第一章 理性における二つの機能について




 いま、ホモ・サピエンスは大きな試練にたたされている。
 理性の所有をもって自らを動物から区別した人間は、逆に理性を批判することで人間的生存の意味の再確認を強いられる危機的状況においこまれているからだ。しかもこの危機的状況は現代人にとって不可避の到来として意識されており、あたかも人間の精神に存する原罪を告発しているかのようだ。
 というのは現代人は、種々の混乱した社会現象を通じて、理性がその本性に従って創造してきたところの「文明社会」と「合理的社会機構」に、よりよい人間的生存の可能性を、そう簡単には、みいだせなくなってきた、と判断するようになってきたからである。 
 最初、これら文明社会と合理的社会機構の抑圧性によって触発されて行われた理性批判のねらいは次の二点にあった。一つは理性の万能性の信仰に対する牽制であり、二つは理性がその本来的志向性、目的性を喪失し、手段化したという考え方の止揚であった。
 この二つの意図は、並列的にとらえれば、一見矛盾するようにみえる。なぜならば前者は理性能力の限界性を指摘しながら、後者は理性の被制約性に対する反駁を物語っているからだ。しかし、後でのべるように、理性の本来的志向性が仮に存在するとするならば、それは人間存在の抽象性や非人間性に内在しようとするものではないだろうから、現代の理性を批判するこの二つの意図は不可分の関係において理解されなければならないだう。 なぜならば、実際には理性の能力の問題を、人間的能力を超越した次元においてとらえようとする態度が理性の万能性への無批判的信仰をもたらし、それが又現実的社会においては人間の理性を手段的理性、道具的理性としてしか機能させえない抑圧的事実をもたらそうとしていると思われるからである。
 実はこの理性批判は何もめあたらしいものではない。歴史においてたえずくりかえされた理性批判が現代的様相をおびたものにすぎないともいえよう。その意味では、思想史が人間の理性による感性的諸制約の克服の様子を示した記録であるといわれるならば、同じように、思想史とは理性がたえず超越的な次元に抽象化されようとする非人間的傾向に対する牽制の披瀝であるといえなくもないであろう。なぜならば過去の歴史において「人間性の回復」が主張される状況の背景には常に理性の非人間的原理が客観的、現実的存在として権威づけられていたし、又そのような理性の存在形態が抑圧的であるにもかかわらず、それは権力者によって存在の正当性を保証されていたと考えられるからである。
 このような判断のもとでは次の疑問が解決されねばならないだろう。即ち、われわれは人間性の回復を感性的解放を媒介にしてえるか、もっと極端にいえば、人間性の回復=感性的解放なる方程式をうちたてなければ、理性の超越性、非人間性(従って人間への抑圧性)をはねのけることができないのであろうか、の疑問に答えねばならない。
 もとよりこのためにわれわれは二つの前提をもたねばならない。一つはかかる大胆な問いかけは文明社会と合理的社会機構が、要するに現代社会が、理性の産物であるという事実認識に基づいてなされねばならないことであり、さらにはそういった現代社会がそこに生息する現代人を総体として抑圧しているという積極的な規定態度を必要としていることである。
 ところで今ここで、「理性とは何であるか」をあきらかにしておかなければ、文明社会と合理的社会機構が理性の産物である、と、うかつに断定できないであろう。そこで私はそれをホルクハイマーの考えを考えを手がかりに考えてみようと思う。
 彼によれば、理性には主観的理性と客観的理性があるといわれる。前者は「精神の主観的機能にすぎない」と規定され、その働きは単に分類し、推理し、演繹するだけである。後者は、「実在に内在する原理」であると規定され、その機能は「人間とその諸目的を含むすべての存在の包括的体系、位階秩序を展開すること」であるとされている。
 理性はこのように一見独自の機能をもつ二つの特性を兼ねそなえていると考えられるのである。この事実こそ、理性についての一元的な意味づけをなしえない事情を示しているといえるだろう。しかしながら、両特性はそれぞれ独自性をもつようにみえても融和的にとらえられようとしている事実も否定できないだろう。ホルクハイマー自身も両者に「相互批判を促し、かくて、可能ならば、現実における両者の和解を精神的領域に於て準備すること」を哲学の課題としてあげ、次のような和解の方向性をしめしている。
 「主観的理性と客観的理性の二元論は必然的現象としてあるとしても、単なる現象にすぎぬものである……。この二つの概念は交錯している。それは一方の帰結が他も解消するという意味に於てばかりでなく、他に帰着しもするという意味である。非真理の要素は両概念の各々の本質の内にあるばかりでなく、いずれか一方を他に対立するものとして実体化することの内にも存在する。そうした実体化は、人間を規定する制約の根本的矛盾に結果するものである。一方に於て、自然を支配することの社会的必要が常に人間の思惟構造や形式を制約してきたし、こうして主観的理性に優位を与えてきた。他方に於て、自己が熱望せずにはおられぬような、利己主義の主観性を超越する何物かの観念を、社会は完全に圧し潰すことはできなかった。二つの原理を、分離したものとして分離的かつ形式的に再構築することすら、必然性と歴史的真理に基づいている。自己批判によって、理性は、理性についての両対立概念の限界を認識しなければならない。」
 ところでわれわれは単に「精神の主観的機能」である理性と、単に「実在に内在する原理」である理性とをわれわれ人間の精神に、問題なく、迎え入れることができるのであろうか。
 少なくとも従来の歴史的事実から、私なりの判断をすれば、否ともいいうるのである。なぜならば、歴史を動かす力となるものや人間的行為の指導原理が理性であるとしても、往々にしてそこには人間における理性概念であったかどうかの吟味が欠けていたとも考えられるからである。たとえば「精神の主観的機能」を発揮させることをさして理性的であるといえても、人間的欲求と不可分な関係にあるとはいえないために、同時に人間的であるとはいえないし、又「実在に内在する原理」が現実的欲求の彼方に存在すれば、理性的であるといえても、これ又人間的であるともいえないであろう。
 それに又、両者が和解的に共存しえたとしても、それ自体のもつ論理を個別的に展開するのであれば、その展開は理性的行為と命名されても、人間的欲求を包摂しているとはいえないであろう。要するに、理性的であるということと人間的であるということとは別なのである。
 こういった批判的な考えを背景にもっているにもかかわらず、過去の歴史において両理性概念はその悪しき部分のみが強調され一般に浸透していたのである。
 前者は「主観と客観の離間、社会的物化過程に無条件的に適応しようとする意識態度」をもつことにより、自らのもつ意識が「無責任や恣意性の中に落ちこみ、単なる観念の遊戯になってしま」う形式的、非人間的側面をもっていたし、後者は「存在が偶然性や盲目的な偶発事に従うことを避けよう」とするあまり、現実的なものを理性的なものとして肯定的にとらえ、反動的イデオロギーの創出のために奉仕しかねなかった。
 さらに論理上からすれば、両理性概念は全く相反した起点をもっていたのであるが、そこに人間的であることが欠落している時は、その両者の表現が二律背反的であるにもかかわらず、両者は社会的に共存しあい、共に全人的な立場をはなれた、抑圧的機能を増大させる結果をも生んでいたのである。
 文明社会と合理的社会機構は、両理性の悪しき部分が適用されたものの現実的展開である、と私は考える。文明社会と合理的社会機構はそれ自体人間的な欲求から結晶した人間的なものであるが、ホルクハイマーのいうごとき理性の悪しき部分の作用により、機械文明と官僚主義にその主導性が奪われ、物質的及び精神的なる非人間的様相を顕在化させてきたのである。
 特にその傾向は主観的理性の専横によって生じる場合が多いように思える。この主観的理性の機能は「近代的自我」のめざめを社会的に必要としたルネッサンス期以後の短かい時期においてはある程度の正しさをもっていた。というのは、自我の確立及びその社会的正当性を主張しなければ、暗闇の世界から人間的世界への脱出が不可能となるような社会的背景のもとでは、哲学的にも、対象に規定されて身動きのとれなかった「物のとらえ方」を改め、人間の認識主観が対象を規定するという主体性が獲得されなければならなかったからである。
 この考え方は後になって、カントによっていわゆる認識論上の「コペルニクス的転回」とよばれたが、それ以前の現実社会でも、とっくに応用されていたのであり、一つの思想的革命性をもっていたばかりでなく、当時の抑圧された人間の客観的立場をうきぼりにし、彼らをして解放運動へとかりたてる効果をもっていたのである。
 しかしその思想的支柱を「精神の主観的機能」である理性に求めた場合、人間は一つの壁にぶちあたらねばならなかった。この理性の特徴は単に物を分類し推理し演繹するだけであり、そのための素材が感官を通してしかえられないために、ことが認識の問題以上に及んだ場合、単なる現象としての社会的存在形態(自然的存在形態は勿論のことだが)が主観的理性の機能しえる唯一の場とならざるをえなかったのである。
 むしろその程度ならまだしも、この主観的理性は認識主観と対象との意識的分離を前提にしなければ機能しえないという特性をもっているだけに、単なる現象としての社会的存在形態への依存は不可避的であるともいえるのである。それ故認識主観を通して対象を規定しようとする主観的理性の働きはその主観的意図においては主体的であるにもかかわらず、ある種のディレンマにふりまわされることになる。即ち、主観的理性の自発性は社会的諸現象によって左右され、そこから脱却しようとする規制的意図が知らず識らず社会的物化過程への無条件的適応へと志向するが故に、かえって無責任や恣意性を正当化する僭越的行為へと没入してしまうのである。
 後になって資本主義的抑圧をわれわれが感じるのは、そういった理性のもたらす恣意性を普遍的事実として認めてきた結果であるともいえよう。
 ではそういった理性に自律性を求めることはできないのであろうか。まさにわれわれの精神が要求していたものは形式的道具的理性の働きではなく自律的理性のそれであった。 周知の如くカントは現象と物自体の二元論的区分を適用することによって、自律的理性を実践的理性として再生させたが、現象の世界を必然の世界、物自体の世界を自由の世界とする単純な解釈に留まり、前者の前面的な放棄によってしか、自律的理性の存在を不動たらしめることができなかったが故に、その自律性は人間的欲求によっては無味乾燥な形式性を帯びざるをえなかった。
 そこで自律的理性を要求するわれわれの期待に応えてくれるものとして、ホルクハイマーの指摘するような客観的理性の存在が考えだされたのである。「実在に内在する原理」であるこの理性は認識主観に内在する恣意性にとらわれることなく、あたかも事物の存在の客観性を示してくれるかのようにみえる。しかしこれとても人間の恣意性を牽制するための空理空論的なものにすぎないようにしか位置づけられなかった。
 それ故カントのように実質性を全く排除した形式性の主張に類似するか、さもなくば途方もないロマン主義に陥ってしまうかする危険性をもっていたのである。理性を「実在に内在する原理」としてとらえる態度はそれ自身もっている本性に裏づけされたものではないので、ルカーチがいうように「『合理主義』のあらゆる気孔からいたるところに非合理主義的な液流がにじみ出てこざるをえない」致命傷を隠蔽することにもなりかねなかったのである。
 私の考えからすれば主観的理性が単なる現象としての存在形態に左右されるように、客観的理性も又そうであるといわざるをえないのである。前者がその個別的な存在形態に着目するに対し、後者が現象の総体に着目していることの違いがあるだけである。そのことによって客観的理性は社会的存在形態の総体としての現象をなんら疑義をはさむ余地なき実在としてとりちがえてしまうのである。
 だが、一面、客観的理性は機械文明と官僚主義に反発する奇妙なロマン主義をもっている。それが極端化し、狂気の人間的感情と結びついたときは全体主義的イデオロギーを構築する危険性も生じるのであるが、文明社会と合理的社会機構が人間的存在によって抑圧的であるとうけとられている限りは、むしろ客観的理性は主観的理性の専横に対するはどめとして歓迎されている。賢明なホルクハイマーが理性的思惟の客観性が疑われていることに今日の理性の危機の原因をみいだし、主観的理性の方をより批判的にみているのは心情的に理解されるところである。
 ホルクハイマーの区分による主観的理性と客観的理性の素描はこれくらいにしておこう。しかし理性についてのよりたちいった吟味はまだ必要であろう。なぜならばわれわれ人間を他の動物から区別し、現代社会に住む条件を整えてくれたと考えられる理性が、はたして現代の人間にとっての指導原理をなおかつ提供しうるものなのかを調べる必要があるからである。



 まず主観的理性の吟味からはじめよう。
 主観的理性の落し穴は自然主義に論拠を求め、現象中心主義に依存することにあるといえよう。このことからわれわれは注目すべき事態に遭遇する。即ち、主観的理性と傍観者的立場との蜜月である。
 それは何故にいわれえるのであるか。たしかにわれわれは主観的理性を分類・推理・演繹を行なう精神の主観的機能としてとらえることができた。しかしそこではその精神の主観性が問題となってくるのである。一体、分類・推理・演繹は何に基づいてなされているのか。
 主観的理性は可感的対象の印象から材料を提供される。それ故に分類・推理・演繹のためには独立して存在する諸印象という材料がどうしても必要になってくるのである。これらの自然的存在をいかに人間的自然的存在として自己の内部にくりこんでいくか、実はここで人間的関心、人間的欲求が働かなければならないのである。
 しかし各々独立せる印象の関係づけを行なうときには印象の存在する場よりも高い立場が要求されざるをえなくなってくる。そこでこの立場は人間的次元をこえているものと理解され、人間的関心は喪失されてしまうのである。人間的関心が喪失された中で行われる分類・推理・演繹は高い立場に立っているかのようである。高い立場とは客観的、普遍的立場であると解釈されている。かくして人間的能力を超越した次元においてとらえようとすることと客観的、普遍的立場に立つということとは同一になるのである。
 ところがわれわれの主観が分類・推理・演繹をやっていると感知されるものだから、人間が自然を律するようにみえる。内実は人間が自然に律せられているのである。これは現実的には主観的理性が現象的存在の支持のために、あるいは印象の因果的結合の整合性のために奉仕することでもある。主観的理性の関心も又一見人間的関心を装いながら、目的性を喪失し、結果的には可感される個別的印象の存在の正当性のために御用的になっているのである。
 このことはさらにわれわれをして自然的な現象の価値の絶対性を認めさせ、自然的現象であることがわれわれの判断の正当性の根拠であることをおしつけるのである。この立場を徹底すれば、主観的理性は決して独立して存在する諸印象のどれ一つをも分類・推理・演繹の素材たらしめることはできないのであり、ただ諸印象の移り変わりを忠実にながめているだけなのである。主観的理性はこの自らの行為を僭越にも分類・推理・演繹といった自らの好みに応じた命名を行なっているにすぎないのである。主観的理性が、仮に自然をとりあつかっているとしても、それは没主体的な科学の対象としての現象的自然であって、決して人間的自然ではないのである。
 そこで主観的理性の信奉者はその補完的作業として情念に人間的行為の主導権を与えようとするのである。彼らは主観的理性が決して人間の指導原理になりえないことを知っている。にもかかわらず、他方では人間としての独自性の観念をもすてきれないためにD・ヒュームのように情念なる概念をもちだすのである。
 客観的理性の信奉者はその理性の中に人間的行為の根拠をみいだそうとし、理性の自発性、自由意志、実践理性なる概念を導入することによって、彼らなりの人間性を主張しようとするのであるが、主観的理性の信奉者は人間本性の解明に専らであろうとするために主観的理性の限界に悲嘆することもなく、彼らにとってより人間的と考えられる、人間本性の一つとしての情念を説明することで人間の指導原理をも説明しえると思ってしまうのである。
 しかし主観的理性の信奉者が主張する人間本性は真に人間的なものではなく、単なる自然的特性なのである。(実際はこの自然的特性の内実はきわめて機械的なものにすぎないのだ。)そのため彼らはその結論を導出することが自らの正しい論理的帰結であるとする皮肉をもたねばならなかったのである。なぜならば人間本性=自然的特性なる考え方は人間が人間的関心を喪失し、真に傍観者的立場に立って自然現象をながめ、自らの機能も又それによって作用するとの自覚があってはじめてえられるからである。
 しかしながら主観的理性の信奉者が人間の指導原理を情念に求めるのは、その社会的正当性の是非は別にしても、興味深い人間的態度を生みだしているといわれねばならないだろう。
 その一つは理性に実践的能力の存在を認める者がうちだす途方もなく非現実的な指導原理にまっこうから対立しているということである。情念は現実的であり、且つ自明の効果をもっている。そして情念の内容は多元的であり、融通性をもっている。一つの情念が否定されれば次の情念が生じる。それは人間をあきさせない。
 他の一つは情念を人間の積極的な姿勢を示す代名詞にしたことである。あるいは情念に人間特有のあり方の鍵があるかのような示唆を与えたことである。これまで情念は悪い意味にとられる場合が多かった。情念は本来あるべきものではないのだとか、一時的で根拠のはっきりしない存在であるばかりか、それにとらわれた人間を野獣の世界という破壊の道へと誘いこみもするのだとか、要するにそれを肯定的にとらえようとする見方が少なかった。しかし彼らはそれを人間本性として素直にみなおそうとしたのである。この態度はほめられるべきであり、それ故彼らの意図は正しいとされるかもしれない。実際、情念がもちだされることにより、逆に、「人間とは何か」、「人間本性とは何か」が問われたのは事実である。
 しかし主観的理性の信奉者は自らの実践的姿勢の欠如していないことをしめすために、情念の存在を肯定的に認めざるをえなかったのだ。彼らにとっては人間とは不可解な存在であったが、人間が実践する存在であるとの自覚は忘れられてはいなかった。この自覚はとりもなおさず、人間とは何かに対する問いかけに通じていたのである。
 彼らは主観的理性も情念もいわゆる人間本性として正当に認めようと努力した。しかしすでに述べた如く、彼らが人間本性として認めようとした主観的理性は人間特有の関心が根拠となって働いているとは思えない程、自然的、機械的なものであった。主観的理性は能動的にみえても、中味は全く受動的なのであり、かすかにあらわれる能動性も自然現象に適合しようとする内容のものでしかなかったのである。
 たしかに彼らは情念に、より人間的なものを求めた。それは一見主観的理性の欠陥の自覚からくる反省のようにもうけとられ、われわれにはそれによってますます人間本性の解明に対する彼らの熱意が感じとられるが、しかし彼らは情念に対しても主観的理性の規定の時と同様のあいまいで主体性のない姿勢からぬけきれないでいたのである。
 たとえばヒュームの如き経験論的自然主義者ですらも情念を根源的存在であると位置づけ、理性は情念の奴隷にすぎないと断言しながらも、情念も時には理性に属することも認めたりする。これを「事実」にふりまわされる経験論者の弱点といってしまえばそれまでだが、しかし彼の考える情念も又状況に支配される情念であり、情念及びその情念を否定する情念に自律性のかけらもみられないのである。なぜならばその状況はあの印象によってうらづけされたものであり、主観的理性がやみくもにうけいれたところの状況にすぎないからである。
 従ってわれわれがヒュームの主張に矛盾をみいだしてあげ足をとっているより、主観的理性も情念も同じ穴のムジナであり、従って両者とも人間的特性をもっていない自然的特性であると認めてやるのは、逆説的ながら、賢明であるといえるだろう。



 次に、われわれは客観的理性についても若干知っておく必要があるだろう。
 現代では主観的理性の道具的役割があまりにも大きいために、懐古趣味の持主ならずとも客観的理性を弁護したがる風潮があるのは否めない。客観的理性の毅然たる態度は皮相的な現象にこだわることなく、実在に内在する原理を展開する。そしてそれは主観的理性にあやつられる実証主義とかプラグマティズムとかいった現代人に浸透する思想に影響されることもなく、道具的地位に甘んじている状態からまぬがれている。客観的理性は事物の本性とともにあるのであり、現象の偶然性とは無関係である。
 こういった様々な弁護の理由があげられ、今や客観的理性が勢力的にならない限りは、混乱する現代を救えないのだといわんばかりである。
 しかしここでわれわれは思い誤ってはならない。かくも客観的理性が弁護されるのは、その論理のもつ正当性の発露からではない。あまりにも主観的理性が社会に対し肩をいからしているため、現代人が反発を感じているからにすぎない。いわば現代人が主観的理性に手をやいているために客観的理性に関心がむけられているにすぎないのである。はじめにも述べた通り、私の観点からすれば、主観的理性も客観的理性もともに社会的物化過程に埋没してしまっている。前者が各々の現象に関心を払っているのに対し、後者は現象を総体としてとらえ、それに身売りしようとしているのである。  
 客観的理性のこの傾向性はなぜに生じてくるのであろうか。私は次にこの点をあきらかにしたいと思うのである。なるほど客観的理性は実在に内在する原理であると規定される。この規定はどうして生まれるかというと、その原因はわれわれの精神の中に隠されているのである。
 今回のテーマに手引きを与えてくれるホルクハイマーは「客観的理性の体系は、存在が偶然性や盲目的な偶発事に従うことを避けようとする試みを代表する」とのべているように、客観的理性の支持の根拠は多分にわれわれの恣意性にあるのである。
 この試みが恣意性に基づいているという主張は、客観的理性の信奉者にとっては、理性に対する中傷であるかのように感じられるであろう。それ故、恣意性という言葉に語弊があるのなら、思弁性という言葉におきかえてもいいであろう。
 恣意性にしても思弁性にしても客観的理性の信奉者は一つの信念をもっている。それはホルクハイマーによれば、「客観的理性の哲学体系は、存在者の全包括的ないし基本的構造が発見され得、人間の運命の概念はそこから導かれるものであるという信念」である。この信念は各々の現象が恣意的におこっているのではなく、その現象の背後にある内在的原因が本質として発露したものであり、不可避な様相を帯びた実践的指令に基づいているという風な考え方を出発点にしている。
 従って主観的理性の場合のように個々の現象に着目する態度を軽蔑し、そこからは真理が決して導出されえないという理由から、いかなる個々の現象にも動じない存在者の全包括的構造をもちだしてくるのである。
 私にいわせれば、ここで客観的理性の信奉者は恣意的になるのである。彼らは客観的理性が人間の精神をして真理発見に貢献せしめ、事物の永遠性を獲得させると信じるようになる。その実、この客観的理性をそのような超人的地位にまで出世させながら、具体的にそれらの行為を遂行するのはそれらを思弁することのできるところの個人に固有の能力であるとしか考えていないのである。
 客観的理性の信奉者の信念と考え方は聞こえはいいが、自らを権威づけするための隠れ蓑にすぎないのである。彼らは自らの思弁の論理によって個々の現象の仮象性を指摘することは可能であるが、現象の背後にあるものについては、自らがつくり出したものであるが故に、あるいはそれからあらゆる現象が導出されていると考えているが故に、批判の対象にすることはできないのである。
 客観的秩序、事物の永遠性、客観的真理は客観的理性と不可分の関係にある言葉であるが、それらは現象総体を支える要石なのである。それ故、秩序の維持のためにとか、事物の保持のためにとか、真理の擁護のためにとかいってなされる客観的理性の意図は、結局は、現存する現象総体に対する保守にあるのである。
 しからば現象総体とはいかなるものなのか。それは自然現象そのもの、社会現象そのものであり、つまりわれわれにとっての自然であり社会なのである。そしてそれは現実という名に冠される否定しきれない社会的実態であるにすぎないのである。
 客観的理性は実在に内在する原理であるとされながら、実在の客観的内容をあきらかにせずして現象にとらわれ、現実を肯定する役目を負わせられるのは何か皮肉である。この皮肉は客観的理性を味方にひきいれて事をなそうとするわれわれの精神の主観性によって顕在化している。この主観性に左右されると、客観的理性は、存外、実在に対しては盲目になる。それは現象と実在との区別をつけることができないため、現象に内在する原理が実在に内在する原理であると錯覚する。
 前述の主観的理性は、われわれの解釈によれば、ほとんど自然的器官とかわらなかった。その解釈にたてば、人間には聴力器官という感覚器官があるように、比較、区別する能力、即ち主観的理性という器官があるといっても過言ではない。
 しかしながら客観的理性といえども、自然と理性の同一視の傾向性からのがれられない。それは人間の内なる自然と理性との同一視ではない。可感される自然を対象としての現象としてとらえ、その中に理性の主体性をそっくり没入させることなのである。
 客観的理性の技巧的卓越性は思弁的にいくつかの対象を創造できることにある。たとえば神とか絶対者の創造は客観的理性の働らきの一つであるとされる。その結果、客観的理性は一つのクッションをおいて自然現象なり、社会現象を説明しているにすぎない、とみられても仕方がないであろう。このクッションは客観的理性の行為の保証であると同時に、客観的理性の行為の仕方でもある。クッションをおいて行為するということはとりもなおさず現象を総体としてみる条件が与えられるということであり、逆に客観的理性の思弁的特徴に固執するのなら、客観的理性は現象を総体としてみることしかできないということなのである。この客観的理性の限界性が総体としての現象を否定しえなくさせているのである。なぜならば総体としての現象の否定は客観的理性の存在基盤の否定になるからである。
 この見方に対し一つの反論が生まれないでもない。即ち総体としての現象と実在に内在する本性とは全く異質の存在であるという考えである。従ってここから客観的理性は実在そのものの本性に従っているのであるから、総体としての現象を批判し、否それ以上に否定することができるのではないかと反論するのである。
 しかしそれは客観的理性の自己撞着をしめしたものにすぎず、逆に観念的世界に拘泥することによって思弁的解決を図ろうとしているのである。その際、客観的理性は思弁的に総体としての現象を部分的な現象にすりかえ、あたかも総体としての現象を批判するかのようなポーズをとっているが、内実は現象の一部に焦点をむけているか、ないしは主観的理性のようになってしまっているかのどちらかなのである。
 後者の場合の批判はすでにのべておいた。問題は前者の場合である。客観的理性が現象の一部分に注目した場合、その注目の仕方はたえず総体としての現象が肯定的に前提された上での話である。その上に客観的理性の思弁的構造上から部分的対象に批判をむけたとしても、そこにはなにかわけがあるに違いないと考え、それを根底的に否定できない。部分的な対象は批判の対象ではなく、総体としての現象に自己と一体化させるための手がかりなのである。客観的理性はその手がかりをさぐりあてることが批判であると思っているのである。
 客観的理性の最も危険なあり方は、部分的な現象をとらえるにしても、直接的にそれはかくかくしかじかの如くなっているのだ、と考えてしまうことである。これをさらに遡及していっても現象自体がそうなっているのだということしか導出しえない。総体としての現象をみるとはそのような見方にすぎないのであって、これを客観的理性は実在に内在する本性のあらわれだとみるのである。客観的理性にとって、現象を総体としてとらえるということと実在に内在する本性をとらえるということとは全く同義なのである。客観的理性も又われわれの精神、少なくとも社会的人間の精神にとっては多分に主観的なものなのである。



 さてこれまでの主観的理性と客観的理性の分析は最も極端な悪しき部分をことさらに強調しているようでもある。それ故に、理性に対する一面的見解であるとのそしりをまぬがれえないであろう。しかしこの悪しき部分こそが現代のわれわれに被抑圧の意識をもたらす張本人であるのであるから、理性のよき部分を強調してわれわれに希望を与える方法にあまんじるよりも悪しき部分の批判をしつくすというのも価値あることである。
 これまでの論議で理性を主観的理性と客観的理性とに分類する方法がよいか悪いか、私にはわからない。又理性にはよい部分と悪い部分の両方が存在していると一方的にきめつける態度そのものが理性の真の姿をみれなくさせているのかもしれない。
 しかし私の主張の中で一貫して流れていたものは理性的であるということが人間的であるということなのかという問いかけであったし、その中で私は少なくとも理性が非人間的自然的機能であるとみなされる限り、現実の社会が非人間的なものへと転落する危険性の存在していることも暗に指摘してきたつもりである。
 そうすると私の結論がおのずと用意されてくるようである。どちらか一方の、あるいは両方の機能の働きによるにせよ、理性の産物である文明社会と合理的社会機構が人間に対して抑圧していると感じられるのは、もともと、理性が人間的なものでなかったのだという結論である。
 しかし、ここで問題になってくるのは、文明社会と合理的社会機構とは、われわれ人間がよかれと思って創造してきたものであるという考え方である。そこには、この創造のために、理性は単にお手伝いをしただけにすぎないと弁明する理性の狡猾さが隠されている。この時、理性は、理性そのものに対する批判の問題と、文明社会と合理的社会機構から与えられる被抑圧の意識の問題とは全く別の事柄であるとして片づけてしまうのである。
 もしそうであるならば、これからは文明社会と合理的社会機構といったものを創造する指導原理は理性ではないと明言した方がよっぽど救われている。なぜならばそういった考え方の方がより人間的なものに近いからである。第一に理性をも批判の対象とすることによって被抑圧の意識からの解放の意志が感じられるからであり、第二にはあらためて文明社会と合理的社会機構のあり方に注目させられ、方向が未来に転じられるからである。
 もっともこの明言の価値は理性の盲目的崇拝がわれわれに非人間的事態の産出をもたらしているという事実をわれわれが注目している限りにおいて存在している。そしてそれと同時にこの明言は抑圧的な文明社会と合理的社会機構が存在すると判断される場合には、それらの構造からの解放のためには理性が手をつけるのでなく、まず理性以外のなにものか(ヒューム的情念でもよいのだが抑圧的社会に順応する情念ならごめんだ。)が活動しなければならないことを示唆していることからも意味がある。これは理性に対して究極的には信頼をよせている者にとっても、現代社会の状況を素直に認める限りには、妥協しなければならない点ではないだろうか。
 ところで同じ理性を支持する者の中からもこの明言に近い主張をする場合がある。彼らは現代の文明社会と合理的社会機構は理性が創造したのではなく、別の悪しき主体が創造したから抑圧的になっているのであり、従って今度は理性こそがその抑圧解放の救世主になるのである、とひらきなおるのである。彼らは理性の盲目的崇拝者の態度よりは立派である。なぜならば現代の文明社会と合理的社会機構を抑圧的であると認めているからである。善意に解釈すれば彼らは楽天的な改善論者であるが、悪くいえば彼らの責任転嫁の無責任ぶりは、はなはだしいといわれねばならない。もし彼らが従来の理性と救世主である理性を厳密に区別しているのなら、ある意味では、人間の破局はまぬがれるかもしれないが、はたして彼らが今までよかれと思って支持してきた非人間的理性を根底的に否定できるといいきれるか、どうかは疑問である。
 さて、このような色々の見方が生じるのも、文明社会及び合理的社会機構と理性の活動との因果関係が十分にあきらかにされていないからでもあろう。それ故文明社会と合理的社会機構の創造の主役が理性のみなのであろうかという疑問も生じてくるのである。これは先程の楽天的な改善論者の弁護に類似しているが、しかし事態をより公平にみている。つまり理性に内在する客観的性質の限界を部分的に認め、文明社会と合理的社会機構の創造にとって理性の存在が必要かつ十分ではないと判断し、それらの創造の過程を多元的にとらえているのである。
 とはいえ、ここでは文明社会と合理的社会機構が理性的活動の結果として生まれているという前提からはじめられている。この前提の検証は今回のテーマに重みを与えるために必要であろうが、むしろ今の私の意図がこの前提を出発点として論議を展開していく中で理性のあり方を追求し、その結果文明社会と合理的社会機構がわれわれ現代人にとって十分に批判の対象となりうることをあきらかにすることにあったと了承してもらえれば幸いである。(第二章でいくらかの因果関係を述べるつもりでいる。)
 ここにおいてわれわれはなぜ理性についてあれこれ詮索しなければならないかを思いおこす必要がある。それは現代の文明社会と合理的社会機構に問題があると判断するからであって、理性それ自身の擁護のためでは決してないのである。それはわれわれがそのように詮索された理性の所有者であるという事実を忘れてはならないためである。そこで問題になるのはその事実に対してわれわれが弁護の言葉を用意することができるであろうか、ということであろう。
 しかしそれは全くできない、というのがわれわれの結論となるだろう。なぜならば、その弁護の態度の中にこそ詮索された理性の残照がおのれのエゴイズムを拡大させようとしているからであり、かかる人間のエゴイズムに便乗して文明社会と合理的社会機構の枷に喜々とする没主体的、非人間的生存への道が魅惑的に存在するからである。
 それにつけてもわれわれがいつも出合うのは、理性を批判しても否定することのできないわれわれの宿命的ともいえる苦しい闘いである。われわれは現実の抑圧的事実が理性に基づくものであると確信しても尚且つ理性を本来の姿を忘れたところの、比喩的にいえば「歌を忘れたカナリヤ」としてみつめなければならないのである。
 これは現実の抑圧的事実を理性の責任に帰さないで、偶然的な、自然的な、神のなせるわざとして、あるいは非現実的事態のきまぐれとして片づけようとする者には不可解なディレンマとして存在している。しかしわれわれに必要なのは、理性に一切の責任があると判断するが故に、その理性の非人間的特徴をわれわれの受難としてかみしめ、理性に人間性を与えることによって抑圧的事実からの解放をかちとろうとする、生を賭した真剣な意志なのである。
 しからば理性に人間性を与えるとはいかなることなのか、あるいは人間的理性なるものは存在させることができるのであろうか。そもそも人間的であるとはいかなる意味であるのか。再びわれわれはこの問題に戻らざるをえないのである。ここではもはやヒュームが理性について説明するときに申し分け程度につけ加えたところの「独自の人間性のあり方とは自然の必然性に制約されない、人間の主体性が確保されているということである」というような抽象的な段階の説明では許されないであろう。
 しかるに現在の歴史的状況では一見矛盾する回答が用意されている。今までは人間的であることの条件が獣性からの解放の状態にみいだされているのに対し、ここで主張される人間性は獣性からの解放の状態の破壊の中にみいだされているようなのだ。極端な事例をあげれば、われわれ人間は自然の野獣にならなければ人間的になれないというのである。
 このことは社会に生きる権利以上のものを要求しているようである。なぜならば現在では、社会において生きる権利の保証が人間的存在の保証にはなりえない危機的状況が生まれているからであり、自然において生きる状況の産出の中で、はじめて生きる権利が獲得されているのだという認識が勢力的になってきているからである。法的用語を使えば、それは人権の保証を自然権、生存権の行使の中に認めなければ他のいかなる合理的権利をもってきても、現代人が覚える被抑圧の意識が決してなくならない、という事実を物語っているかのようである。
 ここで人間を自然の野獣たらしめる考え方についてもう少し吟味してみよう。この考え方が肯定されるのは自然の野獣ならば、人間と根本的に異なっているから、合理性に秘められる抑圧から全く解放されているという意味からである。勿論無条件的に人間が自然の野獣の如く放恣的になり、いわゆるなんでも好き勝手なことをするのだという意味はここには含まれていない。がしかし好き勝手なことをすることができるのだという状態を望んでいることまでも否定してはいないのである。
 なぜならば必然性にも似た合理性に対する人間の反発の感情をも無視できないからである。人間が自然を抑圧的実態と感じるのは自然の必然性が人間的関心と対立するからであろう。それが故に人間は人間的関心そのものである自然を創造しようと試みる。それが人間的自然である。その人間的自然がなんであるかは歴史的状況によって規定される。人間的自然の状態が文明社会であり合理的社会機構であることは十分考えられることである。
 ここで人間と人間的自然が理念として整合するように、文明人と文明社会とを理念的には整合させることはできるであろう。それはなに故であろうか。ちょうどそれは人間的関心が自然の自然性に対立するように、現代人の関心が文明社会の合理性に対立するからなのである。この対立の非現実生を主張するために、理性は自然と野獣との関係のアナロジーをもちだしてくる。自然における野獣は彼の住む自然に対して合理的に整合しているという認識から、現代人も自らが住む文明社会に合理的に整合していると判断するのである。
 理性は理性的関心を人間的関心ともする自負をもつ。だがその理性的関心、いいかえれば理性の自立の関心とは整合性への、あるいは適応性への関心に他ならないのであり、それ以外の関心は理性にとっては放恣に他ならないのである。かかる考え方が基調にあるからには、理性は現代人が文明社会と合理的社会機構から抑圧されているという意識を覚える過程を理解できないであろう。それはあきらかに人間的関心の意味をはきちがえているためでもあるが、合理的ならざるもの一切を放恣として退ける理性の習性によると考えれば、われわれは理性の絶対的信仰をうちすてる機会を図らずも提供された、と認めることができるのではないだろうか。
 現代人が文明社会と合理的社会機構に対し被抑圧の意識をもつのは、自然の必然性に抑圧性を感じとり、人間的関心がうきぼりにされる過程と同様である。そのことは抑圧的な文明社会と合理的社会機構を人間的自然の場へと回復する契機になるであろう。それ故、今われわれが人間的になるために自然における野獣になれと教唆しているのは、理性の論理をして整合性、順応性のそれならしめる考え方からの脱却を意図するからであり、自然における野獣が自然に順応しているという認識に拘泥するからではないのである。ただ、放恣が自然における野獣の行為としてうけとられるという理性による奇妙な主張が、私には理性のたわむれのような気がしたので、理性に批判的であろうとするが故に、私は自然における野獣の放恣的行為を支持してみたかったまでである。



 以上私は理性を批判する立場でホルクハイマーの言葉を借りながら話をすすめてきた。この作業がいかに困難であるかは要をえない結論(私には、とどのつまりは、誰が批判してもこうなるような気がしてならない)をみてもあきらかであろう。端的にいうならば、私は理性ではなく理性にまとわりつく合理性なる概念が気にくわなかったようでもある。しかも、それもどうやら合理性そのものを批判の対象にする自信がなく、その弱い部分、即ち合理性という名の非人間性、抑圧性をみつけだし、それらに嫌悪を覚えているようである。
 その上、私はルカーチのようにそれらを合理性の隙間に滲み出る非合理性と規定する勇気まで、もちあわせていない。そのような合理性の仮面をかぶる理性なら、いっそのこと、感性とか情念に人間の運命を託したいと願う方である。勿論これらが理性によって明確に規定されるような感性とか情念、いいかえれば人間的関心のたちいる場さえない自然的機能でしかない感性や情念なのではなく、自らを律することのできるような実践的本性であることはいうまでもないであろう。
 しかしこれ以上の詮索をすると、再びあの忌むべき理性の落とし穴におちこんでいく目にあわなければならなくなるであろう。今われわれに大切なのは詮索ではなく、理性による被抑圧感をひしひしと感じることなのである。とにかく、今や、ホモ・サピエンスは大いなる試練にたたされているという認識をもつことの方がより重要なのである。

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