第五章 新しい胎動にそなえて
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かつて私はウィリアム・ジェイムズの言葉の中に「私は心の底から平和の治世と社会主義的平均の漸次的到来を信じる」というのを見いだし、このフロンティア・スピリットにあふれたプラグマティストの心の奥底にも、単に個人の奮闘的努力を賞賛する雄々しさばかりではなく、人間社会に不平等の存在しない平安の状態を理想とする気持ちも隠されていたのか、と驚くと同時に、ジェイムズのみならず、この言葉をおそらく心から信じているであろう現代人の精神構造について、あらためて興味を覚えたことがある。
今日、「漸次的」なる形容詞は変革を好まぬ保守主義者の常套語になってしまっているので、平和の治世や社会主義的平均の到来は単なる幻想にすぎないとみなすラディカリズムの影響によって、われわれは幾分ジェイムズのこの言葉に対して疑いの念をもっていないでもない。
が、少なくとも、彼のこの言葉から、彼が人間のあるべき姿に対する現代人に共通の心情をもっていたのではないか、というように好意的にうけとってやれるであろう。
そういえば、もともとプラグマティズムの思想も又、マルクス主義や実存主義の思想と同様、近代思想の超克の意図のもとに生まれた、と見られないでもないので、この思想が現代人の心に共感をよびおこしたのも当然といえよう。ただプラグマティズムは現象面の技術的解決が近代の思想そのものの矛盾を解消しえると思っただけ、現実的且つ楽観的であったがために、現代思想の部分的役割しか果たしえなかったのである。
とはいえ、マルクス主義や実存主義も、社会的変革の面からいえば、とどのつまりは、プラグマティズム同様、部分的な貢献をしたにすぎない、と言えよう。これら三つの思想は固有の特性を第一義的におしたてながら、近代思想にとってかわろうとしたヒューマニスティックな野望の結果、たまたま時代に迎えいれられたのであるが、悲しむべきは、これら三つの思想がそれぞれお互いを排斥することによって現代の旗手たらんとした独善性とその結果の思想的混迷の状態を生んだ点である。
仮にどれかが時流にのって一時的支配をなしえたとしても、それはもはや決して完全な支配をなしえない点をわれわれは、今や、はっきりと認識するようになっている。というのはそれぞれが大人として独立宣言をしてしまっているので、それらのうちのどれかが逆境にある思想になってしまったといえども、そう簡単には壊滅されえず、たえず次の機会をうかがっているからである。
そして現在はおのおのがお山の大将としてにらみあいを続けているのである。従ってこれらの思想のどれも相対化されてしまっているので、きめてのないままに、われわれは現代をむかえるにいたったといっても言いすぎではないだろう。
そうなってくると重要になってくるのは、案外、これらの思想を教条とする頑固者の失笑を覚悟してまでも、現代人の胸に恥じらいおののいている素朴な夢のテーゼ、即ち、マルクス主義と実存主義とプラグマティズムを総合するような考え方で今日的問題を解決するといった姿勢を、一歩さがって、採ってみるということがもしれない。もっとも、この表現が一種のお笑い草であるならば、上妻精氏の言葉を借りて「社会的連帯性と実存的自由と科学的知性とは、現代ヒューマニズムの具うべき諸契機を示すものとして、今日の問題はこれら諸契機をいかに総合するかにかかっている」といいなおしてもよいだろう。
実際のところ、これら三つはそれほどおたがいが対立するものではないし、いずれも同じ根からの批判的分子として生まれてしている点をわれわれは率直に認めるべきであろう。案外そこから現代人であるわれわれの倫理的意識がある種の挑戦的性格を持とうとしはじめているのではあるまいか。しかもある意味では、このきわめて常識的な考え方は、それがあまりにもものわかりのよい折衷主義のようにみえるため、今まではまじめにとりあげられなかったし、とりあげられてもすぐに破産してしまったのである。
もっとも、これは総合の仕方に問題があったからだといえるだろう。丁度幼児の空想のような、頭をマルクス主義で、胴体を実存主義で、手足をプラグマティズムでくっつきあわせたキミーラを創造するようなこれまでの総合は、究極においては誤まりではないといえるものの、なんらの機能性もみいだされえぬ観賞用の寄木細工にすぎなかったのである。
少なくとも、まだまだそれは近代精神の一つの形態であるのである。原子論的発想法の上にたって、各自の欲望をあからさまにして、オールマイティの現代思想を捏造しようとする態度を示したにすぎなかったのである。
まだしも救われる考え方は、いわゆる近代的聡明さに富んだ勇敢な人間の考えるところとなるのであろうが、これら三つの思想の通分可能の第四の強力な社会思想の構築を第一とし、そこから頭がマルクス主義、胴体が実存主義、手足がプラグマティズムとして機能させるなにかをつくりだそうとすることであろうか。
ただしその場合、少なくとも人間存在の理念に関する明確なイメージ作りが要求されてくるだろう。現代社会においても、その新しい人間像が従来のそれにとってかわる可能性があると判断されるのは、たとえば人類ヒューマニズムとか生態学的ヒューマニズムとかよばれる言葉の流行に、うすぼんやりした人間像の輪郭があらわれているからである。
ところでこのような第四の社会思想が(すでに現実的に生まれているかどうかは別にして)従来の歴史的過程を十分にふまえた見方から生じているとみるのは間違ってはいないであろう。いわば社会の進展にともなって、その時代の要請として、そして従来の社会思想の歴史的発展の結果として、その延長線上にあらわれたものとして、思考の対象とされると思われるのである。それ故にわれわれは、定石として、たとえばマルクス主義や実存主義やプラグマティズムといった社会思想の中から、この新しい社会思想の勃興の胚種が何とかして見いだされないものかと考えようとするのであるのである。
他方、われわれは、人類の視野をもっと広めて考えてみた場合、三つの思想を総合するような社会思想、従って、それにともなう新しい人間像の登場は、装いが変わっているからといって本質的にはわれわれが批判的にみる近代的人間像を少しも変えてはいないのだという観点にたてないこともないのである。というのはわれわれは現在、マルクス主義や実存主義やプラグマティズムの思想があらわれた時点で近代思想が終焉し、これら三つの思想がそれにとってかわったと考えられがちであるが、実はこれらは現代思想が成熟した証左とみられるのではないか、とも考えられるからである。現に近代思想と現代思想といわれるものとの間の違いは、中世や封建時代の思想と近代思想との間の違いほどはっきりしていないのである。それ故に、プラグマティズムが近代思想そのままの延長であるとしてそれに批判的なマルクス主義や実存主義とて、自らの思想が徹底的に近代思想を否定し、それをのりこえていったのかどうかを考えてみると、かなり疑しいといわれねばならないだろう。つまりそれらはたかだか現象する人間の在り様に対する評価の基準が違っているだけで、人間の本性にまで楔をうちつけているとはかぎらないのである。従って、われわれは近代精神が(丁度医者の中からも外科や内科の専門医といわれるものがあらわれたように)、分化されていき、子供が独立した場合のように、それぞれが独自の歩みをはじめたのをさして、あたかも、新しい思想の誕生であったかのようにみなしていたのかもしれない。一つの精神がかわるということは単なる親と子の違いに異質性をみいだす姿勢によるよりも、サルと人間の違いの中に異質性をみるという姿勢によってこそはじめて理解されることなのである。この考え方が歴史的な視野を広めてみようという内実を示していることになるのである。それに対して、大雑把であるといって、ほんのわずかな表面的な違いをとりあげて、こせこせと異質性を強調する詮索好きの理性の思惑にわれわれの本性は耐えられなくなってきているのである。
そうなると、われわれが前述の三思想を総合するという作業は、是が非でも新しい精神をうちたてなければならないという生的焦燥感に促されたためではなく、いわば故郷をはなれたさすらい人の安らぎのための帰郷の如くに、それぞれが堪能した日常性の思い出を抱いて、近代精神という一つの大ぶろしきの中に完結状態として終息させる、人類の歴史の一コマであるといえよう。
してみると第四の思想のもとに従来の思想を包摂せしめるといったところで、それは近代精神の原点に安住せんがためであり、所詮は、近代精神それ自身がもつと考えられる抑圧(従ってそこからわれわれが不可避的にもたされる現在の不安・混迷、危機の状態)からのがれようとして、せいいっぱいの痛み止めの療法をほどこしているようなものではないのかともいえよう。
この立場にたてば、われわれは、仮令、マルクス主義や実存主義やプラグマティズムが現代人の心性に適うようにみえても、全面的にそれらに信頼の意思表示をしてはならないという警告に耳を貸すことになるだろう。さらにいえば、これら三つの思想を包摂するものとして考えだされる第四の思想に対しても、それが近代精神の延長線上にあらわれた、いわゆる歴史的結果としての理知的産物である限り、不吉な疑いの念でもって、全面的信服への誘惑をたちきらねばならない、といいきることにもなるであろう。そのためにわれわれは、一つの試みとして、これまでの観点と全く逆の立場に立つ必要性を感じるのである。
2
さて人間の在り様や考え方に対するわれわれの詮索が二つの観点のもとでなされるとしても、前者の観点は大多数の改善論的知性主義者や現実主義的良心家によって真剣に考えだされているので(従って多くの論述が展開されているので)ここでは端折って、これからの論議の焦点は後者の観点の検討となるであろう。
だがこの観点にたった論議とて、あくまでも一つの仮説を展開するにすぎない。そしてそれは、発想の転機が叫ばれている折りに、マルクス主義や実存主義やプラグマティズムだけが、その技術的部分的修正をうけるだけで、根底からの断罪を下される裁きの庭からまぬがれなければならない理由はないとの見方から冒険的になされねばならない。してみるとこの仮説が提言されうるためには、人々の意識の中に、はっきりとしていないまでも、近代精神そのものに対する反発心とそれをおこさせる別の精神がつちかわれていなければならないだろう。
そうなると近代精神とは一体なんであるのか、という考察を前もってしておかねばならないことになる。わたしは次のような私見を展開してみようと思う。
人間の本性あるいは理念を規定する概念がいくつかある中で、ホモ・ファーベルとホモ・サピエンスというのがある。わたしの考えでは、この二つの人間存在の規定が混淆されてある状態が近代及び現代の精神を形成しているのではないか、と思われる。言葉上の解釈からすると、この二つの概念はおたがいあいいれない特性をもっているようにみうけられる。
端的にいえば、前者が人間の動的特性を、後者が静的特性を前提にしている。しかも近代の場合、この混淆の状態といっても、両者が対等にあるのではなく、どちらかといえば、第一にホモ・ファーベルがあり、それがホモ・サピエンスを自らの十全性のために手段化しているといった関係のもとに、人間存在が規定されているようである。いいかえれば人間の英知的特性はホモ・ファーベルとしての人間が自らの物質的欲望を充足するための手段としてのみ働く限りにおいて存在価値ありとみなされるところに近代の人間像の輪郭があらわれているのである。
ここで問題なのは、ホモ・ファーベルとしての人間規定はホモ・サピエンスとしてのそれを付随させなければ、単独では決して存在の意味をもちえないということであろう。この点はホモ・ファーベルが自然界にみられる動物の諸行為とは全く異質の行為をとるとみなされることによって定義づけられているのをみてもあきらかであろう。
それではこの二つの人間規定に対して否というのは、一体、いかなる精神であるだろうか。かかる問いかけをする段になると、社会通念は一種の混乱状態におちいらざるをえないだろう。なぜならば社会通念の範囲は、せいぜい批判的近代思想であるマルクス主義や実存主義やプラグマティズムの統一戦線ないしは一元化への再編成を認容するところまで及んでいるにすぎないからであり、従って現実のわれわれの精神構造はその上にたった日常的な思考習慣にとらわれているため、いまだ見ぬ精神の到来に本能的に敵慨心をもやす保守主義にしがみつこうとするからである。
それ故に自らの全力をつくす反逆的精神はその新しい精神の形容を、アンチ・ホモ・サピエンスとかアンチ・ホモ・ファーベルとしてしか言いえないもどかしさを感じとるか、ないしは暴論をいわせてもらえば、格調ある予言者の如き態度でもってロボトミーの手術をうけさせられた貪欲で凶暴な患者を人間存在の理想像とするような苦々しいイメージを一時的にも彷彿しなければならなくなるかもしれないのである。
この表現はあきらかに言いすぎである。又言いすぎではないとしても、たかだか、大ぼら吹きのスローガン以外のなにものでもない。とはいえこれらに類似の存在形態に、われわれが、侮辱する心的態度をではなく、寛容的態度を見いだした時、存外の客観的実在性の妖気がただよいはじめてくるのに気づくのである。
その時、わずかに太陽の光だけをあびたいという欲望をもつところのいにしえの西洋に存在した樽の中の哲学者や、日本のおとぎ話に出てくる物ぐさ太郎の行為が、従来は反面教師的な意味でかろうじて評価の対象となっていたものから、一転して前向きの姿勢で評価されるべき恰好の対象にならないとも限らないのである。
というのも、かかる表現はなるほど現代社会における抑圧状態に対する衝撃的反応の結果、生じたとみられるふしもあるが、同時に緊張しきった人間の本性に真の意味での自然を与えようと示唆しているからなのである。
実はわたしは、人間の本性は一種の均質化され、透明化された自然状態の持続の中に安住しうると思っているのである。勿論、比喩的ないい方ではあるが、内容的には、この考え方は実存主義者がいみきらう「水平化」の現象を怠惰と鈍い生物的な反応でもって理想化しようとしているのである。しかもここにみられる人間の本性は、わたしの願いとしては、冒頭のジェイムズのいうところの、平和の治世と社会主義的平均の世の中の到来にむけて、おのずと心の準備をしているものとして考えられているのである。
こういった主張は支離滅裂の論理を展開しているようにみえるが、わたしにはここで歓迎されざるホモ・サピエンスの在り様の一端をあえて示そうとしているように思えるのである。
この態度はどこから生まれてくるのであろうか。言葉のもてあそびだという非難をあえて覚悟の上で、その理由を展開してみよう。
まずわたしは前述のジェイムズの言葉が決して人間の本性からの希求として生まれてきていないと考えている点を断らねばならない。ジェイムズにこの言葉をいわしめたのは、丁度ホッブズがリバイァサンを、ヘーゲルが絶対精神を思いついたのと同じ精神構造、いいかえれば近代的思考習慣にのっとったものであったのである。ひらたくいえば、ホッブズやヘーゲルやジェイムズは、近代的自我のめざめを行動の端緒にして時代を形成していった際の弊害を様々の現実的社会的混乱状態のなかに見た結果、その脱却のための精神的支柱を求めてそれぞれ固有の理性的産物をつくるにいたったのである。しかも、彼ら自らの存在への過信に基づいて、自らの力で、その弊害を除去すべく奮闘的になることが呪縛された自己を解放すると信じたのであった。
この考えにたってわれわれは彼らの抱いた理念が決して人間の自然的反応に立脚するものではなく、いわば手におえない放蕩息子の一時的後見人として、所謂正義の味方たろうとする社会的良心だと考えることができるだろう。
それは、ひとえに人間存在の証したるものとしての物質的欲望の追求を正当な行為として評価した近代精神の内的痛み以外の何ものでもなく、この精神の存在を前提にした良心の存在は、なかには人間の本性にかなった理論を有しているものはあるにはあるが、全体的にみて、どこかにひずみとなって人間の論理的判断や社会的機構のなかに具象化されていたのである。
このひずみは近代精神の不可避の産物というより、分身そのものでもあったが、それに対して近代精神はこれまで様々な態度をとってきた。
一つはこのひずみをきわめて過小評価し、人間の力と可能性を信ずる楽観主義のもとに、ひずみそのものを強引にひねりつぶしてやろうとする雄々しい態度である。これは近代精神の態度の大部分を占めていると考えられる。
もう一つはひずみそのものの存在は否定できないとして、むしろひずみの発生する場をできるだけ少なくするために、人間社会の制度を再編しようとする態度である。わたしの考えではマルクス主義だけが今のところ、その態度をとっているようである。
だが、そうはいっても、これら両者は共に前述のジェイムズのいう平和の治世と社会主義的平均の世にむけて努力していた点は変わりはなかったのである。
ところがわたしの場合、平和の治世と社会主義的平均の世の到来は、前述の三人の場合のように人間的努力の産物として、その意味では、現実的歴史的な緊迫状態からの要請に対する回答としてある、とされるよりも、人間的努力の放棄の結果、必然的に生じうるものではないか、と考えてみたいのである。
なぜならば、これらの到来は人間的努力によってありうるのではなく、逆に人間的努力の結果、生まれるものは乱世と個人主義的人間の相克しあう世の中であると規定したいからである。そう考えると、たとえば平和の治世が人間的努力なしには実現しえない、という考えそのものが、一応は真理のようにみえて、実は、おかしな表現である、ということになる。
真理のように見えるのは、当然われわれの存在が所謂近代的人間像のもとにあると考えられるからである。おかしな表現であるというのは、マクハールン流に少しばかり発想の転換を行った者の目からみられるからである。
もっとも、真理と考える者においても、彼ら固有の「平和」の観念の存在することは否めない。ただしその際、平和の実態は、究極において、理性の作成したスケジュール通りに人間の行動を規定せざるをえないような状況においてしかみられえないだろう。いいかえれば、操作された平和の実態以外のものは実証されえないであろう。勿論、これこそ平和の現代的規定であるというのなら、これ以上、わたしは何もいえないであろうが。
ところでジェイムズの意味する平和の治世と社会主義的平均の世ではないにしても、それらを実現するには先程の怠惰と鈍い生物的反応による、というのは消極的であるばかりか、実におかしくはないのか、なる疑問が生じる。仮に怠惰なる言葉の意味しているものが、通常われわれがうけとっているような、悪徳ではないとしてもである。
これに対して、わたしは自分のもっているボキャブラリィの少なさから、かかる表現をしなければならない未熟さとそこから生じる焦りを覚えるのであるが、それでもあえて積極的表現をするとするならば、そして必ずしもニヒリスティックではない姿勢を証明するためには、これらの言葉が、人為性からの解放とか、人間的生物の存在ポテンシャルに応じた諸行為とかを意味する点、及びそれらを人間の行動原理にする倫理的態度を意味している点だけは伝えねばならないだろう。(これとてもまだ抽象的な域を出ないのであるが。)
ではそれはどのような精神構造にみられるのだろうか。わたしはここで一つの具体例でもってしかそれをあきらかにしえない。ある新聞のコラム欄にであったと思うが、得意満面の日本人がおよそ四〇〇キロはなれた東京・大阪間をわずか三時間あまりで行ける新幹線の話を一外国人に話したところ、彼は不思議そうに「どうしてそんなに速く行く必要があるのか」といったとかいう記事が載っていた。おそらく話した当人は文明(そして文化)の進んだ社会的状況を誇りをもって示したかったのであろうが、その外国人にとっては日常生活をエンジョイするためには話し手の考えているような手段は余分なものであったのである。
わたしはこの外国人の精神構造が、今まではうとんじられていたが、これからは、かえって真に平和の治世と社会主義的平均の世を生みだしうるのではないかと思いたいのである。この事例は同時に異質の文化というものは存在しあうものであり、それらは決して同一の基準でもって評価されうるものではなく、ましてや優劣を競い合う性格のものではない、ということをも示しているのである。
この点を重視するならば、わたしの論議が懐古趣味的で、すでにのりこえられている考え方のセンチメンタルな思いに満ちあふれているといわれえないだろう。ましてや、その外国人のもっている文化がまだまだ未熟であると決めつける西洋文化の価値基準をもちつつも、そうかといって逆説を弄して、未熟であるが故に発展途上の道が大いに開かれているとの観測にたって、その外国人の考えをわたしは認めようとしているのでもないのである。
わたしの認めているのは、ただ一点、人間の英知と言われるものが高度な技術化の中で最も映えている現状に彼なりの非現実性を彼が見てとっているだろうということだけである。そして望むらくは彼にとってふさわしい文化は、四〇〇キロをテクテクと徒歩で行くことの中にあるのだと今なお信じていてもらいたいということである。(残念ながら、彼も又、発展途上国の人間は遅れている現代人であると決めつける専横的な合理主義によって、あわれな近代人の楔を踏まされるかもしれないが。)
さてそこで問題になってくるのは怠惰と鈍い生物的反応に対する近代精神の反論である。その中で最も強烈なのはマルクス主義の反論であろう。
それによれば、わたしの提唱するような考え方は人間の社会的、歴史的、客観的、科学的基盤にのっとらない単なるイデーないしは願望として、それ故に反動的な諸機構の支配手段の末席に位置させられるあわれなユートピア思想としてきめつけられるのに違いない。
この際、わたしが真に平和の治世と社会主義的平均の世を建設するためその考えを主張しているのだとくりかえしいったところで聞きいれてくれないだろう。マルクス主義にとれば、(悪しきマルクス主義なのだが)、唯物史観と剰余価値説を認めない者、あるいは科学的立場にたってそれらに挨拶をしない者は、たいていが乱世と社会的不平等の根源にされてしまうのだから、わたしはこのマルクス主義の反論(もっと精緻なそして説得力のある反論もあるが省かせて貰った)に対して弁解しないつもりである。
ただ次の点だけは理解して貰いたいと思うだけである。わたし自身、現代社会はマルクス主義的な世界観の普遍化によって、一つの完結した姿をみると確信している。(それが正しいからというのではなくベターだからである。)それによって近代精神は十全の状態の中で満ちたりた感慨で現状を維持しようとするだろう。
しかしわたしにはこの永遠の持続は不可能になるに違いないから、われわれはその後の世界観を求めねばならなくなるという気がする。(わたしにとっての唯一のきがかりは、マルクス主義的世界観が普遍化される前の状態で、わたしがある意味で超現実的になるということが、わたしのこれまでの倫理的使命感を弱らせはしないかという点である。その点、わたしは自分がまだ未完成のアジテーター以外のなにものでもないということを十分に知っているつもりである。)
その意味でわたしは今は独断的な偏見でもって自説を展開せざるをえないと思っている。私は自説が真理であるとはあえていわない。ただ真理でありうることを望むだけである。
なぜならば、わたしはせいぜい紀元二〇〇〇年までの人間であり、わたしが生きているうちはマルクス主義的な世界の到来(ずいぶんと変様されたとしても)だけはみられるであろうとやっと考えうるだけの制約された人間であるからである。わたしは人間の本性が安じていられる透明で均質化された自然状態が非近代的な理念と超現実的手段によって鮮明になっていく過程をあくまでも一つの可能性とみなければならないと思っている。
われわれが今決断しなければいけないのは、ある意味で、自縄自縛におちいった近代精神の困惑振りとそこから生じるとてつもない緊張状態からの解放なのである。そのためにはあらゆる可能性をわれわれは考慮にいれなければならないのである。
次に問題となるべきはその透明で均質化された自然状態をわれわれはいかなる観点のもとに理解するかであろう。この観念も又抽象的であり、比喩的である。わたしがここで言おうとしていたことは、人間の本性にたえざる奮闘と練磨による克己を要求する場というものがおのずと人間同士の間を不透明にしているが故に、近代精神があらゆる意味の差異に注目することにあまりにも性急でありすぎる点の止揚であり、そのために、人間の(自然的)本性はその元の意味からあまりにもかけはなれすぎてしまっていはしないかという危惧であり、従ってわれわれの本性がそれに耐えられなくなってきている自己を感じとってきているのではないか、という点の示唆であった。
透明で均質化された自然状態はわれわれの本性を促して機能させるような拘束力もなく、又本性自らが機能しても、決してそれを阻害するような抵抗も示さない。一種の無のような存在である。しかし、現代以後の人間社会において積極的役割をはたす必要物として措定されるべきものである。丁度あまりにもごつごつした蒲団に寝ていたわれわれがいつしかふわふわした蒲団をこの上もなく欲するようになるように、独自性をもって活動する様々の社会的対象を包摂する世間の中で、その荒波に揉まれて、自らを律し、きたえあげて、自らの城を築きあげることに倫理的意義をみいだしていた人間が、次に自らの存在の十全的持続と安らぎを求めて息もたえだえになる時、この透明で均質化された自然状態の到来がおのずと求められてくると思われるのである。
その意味ではこの概念は歴史によるある程度の承認をえている。そのために、これまでの抑圧的状態に対する反発のもたらすものとして、これからの本性がそれを必要視しているかのようである。もっとも、この概念の永遠の実在性はみられず、単なる緊張緩和のためのなぐさみものにすぎない危険性を孕んでいるようにもみえる。しかし、プラグマティックに考えれば、なぐさみものであっても、実存的でありうる以上、この概念は必らずしも馬鹿げていないとわれわれの本性が考えるならば、そこに一つの歴史的意味が生じるであろうと思われるのである。
しかしながら、いずれにしてもこの均質化され透明化された自然状態の意味のあいまいさは残っている。即ち、それはあの実存主義が脱却しようとした個性のない、無気力な、普遍への復帰を意味しているのであるのか、又、プラグマティズムがいみきらった、観照的で、果実なき抽象への憧れを志向しているのか、又マルクス主義が断罪を下さざるをえなかった観念的、ユートピア的な思想との蜜月を画策しようとしているのか、なる疑問にあらわれている。さらにこれらに対し、然りと答えるならば、均質化され透明化された自然状態はすでに幾多の葛藤の後、歴史がのりこえてしまったもののリバイバルを欲していることになるのか、そしてそうでないとしたら、それはいかなる歴史的発展の様態を示しうるのだろうか、なる疑問も出てこよう。それらは、現代史では、おそらく、的確に答えられない疑問である。
ただ、あきらかなのは、わたしの提言が近代精神のアンチ・テーゼを象徴していることであり、その近代精神も又、たかだか中世の精神のアンチ・テーゼとしてしか機能していないとの相対性の確認によって、新しいテーゼの現出を大いに歓迎しようとしている点である。
従って、この均質化され透明化された自然状態や、そこにおける怠惰や鈍い生物反応という自然の様態や、平和の治世、社会主義的平均の世というわれわれの理想世界等の諸概念は、まさに未来社会の胚種として実在性をもたんとしているということを期待しているのである。
ここで最も注意されねばならないのは、これらの胚種が人工化されてはならない点であろう。われわれの理知が様々の現状を嫌う衝動に促されて、さも自分の所有物であるかのように、これらの胚種を利用しようものなら、一時的には、みせかけの抑圧なき人間社会が構築されるだろうが、それは悲惨な抑圧社会になることに変わりなく、これら胚種の意図したパラダイスとは全く異質のものとなろう。
なぜならば、われわれの理知とは近代精神の一部であり、「われわれの」なる言葉によってごまかされてはいるが、近代精神とはもはやわれわれの中の一部の抑圧者に属してしまっているからである。それ故に、これらの胚種を育てるのは、近代精神のエピゴーネンに列せられなかった者、あるいは近代精神の毒牙にかけられた抑圧された多数の人間であるに違いない。彼らこそが、人為的にではなく、本性の自然的結果として新しい精神の持主になると考えられるのである。
わたしは以下の諸章で、新しい胎動のなんたるかを、その現象面だけでも、あきらかにしようと思う。いまだに新しい社会形成のプリンシプルについてあきらかにしえないわたしにとって、自然のままの欲求につき動かされて、模索することの道だけが、残されているにすぎないのであって、そのためには、仮令、それが道化の行為であるといわれても、あえてそれを甘受しなければならない、とわたしは思っているのである。
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