第二章 社会における二つの抑圧について
1
われわれの住む現代社会では、資本主義的抑圧と官僚主義的抑圧という二つの型の抑圧が存在する。このような社会的認識は、今や、現代的思考と行動のための大前提になりつつあるようだ。この認識は被抑圧者の解放運動が一つの政治的権力の奪取による単なる資本主義的生産関係の止揚にとどまらず、文字通り「人間解放」のための再変革を必要としていることを示唆している。それはあきらかに現代社会の如き高度の工業化された管理社会にあっては、サイバネーションによる社会経済機構とその中で自律的機能を有するにいたった官僚機構による抑圧によって、人間は機械人形か狂人になるかの精神的危機の状況にとじこめられているという考え方に基づいているのである。
このような社会状況を超克するために、E・フロムは「死の優先性」ではなく「生命の優先性」を中心に置いた「新しい方向づけ」、「新しい哲学」を求めた一つの新しい運動について次のように示唆している。
「一方には力・<法と秩序>・官僚主義的方法、そしてつまるところは生命の否定に向う人びと、他方には生命に対して、既製の図式や青写真でなく新しい態度に対して、深い憧れを抱く人びとがいる。この新しい戦線は、私たちの経済的、社会的慣行の根本的な変革への欲求を、人生に対する私たちの心的、精神的態度の変革に結びつける運動なのだ。最も一般的な形では、その運動の目標は個人の能動化であり、社会体制に対する人間の支配の回復であり、技術の人間化である。それは生命の名における運動である。生命への驚異は今日では一つの段階や一つの国家に対するものではなく、すべての人間に対する驚異となっているために、それは非常に広い共通の地盤を持つ運動なのである。」
この社会学者は科学技術が発達し、社会的機構のメカニズムが複雑になったために精神的危機に満ちているアメリカの社会の姿から、学者的良心でもってそう判断したのである。彼の危機感は管理・技術社会における疎外された人間一般に対する認識から生まれており、従って彼は昔ながらの<右翼対左翼>・<共産主義対資本主義>といったイデオロギーの問題をのりこえて、現体制の変革の意義を「技術社会の人間化」への移行そのものに見いだしているのである。
このフロムの見解は、現時点では、もはや現体制の変革を生産手段の私有制の廃止に求めただけでは人間解放の実現がなされない、という意味で正しいとされるべきであろう。なぜならば、彼自身も批判するように、われわれはその悪しき例を現代の社会主義国家においてさえ見ているからである。こういった社会主義国家はまさに官僚主義的抑圧を強化する形で国家的打算を優先させたので、相対的には資本主義国家より進んでいるとはいえ、マルクスの考えたような「人間解放」にはほど遠い存在となっているとみられているのである。
とはいえ、われわれがあまりにもフロムに忠実でありすぎると、現代的思考と行動のための大前提である資本主義的抑圧の存在そのものへの批判的姿勢をあいまいにするおそれがある。資本主義的機構のもつ抑圧も又、あくまでも、厳然とした抑圧の一つであるという認識のもとで考えていかねばならないのである。いずれにしても現代における人間の在り様に関する論議はこの二つの型の抑圧の問題につきると考えられるので、これらについてもう少しほり下げて考えてみる必要があるだろう。
もともとわれわれの社会における資本主義的機構は「利潤追求」に、官僚主義的機構は「効率的で円滑な人間関係の構築」に理念の志向性をもっていた。それ故、両者はそれぞれ異なった理念の形態をもっていたのである。これらの形態は人間を行為に駆りたてる二つの特性の合理的組織的発展のあらわれであるといえよう。
なぜならば前者は自立的人間の「物質的欲望」に、後者は自立的他人とかかわる人間の「知的活動」に依拠しているからである。従って人類史において資本主義社会が生まれ、官僚機構が整備されてきたのは、人間の本性を考えるならば、当然の結果なのである。ただ両者は初期資本主義社会の時代においては、結びつく必然的な社会的条件をもっておらず、従って両者を別個の社会的機構とみなしても、十分に通用する精神構造が人間を支配していた。
というのは、かの理性が人間的特性を静的に分析し、「物質的欲望をもつ存在」と「知的傾向性をもつ存在」という二つのタイプの人間をこしらえあげたからである。仮にそれらが一人の人間においてみいだされたとしても、行為の時には、理性の判断によって、うまく使いわけられるとされていた。
この考え方を支えたものは近代合理主義的精神であり、それが初期資本主義社会の頭脳の役割をはたしていたのである。とはいえ、思想上、無理に区分されたこれら資本主義的機構と官僚主義的機構の二つの機構も、抑圧された人間にとっては抑圧せる一つの実体としてみえるのは火を見るよりもあきらかであろう。そのことは「権力の問題」においてとらえるとよりあきらかになってくる。
過去において両組織における権力者なる存在が共に一見全人的な観点にたって行為しているかのように見えながら、実は私的行為に他ならない組織運営を行なってきたのは苦い事実である。それらの支配的地位にある資本家にしても、あるいは高級官僚にしても、そのなす行為の根拠は私的理由以外のなにものでもなかった。いいかえればそこに君臨する権力者は本質的に封建君主、絶対君主となんら変わらない立場にあったのだ。それ故、資本家と高級官僚の私的行為が権力における支配─被支配のメカニズムとして、きわめて合理的に機能している点で資本主義的機構と官僚主義的機構は類似していたのである。
さらに、第二の暗示的な現象は資本家と高級官僚が同一の経済的利害関係にあることであろう。それは彼らが共に権力支配欲にもえたぎり、権力維持にやっきになっているといった、組織における行為上の類似性を指摘するのみならず、実は、両者が同一の存在基盤をもっていたことを暴露している。
特にこの考え方は資本主義社会においては最も適合性をもち、とりわけ、現在の如き高度に工業化された社会において実証されうるのである。この点については資本主義的機構も官僚主義的機構も権力支配の手段として位置づける貪欲な人間の判断において同一に見えるのは勿論のことではあるが、構造的にも、両者が同一化現象をとってきているのをみてもそういわれうるのではないだろうか。即ち、両者のもつ理念の志向性の違いは概念的なものとして認められるにしても、両者は共に巨大な組織にふくれあがり、その肥大化につれて相補性を増し、お互いがお互いの存在基盤となるまでに独立性を失ってきているのである。
この観点によれば、現代社会とは、資本主義社会である限りは、もはや独占資本の単なる経済的支配でもってしては「利潤追求」の不可能な社会、それ故に国家独占資本主義体制のもとで官僚主義的支配形態に依存することによってのみ、はじめて権力を維持(同時に利潤確保)できる社会であり、その点で独占資本は国家の機能を代行させるをえなくなるが故に、私的な生産手段・労働力の管理維持をするのみならず、社会のあらゆる機能をも統御し運営していかねばならないという矛盾を抱え、そのために効率的な伝達機能による一方的支配を余儀なくされるのである。いわば資本主義がそのあからさまな野望を隠蔽する形で、近代合理主義の集大成である官僚主義に身売りして、自らの理念だけを残そうとしなければならなくなったのである。
ここに官僚主義が自律的機能をもつまでに変容した要因があるといえよう。資本主義のメカニズムをとりいれることによって肥大化した官僚主義は、効率的伝達や人間関係の円滑化の名分のもとに支配─被支配の存在形態を強化する構造を不動的に確保し、理念的にも人間の価値とは無関係な組織的特性をもっているにもかかわらず、資本主義との同化により、人間を抑圧する傾向性をもつにいたったのである。官僚主義が資本主義をうけいれられたのも、もともと官僚主義の中に平等主義を利用した私的行為を構造的に認める条件をもっていたからだ、と考えるべきであろう。
むしろ、官僚主義の潜在的特性としてあったものが、資本主義との蜜月によって顕在化し、さらに資本主義的特性にとってかわろうとしているのではなかろうか。それが故に、今は技術的に資本主義の生産手段の私有制を止揚するだけでは、人間解放のためには不充分であり、あいもかわらず、私的行為によって生みだされた多くの被抑圧者の群の問題が残存するのである。
この問題は、もはや現代人によって(とりわけ左翼といわれる人間にとっては)常識となっているところの、先進資本主義社会における最大の関心事であり、ここからこのような社会に住むわれわれの生き方、即ち、倫理性があらたに問われなければならなくなってくるのである。
2
さて、前に述べたように、現代社会の特徴は国家独占資本があらゆる階層の人間を支配しなければならない点にあらわれている。この傾向は科学技術の進歩にともなって国家独占資本の管理がより容易になった事実から現象的にも察知されるところである。しかしながら科学技術の進歩があらゆる階層の人間の一元的支配の要因ではないが故に、一元的支配の社会状況の中には国家独占資本の政治的私的野心が存在していることを忘れてはならない。科学技術の進歩はあらゆる階層の人間の一元的支配の十分条件ではあったが、必要条件ではないのである。
マルクス主義者の言葉を借りるまでもなく、国家独占資本の一元的支配は資本主義社会の権力者が最後にひきうける支配の形態であると考えられる。彼らは生産手段の私有制、労働力確保を維持し続けなければならないが故に、直接的な生産機構とは無関係な領域の管理を行なう無駄までせねばならない。
つまり国家独占資本は、今日多元的に存在する市民社会の組織的管理はいうにおよばず、そこに住む市民のきばらしの面倒までみてやらねばならないのである。この事実はすでに一元的支配を貫徹する権力者の寛容的、社会主義的発露ではなく、資本主義社会状況に置ける不可避的な矛盾の激化のあらわれとしてみられるべきである。従って現代社会には同時にそのような似非公共的仮面をかぶらないでは「利潤追求」の原則さえもおびやかされる状況が存在しているのである。
そのために権力者は一見全人的な政策を余儀なくされ、それまでの人間に植えつけられてきた合理主義的精神の生みだした官僚主義的方法に依存しようとする。それによる官僚主義的統御は少なくとも全人をまきこむ力をもつ上に、近代人の誰もがそれに対し否定する意志を生じさせぬ伝達の合理性をもっており、まさに公共的政策を行なうに最適の支配方法なのであった。
次にこの一元的支配の特徴を一般化して考えてみよう。現代社会をになう国家独占資本は経済的支配のみならず、政治・軍事・社会・文化等々、あらゆるカテゴリーに総括される諸現象を抱摂した支配を行なう。その形態は多元的であり、物理的強制から法的拘束、思想統制、及び自主規制の示唆にまでわたっている。しかもそれらのよって来たる根拠は国家権力の秩序維持に集中され、その合い言葉さえ唱えていれば、これらのカテゴリーは一定の自由の保証された生存権を保持できるしくみになっている。
とはいえ、すべてが「国家権力の秩序維持」に還元される組織構造においては、諸カテゴリーに分割されても、その各々が自由権、生存権をもっていると考えるのは幻想である。仮に諸カテゴリーに分割されたとしても、それは権力者によって便宜上分割されているのであり、極端な場合、権力者支配の道具にされているにすぎないのである。いわばそれらは巨大な一つの権力構造の部分に属し、常に権力者を仰ぎみる姿勢の認められる限りにおいて、自らの権利を独立的なものとして保証されているのである。
この状態をあえて一言でいうならば、われわれのまわりのできごとはすべて新しい意味で「政治的」なできごとになっているということである。その意味では、われわれは「政治的」意味をさらに拡大する必要にせまられているともいえよう。つまり、それによって「国家」の果たしてきた役割を改めて見なおす必要があるのである。
たしかに、従来の国家観においても人民支配の最高の形態としての国家が存在していた。しかしそれはすべての人民をがんじがらめに拘束できなかった。国家は人民の支配という点では理念的・抽象的には拘束力をもっていたが、極端な例をひけば、人民の意識としては国家は戦争・外交にたずさわっているものであった。従って人民の生活は、なかんずく市民の生活としては、彼らの主体性(これ自身も又否定されるべき対象ではあるが)に依存していた。
これは勿論国家の支配力の如何によっていた。しかしそれが武力的な支配力であったが故に、支配者は支配せんがためには、自らの武力を背景にした「たえざる緊張」を持続させなければならなかったし、いやであっても支配されるべき人間と支配者自らとの、ある種の契約関係のような、関係を認めざるを得なかった。特にルソー以後の自覚した人々の勢力の増大するにつれてこの直接的な武力的支配力だけでは効力をもたなくなってくる状況が生じるや、支配者は支配の形態を変えることを余儀なくされ、個人あるいはその同一利益の集団の人格を無媒介的に否定できなくなってきた。
そういった集団をかかえた国家の支配の特徴の端的な例は、一つの考え、一つの行動があっても、それなりに存在理由を認めてやることであり、仮にそれが国家の直接的目的に反するものであっても、懐柔するだけであり、時には部分的に抹殺しなければならなかったとしても、壊滅はできないということである。これまでの国家は支配を全人的に貫徹させていなかったのであり、いわば、多元的に存在する集団の上にのっかって支配していたのであった。
逆に支配される側からすれば、国家は戦争や外交を仕事とし、自利の必要上から国家に自分たちの力を提供することも辞さないが、しかしそれでいても、国家は自分たちの財産の所有権を保証してくれれば自分たちの生活とは無関係に存在する「一つの集団」にすぎなかった。
そのため支配者は一人の人間を全面的に支配することはできなかった。支配できたのは威嚇を背景にしたところの一時的肉体的拘束と人間の利己心を逆手にとって奪いとった合意という拘束を通じてであった。要するにこれまでの国家は一人の人間を奴隷以下の状態にまで下げることができなかった。
もっとも、世の支配者が人間の精神まで支配する努力を怠っていたかといえば、それはうそであり、初期資本主義社会における一人の人間の考えすらもきわめて狡猾に資本主義的抑圧に規制されたものといえるだろう。
とはいえ現代ほどではなかった。この時代の人間は経済的奴隷状態にあるという意識があったとしても、精神的には自由の意識が幻想的にしろ保証されていたのである。従ってこれまでの人間は奴隷にまでなったが、奴隷以下の状態即ち機械人形にまではならなかったのである。
資本主義社会における官僚主義的一元的支配の浸透しているところでは人間を機械人形にすることは可能である。なぜならばそこには支配者の存在がみえないかたちで君臨し、彼らの私的野心が彼らの価値基準によっても、全人を拘束する結果となるような、又被支配者の声を抹殺することのできるような構造が横たわっているからである。彼らの価値基準は被支配者にとっても同様に妥協し、従って被支配者はその価値基準による以外には日常の生活さえ保証されえぬ窒息状態においこまれているのである。
ところでこのような価値基準を否定するとはいかなる意味なのか。自分のよってきたる生活の基盤とはなになのかを真摯に考えれば考えるほど、がんじがらめにされた状態からはみでようとする意識がめばえてくるのは当然だろう。
それは単なる異端者的意識ではない。皮肉なことにここで異端者的意識をもつということは、これまでの自己を抹殺し否定するという態度を不可避的にともなっているのである。しかもこの自己否定の精神は抑圧的体制を政治的に否定するところから出発している。そして価値基準の変更は現実的には倫理的反逆となる。しかしこの反逆の性格は反逆を行なってもその主体が無傷のままに肯定されつづけているありがたさをもっていない場合が多いのである。多元論を美徳とするような近代合理主義的考えも、ある意味では、現代では通用しなくなってきている。倫理的反逆はただちに政治的抵抗となるのである。もし倫理的反逆が一つの思考としてとどまっている限り、それは一元的支配体制の貫徹する社会にあっては、自己を体制の中に温存させているために、反逆でもなんでもなく、せいぜい支配者の暴走を防ぐ安全弁になるだけである。(ここに個人としての生き甲斐をみいだせないでもないが。)
倫理的反逆を行なうために自己を否定しなければならないのは、まさに一元的支配体制の貫徹しているが故である。ここではすべての人間が体制内の人間として操作され管理されている。従ってすべての人間にとって自分が体制的人間であるという意識が行動の出発点になる。その内、自己の自由を求める者が倫理的反逆を志向し、自己を否定する作業を通じ、政治的抵抗にいたる。資本主義的官僚主義的社会において、自己の自由を確保しようとするには、権力と対決する姿勢がなければ実現が不可能であると気づく。又その権力に隷属する限りは、今後は自由の意識をもったつもりの機械人形のままでしかないとわかるのである。
3
現代における倫理的反逆は必然的に権力との対決を前提にするが故に、社会の根本的変革を志向していることになるだろう。この社会変革は既存社会を根底からゆりうごかす性格のものであるから、社会改良とは万里の隔たりがある。なぜならば社会改良主義的発想は現在の国家権力の中に抑圧的本性を見いださず、部分的改良による漸進の方法と、幻想による無限の待機主義に支えられて、抑圧的本性を逆の形で認めてしまっているからである。
いいかえれば抑圧体制の中にくみこまれているために抑圧的本性の実態をつかみえず、自らの生活基盤を無原則に肯定する悪しき感性のとりこになっていて、全人的解放にまで目をむける余裕さえないからである。一時的自己満足と他人をかえりみない日常的エゴイズムが、社会改良主義のもたらす現代的特徴である。一昔前ならば、それは国家権力の暴走のはどめの役にはなっただろうが、現在では逆に権力支配の一方法にとってかわっている。そこで確固たる倫理的反逆を志向する者はこういった社会改良主義との対決を国家権力との対決として位置づけるのである。
それでは社会変革の主体とはそもそも何であろうか。十九世紀においてマルクスは資本主義社会の産物として且つ被抑圧的階級として位置づけられる労働者階級こそ、その社会変革の主体であると宣言している。この場合「共産党宣言」の冒頭でいわれるように、今日までのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史としてみられ、資本主義社会はまさに搾取し支配するブルジョア階級(近代的資本家階級)の激烈な闘争によって特徴づけられている。
そしてそこにおける労働者階級はあらゆるブルジョア的偏見によって抑圧され、最も苦しんでいるが故に、被抑圧者として位置づけられると共に「途方もない多数者の利益のための、途方もない多数者の独立的運動」の主体となり得ると考えられていたのである。
ところが皮肉にも最近、その主張を否定するかのような新しい動きが活発化している。いわゆる「新左翼運動」とよばれる新しい動きである。その運動の旗手であるC・W・ミルズは現代社会において社会の構造的変革を歴史的に担うものは議会主義制度の政治的団体でも労働者階級でもなく、可能的直接的徹底的な変革の主体である若いインテリゲンチャである、といっている。又、マルクーゼは今日の労働者階級の変革要求の欠如の事実を指摘し、ラディカルな体制変革の潜在的力を知識人・学生の反抗にあるかのような示唆を与えている。
これらの動きは、階級史観の欠如とそれから派生する闘争主体の不明確さが存在しているといわれることによって、倫理的反逆を物質化しようとする積極的人間からは非難をうけているが、あきらかに労働者階級の体制内志向の傾向が著しいと見られている今日、一考に値する動きといわれねばならないだろう。なぜならば思想史的にいうならば、そこではこれまで被抑圧人民の解放運動の支柱であった労働者階級が現在の管理・情報社会においても運動の主体でありうるのかどうかが問われているからである。又、E・カメンカが力説するように、はたして「マルクス主義イデオロギーは……現存の産業プロレタリアートとのつながりを大部分失った」のか、が再吟味されねばならないからである。
たしかにマルクス主義に対するこういった疑問に反発して、マルクス主義を継承する人達はマルクスが労働者個人の思考と行動よりも労働者階級の歴史的任務を主体的に果たさねばならないことを強調している点を重視し、労働者階級が変革主体となりえない状況を、労働者階級の中の矛盾としてあばきだし、その矛盾の中に変革主体をつくる契機を見つけださねばならない、と訴えている。
しかしながら、部分的であるにせよ、労働者階級の中に変革主体を盲目的に見いだすといったような判断は今日においては否定されていることは注目に値する。われわれはこの事実をむしろ人間の主体喪失の状況が今日的に浮きぼりにされた結果としてみるべきであり、ミルズやマルクーゼの知識人・学生への期待は一方的且つ情緒的であるにしても、そういった状況に対する警告としてうけとるべきであろう。
それでは労働者階級が体制変革の主体となりえないという認識は何を物語っているのであろうか。まず現社会の支配者が人間性の悪しき感性に依拠した、巧妙な、それ故に強権的な支配を政策的に行ないえたからだと評論家風には判断されよう。そのため、改良主義の勢力が増大してくるようになったのである。マルクスはプロレタリアートは待遇改善・個人的出世の機会が保証されたところで、真の人間解放がなされない点をはじめから指摘していた。にもかかわらず、人間は安寧・福祉・富裕への志向を行動の動機とするという見方の強力な勢力が組織的、イデオロギー的に拡大し、権力者に利用される形で、同時に部分的に権力者の働きをになうようになったのである。
しかしマルクスの信念は多少の回り道をしたところで、現在の高度化した資本主義社会においても間違っていなかったということも、科学技術の発達の結果によって、図らずも示されたともいえるであろう。すなわち、人間による安寧・福祉・富裕への志向に対する疑義が生じたからである。
一部の現代人はそれらに安住の場所を見いださなくなった。それは、自らのかかえている志向性に無原則的に依拠し、そのことによって抑圧せる体制に加担していたのではないか、という反省とともに、自らの思考の対象も又ブルジョア的偏見の産物であることをあばき出すことによって、特に積極的人間にとっては、その偏見を支えている抑圧体制そのもの、資本主義国家、即ち国家権力そのものへの反逆となって展開されてきたのである。その意味でフロムの主張した、生命の優先性を置いた新しい方向づけの働きは現象的に正しいといえるだろうが、しかしフロムはこの動きが必然的に国家権力との熾烈な闘いにつながらねばならない、という事実を忘れているかのようである。
近代社会倫理思想の典型は個人主義、自由主義を軸として人格の尊厳をうたいあげることである。それによって支えられた行動価値は社会との調和的関係にある限りにおいて認められていた。その考え方は、その思想の発生の当初は、それなりの意味があったと認められても、現在では、完全に歪曲されていると誰もが認めるところである。
ある人々はその歪曲の源を資本主義的抑圧体制にあるとまで理解したが、それが自らの存在基盤までくいこんでいることに頬かぶりした。それは国家権力との対決が自分にとって一体いかなる意味をもつものか、を根源的に問いかけえなかったからであった。
しかし他方この近代倫理観に疑義をはさみ、新しい行動の規範による息吹きを一部の動きの中に見ることができるようになったともいえる。そしてそれは必然的に社会変革の主体となりうるが故に、体制側からは秩序破壊者の名誉ある汚名を頂戴するようになると覚悟しているようでもあるのである。
この変革主体の共通意識は、自らを抑圧し、且つ抑圧されたる人間と規定しえること、及びその規定による明確な変革要求の意志をもっていること、に求められる。しかしそれは被害者意識全般にぼかし込まれた受身的意識ではない。むしろそこでは自らを積極的に抑圧し、且つ抑圧された人間と規定することが要求されている。
次に要求されるのは個人の安寧・福祉・富裕への志向を行動動機とする倫理的規範の確立は、社会的抑圧本性を隠蔽し、自らを体制の支配者意識の所有へと転化、操作することによって、変革要求の意志を麻痺させるからである。
従ってかかる変革主体のもつ共通意識は、一見、被社会的・純粋道徳的様相を帯びてはいるが、自らの意識を形成する社会的存在状況をまっこうから否定した結果、生まれているために、単なる倫理的反逆にとどまらず、内在的にも、反体制への志向性(今や古びた言葉になっているが)を有しているといわれねばならない。従って、かかる社会変革主体の運動は、最初は体制的組織的抑圧に加担しまいとする自己の本源的自己への脱出のために行なう倫理的反逆から出発しているが、単なる異端者の運動に留まるのではなく、自らの存在基盤を規定する現存社会の価値基準の大転回を意図する反体制的な変革運動へと連続的に移行していくのである。
4
ところで、たしかに人間解放はこれらの変革主体の自覚的行動によって実現されるのであるが、被抑圧者をつくりだす資本主義的抑圧と官僚主義的抑圧は奇妙な特性をもっている。抑圧される側に対して安易に被抑圧の意識を与えない場合があることである。即ち、被抑圧者に一定の猶予を与えている。この猶予は実は歴史的産物なのである。
現代的抑圧は常に被抑圧者の反応を考慮しないでは抑圧的機能を発揮できない。そのために被抑圧者に対し、「考える自由」を与えながらも「行動する自由」を牽制しようとする。この「考える自由」が被抑圧者に対して与えられた猶予なのである。しかもそれは人間の主体的存在性を部分的幻想的にしろ保証するものであるが故に、被抑圧の意識の発生を防ぐはどめの役を果たしている。そのために操作された行動であるにもかかわらず、あたかも自己の主体的行動であるかのような錯覚が普遍的に存在するようになっている。それは、一見、精神的抑圧を感じさせていないかのように見える。
同時に、この二つの現代的抑圧は悪しき感性を利用して、人間が行動する動機となる物質的欲望を不可侵の権利として認め、且つ人間の個々の属性にくらいついて、人間に無限の幻想的可能性を与えている。そして政治的打算によって、抑圧機構の破局を防ぐための、個人的欲望を抑圧─被抑圧の関係を認めさせながらも可能にしている。それによって被抑圧者をして物質的抑圧を感じさせなくしているのである。
その実、この現代的抑圧は、物質的精神的抑圧をおたがいにたくみに隠れ蓑にしながら両方の抑圧を行なっている。従って被抑圧者が抑圧の意識を覚えないのは、ホモ・ネガンス(否定する人間)を具体的に保証する「考える自由」が観念的に与えられ、主体性の残滓が世の中に猶予として存在し、且つそこに差別を前提にしたところの奇妙な平等化への志向性が内在しているからである。
われわれはこの被抑圧意識をもたないでいる多くの機械人形の存在を忘れてはならない。彼らは逆に被抑圧の意識に無関心であることによって、自らが主体的存在であると幸わせにも自負している。その自負はこれまでのわれわれの分析によれば、それ自体がいわば機械人形として抑圧する側に屈服しているのみならず、抑圧者に加担するという積極的意味をも持っているのである。
しかし、ここではまず、被抑圧者として何をなさねばならないかをアジテートすることが大切であると思われる。その意味するところは決して現代人の倫理性を主張することとは無関係ではないのである。なぜならばそこには現代人にとって焦眉の「主体形成」論の必然性が強調されているからである。あたかもそれはプロレタリアートがその歴史的任務を果たすために何をなさねばならないかを主体形成論的にとらえなおそうとするマルクスの主張に類似している。
否、むしろ、被抑圧者として何をなさねばならないかの基本テーゼの背景に人間解放の叫びが満ちているとするならば、志向性においては、当然、マルクス主義そのものでなければならないかもしれない。今日、マルクス主義は様々の変容をうけているから、マルクスがとなえた人間解放は歪曲されている危険性が多分にある。しかし、ここでわれわれはマルクスが「ユダヤ人の問題によせて」の中で述べた次の言葉をもう一度思い出さねばならないだろう。マルクスの言う人間解放の意味しているところのものは、現在の被抑圧者の人間解放の意味しているところのものとほとんど違っていないのである。
「あらゆる解放とは、人間の世界を、諸関係を、人間そのものへ復帰させることである……。現実の個別的な人間が抽象的な公民を自分のうちにとりもどし、個別的人間のままでありながらその経験的生活において、その個人的な労働において、類的存在となったとき、はじめて、つまり人間が自分の『固有の力』(forces propres)を社会的な力として認識し、従って社会的な力をもはや政治的な力の形で自分から切りはなさないときにはじめて、そのときにはじめて、人間的解放は完成されたことになるのである。」
後にマルクスはそういった人間解放を不可能にする実態を社会的生産様式の中に見いだし、それ故、生産関係を止揚し、その手段を私有する者のもつ権力を奪取することにプロレタリアートの歴史的任務を見いだしたのは周知の通りである。もし、反マルクス主義者がマルクス主義を単に経済還元主義として非難したり、状況主義者がマルクス主義発生の状況と今日的状況の違いをもって、マルクス主義を否定したとしても、このマルクスの原理の批判でない限りは、それらは誤っているだろう。
少なくともマルクスは、人間とは何であったかについての明確なイメージをもっていたに違いない。それは、マルクスもいっている如く、類的存在としての普遍的なものを強調しているにちがいない。しかもそれは観念論者が無媒介的に提示する抽象的理念ではなく、感性的─実践的個人を媒介にしている。マルクスは一見決定論的に類的存在への到達を強調しているが、彼がなに故に被抑圧人民としてのプロレタリアートを規定し、彼らが自らの解放のために歴史的任務として何をなすべきかを、わざわざ、強調したのを思いおこせば、マルクスの原理にあったものが単なる経済還元主義をこえた人間の本質的な精神の問題であり、その性格は曲解された決定論どころか、現実的矛盾の存在を確固として指摘し、人間が解放されんがためにあるべき姿に対し感性的人間としての個を実践に駆りたてるなにものかをもっていたことに気づくにちがいないのである。
マルクスが最後に主張する、プロレタリアートが権力を奪取し資本主義的生産手段の私有制を止揚することが人間解放に通じる、という命題も、マルクスの原理的人間像を真に理解していたならば、冒頭に揚げた、現代の人間解放が資本主義的生産手段の私有制を止揚しただけでは不充分だ、という主張はありえないのである。実は冒頭の主張は勢力的に存在する「あやまれる」あるいは「不徹底な」止揚に対する警告にすぎないのである。具体的には、国家社会主義社会への移行、あるいは形式的に止揚された迄はいいが、資本家的着想と資本主義的管理とを払拭しきれない官僚主義的社会への移行に対する安易な傾倒を皮肉っているにすぎない。
そのためにはわれわれは再度、人間解放についてとりあげる必要があろう。現代における人間解放には、感性の十全的行為と感性による審判が必要であろうかと思われる。少なくとも従来の人間の社会形成のプリンシプルを確立してきた理性によるのみでは、人間解放を云々する資格はないかもしれない。
むしろこれまでの理性は感性の無軌道ぶりを完全に抑圧する迄は人間精神にとって絶対的であったが、それ以後は人間精神を窒息させる側に回ってしまったようである。そのため理性は近代合理主義の思考パターンを身につけ、資本主義と官僚主義を支えて現実的に開花した。しかしそれは理性自身をもがんじがらめにしてしまうことになったのである。
マルクスは、ある意味では、その理性の中にも矛盾が存在しうることをしらせた象徴的人間であったかもしれない。彼は人間を感性的実践的活動においてとらえようとしたが、同時にそれはこれまでの理性の思考パターンに打撃を与えることにもなっていたのである。この考え方に対し、現代の人間解放をマルクスのようにとらえないで、単に理性の抑圧からの脱却としてとらえる者もでてきているのは事実である。マルクーゼが生物学的視点に立つのも、又フロイトが文明批判を行なうのも、これまでの理性の抑圧的役割に対する反逆からなのである。
人間存在における感性的活動は個においては疎外されない自己形成の第一歩である。しかし感性的活動はそれ自身、無軌道的・放縦的なのではない。人間解放につながる感性的活動は常に普遍的特性をもちうる。類的存在としての人間が活動の対象であるという意味において。
その意味で、後にマルクーゼが労働と遊戯の一致する社会、及び技術と芸術の一致する社会を志向する人間を規定しているのはマルクスのいいえなかったものの端的な現代的主張なのである。このマルクーゼの一般論に、被抑圧者として自らを規定するのは誰であり、被抑圧階級としてなすべきは何かに答える具体性が加味されれば、抑圧的社会の変革は一層現実的になるとも考えられる。
ただそこでの人間解放の思想が一元的支配状況の満ちた社会にあっては、それだけで現実的に熾烈な反権力行動をともなわざるをえないことはあきらかであろう。というのは、さもなくば、この思想はただ単に沈潜している限りにおいては、存在しても、又逆に存在しなくてもいい思想になるだろうし、それだけに危険な抑圧的特性をも持っているものとされねばならなくなるからである。
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