるものに対してたちむかっていくだろうことは間違いないだろう。たとえその先におだやかな死が待っていようとも、そうだからといって、これまでの負債をよけい拡大させるような、馬鹿げた判断をしないだろうと思われる。

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