第三章 被抑圧者の問題について




 これまでの人間の歴史において、被抑圧者は様々の名前でもってよばれてきた。
 まず暴風雨や地震や病気などが人間の専らの対象であった時代においては、すべての人間が被抑圧者であった。人間社会の中で考えるならば、古代においては奴隷や農奴が、中世においては農民・市民・町人が、近代においては賃金労働者が、現代においては文明人にほんろうされる未開地域の人間や白人社会の中の有色人種や移民者やあるいは公害病患者が被抑圧者としての新しい規定をうけた。
 そして被抑圧者及び抑圧的社会構造が変化・消滅しない限りは、多様な形の被抑圧者群が存在するようになっているのである。これらの被抑圧者は、その抑圧の対象・構造がどのようなものであれ、共通して、被支配者、被搾取者、被圧迫者、無権力者、被差別者なる名前でもってよばれてきた。
 われわれの現在抱いている人間観からすれば、自然そのものが抑圧の本源であると考えられる場合はともかくとして、一人の人間、一つの人間集団、あるいは一時期の人間社会が抑圧の根源となって生まれた被抑圧者の存在は断じて許されるべきではないだろう。この断定は被抑圧者がなくなればよいのだという希求の念からだけではなく、抑圧の原因が同じ人間にあることに対する怒りからもなされるべきである。
 それ故、最初、私は抑圧者が人間であるために、存在するようになった被抑圧者の悲しき真実の姿をうきぼりにしようと思う。従ってここでは抑圧の根源が自然的諸対象に直接的にむけられる場合は除外しよう。もともと病原菌や自然の猛威に対する人間の闘いは自己の肉体的存在をかけた偏見なき生存への証しである。文字通りそれは自然と人間の普遍的なあり方の原型として存在させなければならない。
 人間の生き方とはある意味では、そういった自然的抑圧に対して人類としての人間がいかに克服し、なくしていくかにあるともいえるのである。人間社会において被抑圧者といわれるものが生まれたのは、人間の自然に対する克服の問題からではなく、人間の人間(厳密にいえば他の人間)に対する克服の問題からであった。最初はそれは人間の歴史的存在性からくる制約として同情されるべきであったろう。
 当初、人間は水槽の中の金魚のように餌は与えられるものと信じ、それをいかに食べるか、を生存の問題だと考えていた。だが、人間の要求と自然の提供のバランスがくずれた時、人間は自然の提供をさらに拡大させていく方向(労働)をとったのであるが、やがてそれに対する労苦を厭い、他人を利用することの価値を発見するという思考的狡猾さを身につけた。比喩的には、それは自然や人間の力によって水槽にほうりこまれた一定量の餌の少しでも多くを獲得しようとして闘う無邪気な金魚の行動であった。
 最初その行動は素朴な力の論理として展開されたが、人間の思考的狡猾さは、人間には優劣が存在し、その優劣の差の関係を維持していく方が人間にとっては好都合であると同時に、正しい生存の方法でもあることを人間に教えた。以来、この考え方はいかに粉飾され体裁をととのえていようとも近代にいたる迄、採用されてきているのである。
 人間の自然に対する克服という人間的課題が人間の人間に対する克服の問題にすりかわった事態は人間社会の中の不可避的ともいえる汚点であった。当初それが同情的評価でもってうけいれられたのも人間に対する克服を自然の中の生存の問題に帰さざるをえない歴史的存在としての人間の素朴性と限界性のためであった。だがこの同情は、すべての人間の課題は生存の問題だと無原則に定義づけることによって、現代の抑圧的状況を弁護するにはいたらないであろう。なぜならば人間の人間に対する克服は生存の理由にではなく、支配の理由に基づくようになってきているからである。
 この支配の関係が成立するや、人間の歴史は人間と人間の闘争の歴史として展開された。マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』でいうように「自由民と奴隷、都市貴族と平民、領主と農奴、ギルドの組合員と職人、要するに圧制者と被圧制者は常にたがいに対立して、時には暗々のうちに、時には公然と、不断の闘争を行なってきた。この闘争はいつも、全世界の革命的改造をもって終わるか、そうでないときには相闘う階級の共倒れをもって終わった」のである。
 こういった歴史的展開の中にも、人間の歴史は進歩といわれる道を歩んだといわれたのである。だが、マルクス、エンゲルスのいう圧制者つまり抑圧者は人間の歴史の進歩に貢献したとはいわれえないであろう。抑圧者の課題は人間の存在の問題を追求することにあるのではなく、常に被抑圧者をいかに抑圧、支配するかにあるのであって、人間の歴史の進歩などには少しも関係していないのである。なるほど抑圧者は彼の生き方において、めぐまれた、充実した現実を求めていただろう。だがそれは彼ら自身の生存の問題にかかわっているだけであって、人間の歴史の進歩にはかえってマイナスに作用しているといえるのである。
 皮肉にも被抑圧者の方が人間の自然に対する克服のために純粋に貢献してきたのである。彼らは生存の他に一切の野心と装飾的思考をもたなかった。彼らは正当にも事故の生存のために、人間としていかに自然を克服するかを純粋に考えることができた。人間の歴史の進歩はまさにこの行動そのものの結果生まれたのである。
 もっとも、これまでの人間の歴史において被抑圧者の果たしてきた役割が十分に評価されてこなかったのは、人間の歴史とは常に勝利者、支配者の、即ち抑圧者の歴史を意味してきたからである。抑圧者は常に被抑圧者の成果を私的所有の形で横取りするものである。たとえば生産技術の発達は被抑圧者の人間的欲求が自然の克服の過程との一体的関係において進行したのが真実であったが、結果的にはそれが被抑圧者の生存の問題から主体的に導かれたものではなく、あたかも、偉大な個人の偉業の結果にすぎないかのようにされるのは、まさにその背景に抑圧者としての自分を利するための抑圧の意図が介在していたからである。
 さて、被抑圧者は常に多数者の形をとって存在してきた。少数の抑圧者と多数の被抑圧者の関係は絶対的な根拠をもって存在していなかったが、リアリティをもっていた。それ故、少数が抑圧者の、又多数が被抑圧者の属性であるかのようにみられてきた。だがなぜに被抑圧者が多数者として存在しなければならないかの遡及的反省をわれわれが行なった時、多数者の犠牲をともなわざるをえない社会構造の未熟さに気づくばかりではなく、その社会構造にあぐらをかいて権力支配によって自利を求めようとする指導者達のエゴイズムの存することをも察知するであろう。なぜならばもし、社会構造の未熟さだけが多数の被抑圧者の存在の原因であるのなら、その超克的行為はすべての人間の意識になんらの齟齬も生じさせることなく、新しい進歩のために、急速の割合でもって、社会変革に転化しえたであろうからである。
 過去のおろかな人間は、人間の操作に人間の最良の生き方の秘密が隠されているかのような世界観をもっていた。人間をうまく利用するものが常に支配者であった。残念にも利用される者も相手の人間の力に屈しているのがわかっていても、抑圧─被抑圧の関係は人間社会にとって不可欠の要素であると思いこんでいた。こういった考え方からくる被抑圧者の抑圧からの解放の問題は、いかにして自ら抑圧者に転じうるかにあらわれる。即ち、抑圧され困窮している状態から脱出するためには、抑圧する側にたつのが最も現実的に可能な方法であると考え、仲間の被抑圧者の存在をかえりみずにエゴイスティックになってしまうのである。あるいはそのように極端ではないにしても、被抑圧者の苦しい立場からのがれるためには、まず権力と富をにぎらなければなにもできないのだと考えるようになるのである。
 それは一つの社会構造を価値観から変えるような変革ではなく、前述の金魚の餌のとりあいとなんら変わらないであろう。そこにはあいかわらず抑圧─被抑圧の関係が前提にされているのであり、このままだと仮に被抑圧者が少数になったとしても、真の人間解放は成就できないであろう。
 われわれの課題とはまさに現在の被抑圧者の存在を根絶することである。根絶とは抑圧─被抑圧の関係の完全なる破壊以外にはない。そのために権力構造の構築を許さぬような社会の建設をグローバルな見地でなさねばならないだろう。その前提にたって、私は被抑圧者に課せられた二つの抑圧、即ち物質的抑圧と精神的抑圧の実態について素描してみようと思う。



 物質的抑圧の典型は「貧困」であろう。これまでの人間の歴史において被抑圧者は常に貧困にあえいでいた。逆に貧困であるが故に被抑圧者と規定されていたともいえよう。この貧困の結果、人間は「寒さ」や「飢え」などのような自然的抑圧を直接的に意識するのみならず、「病気」などにあらわれるような自然的抑圧を、他人との比較の作業を介してのちに、間接的にも意識するのである。物質的抑圧は人間が自然的抑圧に屈服させられているかのような現象形態をともなう。即ち、物質的抑圧は抑圧の人為性を人間の意識の中の了解事項として認めさせつつも、自然的抑圧によってうけるセンチメントと同様のセンチメントを人間の意識におこさせるのである。
 これまでの社会においては貧困は自然的抑圧の問題としてとりあつかわれることによって、貧困の人為性についての考慮が省略されてきた傾向が多分にあった。つまり人間にとっては貧困の意識の差が問題であったにもかかわらず、それを捨象して、貧困の意識を一様に自然的抑圧によってうけるセンチメント一般の問題にすりかえることによって、貧困の存在の人為性が考慮されてこなかったのである。
 なるほど貧困の意識は自然的抑圧による感性の被制約の意識として現象的に人間にあたえられる。しかし人間は逆に貧困の中に程度の差をみつけた。それは貧困が人間の自然に対する克服の問題としてとらえられるよりも、人間の人間に対する克服の問題としてとらえられる方が理解されやすかったからである。その結果、貧困の原因が自然の征服への未熟な段階に求められるのではなく、貧困の差を既存の事実として前提し、貧困におちいった個人の、あるいは特定の人間集団の人間性や人間的能力の欠如にある、と考えられたのである。
 それにしても、貧困は常に悲惨をともなうものである。これは現象的には社会的富の分配が不平等である社会構造の所為であろう。端的にいうならば、少数の富者と多数の貧者とをなりたたしめる社会的構造、多数の貧者からの搾取によって少数の富者を存在させる経済的構造の存在しているためである。
 貧者が常に悲惨であるために、困窮する被抑圧者のほとんどは呪詛・諦観・世辞の狡智しか身につけられない。いわば独りよがりの犠牲が常に悲惨の方向へと走らせていたのである。その中にあって、他方、人間は同時に様々の幻想もあたえられてきた。呪詛・諦観・世辞の人間的生き方を本質的とみる喜び、受難及び清貧の思想における生き甲斐の積極的評価、貧困の偶然性の独善的理解からくる富裕に対する途方もない楽天主義、いいかえれば砂浜の中に隠された一粒のルビーを個人の努力次第でつみとれるという可能性の信仰等々である。
 これらの幻想が少数の富者と多数の貧者をますます特徴づけ、人間の悲惨を拡大させるイデオロギー的役割をはたしていたのである。なるほどこれらの幻想には一部の夢があることは否定できない。だがこの夢が実現されるためには既存の社会構造を維持することの条件が守られねばならないし、その範囲内なら、その夢は健全なそれとして認められるにすぎないのである。それと同時にこれらの幻想に依拠した健全な夢の実現は、困窮する貧困の多数存在している事実を忘れさせるという麻薬の味を人間に覚えさせている。このような幻想の存在する社会では、まったくの偶然による幸運の体験ではないならば、客観的にはエゴイズムの鬼にならなければ、健全な夢の実現などとうてい不可能なようになっているのである。
 貧困の悲惨の悲惨たるゆえんはまさにそこにあったのである。結局この幻想は抑圧者のこれまでの苦労の回顧による教訓話としてあるばかりか、抑圧者が維持しようと考える抑圧─被抑圧の関係の強化と、それによる被抑圧者への抑圧の手段として機能せざるをえなかったのである。
 にもかかわらず、現実社会においては貧困の悲惨はそれをうける被抑圧者に対する同情をよびおこしはするものの、他方では被抑圧者を人間の落伍者として、いいかえれば人間的に駄目な者として評価させるものである。そして貧困による悲惨を味わった人は物質的に貧困なるが故に差別されるべき人間として考えられてしまうのである。
 その根拠などどこにもない。ヒットラーのような人間差別論を展開しえないとしても、せいぜい人間における区別性が人間の属性として存在しているからだという抽象的な根拠が認められる程度である。実は持てるが故に、又持たざるが故に、人間そのものが差別されているのである。
 もっとも、マルクスが『賃労働と資本』の中で、家の所有の場合を例に出していっているように、貧困の概念そのものは相対的なものである。大きな家をたてても、隣りに宮殿がたてば貧困の意識はおこるのである。それ故貧困の程度をほとんど人間を餓死寸前の状態にまでもっていっても、その本質が解明されないように、全般的に貧困が漸減し富裕化に向かっている事実をもってしても貧困がなくなっていると考えられないし、又貧困そのものの説明にもならないのである。むしろこういった思考基準にのっとるよりも、貧困の総体的性格をうきぼりにして、なぜに人間が貧困を精神への抑圧的実態として感じるかを究明することの方が、われわれにはより重要な課題なのである。
 しかしながら、ここでわれわれは現実的におしよせてくる一つの敵にぶつからねばならない。それは次の考え、即ち、すでに現在では貧困は重要な問題ではなくなっており、従って被抑圧者なる存在は現在ではみられないのだ、という執拗な考えである。当然この考え方は抑圧者や自由人といわれる者から良心的に提出されたものであるが、同時に被抑圧者のセンチメントをもくすぐる魅力をもっている。
 たとえばガルブレイスは、マルクスの思考方法とやや類似した考え方にたって、「貧困については一人の所得が生きていくにはたりるものであっても、社会的な所得水準よりはるかに低い場合に、その人は貧困なのである」と定義するのであるが、今日のアメリカの現状等から「貧困は、大多数の人びとの問題から少数者の問題になり下がった。貧困は一般的ではなくて特殊な場合になった」という。そのため彼によれば、貧困状態にある人間は「品位を保つのに必要な最小限と社会的にみなされるものを持ちえない、したがって社会から品位がないと判断されても仕方がない、社会的に満足と考えられている程度以下の生活をしているので、文字通り堕落している」ということになるのである。
 おそらくこういった考え方の背景には科学技術の進歩により、生産力が高まり、生産量の増大がすべての人に恩恵として富を分配させるために、貧困が少数者の問題になったという判断が成立しているのであろう。あきらかにこの考え方は貧困が特殊的ケースである社会においては、すべての人が貧困の総体的性質に疑義をはさむよりも、自己の物質的欲望が容易に満たされる状況にあまんじるように主張しているようだ。
 これは抑圧者の一つの懐柔の論理にもなりうるであろう。この論理は同時にわれわれの主張するような抑圧と被抑圧の状況、いいかえれば現在においても貧困が厳然として多数存在している主張に対する反論を用意しているのである。つまりわれわれははたして被抑圧者なのだろうか、と逆襲してくるのである。さらに仮にわれわれが現代人を被抑圧者として認めても、では抑圧する側とは一体何であるのか、抑圧者といわれる者はたしかに存在しているといえるのだろうか、と追いうちをかけてくる。
 この自信ある逆襲は抑圧する側のもつ権力の拡散化現象、人権の昂揚的浸透による権力の一元性の不可能性を導く現状分析を行なっている。そして現代社会では抑圧者のもつ権力ほどはっきりしないものはない、という結論を下しているのである。
 リースマンはその姿を今日のアメリカを例にとって次のように皮肉っている。「戦後のアメリカでは実業家たちは労働組合指導者と政治家がアメリカを動かしているのだ、と考え、また労働組合や左翼は『ウォール・ストリート』ないし『六十一名門家族』がアメリカを動かしているのだ、と考えている。ところでこのウォール・ストリートはといえば、これまた資本形成のバロメーターとしての権威を失ってしまったものだから、償却準備金や社内保留金をたんまり貯えこんだ中西部の産業資本家たちこそがアメリカを動かしているのではないかと考えている。……ところがウォール・ストリートがほんとの実力者として見立てている中西部の産業資本家たちは、あきらかにウォール・ストリートの連中より実力があるとはいうものの、……自分たちを受益者のための委託管理者にすぎないのだ、と考えるようになってきている。もちろん、労働組合や左翼の立場からみるならば、これらの産業資本家たちは戦後生産局を動かしてそれぞれに金儲けをした連中だということになるのであるが、同時に戦時生産局の仕事を引きうけた経験によって、産業資本は政府に飼いならされてしまったのだという見方もできる。政府の仕事を引き受けたおかげで、産業資本家たちは自分たちの社会を『他人』の目でみるようになってしまったのである。」
 話を戻せば、われわれにとれば困窮する人間は被抑圧者である。しかしながら社会に抑圧的関係が存在している以上は、その中で貧困が特殊ケースになったからといって、また抑圧者の実態が不明であるからといって、被抑圧者の存在がなくなっているとは決していえないだろう。リースマンの主張には抑圧者間のぜいたくな悩みぶりを指摘している点ではまことに興味深いものがあるが、貧困の問題あるいは被抑圧者の存在の問題のとりあつかいをなにか恥辱的なものとしてうけとっているのか、ことさら避けようとするふしがみられないでもない。
 実際のところ、貧困の問題がまだ残存している、あるいは被抑圧者の問題はまだまだ解決されていないからといって、それらについて同情することによってリベラリストたらんとすることと、被抑圧者の全的解放をかかげて、抑圧者総体を否定ししようとする考えとは相当の隔たりがあるように思える。結局のところ今日の論理においては前者が抑圧者の考えであり、後者が被抑圧者の考えであるといわれてもしかたがないであろう。
 以上、われわれは物質的抑圧を貧困の例にとって考察してきた。そしてそこから、物質的抑圧の背後にある感性的人間の精神の矛盾を社会状況の反映としてみるにいたった。その結果、現象的に貧困が少なくなっただけでは決して人間の精神の矛盾が解決されるまでにはいたらないことを知った。それは人間の生存の本質にかかわるなにかを示唆しているのである。
 


 次にわれわれは現実的に存在するもう一つの抑圧、すなわち精神的抑圧について考えてみよう。精神的抑圧の実態は「人間疎外」である。今までの話であきらかになったように貧困の悲惨は物質的不足にみられるのではなく、人間存在の非人間化にみられるのである。つまり、われわれは非人間的人間、自己のものでない自己の現象的露呈を貧困の状態の中にみるが故に、悲惨に感じとるのである。人間疎外化現象はいわば心の貧困、思考の貧困である。それは人間の内面的自発性が、人間を本来的人間的状態にさせていないところの抑圧的社会にでくわした時の、苦衷を伝えている。
 精神的抑圧とは人間が思考する存在である限りにおいて、自己の存在を矛盾的なものとして位置づける精神の被制約的状態である。広義には人間に対して与えられるすべての抑圧、従って自然的抑圧、物質的抑圧をも包摂しうる性格のものであるが、ここでは、人間の現実的生活がその人間の住む社会条件に不適合であることの自覚から生じる、内面的ディレンマとして解釈しておこう。しかしそれは人間の心理分析の主題として、固定せる、アプリオリな、抽象的普遍的関係を導きだす概念ではない。自然と感性的人間の正当なる関係が非本来的破壊条件の存在という偶然性の故に、破壊され、人間の存在というそれ自体能動的な活動が受動的な活動に転落してしまった現状に対する苦悩として意識されている。われわれはその特殊的状態をさして精神的抑圧の状態とよんでいるのである。
 この際、私は現在の管理・情報化時代の人間の状態を思いうかべながら、アジテーションをしているつもりなのであるが、この現代的抑圧に秘められる人間の苦悩は十九世紀にマルクスによってあきらかにされた、労働が自分の労働ではなく強制労働でしかないとみなすプロレタリアートの苦悩となんら変わっていないだろう。
 この考えにたって私は現代の精神的抑圧の実態をもう少し吟味してみようと思う。まず、現代においては、自らを非人間的存在として自覚する人間精神の矛盾的状態が、これまでの人間の歴史の進歩の証しであった文明に対する疑義の目をむけさせた、といえるであろう。それは、現象的には、科学技術の発達が人間を逆に操作しはじめているのではないかという恐怖から生じた。そして科学を扱う人間のコントロールによってその恐怖を解消できるといった人間理性の自負さえも少々おぼつかなくなるや、今度は科学そのもの、いいかえれば文明の存在そのものに対する疑義となってその質を変えてきた。ここにわれわれは文明の抑圧性にうちひしがれた被抑圧者の姿を注目するようになったのである。文明によってひきおこされる抑圧も又精神的抑圧として人間に作用してきたのである。
 それでは文明の抑圧性が人間にもたらす内容は、マルクスによる労働の疎外の分析の結果と無関係なものなのであろうか。否、無関係などころか、われわれはマルクスが単に十九世紀の被抑圧者たるプロレタリアートの政治的解放を願っていたのではなく、人間解放としての全人的な観点に立っていたのを思いおこせば、彼の主張の現代的意義は十分にあるといえるだろう。即ち、人間が本来性をとり戻すために、社会的に存在する疎外形態、すべての隷属関係の除去がマルクスにとっても、又現代人にとっても要求されていたのである。
 この問題はわれわれを再び第二章で書かれたテーマへとひきつれていく。即ち、現代における二つの抑圧を支える構造をあきらかにすることである。われわれが追求しなければならないのは、一つは資本主義的搾取形態であり、二つは官僚主義的統制形態である。前者はマルクスのいうように、人間の生命活動そのものを全自然の主体的な再生産の活動とするのではなくて、一つの対象的行動、いいかえれば商品として現象する行動として規定しているばかりか、その姿を人間にとっては当然の存在形態だとする思考パターンを強制している。後者は、前者から派生する一形態といえなくもないのであるが、人間関係の中で人間の生命活動あるいは生産活動の効率性が叫ばれるあまり人間存在を手段としての存在へと仮住まいさせることの不可避性を強調している。
 これらの形態の現実的存在が、そこに位置する人間をして「疎外感」を生じせしめるのである。しかしここにおける人間疎外は、ある意味では、偶然的に生じたものではないだろう。なぜならば、これまでの人間が夢みたパラダイスは、いわゆる文明の進歩として現実的変化をとげてきたし、そのために、人間は「物質欲」に踊らされて、人間の生命活動そのものを身売りしなければならなかったし、又他人を前にして人間の本来的欲求を自己の野心として現象せしめ、効率的にそれを満たしていかねばならなかったからである。
 この資本主義的搾取形態と官僚主義的統制形態はこれまでのわれわれの「文明史観」と不可分に結びついている。端的にいってこれまでの抑圧者の精神的行動は両形態の存在をいかに合理化するかにエネルギーがさかれてきたのであり、それを「納得した」人間の行動の結果が「文明」といわれてきたのである。
 この文明の特徴は「物質欲」と「効率性」を理性の側から正当化しようとしたところにみられる。感性の側からによるこれらの正当化はあまりにも無際限的であるために社会秩序の破壊的傾向を助長するものとして、とりわけ抑圧者によってきらわれてきた。従って、現代文明は抑圧者の理性が被抑圧者の感性を抑圧した結果生まれたものなのである。
 その結果文明の病気といわれるものを招来したともいえなくもないであろう。そして、文明のこれまで果たしてきた人間への貢献を考慮して、文明の害を病気と解釈することによってそれを治療しようというわけである。
 だがわれわれは文明の病気をなにによって治療しようとするのか。少なくとも搾取と人間統制の合理化のため、いいかえれば人間的感性の抑圧のための理性の働きに無批判的に信頼をおく限りは、文明の病気は回復するどころか、ますます重くなっていくであろう。
 フロイトは生物学的見地から文明は本能の抑圧のうえになりたっていることを指摘している。その意味では理性とか感性とかいって人間的特性を静的に区分して文明批判をする以前の、もっと原初的な次元にたっている。それだけに本能の抑圧を文明の本質とする考え方をわれわれは肯定的にも、又逆に否定的にも受けとって、論議を展開する二義性をもちうるだろう。
 しかしながら、いずれにしてもフロイトが人間の心理分析から文明の中の人間のなまの姿をうきぼりにしたのは注目すべきである。そしてフロイトのみならず、多くの現代人によって、文明の中の人間とは、人間の本能的欲求の満足をタブーとし、文明の抑圧性、具体的には規律、秩序等による様々な社会的諸制約に従っているかわりに、科学技術の進歩にともなって、自然に存在していることの恩恵を機械的に享受することができる存在である、とみなされるようになったのである。
 われわれはフロイトのこの人間の心理分析の中から、文明につきものの社会的諸制約の構成過程と構成主体の吟味をうながされるであろう。いいかえるならば、われわれは理性のおかげでありがたい文明の恩恵をうけたのだ、と感謝すると同時に、社会的諸制約も又理性の賜物であると気づくのである。
 われわれはこのような文明を総体として否定するか、しないか。このような倫理的課題が決断されるべきものとして今うちたてられている。それは、現時点においては、理性は否定されるべきものなのか、もし否定されるとするならば、その理性とはどのようなものであるのか、に通じてくるだろう。そして社会的機能そのものになっている理性のその否定は新しい人間の世界にわれわれを導くのである。そのためには理性が支配する現存社会の抑圧的形態そのものを否定しなければならない。
 マルクーゼなどはフロイトの論法をうけて問題を社会的現象に焦点をあわせその作業をはじめているようである。彼はまずフロイトの「本能の抑圧─社会的に有用な労働─文明」の相関関係を「本能の解放─社会的に有用な仕事─文明」の相関関係という意味に変えることを主張する。
 なぜならばマルクーゼの考え方の根底には「現在ひろく行なわれている本能の抑圧は、労働の必要から生じたというより、むしろ支配の利益を守るために押しつけられた、ある特定な労働の社会組織から生じたのであり、抑圧は大部分、過剰抑圧である。だから、過剰抑圧の排除は、もともと、労働の排除ではなく、人間を労働の一つの道具にしようとする組織の排除にむかうのである」という私の認める認識があるからである。
 そしてそこから彼は「産業文明における実存的な態度をあらわしている」生産性の価値の観念を考察した。それによると生産性は「自然の支配と変形の程度、つまりコントロールされない自然の環境をコントロールされた技術的な環境にするという置きかえの進行が、どの程度まで来ているかをしめす」けれども、現実の社会的存在の一つのパターンである「分業が、個体のためよりは、つくられた生産設備の目的にかなうようにむけられてくるほど、いいかえれば社会的な要求が個人の要求から遠ざかっていくほど、生産性はますます決楽原則と矛盾し、目的それ自体になる傾向をしめした」とみるため、生産性は「その本来的な意味のほかに、休息・耽溺・感受性をそしり、精神や自体の『深層』を征服し、搾取する理性によって、本能を飼いならすことをふくんでいる」のである。
 われわれはマルクーゼのこの説明からでも、人間を手段と考えてしまうこれまでの理性の抑圧的役割を理解するのである。人間に「合理性」という箍をはめた理性が肯定されるのは無際限な動物的混乱のはどめになった点からであったが、その結果得られた秩序が、「物質欲」を「私的所有」への、又「効率性」を「抑圧的能率」への同一視の上に立脚させている点で理性は否定せられねばならないのである。



 さて、精神的抑圧の実態の現代的あらわれである資本主義的搾取形態と官僚主義的統制形態は現代人にとって不可避的なものなのであろうか。
 これらの存在形態を、理性の側から説明すれば、不可避であったといわざるをえないであろう。なぜならばそのときわれわれはこの現代文明そのものを否定できないからである。それはまさに人間の歴史のエポックを築いたのである。
 しかしながらこれまでにもあきらかなように、この両形態は抑圧─被抑圧という社会的関係の存在を前提にしてはじめて成立しているのをみれば、たとえそれらが人間の悪しき感性にくいこんで人間的立場をくみいれているかのようにみえようとも、抑圧する存在の野望が被抑圧者をあやつっている事実まで隠しきれないのである。にもかかわらず現代の抑圧者は一見公的普遍的な(それ自身はきわめて抽象的なものなのであるが)行為を代行していると自負しているが故に、昔の困窮する人間を被抑圧者と規定しえても、現代の人間は抑圧されていないと弁明する。
 彼らは自然的抑圧や物質的抑圧が今や例外的に存在していると断定し、今焦眉となっている精神的抑圧はすべての人間の問題であるとして本質をそらせることによって、彼らの抑圧的意図を隠蔽しているのである。彼らは人間の精神的抑圧の事実を認めざるをえなかったが、精神的抑圧をある種の自然的抑圧(たとえば天災とか疫病)であるかのような理性的規定をするのである。だがその論理はあくまでも抑圧者の論理である。それ故矛盾をもっている。
 精神的抑圧をうけるとは、人間が自然に対して本来的人間を志向しようとしながらも、人為的社会的制約をうけることによって、それが阻害されることなのである。抑圧された者は、抑圧されているが故に、人為的社会的制約に対して感性的に反発するのであって、単に抑圧の対象を理知的対象として天災か疫病のように規定することはできないのである。にもかかわらず、現代の抑圧者が精神的抑圧を自然的抑圧として先取り的に規定する仕方は、抑圧形態の現代性を物語っている。
 もともと広義の精神的抑圧は人間の欲求そのものにみられるから、自然的抑圧を含む精神的抑圧の実態は人間が自然を征服できないでいる状態でもってしめされるだろう。その意味ではすべての人間は精神的抑圧にうちひしがれているといえるだろう。
 現代の抑圧者はその点を利用して、ついでに資本主義的搾取形態と官僚主義的統制形態をも自然に存在する一形態としてしまおうと考えているかのようである。いいかえれば資本主義的搾取形態と官僚主義的統制形態に存在の必然性、即ち、客観的実在性をあたえようとしたのである。この権威づけの態度こそ抑圧者の典型的態度といえよう。
 それともう一つの抑圧形態の現代性を示すパターンがある。現代の抑圧者は自己の主体性を資本主義的搾取形態とか官僚主義的統制形態に喪失せしめることによって、いいかえればこれらの形態に目的意識性をもたせることによって間接的に自己の野望をはたそうとする。そのことによって抑圧的実態に対する責任を彼らは持とうとしないし、又抑圧的実態そのものの人為性を否定しようとするのである。
 現代の抑圧者とは、人間の社会性を知らないで、自分のまわりのことのために、他の人間を抑圧する抑圧的実態に便乗した根なし草なのである。彼らにとってこの抑圧的実態を維持することが動物としてもつ主体的活動となっているのである。なぜならば彼らにとっての自然に対する闘いとはこの抑圧的実態を自己の掌中にとどめることに他ならないからである。
 これに対し、資本主義的搾取形態と官僚主義的統制形態の犠牲者である被抑圧者が抱く精神的抑圧が、あたかも自然的抑圧であるかのように判断しても、それは何ら不思議ではないだろう。というのは、そこではたとえ矛盾的にではあっても現実に生存しなければならない、と意識されるからである。
 この意識は感性的欲求を媒介にして自然の中で人間として存在することの意味をあきらかにしている。つまり感性の側から、失われた本来的自己への回復のために、人為的社会的諸制約を明確に抑圧の実態として認め、あたかも天災か疫病にたちむかう自然的闘いであるかのようにしてその抑圧的実態の政治的否定を行なうのである。
 この論拠は理性の立場から断じて導かれてこない。抑圧者としての人間が精神的抑圧を自然的抑圧にすりかえて自己の存在を正当化するのは誤りであり、被抑圧者が自己の精神的抑圧を自然的抑圧として認識し、精神的抑圧の人為性を否定するのは正しい、という考え方は理性によっては説明されえないのである。なぜならば理性はその内在的性格からして、抑圧の実態に人為性を抜きさることに努力しながら、同時に人為性を付与しようとする矛盾的なことは行いえないからである。
 以上、われわれは抑圧の実態についてきわめて大ざっぱにみてきた。はじめに断ったように私の話は「抑圧論」をあらゆる見地から考察することを目的にしないで、現存のあるいは過去の人間が他の人間を抑圧しているという悲惨な歴史の事実と、それを支えている社会的経済的構造(これも人間がつくったものだ)を、もう一度、思いおこしてみるためになされている。そのために私は被抑圧者の様々の姿を歴史的にみてきたわけであるが、それらは遺物として存在しているのではなく、世界というパノラマの中にいっしょくたになって今も存在しているといっても過言ではないだろう。
 先進国では豊かさの中の抑圧の問題が焦眉の課題となり、発展途上国では今だに貧困からの脱却が急務とされている。だが今日的状況においてそれらの問題は自国の問題として解決されえないばかりか、解決されるべきでもない。全世界的に関係が錯綜し、人間的交流がなされている状況だからである。それ自体は賞賛されるべき状況である。しかしながらその状況がいかにもうすっぺらにみえるのはその中で厳然として抑圧者と被抑圧者の区別が認識されるからである。
 それでは現代における被抑圧者とは一体誰であるのか。先進国における賃金労働者なのか、それとも発展途上国の人々なのか、あるいは人種的偏見によって差別されている人間なのか。われわれの常識的基準に従えば様々の被抑圧者群が列挙されるであろう。
 私の考えからすれば、すべてそれらの主張は正しいと判断されようが、ある種の古めかしさがみられないでもない。というのはそれらの人間規定は、すべての人間が全世界的人間と規定される以前の狭義性をもっているからであり、従ってここに列挙される被抑圧者はお互いに人間としてのつながりをもっていないからである。
 又この考え方には一つの危険性も存している。集団エゴイズムの危険性で、丁度、ユートピアの国の人間が見知らぬ国の人間に出合ったときに、自分たちの存在のために身構えるような態度に似ている。その意味では私は単に概念的に賃金労働者であるとか、発展途上国の人々であるとか規定して、それを被抑圧者であると容易に考える合理主義に古めかしさを覚えるのである。
 はっきりいって現代における被抑圧者の規定はぬるま湯につかっているわれわれにはできないであろう。被抑圧者を口先で名ざすことはできるであろうが、その瞬間、われわれが被抑圧者でなかった、という安緒感にどっぷりひたるからである。われわれはこういった非合理的な事象の似非合理的な説明をすることにあまりにも慣れきっている。だから私が今ここで、結論的に被抑圧者とは自然的物質的欲求が自己の生命活動とか労働そのものの中では満たされないで、それらの結果に依存しなければならない人間であるとか、一時的に自己の欲求が生命活動とか労働の中に満たされても、より無際限な欲求を生じさせたりする社会的状況に強制的に住まわせられる人間である、とかいっても的を射ていないかもしれない。
 現代の被抑圧者はそんな規定とは別に感性的に自己の生命活動及び労働の中に他にかえがたい苦悩を感じとっているかもしれないのである。もしわれわれが少なくともガルブレイスのいうように「労働時間の短縮が裕福さの増大に対する唯一の正当な反応とされ」ない程の豊かな社会に住んでいると僭越にも主張するのであるならば、被抑圧者の被抑圧状態からの解放が自らの力によってなされようとしたとき、われわれはそれに同調するどころか、様々の文明の恩恵を思うあまり、彼らを見殺しにする危険性を多分にもっているのである。
 しかしながら機械文明とかわききった人間社会の中で被抑圧者が抑圧者に対して、即ち弱者が強者に対し、貧者が富者に対し、組織の下役が上役に対し、公害病患者らが企業や政府に対して行動にたちあがった時、それは彼らのエゴイズムの発露ではなく、現代人間の真の姿を求めている場合が多いのである。同時にそれは抑圧─被抑圧の存在を必要悪に感じるわれわれの一部の人間に対する告発ともなっているのである。
 この傾向は機械文明とかわききった人間社会の程度がすすめばすすむほど、様々な被抑圧者の生への雄叫びが同時多発的におこり、このような機械文明と人間社会に起因するところの一元的支配状況の神話が完全に崩壊するまで拡大化していくであろうと思われる。その際、ぬるま湯につかっていることによって抑圧─被抑圧の関係の存在を忘れてしまったわれわれはその事実に早く目覚めねばならないし、もしそうでなかったら、われわれには被抑圧者の行動に異論をとなえる資格などないであろう。

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