序文 ─著者自身の告白─

 西暦1960年の頃の話である。日本の政治の最高責任者が、民主主義の殿堂である国会議事堂をとりまいた数十万人のシュプレヒコールの叫び声を聞いたき、「その運動には無関係の<声なき声>の数百万、数千万の存在を忘れてはならない」の主旨のことを言ったとか。
 筆者からすれば、この時からこの政治家の歴史における貢献は、在任中の輝かしい行政によりも、この言葉の使用者としてあるのではないのかとさえ思われるのだが、実際は、この時彼が思いうかべていたのは、野球見物に興じていた数万の観衆であったらしい。そうなると、気の毒なのは、たまたま観客になっていたばかりに、権力ある政治家のお気に入りのタイプの人間にされてしまった市民であろう。
 当時から首都にはいなく、そのため幸か不幸か、官憲の暴力によって殺されるという事態にならなかった筆者は、その時、経済都市の大舗道で抗議の行進を続けるデモ隊の一員としてシュプレヒコールを続けていたのであるが、そこでデモ隊の指揮者が、この話を聞いて、「われわれの抗議の声は国会に届かないけれども、ここに、こうしているわれわれこそ<声なき声>なのだ!」と絶叫しているさまを、今でもはっきり覚えている。
 いうまでもなく、これはいわゆる<日米安保反対闘争>の時のできごとである。あれから十数年たった今日、歴史が残したものは、日本がアメリカのエピゴーネンとして世界の経済大国といわれる地位を僭称しえるようになったことである。その間、声なき声といわれ激怒した人たちの大半は、今はその日本を機構的にささえている中堅として、若き世代を指導する立場にさえなっている。そしてほんの一握りの者だけが、崇高にも、体制にもくみせず、抑圧された日本の現状を心からうれえている。彼らの目からすれば筆者もまた、未熟の故に、心がわりをしていった内の一人であり、ぬくぬくとした生活環境の中でいっぱしの大人になったつもりで、うまみの提供者にこびを売っては、心やましい代償に舌なめづりしている、浅はかな人間の一人に数えられるに違いないだろう。
 とはいえ、その他の<声なき声>の人も、多かれ少なかれ、自から望んだのであれ、抑圧されたままであれ、変心し、現在の地位にいたっているといえばいえよう。この<声なき声>という言葉自体も今や風化現象にあい、過去にあったエピソードとして片づけられてしまっている。まことに歴史というものは非情であり、感性にうるおいを与えるセンチメンタリズムを一撃のもとに打ち砕いてしまうものである。
 しかしこのような傍観者面の逃口上は、筆者が歴史の上に存在する一個の生ける人間としての、そしてパスカルのいう考える葦としての良心をもつならば、抑圧されながらも、せいいっぱい生きようとする人間に対する冒涜であるかもしれない。
 たしかに人間は、それがどのようなタイプの人間であれ、生きていく上には、なんらかのプリンシプルをもっている。声なき声をこの上もなく愛した政治家は彼の政治的野心から当然としても、デモ隊や野球見物の観衆の一人一人も、等しく自らのプリンシプルをもっていた筈である。
 しかもこのようなプリンシプルはたとえそれが歴史の鎖にしばられ、後に自らが考える以上の評価でもって賞賛されようと、あるいは逆に非難されようと、少なくとも、一人一人においては信念にうらうちされた、重要な意味をもっていたに違いないのである。従って彼らに対して筆者は何もいわないのが正しいかもしれない。
 現在の筆者の心の中においては、あの声なき声といわれた人が、今、なにを考え、どう生きているのか、の感慨がよぎることがある。しかしそれはもはや筆者には何の利害関係もないできごととしてうけとられているにすぎないのである。
 そのような傍観者的な自分の態度が、以前の筆者と比べて成長した様を示しているとすれば、自分に対して悲しい気持がしないでもない。知らないうちにデモにかりだされ、そこで精神的なショックをうけ、それ以後の筆者にとれば、生きていくからには、何かしっかりした自分のプリンシプルを確立しなければならないという思いが、当時、安保反対闘争が勝利に終わったのか、敗北したのかという論議以上の重みをもって、筆者を襲っていたのであったが、いまだに不惑の境地に達しないでいる筆者なのである。
 灯火管制のもとでじっと息を殺して顔をみつめあっていた両親の姿をかろうじて覚えている筆者は、いわゆる民主主義教育のはじまった時に小学校に入った、まぎれもない新生日本の期待する人間の一人に位置づけられたのであるが、なまじクラスではよい学業成績だったおかげでいつのまにか、よき高校、よき大学へ進むべく志向し、ついには、息もたえだえに、ある地方の国立大にたどりついた。
 そこで先程の精神的ショックをうけるや、それから以後の筆者は、留年を重ねるなかで、演劇や消費者運動に興味をもったが、いずれも中途でなげだすという無節操な生活を送った。
 そうこうしているうちに、籍だけはどうやら大学院の博士課程に所属する身分になっていたのであるが、再び、大学の内外を襲った、戦後の民主主義的制度や考え方を告発する嵐にまきこまれ、そこで種々の権力とぶつかりあう中で、同時に自分の存在基盤を批判的に洗いなおされる機会を得た。この嵐は、周知の如く、警察権力等によって、凪いだわけであるが、筆者の属する大学などでは、たとえば大学の構成員が文化活動をするにあたっても、自分の属する大学の講堂の使用もままならないという、また何かあれば、安直に警察権力に頼ろうとする、ごく一部の抑圧者、権力者にとってまことに都合のよい雰囲気がつくりだされることとなった。
 しかしながら筆者自身は、それを横でみながら、なにもなしえない自分に腹をたてながらも、同時に一種のひらきなおりの超越に身をあずけられながら、皮肉なことには、今度は他の大学で幾つかの講義をもつという現在を迎えていたのである。
 本書は、そういった境遇の筆者が一九七○年代において流布しているいくつかの理性の問題をめぐる社会思想に関して、筆者なりの価値判断でもって、論評し、さらには提言しようとして書きしるした、それぞれの章が独立した、エッセイ集である。
 ここでは二つのタイプの人間が登場してきているが、いずれも筆者の分身である。第一部にでてくる<私>はリアリストとして機能しているし、第二部にでてくる<わたし>はユートピアンとして機能している。
 第一部の<私>と第二部の<わたし>とが、時には矛盾しているようにもみえるが、それは筆者自身の、いまだプリンシプルの定まらぬ、分離した自己をそのままあらわしたからである。(もっとも、それらの止揚はありうるのではないかと、ひそかな幻想を抱いているのであるが。)読者は本書における論理的一貫性を期待しようとすると、失敗されるかもしれないし、内容的にも論旨が浅薄で、既存の識者の追随にすぎないと感じとられるかもしれない。筆者があえてここで自分の境遇をさらけだしたのは、読者に対する甘えからかもしれないが、同時に、筆者の如き歴史的体験をした場合に、人はどのような社会思想を展開しうるかを問われた際の答のサンプルとして、本書があることを理解してもらいたいからである。
 ただひとつ、筆者にとって気がかりなのは、所詮、筆者はめぐまれた境遇の人間であり、本書はその人間によって書き綴られた、いわば言葉のもてあそびでしかないのではないかという思いである。とりわけ社会的に抑圧された者や、なんらかの解放運動のために現在でも苦しみ闘っている人たち(その中には筆者の知りあいもいる)や、明日の糧の獲得に必死になっている人たちにとれば、本書は、直接的には、なんの貢献もなしえないばかりか、場合によっては彼らを侮辱することになってはいないかという心配である。
 筆者は、主観的には、あることをアジテートし、マニフェストしようとしているつもりであるが、実際は彼らの行為の方が、幾倍も崇高である。このことはいかなる場合でも忘れられてはらない、と筆者は思っているのである。


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