第四章 人間存在と倫理の問題について




 科学の発達、科学技術の向上が今まで以上に人間に物質的な満足感を与えたのは厳粛な事実であるが、同時にそれは「人間」についての新たな考察をわれわれに促した。
 これまでわれわれ人間は人間という存在について、概念的にも、社会的にも、ある程度は理解できたつもりでいた。まずわれわれは人間を解剖学的・生理的・心理学的及びその他諸々の科学的見地からとらえることができた。
 次にわれわれは人間がこの地球に生存してからどのような生き方をし、どのように考え、なにを望んでいたかを様々な歴史的事実、文献あるいは人間同士のコミュニケーションを通じて知識として十二分に知るようになった。そして少なくともパターンとしての人間をとらえる際には、現在のわれわれは過去の人間がとらえた程度以上の正しさでもって、人間を理解しているつもりでいる。そしてそれは人間の肉体的及び精神的特性の記述だけ44にとどまらず、人間が人間に対して行なう人格の評価にまで及んでいるのである。
 その証しをわれわれ各種の人権宣言においてみることができるが、その中でも最も新しく且つ興味深いものは、世界的規模でははじめてといわれる、一九四八年の第三回国連総会で決議されたという『世界人権宣言』であろう。この前文はそれだけをとりだせば実に感動的であり、それによりわれわれは人格の存在の至当性の公認がここまでなされたのかと驚かせるのである。まず、私はこれから紹介してみようと思う。それは以下の如く高らかにうたいあげられているのである。
  「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利との承認 は、世界における自由、正義及び平和の基盤をなしているので
  人間の無視と軽蔑とは、人類の良心をふみにじった野蛮な行為を招来したのであり、 また、人間が言論及び信仰と恐怖及び欠乏からの自由解放とを享有する世界の到来は、 あらゆる人たちの最高の熱望として宣言されてきたので、
  人間が専制と圧迫とに対して最後の手段として反逆に訴えざるを得ないようになるの を防ごうとするならば、人権を法の規律によって保護することが、肝要であるので
  諸国民の間における友好関係の発展を促進することは肝要であるので
  国際連合の諸国民は、基本的人権、人身の尊敬及び価値ならびに男女の同権に関する 確信を憲章において再確認し、さらに、より広大な自由の中で社会的進歩を生活水準の 向上とを促進することを決意したので
  加盟国は、人権及び基本的自由の世界的な尊重及び遵守の促進のために、国際連合と 協力して目的を達成すべきことを誓約したので
  これらの権利と自由とについて共同に理解しあうことは、この誓約を完全に実現する ために最も重要なことなので
  ここに総会は、社会の各個人及び各機関が、たえずこの宣言を念頭におきながら、加 盟国自身の人民の間にもまた加盟国の管理下にある地域の人民の間にも、これらの権利 と自由との尊重及び教育によって促進することに努力し、またその世界で且つ有効な承 認と遵守とを国内的ならびに国際的な進歩的の措置によって確保することに努力するよ うに、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この人権宣言を布 告する」
 人間が人間を理解する際にこの世界人権宣言にみられるような物わかりのよさが現存しているのなら、誰も文句はいわないだろう。理屈でわかっているのに、どうしようもないのが現実の人間であることは、われわれの誰もが知っている事実である。そしてこの宣言は決してうそをつこうとしているのではないことを知っているにもかかわらず、うそであることも同時に知っている。現実がそうでないからである。
 たとえば最も新しい歴史的事実としては、この宣言のために最も忠実的に働いたアメリカが共産主義という亡霊におびえ、インドシナ半島の人間に「人類の良心をふみにじった野蛮な行為」をしたのを知っている。それでも、われわれは人間についての様々な特性を熟知しているのだと開きなおることができ、その上に現実がその知識のあらわれでなかったとしても、心の中でそういった不一致の事実に対する認容のうけいれ体制を自然にあるいは意図的に用意していることまでも察知している。もしこれらの事実が人間的本性に基づいているとするのなら、われわれは人間に関する知識がはたして本物の知識であったのだろうか、と疑いたくさえなるであろう。いやそれよりも知識とはいったい何物なのだろうかとも疑いたくもなるであろう。
 われわれは戦争の非人間性、貧困の悲惨さについては何度も聞かされ、それ故自らも十分に理解しているつもりでいる。しかし現実には世界のどこかで戦争が生じていたり、貧困が国家的規模で存在したりしている。この事実もまた知らされる時、われわれはおたがいが了解したところの人間についての知識が正しいものであったかどうかが問われなければならなかった筈である。それと同時に現代においてわれわれはどのようにして知識を獲得しているのだろうか、という問いかけも必要であったであろう。ここにわれわれは新しい「人間学」の構築を必要とする理由が存しているのである。
 ところが、現代人はあまりにもエゴイスティックになってきている。これらの問いかけよりも例の不一致の事実に対する認容のうけいれ体制をまず準備するのである。たとえば理想と現実の差異を当然の現象としてうけとるとか、知識の多元的性格を認めるとか、あるいは知識の対象の限界性に固執するとか、数えあげるに事欠かないであろう。
 これらは結局、個人主義的な考え方に起因するのであるが、その中でもウィリアム・ジェイムズによって「人間における盲目性」としてとらえられた人間の特徴は強い説得力をもって、現代人のわれわれの心をゆさぶっているだろう。彼によれば「事の大小を問わず、およそ事物の価値に関する我々の判断というものは、その事物が我々の中にどんな感情を呼び起こすか、ということによってきまる」のである。そこから「自分自身以外の生物や人間の感情について我々は盲目であるという……我々の誰もがとりつかれているあの盲目病の問題」がでてくるというのである。
 さらに彼はある講演の中で次のようにもいっている。「我々は実際的な生物でありまして、各人それぞれ限られた機能をもち、限られた義務を遂行していくものであります。人は誰でもそれぞれ自分のはたすべき義務は重大なものであり、このような重大な義務を呼び起こしてくる生活状況は意義深いものである、ということを強く感ぜざるを得ないようにできています。しかし、このような感情は我々一人一人の中にひそむ大きな秘密なのでありまして、他人にも同じように自分の義務や生活状況の重大さを感じてもらいたいと思ってもそうはゆかないのです。自分以外の人々は、その人達自身の大秘密にすっかり心を奪われているのでありまして、我々の秘密に関心を寄せる余裕などありません。そこで、他人の生活の意義というものに関する限り我々が考えていることは、愚かしい、不当なものになってしまうのです。また他人の生活状態や他人の理想の価値について、あえて断定的なやり方で判断を下そうとする場合、我々の判断が誤まりにおちいるのもそれがためなのであります。」そして彼は心の奥底では「我々のものを見る眼が外面的で視力に欠けているために、我々が本当に理解することのできないような、いろいろな価値や意味が存在している」ことを確信しているのである。
 このようにして、われわれは他人の正義や善を傷つけるのではないかとおそれるあまり「人々がお互いの持つさまざまな理想について独断を下す態度をとること、このことこそ人間の不正行為の大部分の根源をなすものであり、人間の性格中、最も天使達を悲しませるような特徴をなす」と考えてしまうのである。実はこの例は「人間の盲目病」に気づいたことから帰結する個人主義的考えの典型であり、ある場合には人間のよき倫理的態度でもありうるが、しかしそれが結果として人間の不正行為・残忍行為の現出に手助けしていることになっている場合が、とりわけ現代社会の場合では、実に多いのだということにわれわれは気づかなければならないのである。
 次にわれわれが忘れてはならないのは、人間に関する知識のみならず、今日におけるわれわれの知る様々な知識は、操作された結果、得られたものであるということである。知識とは人間の心に注入されるものであり、人間はただそれをうけとるにすぎない、という考え方は現代社会の思想的支柱になっているように思えるのである。しかもこの考え方が誰もの心の中に、ある種の価値をもっているように感じられるのはなぜであろうか。
 その一つは与えられた知識に基づいてその指示するままに動いておれば、とにかく現代を生きることができる機構が現代において保証されているからである。その二つはこれまでの人間の歴史が実証してきていて、まだ続いている所の関係、即ち人間に不可欠なもののようにとらえられている支配─服従の関係があたりまえの如くにうけとられているからであろう。
 そのくせ奇妙にも操作された知識であるにもかかわらず、その知識に基づく行為は自発的であるかのような錯覚をわれわれは覚えているのである。このいつわりの自発性は一方では迎合への自発性として現象する。つまり操作された知識であるという自覚がなければ、それだけで自発的であるかのような意識となるのである。他方、この自発性は無関心への自発性ともなっている。無関心が積極的なそれとして意識される限りにおいて、各人に自発性の意識が賦与されてくるのである。
 ところで現代社会においては、操作された知識に対して、人間は二つの選択しか許されていない。それを受け入れるか、無関心であるか、のいずれかであって、それ以外の選択は人間にとっては考えられなくなっているのである。又、そのような選択をするのが現代の理想的人間となっているのである。
 仮にここで第三の選択という人間にとって考えられない事態が生じるとしよう。その場合それは直ちに道義的基準にてらしあわされ、常軌外の行為として判定され、その内容がいかに普遍的様相を帯びていようとも、いわば現代の人間の思考習慣に反するものとして道義的に拒否されるのである。そしてその行為者は昔ならば明確に存在する権力の実体による報復をうけ、首がちょん切られるのであるが、現代ではよっぽどのことがない限り管理的観点からフィードバックされ、自己規制的に、安定した生活基盤に戻るように調整されるのである。
 それ故にこの行為者にとっては以前は死への勇気が必要だったが、今では生への勇気が必要になってくるのである。しかしながら、私は今、ここで、性急に結論を求めるのではなく、もう少し現代資本主義社会の、ある人間のタイプを分析することによって、新しい「人間学」を確立する布石としたいと思うのである。



 今日の社会が、教育とイデオロギー宣伝を通じて一人の人間を社会的に価値ある存在として作りだすに当たっては、二種類のタイプの人間を考えているようだ。その一つは社会の動向にアクティブに参画していける能力と決断力をそなえた人間であり、他の一つは限定された対象の処理技術だけをもっている人間である。
 人間のタイプをこの二分法に従わせた場合、たとえば哲学の世界においては、ニーチェの思想にみられるような「超人と末人」、マルクス主義のそれでは「革命家と大衆」、キリスト教のそれでは「選民と衆人」、芸術のそれでは「天才と凡人」といった具合に類別されるであろう。
 しかしこういった類別をするのであれば、経営の世界にみられる「アクター」と「ワーカー」なる類別ほど現代の特徴を端的にとらえているものはないだろう。(この奇妙な言葉は以前、経営の世界で経営コンサルタントの渥美俊一氏によって使われたことがあるのであるが、今回の私のテーマに役立つと思われるので、この言葉によって、現代の人間像をうきぼりにしようと思う。もっとも、現在では渥美氏は主にはスペシャリストとワーカーという言葉を使用しているが、経営の世界では、これらの言葉とて、とりわけワーカーなる言葉は死語になりつつあるという。)
 アクターとは会社経営の基幹部門の中で企画とその遂行に全面的責任を負うことにより経営活動上の不可欠の要因として位置づけられた者をさし、ワーカーとはアクターを通してプランニングされた企業方針の遂行に必要な労働力の提供者であり、いつでも不特定多数に位置づけられている。
 そこでまずアクターとワーカーを渥美氏の経営の世界からひきはなし、それらが社会的勢力となる以前の萌芽形態を二つの歴史的発展の事実にからませて分析するという作業をしてみることからはじめよう。
 ひとつはアクターとワーカーが十八世紀後半の産業革命によって制度的保証を与えられた資本家と労働者という二つの階級を踏襲していることである。アクターは産業の支配者という意味で資本家の、ワーカーは産業活動に雇われて従事するという意味で労働者のそれぞれの身分をうけついでいる。
 この限りにおいてアクターとワーカーは丁度資本家と労働者が利害的対立関係にあるように一方が他方の存在に依存しなければならないと考えつつもアクターのワーカーに対する支配意識、ワーカーのアクターに対する反抗意識が両者の関係の基調になっているとも考えられる。
 他の一つは機械の使用によって確固たる地位をつかんだ分業体制がアクターとワーカー群形成の遠因になっている点である。この分業体制は、機械の性能的限界性により生まれたものであったが、意図的にはあきらかに量的な生産増大を目的にしていて、現在に及んでは、生産過程のみならず消費流通部門を含む全過程に利用されるほど一般化された。
 だがアクターとワーカーが明確な社会的存在として生まれる以前は、分業の形態は多様化されても、人間の操作する対象の特性に依存し、人間存在そのものまで考慮していなかった。
 しかし分業体制が高度化されたとき、それに対応する人間の意識、即ち分業意識が人間自身の特性である判断力(企業の世界では職能として適応されていく)をも分業化するにいたった時、アクターとワーカーが現象したのである。このようにアクターとワーカーは一方では資本家と労働者という階級概念の流れをうけ、他方では分業化傾向をもったものと考えられるのである。
 ところで二十一世紀をむかえようとする現代において、アクターとワーカーはこれらの祖先の直系であっただろうかというと必ずしもそうではない。その変容の過程をみると、まずアクターとワーカーが資本家と労働者とに必ずしも対応しなくなってきたことである。
 そのことについてある人々は、資本家対労働者という階級対立がマルクスの時代ほど深刻な問題として考えられなくなってきたからと言う。なるほどマルクス主義的考えに従えば、資本主義体制そのものの変革が行われない限りは資本家と労働者の階級対立は消滅しない。その意味でマルクスの見解は正しい。しかし彼らは、今日、社会の動向を決定するのは単に資本を持っている人ではなくなってきた、と言うのである。
 たとえばガルブレイスは『ゆたかな社会』の中で次のように述べている。「五十年も昔には……大会社を支配する個人の力も最高のものであった。モルガンとかロックフェラーの重役とかヒルとかハリマンとかいうような人物は本当に強大な力をもっていて……忠誠を誓う他の無数の人びとを従がえて、その動向を指図することができた。過去五十年の間に……私的な富に由来する権勢が小さくなった。……最も重要なのは専門的な経営者が事業の経営権を資本家から奪ったことである。五十年前にはモルガン、ロックフェラー、ヒル、ハリマンなどの人たちは、その所有する会社を論議の余地なく支配していた。あるいは支配するのが当然の権利であった。しかし彼らの息子や孫は富をもっている点では昔と同じだが、会社の経営権はほとんど専門家に移ってしまっている。また昔と同じような所有者兼経営者の新しい世代も生まれていない。」
 又アメリカの経済学者サムエルソンは自身の有名な『経済学』の中で、株式会社の行なう決定は、主として専門家化した経営者によってであって、この階層の重要性がますます増大していることを述べている。つまり企業のイニシアティブをとると考えられていた資本家の地位は今日では名目的なそれにすぎないのであって、実質的にはすぐれた技術と能力をもったスタッフが発展の中心的役割を果たしているというのである。アクター(経営の世界ではスペシャリスト)とワーカーの範疇は資本の制約とは無関係であるか、むしろ両者とも労働者の側にいる立場の方が多いというのである。
 ところが分業の視点にたつと事情が異なってくる。分業とは、最初は、物の生産の行程の特性によって人間が配置されることである。配置される各々の部門の重要性は同価値的に認識されていたし、どこそこの部門を担当するからといって人間の価値までは決定されなかった。その意味で人間は分業体制の中でいかなる労働をしようとも平等であった。
 やがて分業意識が徹底的に人間の行動のメカニズムに入りだし、且つ対象が生産活動のみならず、あらゆるメカニズムの始動の重要な部門をしめてくると、与えられた特殊の分野に価値判断がつけられてくる。即ち、aとbの二つの分野の内、aは不可欠な要素だがbは存在すればより便利だというような考え方である。
 これは生産活動の中では絶対起こりえないことである。生産活動ではaをAという人間がやり、bをBという人間がやっていて、途中でaをBがbをAがやったとしても本質的には変わりのないことである。分業が拡大化し、さまざまの価値判断がなされてくる次元で、Bがaの仕事ができなくなると、AとBの価値の差は職能的見地からつけられてくるのである。
 分業は最初は職務的にのみ考えられていて、仕事に従事する人間までは価値評価の対象となっていなかった。ところが分業における特殊の分野の重要性が認識されてくると、職位的要求を人間に促し、職務をもつ人間の価値をも規定しうるようになった。分業はその仕事の処理能力があるかどうかによって新しい人間の不平等をもたらしたのである。
 五十年前には資本をもっている少数の人が労働力しかもたない無数の無産階級の人間を従えて企業を支配していたが、今日では技術と能力をもったエリートがまだ機械で処理できない仕事への従事に誇りをもっている多数の無能な人間を従えて企業を支配しているのである。今やアクターとワーカーは有能な人間と無能な人間の代名詞になっており、そこから人間の価値評価がなされてくるようになっているのである。
 さて、これまでの考察からアクターとワーカーの出現の基盤は資本主義社会の中の進んだ形態(少なくとも一世代前のとは違ったという意味で、又マルクスの述べる如く革命の予言とは裏はらの、隠かな福祉国家の方向をもっているという意味で)にみられる。そして企業の支配者が資本家ではなく、専門家であるという考え方が通念になってくるに従って、アクターとワーカーの概念は不動の地位をしめてくるように思えるのである。
 両者の関係についていえば、企業において今やアクターとワーカーの対立意識は深刻になってきている。彼らは現実の社会形態のもとにおいては自分たちが同一の階級であることの自覚を持ちつつも、観念的な段階に留まっているため、実際の仕事の遂行の中においては自らを支配する者と支配される者に区別する意識を抱かされている。
 従って彼らの対立意識が深刻化するところの内容をみれば、実に複雑である。一方では階級的平等性の意識、そこから来るところの、自らの階級の正当性を共に叫びつづけようとする意志。他方では人格的平等の意識、特に多数を占めるワーカーの中に形成される意識、即ちアクターの命令によって機械の如く動いている自分の価値の低下の意識等が企業執行内の矛盾を越えて人間そのものの葛藤として渦まいてくる。このゆがんだ様相は他の面でみるとより明らかになる。
 そのためにはアクターとワーカーの現実的な仕事をみてみる必要があるだろう。前述の如くアクターは会社の企画、方針の設定をする。いわば会社経営の重大な責任を負っている。彼は会社のために個人的な生活をも犠牲にしなければならない。彼の労働時間は睡眠時間を除いたすべての時間でなければならない。彼は会社を維持するために必要なあらゆる知識を仕入れ、その知識を実践させることによって具体的に会社を繁栄維持させなければならないという十字架を背負っている。その意味で人間に与えられたぎりぎりの意志力を持っていなければならない。(その点官僚機構におけるアクターはめぐまれているが、それだけにやっかいである。)
 ところがワーカーの方はどうか。彼はアクターの築いた体制の中で与えられた仕事を忠実にやっておればよい。彼の生活の保証は一日八時間(次第に短くなるだろうが)の機械的な労働で十分なのである。彼に与えられたノルマとはアクターの提供する任務を遂行するだけで、致命的な誤まりをおかさない限りは、妻子を扶養できる安楽な生活が約束されている。ワーカー個人にわずかな誤まりが生じたとしても労働組合や国家が理性的立場から身の安全を保証してくれるのである。
 そのような観点からながめるとアクターとワーカーの対立意識は奇妙な形を構成する。即ちアクターは会社や資本家によってのみならずワーカーによっても同じようなことで牽制されているのである。アクターがワーカーに対して自己の立場を主張しえるのは良好な経営成績を上げるからであり、さらに重要なのは、その成績を残すために物理的にもワーカー以上の労働をするからなのである。
 それに対しワーカーの考えはどうか。彼はアクターの仕事が職務にすぎないと思いこもうとする。とはいえアクターの自分に対する非人間的な取りあつかい方をみて、自己の無能ぶりが検証されているかのように感じられ、著しく自己の尊厳が傷つけられる。彼がアクターに比肩しうると考える根拠はアクターが自己のもつ職務的規制の故にあまりにも苛酷な労働をしいられているという憐憫とそこからアクターを非人間的な存在とみなす自己満足である。ところが今や一日八時間の労働はワーカーに与えられた権利である。それはすでにあらゆる人間の意識の中で認められ、普遍妥当性をもっている。ワーカーは、八時間以上働かなければならないアクターの存在を認めることによって、非人間的待遇をうけたしっぺ返しをして、均衡を保っているのである。ワーカーの目からすれば一日八時間で働き、後は自分の時とするのが人間的であるとすれば、アクターは一日八時間以上の労働をすることによって自分をみつめる余裕さえない非人間的な人間になってしまうのである。
 かくてアクターとワーカーは共に非人間的であると再規定されることによって、同等の立場、即ち平等の原則にたとうとする醜い渦の中にまきこまれてしまうのである。
 人間は本来的に平等であろうとする。そのこと自身は正しいことである。しかしアクターとワーカーが人間の個性、能力に応じた職務の遂行者(その真の意味では人間は平等であるのだが)であるにもかかわらず、どうして両者に人間の価値の差がつけられるのだろうか。
 その要因を列挙すれば次のようになるであろう。その一、アクターとワーカーが仮に同種の存在であったとしても、他に異種の権力者的存在(資本家及び資本主義的機構)があるということ、その二、異種の存在が考慮の対象になってくるのは所有とか富の概念が人間の不平等の意識をもたらしているらしいということ、その三、主観的には平等の認識が与えられても、現存的機構からの規制をうけ、そういった認識はずいぶんと歪曲されやすいということである。
 現在では資本主義社会という存在がそういった問題を起こしやすい要因をもっていると考えるのは常識である。それは今までの論議と直接的に関係のある経営の世界の中のアクターとワーカーは勿論のこと、超人と末人、革命家と大衆、選民と衆人、天才と凡人といった存在群も資本主義社会の目を通してみれば人間の不平等をあおりたてる危険性をもっているということである。そしてこの傾向は官僚主義的機構が確立されるにつれ、固定されていくであろうと考えられる。



高度に発達した資本主義社会の中にみられるこれら二つのタイプの人間は今後完全に分離されていくであろうか。答は否である。今のところはこれら二つのタイプは対照的に機能しているために、実体としても明確に把握され、それらの存在の特徴がはっきりと指摘されるだろうが、将来においてはすべてワーカーになってしまうであろう。なぜならばアクターの仕事をも又機械が代行しうるからである。
 ところが同じ一元化傾向を支持するにしても逆の結論を導出する人達もいる。即ち、彼らは、ワーカーの仕事は将来は完全に機械が代行するであろうから、人間はそれを管理するアクターになっていくであろう、と考えるのである。この考えは、それ自身をとりだしてみれば、機械を十分に操作しうる人間の存在を期待し、且つ将来のあるべき人間像を描いている点でいくらかの希望が認められる。
 しかしそれはあまりにも楽観的である。なぜならば社会の動向にアクティブに参画していける能力と判断力を備えた人間であるからといって、管理社会を操作しうることにはならないかもしれないからである。(経営の世界では歓迎されるかもしれないが。)いいかえれば彼らにも自己の動向は決して管理社会の全体的な視野と意図とは無関係の次元にあるものとうけとられるため(客観的にはそれは無関係などころか、ある規制のされ方そのものである。)ただ自己の周囲におこる社会現象ないしは自己に結びつく個々の現象こそがすべてであるように考えられてくるからであり、そして管理社会に対しては、これが日常的利益を提供する不可解な存在であるが故に、他へのあらゆる関心がうすめられてくるからである。
 従ってアクター自身の行為も又客観的に限定された対象の処理でしかなかったということは大いにありうるのである。たとえばアクターの決断とは創造的見地に立脚しているのではなく、答が決まっているものをあらためて再確認するような場合であるかもしれない。丁度われわれが様々な関心をもっているにもかかわらず、テレビをとおしてみる時は若干数の限られたチャンネルの中からしか選ばれないのと同じようにである。
 われわれは一つのチャンネルしか選ばれない限界性をもっているにもかかわらず、応々にしてアクティブに自己の態度を決したかのように錯覚する。つまりそのようなわれわれにとっては若干数のうちの一つを選ぶことが、無数にある可能性の中から主体的に一つを選んだ行為と全く同じになるのである。
 それではある提供された素材以外にも選択の可能性をみいだした人間はどうなるのであろうか。彼は直ちにその考えが誤まりであったことを知らされ、再び提供された素材の中から選ぶように指示されるであろう。
 とはいえ、現在では誤まりであるという言葉は使われない。提供された素材以外のものを選択すれば、指針のための答が出てこないから、答の出るような選択をするように伝えられるだけである。これが後に述べるような理由によって、誤まりであるとする判断と同様にされるのである。
 しかし人間であるから別の可能性をみいだしてそれに固執する場合がある。その場合はどうなるのであろうか。単なる合理的思考を重視する立場からいえば、その人間の態度はありえないと片づけられるだろう。というのは、はじめに提供された素材から選択するということが絶対的な前提としてきめられているから、論理的前提を無視しているという観点から、成立しえない過程を構築していることになるからである。
 かかる理性的見地からは、提供された素材の中から選択する人間が合理的人間といわれるのである。現実には別の可能性を選択する者に対し再選択を要求するのは、要求ないしは指示をするメカニズムを破壊されないためである。
 別の可能性を選択するということはメカニズムの一部分の修正を行なうことではなく、メカニズムをなりたたしめる基盤そのものの破壊を意味している。人間の行為にたとえれば、それは自己保身的見地から再指示、要求を行っているのである。
 ここまではよいとして、では別の可能性の選択を誤まりであると積極的に評価する機構がこれまでになかったといえるであろうか。ここでわれわれは倫理的判断をしてみる必要があるであろう。
 かの合理主義者の判断の基準にあるような論理的前提を無視した行為は、いかなる意図においてであれ、誤まっているという主張は思考の世界において許されたとしても、現実の人間的欲求の存する世界では通用しない場合がある。思考の世界においては観念的に別の論理的前提をうちたてるという逃げ道が残されているが、現実のそれにおいては、かの論理的前提の根拠を与えている現存的実体が後にひかえているため、そういった逃げ道の用意は即、現存の生活基盤の否定あるいはメカニズムに寄生虫のように依拠して自利を図るものの破滅を招くことになるからである。
 従ってこれらの事態に至らないためにも論理的に誤まっているという価値判断の基準が是が非でも確立されていなければならず、かくてその結果、社会機構なり管理社会のメカニズムが整備、維持されていくのである。こういった考え方をなりたたしめるものは、与えられたいくつかの素材の中から一つのものを選択する態度の中に人間的特性の真髄をみいだそうとする野望であり、それ以外の態度を非人間的なそれとする抑圧的論理的基準である。
 そこで再び人間が別の可能性の中から選択するという行為(これはいいかえれば人間が一つの新しい創造を行っていく行為と同義になるだろう)をとろうとしたならば、彼はありえない行為をしたと道義的に否定されるのみならず、現体制を解体するものとして政治的に反逆者の烙印をおされるであろう。倫理とは実は無数の可能性の中からの一つの選択に他ならない。若干数しかないテレビのチャンネルの中から一つを選び出すこととは異なっているのである。
 しかしながら管理社会が整備されていき、フィードバックとか自己規制が支配的な力をもちはじめてくると、テレビのチャンネルの決定でも十二分に倫理的な決断のもとになされているのだという寓話が生まれてくるのである。それ故、倫理をそのような社会の奴隷とさせないためには、倫理は反逆的倫理でなければならないだろう。いいかえれば操作されて与えられた有限の素材に対し常に批判的でなければならず、そのために自らは反逆的との烙印をおされる態度をも辞してはいけないのである。
 反逆の烙印は政治的圧力の背後のもとにはじめてつけられる。それ故反逆として規定すること自体は恣意的である。又反逆の内容は歴史的制約性をもつ。なに故に反逆するかについていえば、常に生の希求が根底にある点で共通している。生の希求が政治性をともなわないでは実らなかったのは、これまでの社会的形態のもつ抑圧性による。そして又生の希求のあらわれたる反逆が、政治的反逆として位置づけられねばならないのは、政治的抑制をもったなにかが現実的に存在しているからである。
 それはわれわれの、再三再四、いっている資本主義的機構であり、官僚主義的機構である。これらの機構は一面人間の生存にとって癌的存在である。これらの機構の人間に対する抑圧性がなかなかに発見されにくい点で癌と似ている。しかもその上に人間の物質的欲望、精神的欲望に応じてくれる麻薬性をもっているだけに癌以上にやっかいである。
 これらの機構はいってみれば『麻薬性癌』のようなもので、人間はそれにとりつかれて知らず識らずのうちに死への準備をしているのである。われわれがこれらの機構に抑圧性を感じていないのは、資本主義的機構が自由的、民主的社会として、官僚主義的機構が合理的社会として現実に反映されているからである。
 自由主義、民主主義、合理主義、これらの言葉ほど人間にとって魅力的なものはない。いわば人間の本性にとって永遠の希求の対象として認識される理念のようなものである。この理念の現実化が資本主義的機構であり、官僚主義的機構である。しかしこれらは理念として必要且つ十分な条件をそなえているわけではないのである。にもかかわらず歴史の皮肉はこれらの機構に巣くう恣意的な意図のもとに、資本主義的機構と官僚主義的機構を現在に至るまで人間に最も至当の存在としてやみくもに認めてきた。
 われわれは科学が発達し、サイバーネーションによる管理・技術社会を迎えるに至って、はじめてそれらの機構の抑圧性を自覚症状として覚えるようになったのである。癌は自覚症状が出たときは末期を迎えているといわれている。現在においてはじめてわれわれが気づいた資本主義的機構と官僚主義的機構の正体はわれわれにとってはまさに妖怪である。この妖怪はわれわれの死刑執行人として最後の抑圧をかけてくるのは必至である。
 しかしここに恐るべき反論が用意されてくる。この抑圧の正体を管理・技術社会そのものの中に求めることである。この考えにたてば管理・技術社会は人間がつくったものだから、人間のための管理・技術社会に変えることも又可能であるという推論がみちびきだされてくる。これはある意味で正しい。なぜならばわれわれは管理・技術社会においてあらわれている事象から抑圧の意識を覚えるからである。
 その意味でフロムが「幽霊が私たちの間をわがもの顔に歩きまわっている。……それは……新しい幽霊なのだ。すなわち完全に機械化され、最大限の物の生産を消費に熱を上げコンピューターに指図される社会である。この社会過程の中では、人間自身が機械全体の一部となり、十分に食物と娯楽を与えられながらも受動的になり、生命を失い、感情も枯渇してゆく」と必至に叫んでいるのは正しいであろう。
 とはいえ人間が簡単に管理・技術社会を人間の管理下に置けるという安易さこそ注意すべきものとして考えられなければならないのである。実は管理・技術社会を幽霊として認識させるところの資本主義的機構と官僚主義的機構にこそ問題があったのである。従ってこの反論は現象的には正しいとしても、資本主義的機構と官僚主義的機構を完全になくそうとしない限りは(そしてフロム個人もそう考えていたに違いないだろうが)われわれは幽霊として認識される管理・技術社会も又なくならないであろうという因果的推論の正しさをみおとしがちになるのである。
 今や資本主義的機構と官僚主義的機構は人間を抑圧するためには蜜月の契りを結んでいる。それらは人間の物質的領域と精神的領域の両方を抑圧しているのであるから文字通り人間をがんじがらめにしているのである。
 以上のようなわけで、われわれの反逆の対象はまさに資本主義的機構と官僚主義的機構でなければならないだろう。しかしここではこれらの機構に対してやみくもに造反的意図をもつことが強調されているのではなく、管理・技術社会の機構に対する様々な意図が実は資本主義的機構と官僚主義的機構への反逆に還元されていることになっているのだという認識の必要性が強調されていると受けとられるべきであろう。
 これらの機構に対する反逆は自己に対するそれと同じである。なぜならばこれらの機構はわれわれの承認のもとにつくられ、且つわれわれはこれらの機構に自ら吸いこまれるように身売りしていったからである。この事実に気づかなければ、人類の破滅はわれわれが自ら予測できるほどの確実さでもって訪れてくるであろう。
 われわれはここに至って、なぜに若干数のチャンネルの一つしか選ばれないような状況にあったかを知ることができた。又なぜにそれ以上のチャンネルの中から選ぶことが本来的倫理的選択であるにもかかわらず、非人間的行為であり、反逆的行為であるとみなされなければならないかを知った。
 ここでわれわれは、一般的とらえ方として、あらかじめ用意された素材の中からの一つの選択を倫理的行為と評価する資本主義的機構と官僚主義的機構が、一部の人間の恣意的な意図を普遍的なものにする場でしかない、とみなさなければならない。(そしてこの表現が一部の人間にとって気の毒だというならば)これらの機構は文字通り人間の不自由・不平等によって与えられているのだという認識にたたねばならないのである。



 そこでわれわれはこの皮肉的な現代の理想的人間像の中にみいだされる知識の実態について再び考えてみよう。あわれにも彼らの知識とは「ある観念を抱かせられること」以外のなにものでもないのである。
 それはロックやヒュームの如き近代における古典的経験論者の「知識とはある観念を抱くことである」という確信の中にみられる生命の発露の残滓さえも否定している。古典的経験論者よりももっと受動的なのが、現代に要請される理想的人間なのである。古典的経験論者はまがりなりにも知識が知られる対象と知る主体とによってなりたっていると主張するだけの人間の生存的意味を知っていた。
 彼らは知る主体の心理的メカニズムの解明が人間をあきらかにするのではないか、という問いかけをすると同時に、知る主体の中に人間的行為を導く情念なり、意志の存在していることを否定しはしなかった。否ある意味では、知性なり理性という如き知る主体の機能が人間的行為にとって第一義的にあると認める態度を退け、情念なり意志による働きの結果に行為の意味を知ろうとする主体的なものをもっていた。彼らはある観念を抱くだけでは決して現実を創造していくことができないことを知っていたのである。
 しかし彼らにとって情念や意志は可感的対象によって触発された精神の主観的機能の単なる動きとしかみなされず、客観的には自然的現象に追随しているものでしかなかった。即ち行為を導く情念や意志もまた自然的産物なのであり、かかる規定をすることから自然によって提供される素材に対しては迎合させられるのもやむをえないものと思われていた。
 彼らはヘドニズム、功利主義、自然主義などに人間の積極的姿勢をみいだすことによりそれ自身受動性の領域から脱けきれないディレンマを解消せしめようと努力したが、結局はウィリアム・ジェイムズが主張する如く「与えられた事実によって魂が掴えられ、生命の流れが惹きつけられてしまうということ、魂がこういうことをなし得る力があるかどうかによって万事は決する」のであると考え、個人主義的な考えの中に人間の自発性をみいだし、自利にふりまわされる自然の奴隷となってしまうのである。
 近代における古典的経験論者にとって、ある観念を抱くとはあらゆる事象についてあてはまっていた。それ故に観念は無限の可能性の中から与えられているのであり、単なる一つの観念を抱くためにも人間の想像力という創造的実体の存在の働きを期待するむきも多々あった。われわれはその期待が後に個人のエゴイズムを助長する契機を与えたという自己批判を忘れてはならないが、その期待の中に少なくとも自然における生物の生命、いいかえれば主体的に存在しようとする意欲性を感じとることができるという意味で、人間的生存の一カケラをみることができるといえよう。
 しかるに現代の理想的人間の抱くある観念とは、まさに特殊な、限定されたそれなのであり、それ以外の観念をもつことは、たとえ古典的経験論者が想像力によって抱くようになった観念をもつことであってさえ、理想的ならざる人間に転落せしめられる事態をもたらすのである。
 そしてここに奇妙な現象が生じる。古典的経験論者にとっては、なんらかの想像力が人間的主体の残滓を保持していたが故に、ある観念をもつことと、その人間がなんらかの行動をすることとが別であっても美徳の条件を兼ねそなえていたし、極端な場合、両者が別であることにさえ人間的生存の主体的意味がみいだされたのである。つまり倫理を語る者のディレンマにみられるように、あることをなすべきであると断定することと、そのあることをなそうと決断することとは別であっても、それが共に人間的判断であるということによって許されていたし、またそのディレンマによって人間的生存の意味が深められたりもしたのである。
 ところが現代の理想的人間によってはそのディレンマは存在していないのであり、アリストテレス以来の苦しみはもはや解決されているのである。というのはなすべきことはあらかじめそのことをなすためのレールが敷かれた上で設定されているからであり、なすべきことは即なすことなのである。なすべきこととは従来人間が価値あるものとして理念として設定したものであるが、この場合なすべきことはあらかじめ抑圧的人間あるいは機械がなすことを決定した上で、又それが実現可能であるとの答えを導きだした上で設定されているのであるから、理想的人間にとれば、はじめからなすべきことを設定する必要はないのである。
 その設定の不必要な故に理想的といわれる所以があるのである。それ故に理想的ならざる人間や又反省的なわれわれが、理想的人間の行為とは笛の音につられて次々に海の中に飛び込んで死んでいく寓話の中の鼠のそれのようだ、といったところでこのような理想的人間にとってはちっともわからない説明となろう。
 しかしながらこのような理想的人間に対してなぜにわざわざなすべきことが設定されるのだろうか。それはまさになすべきことが特殊的であり、全人的観点にたっていないからなのである。
 もしなすべきことが全人的観点にたっているのなら、それは人間の内面から発する欲求のあらわれとみてよいであろう。なぜならば人間としていかに生きるかが真に理解されているならば、このなすべきことの価値は一挙に崩壊していくであろうから。われわれが理性的人間にとってなすべきことが特殊的であるといいうるのは、それの内容に共感しがたいエゴイズムを感じるからである。即ち、なすべきこととは現存の生活基盤を維持することであり、現存の秩序を守り、順応精神と従順なる本性の働きの中に人間的生存の価値をみいだすこと以外のなにものでもないからである。
 われわれにとって問題と感じられるのは、現実になしている行為が理想的人間にとってなすべきことなのであるとうけとられていることであろう。その現象の中にすでに人間的ならざるものの恣意的な意図が隠されているのである。なすべきことの内容のすりかえはこういった意図がなければ実現できないのである。
 反逆する賢明な精神の持主であるのなら、現在なすべきこととして至高の価値が賦与されている事実を否定するであろう。あるいはなすべきことであるという付帯条件がつけば無内容な又白々しい思いをさせる内容であっても無批判にうけいれようとする思考習慣そのものすら否定するであろう。彼らにとってそのことがなすべきことそのものをすら否定しているとの汚名をうけようが意に介さないであろう。むしろそのような汚名のきせ方が人間的ならざるもののとる常套手段であり、常に普遍的立場にたって自らの存在を権威づけることしか考えられない彼らの悲劇性のあらわれであるとみるであろう。
 勿論なすべきことは本来的に人間にともなうものである。しかしそれは全人的観点にたって導出される内容のものでなければならない。なすべきことはまさに人間がなしうるものとして決意した瞬間にさん然と輝くのである。
 あきらかにそれは人間の意志の中に創造されている。しかもその意志はさきほどの古典的経験論者のそれとは異なっている。彼らの意志は自然的メカニズムに規制されている。その帰結が個人の生存にとっての思想的保証を与えたことはわれわれの知るところである。にもかかわらず今や抑圧者の意志のあり方の方が支配的であるために、全人的観点にたつことすら反逆的といわれるのである。
 だがここに要求される意志は他の人間の存在に関しては無関心ではいられないような意志である。もし無関心でいるとしたら将来自らが喪失の暗闇に吸いこまれていくであろうことを確実に予測しているような意志である。その上そのような意志が全人的観点にたっているといってもカントの「君の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という如き抽象的な根本法則をもっているのではない。
 もし命題化していえるとするならば「君は貧困や戦争に無関心である状況から脱出せよ」「君は被抑圧者の解放運動を、自己のエゴイズムから、否定するような言動はつつしめ」といったきわめて具体的なものとなろう。
 今やワーカーは現代において最も要求されているところの理想的人間になりつつある。われわれが獲得する知識はすべて操作されている。奇妙にもその意識は行動への道までも準備してくれている。その道に従順に従って歩んでいけば、われわれはすばらしい天国に至る。後は死へのトビラを開けるばかりである。
 現代の知識はわれわれに知識であることを忘れさせる麻薬性をもっている。気にいらなかったらその知識については忘れたまえ、そのかわり君が眠っている間に頭の中に植えつけておいてやろう。君がもしとがめられたら、そんな知識なんて知らなかったのだといえばよい。要するに君はその知識に積極的に反対しなかったらよいのだ。それが君のとる行為のすべてなのだ。現代の知識はそうささやいている。経営の世界においてたとえられたアクターとワーカーはわれわれの最後の区分なのだ。われわれはいずれそれらを区分する主体性すらも失うであろう。



 なにかがわれわれに叫んでいる。それはこういっている。
 「今のところ万事が好都合にいった。人間は自らの本性に従って墓穴を掘っている。人間は神になることを志向して、自然の動物になった。動物は自分と同じ仲間の存在価値については知らない。人間は概念としての人間の存在の事実を知ったが故に、もはや人間の存在価値について自らを問いかけていこうとする意欲を失った。
 プロセスこそ違え、人間も動物と同じような存在形態をもつようになったのである。かくて人間は、外見上、他人と同じ構造をもっていることを知ってしまったので、もはや被抑圧者である人間がすぐそばに現存していることを忘れてしまった。人間は被抑圧者の解放が、自らを含めた解放に通じた唯一の最後の倫理的行為であることに気づかない。あらゆる社会のメカニズムの中で被抑圧者のみがアシュラの如く人間的生の雄たけびを求めている。
 それ故彼らのみが真に人間的であるのである。その他の人間は人間の仮面をかぶった機械人形にすぎない。この機械人形はひたすら死を求めている。従って彼らの存在は問題にならない。少なくとも資本主義的機構と官僚主義的機構が存続している限りは大丈夫だろう。これらの機構は是が非でも残しておかねばならない。そしてあらゆる人間を狂気の死の道へと手引きしてやらねばならない。人間だけにユートピアを築かせてはならない。そのためには、気づかないで同胞を裏切っている人間のエゴイズムを徹底的に利用していこう。いや利用せねばならない。このエゴイズムなくしては人間を機械人形にすることはできないのだから。」
 それは確実にわれわれの精神の中で叫び続けている。

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